読書と日々の記録2005.11上

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■読書記録: 15日『社会的ひきこもり』 10日『プロジェクトX5 そして、風が吹いた』 5日『算数(シリーズ授業)』
■日々記録:  9日論理の強制性と日常性

■『社会的ひきこもり─終わらない思春期』(斎藤環 1998 PHP新書 ISBN: 4569603785 \693)

2005/11/15(火)
〜傷つけ,癒す他者〜

 精神科医として社会的ひきこもりの事例を、10年間で200例あまり経験した筆者の本。それだけに、読み応えのある本だったし、社会的ひきこもりについての知識を得ることができた。

 社会的ひきこもりになる子は、「多くはもともと内向的で、家庭では「手のかからないよい子」とみられがちな子どもたち」(p.22)だそうである。ほとんど反抗したこともないような。

 社会的ひきこもりはつきつめれば対人関係の問題であり、長期化してしまうのは、個人や家族や社会の領域で悪循環が生じ、「こうした悪循環は、まるで一つの独立したシステムのように、こじれればこじれるほど安定」(p.99)していくのだという。筆者はこの「システム」という観点で症例を理解し、治療の進捗状況を把握しているようである。

 対人関係の問題について筆者は別の箇所では、「成熟の問題」とも表現している。成熟とは「他人によって過度に傷つけられない」人で、成熟は、他人に傷つけられ、そこから回復することによって達成される。それはあたかも、感染症にかかって免疫を獲得する過程に似ている。そこで筆者は、次のように述べている。

「成熟」の過程で欠かせないのは、この「外傷の体験と回復」というセットなのです。そしてこのセットを可能にするのが、まさに「他者との出会い」にほかなりません。ただ傷つけられる一方では、他者の外傷的な恐ろしいイメージしか残りません。しかし、他者の支持によって癒されることを経験すると、「ただ恐ろしいだけのものではない」という、より正確な他者イメージが獲得されるでしょう。その意味で「外傷の免疫の獲得」とは、「有効な他者のイメージ」を学習する過程でもあります。

 人にとって他者は、自分を傷つける存在であるとともに、癒してくれる存在でもある。なるほど、まったくそのとおりだと思う。そのプロセスをうまくくぐりぬけられなかったときに、人は一つの対処方略として社会的にひきこもり、ひきこもることによってますますシステムとして安定して他者接触を避ける、というのは、とてもよくわかる説明である。

 もっとも本書によると、少なくともこの本の出版当時は、日本精神神経学会は社会的ひきこもりの問題に消極的で、社会的ひきこもりは存在しない、という反応を受けたり、完全に黙殺されたりしているのだという。本書を読む限りは、とてもそういう話には思えなかったわけだが、しかし今度は、黙殺する側がどのような論理で問題を否認し黙殺しているのか、その論理を知りたいものである。

■『プロジェクトX 挑戦者たち5 そして、風が吹いた』(NHK「プロジェクトX」製作班 2001 日本放送協会 ISBN: 4140805730 \1700)

2005/11/10(木)
〜現場で対話〜

 本書では、薬師寺金堂再建、コシヒカリ、セブンイレブン、ロータリーエンジン(開発とルマン)、伏見工業ラグビー部、ナホトカ号流出重油清掃ボランティア、の6つが収録されている。このうち私がテレビで見たのは、セブンイレブン、伏見工業、ナホトカ号重油の3本であった。が、本は本で面白かった

 私が本書を買ったのは、セブンイレブンのビデオを授業で見せるからである(それに、アマゾンのマケプレで安かった)。しかし、改めて6つのプロジェクトを読み、それがどんな人たちによる、どんなプロジェクトで、どんな経緯をたどったかを見てみると、ちょっと興味深いものが見えてきた。

 それは、「現場で考えることの重要性」とでもいえようか。薬師寺金堂再建では、宮大工である西岡氏が、宮大工経験のない若者たちを統率して再建を成功させる、というプロジェクトなのだが、西岡氏は若者たちにほとんど教えなかったという。若者たちに言ったのは、ただ一言「木と対話して仕事しろ」(p.52)ということだという。

 これだけだと、宮大工は特別だから、ということになりそうだが、こういう話は随所に出てくるのである。コシヒカリでいうなら、コシヒカリは、肥料を追加するタイミングを間違えるとすぐにだめになってしまうようなデリケートな品種なのだそうだが、ある人がそれに挑戦した。そのときその人は、「どの株が、いつ、どのくらい肥料を欲しがるのか。コシヒカリに話しかけながら育て始めた」(p.94)そうである。その末にタイミングをつかみ、さらに誰にでもそれができるよう標準化し、コシヒカリが量産できるようになったという。

 ほかのものは、該当部分のみ抜書きしておこう。セブンイレブンではそういうことはいくつかあったのだが、たとえばある人が、現場に日参した挙句、「皿やコップ、食器などあまり売れない商品が埃をかぶっている一方で、売れ行きが比較的よいジュースなどがしばしば品切れになっていた」(p.166)という光景を目にしたことから、POSシステムや小分け配送が考え出されている。ロータリーエンジンでは、技術者たちは「エンジンの模型を常に携帯し、思いついたことをすぐにメモできるようにと、自宅の枕元には常に鉛筆とノートを置いた」(p.192)という。模型との対話とでもいえようか。伏見工業ラグビー部では、指導者は最初、元日本代表ラガーマンだ、教師だという気持ちをいつまでも持っていたが、あるとき試合で大敗し、そのとき、「この子どもたちはいま、どんな気持ちなんだろう。めちゃくちゃやられて悔しいやろなぁ、はがゆいやろなぁ、情けない思いをしてるやろなぁ。と思ったときにね、俺は今までこいつらに何をしてやったんやって、初めて矢印が自分に向いた」(p.255)という。ナホトカ号流出重油清掃ボランティアでも同じようなことがおきている。

 これらはどれも、最初の西岡氏のことばを借りるなら、「現場と対話して仕事」をしている姿といえるのではないかと思う。プロジェクトXというと今まで私は、すごいプロジェクトリーダーがいたり、苦難の末に逆転の発想があったり、熱血漢物語がある話、というような捉え方をしていたのだが、それだけではなく、「現場との対話」のある話なんだなあ、と本書を読み、全体を見返してみて、改めて捉えなおすことができた。

はせぴい先生よりコメントあり。10月12日の日記にも書いたように、プロジェクトXについては「多くの感動場面もあったが、困難点を過剰に強調し、困難との対比の中で努力を美談化するというやり方はあまり好きではなかった。」というのが率直な感想だが、現場での対話を重視という視点は気づかなかったなあ。】 まあ,私が読んだ本に関しては,「過剰に強調」がどの程度あるかは分かりません。過去に過剰強調やウソが問題になったケースもありますね。私としてはそれでも,そこから学べることがあればいいなあと思うわけです。

論理の強制性と日常性

2005/11/09(水)

 書くネタは決まっていたのに,なかなか書く時間が取れなかった。ようやくちょっと時間が取れたので,走り書きしてみる。

 前回読んだ『算数(シリーズ授業)』と,その前に読んだ『認識の史的発達』の関連で,ちょっと記がついたことがある。

 『算数(シリーズ授業)』の批評会の中で,「体重6キログラムの小学生が8人います」というようなありえない問題でも小学生は疑問に思わずに解いてしまう」という話が紹介されていた。私も前にこの研究について何かで読んだときに,意味を考えずに問題を機械的に解いてしまうような子どもをつくってしまうのは確かに問題だよな〜,と思った記憶がある。私が思ったというよりも,この研究をした人の考えを無批判に受け入れた,というのが正確なところなのだが,それが,この研究に対するごく一般的な理解だろう。

 ところで,『認識の史的発達』に出てくる文盲の人は,経験の範囲外にある三段論法を答えることを拒否している。これも一般的には,「社会によっては生活の中で仮定的・論理的な思考をしない(できない)文化がある」と理解されているはずだし,私もそう理解していた。

 しかし考えてみると,これらの話は2つとも「仮定的な思考」についての研究,という点ではまったく同じなのである。しかも,論理学がそもそも,「記号の計算」によって推論の正しさを証明しようと考えてつくられた学問であることを考えれば,どちらも「記号の計算」についての話である点も同じである。

 それなのに,一般的に我々は,前者に対しては,仮定を受け入れて答えを出してしまうことを問題視し,逆に後者に対しては,仮定を受け入れて答えを出そうとしないことを問題視しているのである(少なくとも私はそうだった)。

 両者が同じ構造をした問題なのであるならば,どちらに対しても同じ反応を期待すべきだろう。ではどちらが正しいのか。そもそも論理とは,前提の内容の真偽を問うものではなく,前提と結論の関係を問うものである。具体的にいうならば,前提が真であると仮定したときに,必然的に導かれる答えが妥当な結論,ということになる。『考える営みの再生』で編者の佐藤氏が,西洋的な論理を,競争的で支配的で強制的で独裁的なもの,というようなことを述べているが,まさに論理のもつ強制性ゆえ,ありえない問題(仮定)でもありえない結論でも,受け入れざるを得ないのである。

 とするならば,ありえない前提を受け入れて問題を解くことを問題視することの方が論理性が低い考え,と言えるだろう。もちろん,ありえないそれを問題視したくなる気持ちも理解できる。しかしそれが,論理が要求するものとは異なるもの(おそらく日常性)から来た反応であることは,自覚しておいたほうがいいのではないかと思う(というか,私はこの2冊の本を続けて読むまで,まったく自覚できていなかった。突き詰めていえばそれだけの話なんだけど)。

■『算数―分数・式のたて方(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦ほか 1992 岩波書店 ISBN: 4000041231 ¥2,447)

2005/11/05(土)
〜納得を求めて〜

 このシリーズを読むのも『理科(シリーズ授業)』に続いて6冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。このシリーズ全体に対する私の印象は、教師が教材解釈などに迷いを見せながらも、安定したクラスを対象にそれなりによくできた授業が行われ、教科の本質に関わるような議論が展開されている、というものだった。

 ところが本書は、かなり様子が違っていた。例によって2つの実践(2つとも小4)が収められている。それらは、なかなか悪くない工夫(教具)のある授業なのだが、一つ目は、担任が「私自身、こんなに萎縮した子どもたち、あるいは、あまりにもパッと出しすぎる子どもたちは初めてで、〔中略〕授業中もフラフラしている子がたくさんおります」(p.6)というようなクラスが取り上げられている。教室に行った佐藤学氏も、「教室に入ったとたんに、この子たちが一年、二年、三年と、どういう生活をしてきたかが見えましたね。すごく大変だったことが見えたんです」(p.19)なんて述べているほどである。2つ目の授業は、今度は教師側の問題で、「あるキャリアを経た段階で、教師が固くなってしまう問題」(p.72)、すなわち「ベテランの壁」にぶち当たっている教師が授業者をしている。おかげで、このシリーズの他書とはかなり違う雰囲気の本になっている。

 前者に関しては、主に河合隼雄氏が、先生のテンションのあり方であるとか、子どもが作った算数の問題に現れている子どもの問題の理解のしかたなどが論じられている。また、授業内容が、分数という子どもにはなかなか理解の難しい題材なのだが、これに関しては、佐伯氏と河合氏が、納得してもらうにはどうしたらよいのか、ということを論じている。佐伯氏は、「理屈で、これをしたら矛盾があるだろうと、学者っぽく考えちゃうとだめなんですね。実際の子どもの認識のメカニズムから言うと、そうやって論破されて意見を変えるというよりも、違う世界で別のことをきちっと言われたときに、むしろ、自分で自主的に元へ戻る、そういうことがあるんですね。」(p.28)と述べている。矛盾を指摘して論破するのでは納得しない、というのはその通りだと思う。河合氏は、心理療法との類比で、納得については次のように述べている。

「納得してもらう」ためにはどうすればいいのか。これは難しい問題である。われわ心理療法課の場合で言えば、いちばん大切なことは、本人が自ら納得する「とき」を待つということであろう。」(p.154)

 具体的には、相手を受容し傾聴しながら待ち、いずれ対決が起き、その中で相手に対する認識が生じ、そこから何かが実現されるという。これは授業でいうならば、誤答をし、それがやがて新秩序のもので収まる、というドラマが必要、ということであり、そのためには、間違いも含め、どんなことを言っても許される雰囲気が必要という。なるほど。この類比は面白い。

 上述の後者の問題(ベテランの壁)は、現在の私自身の問題でもある。ベテランかどうかはさておき。本書の授業者の場合は、その後、固さが変化したという。しかもそれは、算数教育の研究をすることによってではない。そうすることは、「勉強したことというよろいに身を固めて授業する」ことにしかつながらなかったようである。しかしあるとき、児童文学者椋鳩十さんの授業をビデオで見たことをきっかけとして、「授業中の一つ一つの出来事を、今ふれている新たな出来事だという姿勢をもって、児童と共に一時間を過ごそう」(p.222)と決心し、授業が大きく変わったという。もちろんこれは、椋鳩十のビデオを見れば誰でも(私でも)変わる、ということではもちろんないだろう。この授業者には、変わるべき「とき」があり「対決を通した認識の変化」があったのではないかと思う。こうやって2つの授業で問題になっていることを並べてみると、本書ではどちらも、児童や教師の「納得」をめぐる議論になっているようである。無理やり関連付けるならば、かもしれないが。

 なお、本書を読んで思ったことはもう少しあるのだが、それはまた後日。


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