読書と日々の記録2005.09上

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■読書記録: 15日『文化と思考』 10日『ドキュメント裁判官』 5日『臓器は「商品」か』
■日々記録:  6日将来を心配する5歳児 3日パズルを解く7歳児 2日もう一回読みたい本 1日トランプする4歳児

■『文化と思考─認知心理学的考察─』(コール&スクリブナー 1974/1982 サイエンス社 ISBN: 4781900321 値段不明(図書館の本))

2005/09/15(木)
〜実験は体温計ではない〜

 前に読みかけて途中で放り出していたのだが、最後まで読んでみることにした。内容はタイトル・サブタイトルどおりなのだが、前に途中でやめてしまったのは、なかなか「思考」の話が出てこないからであった。言語、知覚、概念分類、学習、記憶の話があって、ようやく思考(問題解決)の話が最後に出てくるのである。どこかの書評で、「途中までは要約だけ読めばいい」みたいなことが書いてあったが、その通りだと思った。しかし、最初から順番よく読まなくてもいいが、それらの章は、いったん最後まで読み終わった後にでも読むのがいいかもしれない。読み飛ばすよりは。

 本書では豊富な研究例が取り上げられているが、それらは要するに、未開人は課題に対してわれわれとは異なる反応をすることが少なくない、ということの紹介である。それは本書のタイトルである思考(問題解決)だけではない。言語でも知覚でも概念分類でも学習でも記憶でもそうなのである。特に問題が、論理的問題などの正答のある問題であれば、我々とは異なる反応をするということは、未開人は非論理的(あるいは全論理的)に考える、ということになる。

 しかし話はそう単純ではない。同じ論理構造の問題でも、使う材料を彼らになじみの深いものに変えたら正答率が上がる。あるいは、問題に答えさせるだけでなく問題そのものを再生させたりすると、実験者の意図どおりに問題が受け取られていないことがわかったりする。どうやら彼らは、問題を実験者の提示した枠内で推理しようとはしていないのである。「問題の陳述とかその意味合いを経験の事実的世界とより密接な形で一致させようとして、問題の中になかった情報が追加されることがしばしばみられた」(p.243)のである。筆者らは、次のように述べている。

私たちは、論理課題に対する被験者の答えから推理過程に関する結論を引き出すことができない、ということはまったく明らかである。私たちが最初に問うべきことは「被験者はその課題をどんなものとして理解するか」ということであり、「提示された情報をどのように符号化するのか」、「その情報はどのような変換をうけるのか、どんな要因がその変換を規制するのか」という問題である。(p.241)

 このような異文化研究においては、まずは相手の「理解」を知るべき、というのはまったくその通りだと思う。また、未開人が情報を与えられたとおりにとらないというのは、未開人に限ったことではないと思う。論理的(あるいは学校的)な問題であれば、我々は長年の学校教育経験から、「学校的問題」としてそれを受け取り、いわゆる正解を出す。しかし我々であっても、特に日常的な課題においては、文字通りに問題をとらずに自分なりに情報を付加したり変換することで、「経験の事実的世界とより密接な形で一致」するように受け取ることは、少なからずあるように思う。

 被験者の反応がそのようなものであるならば、上に引用したように、「被験者の答えから、推理・思考過程に関する結論を引き出す」ことはできない。しかし通常は、いわゆる心理学の課題を用いて被験者の推理・思考過程に関する結論を引き出すことができると思われているし、実際そのような形で研究は行われている。なぜ可能だと考えているのか。筆者らの言い方でいうならば、「心理的プロセスを「実体」としてとり扱い、ある人がその課題場面から独立に「もっている」とか「もっていない」とかいう形の特性として」(p.251)扱っているからである。筆者らはそれを、「実験即体温計」と表現している。体温計を用いることで、個人の内的特徴が測定できるように、実験を行うこと、個人内にある「能力」という実体を(周囲の状況とは無関係に)測定できる、という考え方である。このように考えてしまうなら、テスト得点や実験成績が悪いとその能力が欠如していたり低い、という単純な結論になってしまい、ちょっと条件が変わるだけでできるようになる、という実態が何も見えなくなってしまうのである。

 そうならないためには筆者らは、「実験(心理学者の特殊技能)と観察(人類学者の専門)の二つを結びつけた双生児法によって問題に取り組もう」(p.271)と提案している。これもその通りだと思う。そしてその中で最も重要なのは、「被験者はその課題をどんなものとして理解するか」と相手の「理解」を相手の立場で理解することだろうと思う。そのことを考える上で、異文化の人たちが心理学の課題に対してどのように考え、どのように反応するかを知ることは、とても役立つように思う。

■『ドキュメント裁判官─人が人をどう裁くのか─』(読売新聞社会部 2002 中公新書 ISBN: 4121016777 \760)

2005/09/09(金)
〜少しずつ姿を変える大木〜

 裁判官モノの本を読むのは、『裁判官だって、しゃべりたい!』『裁判官が日本を滅ぼす』に次いで3冊目(と思って検索してみたら『わたしたちと裁判』という本も読んでいた)。1冊目が現役裁判官を中心として書かれた本、2冊目が裁判官に批判的なルポライターによって書かれた本であるのに対して、3冊目の本書は、新聞社の社会部によって書かれた、まあどちらかといえば中立的な立場の本といえようか。とはいえ「はじめに」によると、「判決書には書ききれない、いや書けない、あふれる思いが必ずあるはずだ」(p.iv)という観点で取材されている。それにこのような取材に応じる裁判官は、どちらかというとリベラルな考えの持ち主が少なくないだろうと思われる。実際、『裁判官だって、しゃべりたい!』の筆者らやその活動(JNN)も本書では取り上げられている。ということで、本書はどちらかというならば、裁判官寄りの視点で書かれた本といえるかもしれない。

 2冊目の『裁判官が日本を滅ぼす』には、「日本の多くの裁判官には「真実」を炙りだす能力も識見もないし、そもそも真実を導き出そうとする意欲もない」と書かれており、それを例証するような事例がいくつも載せられていた。それに対して1冊目の『裁判官だって、しゃべりたい!』では、「職業裁判官は、調書を読んで、嘘か真実かを見抜く力がついています」などと裁判官が述べており、言っていることが正反対である。これは果たしてどちらが真実なのか。3冊目の本書を読んだ私の感じでいうと、どちらも一面の真実なのだろうと思うし、裁判官の中にもさまざまな人たちがいるのだろうと思う。

 『裁判官が日本を滅ぼす』に上記のように書かれている一因は、裁判官が被告の様子などを見ることなく、「量刑相場」(過去の判例から、被害者数などを元に機械的に量刑を決めること)に基づいて刑を決めていることが挙げられる。しかし本書によると、かつて「量刑検索システム」が作られたのだそうだ。それは、「一部の罪名について、被害者の数、示談成立の有無などの要素を入力すると、同種の裁判例が表示される」(p.11)システムである。しかしこのシステム、裁判官が迷う「機微」のところが見えないために、評判は悪かったのだという。裁判官は、相場で単純に決めにくい迷うような判決の場合には、「主な死刑判決はすべて読んだ」(p.27)り、「学説を十分に検討し、議論を尽くした」(p.44)り、「関係する判例は、前提となる事実も含めて調べつくした」(p.107)りして結論を出しているようである。このことからも、裁判官が機械的に量刑を決めているわけではないことがわかる(少なくともそういう裁判官が少なからず存在することは)。

 本書を読むと、裁判官が一番重視しているように見えるのは、「処罰の公平性」である。それは、同じ犯罪ならばどの裁判所でどの裁判官に当たっても同じ判決が下されるようにするということで、それは当然最重要視してもらわなければいけないことである。しかしだからといって、相場に基づいて機械的にしか判決を下さないというわけではない。本書には、たとえば児童虐待の量刑がここ数年徐々に高くなっている、という例が挙げられているのだが、「今ある法律の中で、裁判所が国民の価値観や社会の要請に合うように量刑を運用する」(p.74)こともなされており、いうなれば、安定を基本としつつも変化を許容するシステムになっているようである。この点については、『わたしたちと裁判』に「法の本当の姿は、〔中略〕大木に似ています。その根と幹と太い枝は、固く育ってがっちりしています。でも近づいて梢を見ていれば、小枝が育ったり古い葉を落としたりして、毎日その姿を変えているのがわかります」と書かれているまさにその姿だと思った。

 なお、本書は読売新聞の朝刊に連載された記事が元になっているようだが、そのせいか、「新聞のコラム記事」臭がときどき鼻についた。具体的には、ちょっと紋切型的な表現や構成だったり、もうちょっと踏み込んでほしいなあと思う手前で簡単にまとめられて終わってしまう(要するに踏み込みが甘い)、という内容面での不満だったり。おそらく紙面の制約と新聞というメディアの性質上、そうなってしまうのだろうと思うが、これらの点は、ノンフィクションとしての楽しみをちょっと減じてしまう感じがする。

【育児】将来を心配する5歳児

2005/09/06(火)

 下の娘が今日,5歳になった。上の娘(7歳2ヶ月)が5歳になったときは,「5歳ってなんだか4歳みたいな感じ」と言っていた。下の娘は何というか,今朝,「5歳ってどういう感じ?」と聞いてみた。すると……。

楽しくないかんじ。だって大きくなったら死ぬから。
どうやって生きていくかというと,お仕事がんばらないといけないから。

 うーんそれが5歳児が言うセリフか,と思ってしまった。まあ今朝は下の娘は不機嫌で起きてきた。まだ寝たりなかったようだし,起きてもゴロゴロしたり花火セットを眺めたり(!)したかったようなのだが,時間がなかったのでじっくりできなかったし。ということで,彼女の気持ちや思いの中で,ネガティブなものばかりが出てきてしまったようである。

 普段の下の娘は,雰囲気的には3歳ぐらいの,かわいーい幼い感じなのである。そうそう,何日か前から下の娘に,「5歳になったらどうする?」と聞いてみた。4歳のとき下の娘は,「自分で牛乳とお茶をちゅぐ」と言っていた。しかし今回は,「お星しゃまと雲に乗る」と言っている。メルヘンから死まで,5歳児はいろんなことを考えているようである。

■『臓器は「商品」か』(出口顕 2001 講談社現代新書 ISBN: 4061495496 \660)

2005/09/05(月)
〜自然な反応として記号視する〜

 脳死と臓器移植の問題について書かれた本を読むのは『「脳死」と臓器移植』に次いで2冊目。『「脳死」と臓器移植』は、「複数の専門領域」の論者が、しかし全員が脳死・臓器移植に「反対」の立場で、多くの場合が「脳死が人の死か」という問題を中心に論じていた。それに対して本書は、文化人類学を専門とする筆者が、脳死・臓器移植に対する賛否はさておいて、「臓器を含めて身体を人間はどのように捉えているのか」(p.30)というような「臓器」の問題のみが検討されている。脳死・臓器移植の問題というと日本文化の特殊性が語られがちであるが、本書では欧米と日本の共通点が語られており、非常に興味深い内容だった(といっても本書は絶版らしく、私はアマゾンのマケプレで入手したのだが)。

 「臓器を含めて身体を人間の捉え方」は、臓器移植推進派とそうでない人とで異なる。移植医療や臓器提供を推進する側は、臓器は「商品」として捉えている。というか、他者の臓器を移植可能と考えるということは、臓器を商品視していることを意味するのである。ここでいう「商品」とは、市場のようなその場限りの関係の中で譲渡や交換が可能なもの、という意味である。臓器を交換可能な部品のようなものと考えるからこそ、臓器を移植するという発想が生まれるわけである。

 しかし、臓器を提供する脳死者(ドナー)の遺族や親しい人は、どうもそのようには捉えないようなのである。「商品としての身体」という捉え方に対応するものとして、そのような捉え方を「記号としての身体」と本書では表現している。「脳死者の体そして臓器は、遺族や親しい人たちにとって譲渡不可能な「記号」なのであり、それ故の提供反対なのである」(p.57)というような具合である(もっとも、記号と捉えること=提供反対ではないが、ここではその話は省略する)。「記号」とは、元の持ち主の様々な属性・諸特徴を喚起する象徴となるものである。これらの違いは、対象に存在するわけではなく、人の見方の問題である。たとえば「商品」としての本は、譲渡することも、同等の価値を持つ品(お金など)と交換することも可能である。それに対して、「大切なあの人からもらったこの本」は、大切なあの人の思い出その他が染み付いているがゆえに、他の同タイトルの本と同じではない。つまり交換可能なものではないのである。それを筆者は「記号」と呼んでいる。たとえばドナーの遺族が、レシピアントの体の中にドナーが生きている、と感じることがあるらしいが、これはまさに、提供した臓器を記号とみなしている例である。

 身体を記号と捉えるのは臓器提供者に近い人だけではない。臓器を提供されたレシピアントも、しばしば自分の身体の中に他者の存在(=記号としての臓器や身体)を感じるという。中には、臓器移植後のせいで人格が変化した、と感じる場合もあるという。この場合、科学的な因果関係が大事なのではない。レシピエントが自分の変化を説明するためにそういう物語を作ってしまう、ということが大事なのであり、それはまさに、移植された臓器を記号として受け取っている、ということなのである。

 臓器移植を受けたことがない人でも、思考実験として、人間以外の動物(たとえば豚)の臓器を自分の体に移植されたとしたらどう感じるかを考えてみるといい。もし嫌悪感なり不安を感じるとしたら、それはその臓器を「記号」として捉えている、ということなのである。臓器移植ではなくてよい。19世紀のイギリス人が、種痘を受けると牛になるのではないかというような不安を抱いていたらしいことが本書で触れられている。あまり詳しくは書かれていないので詳細はわからないが、まあありそうな話ではある。

 このように本書では、日本人も欧米人も含め人間が、いかに身体を商品として扱うことが難しく、記号視してしまうかが論じられている。他にも、フォークランド紛争時にフォークランドで死亡したイギリス軍人の遺体を現地に埋葬したところ、遺族から厳しい批判が寄せられ、結局遺族たちは遺体をイギリスに持ち帰ったというエピソードも紹介されている。こういった例から筆者は、「人間の身体を決して「商品」としてのみとらえず、死後においても「記号」としてとらえることをやめないのが「文化の普遍性」」(p.184)と述べている。

 こういった事例を踏まえ、筆者は次のように述べる。

人格の変化が生じたり、そのことで悩んだり動揺するのを幻覚的で荒唐無稽なものとして異常視しないことである。あるいは自分が自分自身の侵入者になるといった自己のあいだでの差異化を現実として見据えることが大切である。臓器移植がもたらす経験の変容を研究するアメリカの人類学者レズリー・シャープのいうように、レシピアントの体験は、臓器移植という非日常的で不自然な状況への自然な反応としてみなすべきなのだ。(p.160)

 本書の内容を事前にちょっと知ったときには、臓器移植で人格変容が起きるなんて、神秘主義的な内容の本なのかなあとちょっと不安だったのだが、そうではなかった。問題にされているのは、私たちの「受け取り方」なのである。それと、文化人類学というと、未開民族における贈与交換がよく取り上げられたりするのだが、どうも私にはこれまで、その意味がよくわからなかった(たとえば『交換の民族誌』)。しかし本書では、モノを商品とは違うものとして扱う「贈与」が「記号性」を帯びたものであり、モノを記号として扱うことが、私たちの日常でもごく当たり前に見られることであることがわかったと同時に、それが臓器移植に対する違和感や抵抗感の源になっている、ということがよくわかる本であった。

【育児】パズルを解く7歳児

2005/09/03(土)

 これも帰省時のこと。帰りの飛行機の中で、私は、機内誌に載っている数独(あるいはナンバープレース。ウィキペディアでの解説)をやっていた。隣に座っていた上の娘(7歳2ヶ月)が、自分もやりたいという。私は、ちょっと無理じゃないかと思った。かなり厳密に論理的に考える必要があるわけだし。しかし、やる前に無理といってもしょうがないかと思ったので、ルールを教えてやらせてみることにした。「この四角の中には1がないでしょ。で、この列とこの行には1があるから、1はココかココに入るわけ」みたいに。

 そうしたら、娘はしばらく考えて、「じゃあココに1を入れる」といい始めた。適当に。そこはまだ、1がどこに入るか一箇所には決められないケースだった。これじゃあだめだな、と思ったので、私が問題をしばらく眺めて、数字が一箇所に絞れるものを探し、「じゃあこの四角の中のどこに4がはいるか考えてごらん」と指示してみることにした。娘はしばらく考えて「ここ?」と聞いてくる。正解だったので、このやり方でやることにした。

 そうやっているうちに、結局娘は全部仕上げてしまった。私がやったのは、「このどこにxが入る?」という問いかけと、娘が「ここ?」と聞いた時に正誤を言うことだけだった。娘の問いかけは、全部が正解ではなかったものの、たぶん8割ぐらいは正解だったのではないかと思う。まちがっているときも、「ほら、この列に同じ数字があるでしょ」というだけで、娘はすぐに理解して正解していた。

 こんなパズル、7歳児にはまず無理だろうと思っていただけに、内心、かなりびっくりしてしまった。このぐらいの補助があれば、7歳児でも論理的な問題解決が可能ということか(いや、うちの娘が天才という可能性もあるけど……)。次はちょっと補助を減らしてやらせてみたいけど、どういうステップにしたら、自分で考える範囲を広げつつ正解できるんだろうか。まだちょっと適当なアイディアが思いつかないんだけど。

もう一回読みたい本

2005/09/02(金)

 この1年間のMIBを選んだ。全部で10冊。このMIB、毎月1冊ずつ読み返しているのだが、読み返してよかった、と思えるような本は実はあまり多くない。初読のときはインパクトの大きかった本ばかりなのだが。

 1年で読み返すというタイムスパンが短すぎるのだろうか。実際,2年以上ぶりに読み返した『授業研究入門』はとてもよかったのである。まあ1年か2年かという物理的な時間よりも、前回と今回の間に、その本のテーマについての私の思考なり経験なりがどれほど深まったり変化しているかによるんだろうなあ。かといって代案は思いつかないので,当面は1年後に読み返す、という現在の方針でいくしかないのだが。

 ちなみに今回は、400ページ前後あるような重量級の本が何冊か入っている。これを読み返すと思うとちょっとゲンナリする部分もあるが、私の研究の興味上、とても示唆的な本だったのだ。

【育児】トランプする4歳児

2005/09/01(木)

 先月の帰省中の出来事の覚え書き。帰省中,下の娘(4歳11ヶ月)とトランプをした。七ならべがやりたいというのである。二人で七ならべをするのもどうかとは思ったが,普段ゆっくりトランプに付き合ってあげることもないので,することにした。下の娘とトランプをするのは半年振りぐらいではないかと思う。上の娘(7歳2ヶ月)とは時々するのだが,下の娘はそういうとき,もっぱら見物に回るのである。

 半年前の記憶だと,下の娘はルールを守って代わりばんこにカードを出したりするのがあまり得意ではなかったような気がする。それに,どのカードが出せるのかの判断も,私がしていたような。つまりカードはそれぞれに配るものの,結局私が二人分のカードを出すような羽目になっていたのである。

 しかし今回は違った。下の娘は,自分でカードをマーク別に分けて置き,私に聞かなくてもどのカードが出せるのか判断し,ちゃんとおいていた(そして最後には勝って大喜びしていた)。

 トランプをやりながら思ったこと。トランプで七ならべをするのって,なんだかすごく算数の準備をしているような感じがした。まず,カードをマーク別に分けるという,同一性に基づく分類作業をするわけだし,既に出ているカードの隣のカードを選んで出すということは,1から13の数列を意識することになるわけだし。

 こういうのを何度も繰り返していると,判断するのも早くなるだろうし,いちいちカードを分けて置いたりすることもなくゲームができるようになるに違いない。こういうのがインフォーマルな教育なのかなあと,ふと思った。いや,私は何の教育的サポートもしていないのだけれど。

 #考えてみたら,上の娘も5歳2ヶ月のときに,トランプ遊びを楽しんでいたようだ。この時期って何かあるんだろうか。


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