30日短評6冊 25日『沖縄自治州 あなたはどう考える?』 20日『喪失と獲得』 | |
| 29日中学生の問題解決学習 |
今月は仕事月間だった(まだ終わりじゃないけど)。週に3回は大学で夕食を食べて居残り仕事。土日も,子どもの世話をしなければならないとき以外は,大学に出てきていた(晩飯前までだけど)。来月ある仕事の準備の追い込みなのである。幸い今のところ,風邪を引くこともなく,元気に仕事できている。
そんな中でも,まあそれなりに本を読むことはできた。今月良かったのは,『喪失と獲得』(なるほど,喪失を原動力とした進化ね)。他の本も悪くなかったけど。
もう一月近く前のことなのだが、中学校で行われた、問題解決に関する授業を見た。いろいろと思ったことがあるので、忘れないうちにメモしておく。授業の目的は、「より良い問題解決技法について知る」ということのようで、ごく基本的な問題解決ステップである,(1)情報収集,(2)案の産出,(3)案の評価,(4)最善案の実行,(5)実行結果の評価の5ステップが紹介され、そのうちの(1)〜(3)が、ワークシートにそってグループ学習の形で行われた((4)と(5)は次時にロールプレイで行われるようである)。
こういうテーマが義務教育の中で正面切って扱われるというのは、とても素晴らしいことだと思う。とその意義を認めた上で、ちょっと思ったことがあるので、以下に記しておく。
一つは、「良い問題解決とは何か」ということである。事前のアンケートによると、何か問題が生じたとき、生徒の6割だかが「最初に思いついたことを行う」と答えている(うろ覚えで書いているので、細部は違っているかもしれないが)。だからその前に、情報を収集したり(実際にやっていたことは、問題が起きた理由をいろいろ考えることだったのだが)、複数の案を比較して、より良い解決を目指そうということなのだろう。そういう問題意識はわかるのだが、ここで気になるのは、「最初に思いついたことを行う」のはよくないのか、ということである。問題解決のやり方にも、事前にじっくりやるやり方だけではなく、一つ試してみて、結果を見てから考え、次を試す、というような試行錯誤的なやり方もあるわけで、それが必ずしも良くないとはいえないのではないだろうか。そう考えないということは、ここには、「考えることは良いことである」(感情は良くないものである)という暗黙の大前提があるのではないかと思う。
そもそも、限定をつけることなしには、「良さ」を語ることはできない。問題解決の「良さ」でいうなら、一番重要なのは「結果の良さ」(解決すること)だろうが、それ以外にも、時間その他のコストがかからないという意味での良さ、実行した側の満足、相手の満足などがあるだろう(取り敢えずの思いつき)。結果のよさにしても、可能な限り最大の状況改善を目指すのか、一歩でも前進すればいいのか、ともかく最悪の状態を避けることを至上命令とするのかによっても、取るべきプロセスは違ってくるだろう。そこが曖昧なままだと、子どもによって受け取り方が異なり、議論がかみ合わなかったり、課題に乗れなかったりするはずである。
この授業では、実行結果が出る前の話なので、目指されているのが「結果の良さ」ではないことは確かである。では何を目指していたのだろうか。ステップ(3)では、それぞれの案をいくつかの観点から数値化し、合計値を出して案の比較を行っていた。「問題をどのくらい解消できるか」「私はどんな気持ちになるか」「相手はどんな気持ちになるか」「どのくらい時間と労力がかかるか」という観点で。これでわかるのは,実施前にどのぐらい良いものに見えるか,という意味での良さである。しかしこれは,相手によっても状況によっても相手の事情によってもまるで変わってくることなのではないだろうか。想定されている状況が詳細なのであれば,こういうやり方も悪くはないのかもしれないが,しかしそうでなければ,答えようのない問いであるように思えた。よほど状況や相手のことを決め付けて判断するのであれば別だろうけれども。
もう一つ思ったこと。「考える」ことを教育で扱う際に重要だと私が思うことの一つに、「自分の枠を越えること」がある。いくら複数の案を考えそれらを比較したとしても、それらが、授業を受けなくても思いつくような案だったのであれば、あまり意味はないだろう。授業を通して、今まで考えなかったような案を思いついたり、他者から提案され、なるほどそういう案もあるのか、と思ってこそ、授業の意味があると思う。今回は、案の産出は、4人グループでの作業であった。ということは、そこで自分の枠を越えるような意見に触れられたかどうかは、グループによって異なってしまう。つまり子どもが何を学ぶか(あるいはまったく学ばないか)が、グループメンバーに依存するということになる。これっていいんだろうか、と思う。具体的にどうしたらいいかはわからないが、全ての子がその子なりに「なるほど」と思うような経験が、何らかの形でさせられないものかと思う。
とまあいろいろ書きはしたものの、この授業の運びは、問題解決技能を学ぶという点では、一つの典型的なあり方だろうと思う。その意味では、じゃあこれをどう改良すればいいのか、ということを考える上での、貴重なたたき台を提供されたといえる。
編者の一人に頂いた本。たぶん自費出版なので、ISBNはついていない。本書をくれた彼は行政学(地方自治論)の専門家で、沖縄独立の学問的裏づけ的なものを研究している、と理解していた(というか確か本人が以前にそう言っていた)。それにしても沖縄の独立なんてできるのかなあ、と私は半分懐疑的に思っていた(知識は何も持っていなかったわけだが)。
本書で提案されているのは、「独立」ではない。「自治州」である。それは外国の例で言うならば、アメリカにおけるグアム、スペインにおけるカタロニアやバスクやガリシア、イタリアにおけるシチリアのような位置になるということのようである。そしてそれは、現在の日本国憲法の枠内でも十分に可能らしい。ということで本書の第一部は、沖縄自治研究会が作った「憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法」(試案)となっている。これは、市民参加のワークショップ形式で作られた案らしい。ワークショップかあ。その場面、見てみたかったなあ。
ただし、私はそれを読んだだけでは、あまりよくわからなかった。何か、一般的な民主主義と地方自治の原理原則が書かれているだけのような気がして。そういう人のためだろうか、本書の第二部は、入門・解説編になっている。そこでは、現在行われている構造改革の中での地方の位置づけや未来、沖縄自立構想のこれまでの系譜、外国の事例、この案を実現するための具体的方策やタイムテーブルなどが書かれており、かなり状況を理解することができたように思う。あと沖縄の独立といえば「芋と裸足」論(そんなことをしたら文明的な生活ができなくなってしまう)が言われたことを想起する(ネットで調べたら、これは「基地がなくなれば」の話であった。独立ではなく。まあでも似たようなものではないだろうか)。つまり経済的基盤がないのにそんな無茶な、ということなのだが、経済基盤についても、本書では、外国の小さな自治州の例を挙げ、必ずしも問題にはならないことが論じられている。
なお、この時期に具体的な自治州構想が出てきているには、どうやらわけがあるようである。本書によると、2011年度で現在の沖縄振興体制は終了し、「その後、振興計画はない、高率補助もない、場合によっては、沖縄担当部局も無くなる、ということを想定しなければならない」(p.59)という。さらに、「基地の存在はもはや関係ない」(p.59)という。現在の構造改革の流れや国の財政状況を見れば、それは大いにありうることであろう。2011年度までに決着をつけるとなると、逆算して考えれば、「2006年選出の知事のリーダーシップは、もっとも重視される」(p.60)ことになるし、その他や進め方の状況も考えると、2006年1月までには、沖縄の議員を中心とした会を持って意思表明する必要があるという。
ということで、今自治構想を考えることの重要性や必然性はよく分かったように思うし、そうできればきっと沖縄にとってはいいだろうなあと思うのだが、一つ疑問なことがある。沖縄の歴史的、民族的特異性から、自治州として位置づけられることが妥当なことであるし、その方が沖縄にとっても、地域振興や基地被害軽減などのメリットがあるといっても、話はそれだけではないのではないかと思う。国側としては、自治は認める、離島地域としての財政移転はする、というだけで国側メリットがないとすれば、そう簡単に話に乗るものなのだろうか、という疑問である。この点については、本書には触れていなかったように思う。果たして筋論だけで通る話なのか、その点は、当然考えられていることだろうと思うので、本書を下さった方に今度聞いてみることにしよう。
『内なる目』の著者による新作。『内なる目』は、意識=内なる目、というワンアイディアを中心にした本だったが、本書は、かなり多岐に渡った話題が扱われている。それでも全体を大きく分けると、「私」とか心身問題について扱った第一部、進化の過程における喪失と獲得について語った第二部、信じる心について語った第三部に大きく分けられる。といってもそのうちわけは、かなりハードで綿密な論文的なものもあれば、エッセイ的なものもある。なかには、あまり理解できなかった章もあるが、理解できた章に関しては、とても興味深いものだった。
第一部の「私」については、多重人格についての考察から、「私」が民主主義における「心の元首」のようなものではないか、と筆者は述べる。「私」を単一の実体として語ろうとすると無理があるのは明らかだが、しかし「私」が単なるフィクションと考えるのもしっくりこない。そこで「心の元首」である。私の中には、さまざまな下位自己がある。それはあたかも、民主主義の世界には多数の構成員がいるのと同じである。その中で、最も多数に支持されるものが「元首」、すなわちそのときの「私」を代表するのである。代表は代表であって、そのときの私(=国家)の機能を全て持っているわけではない。また特定の勢力が多数派になったからといって、それとは異なる勢力がいないわけではない。少数派であるためになかなか表には出てこないが、時と場合によっては、少数派が表に出ることもあるのである。このように心の元首という考え方は、「私」を理解するのに興味深いアナロジーを提供してくれる。
第二部で扱われている「喪失と獲得」も興味深い論考である。それは簡単に言うならば「必要は発明の母」(あるいは窮すれば通ず)とでも言うような内容である。たとえば筆者は、体毛の消失と火の発明を関連付けて論じる。我々はかつて体毛に覆われており、寒さを防いでいた。ところがあるとき、何かの具合で体毛がなくなってしまった。それでは寒さはしのげない。そこで人類は火を発明した、というのである。それは一般論的にいうならば、「人々が損失に見舞われ、それまで当然のこととしてきた資産に代わるものを作る方法を頭の中でみつけざるをえなくなったとき、最初に失ったものに加えてボーナスをもたらすような解決策をしばしば思い浮かべる」(p.175)ということである。たとえば我々が抽象的・法則的に思考できるのも、絶対的な記憶を失ったからだと筆者はいう。あるいは我々は知力が高すぎないために、他の人と協力するという方策を生み出し、それが一人の知力以上の利益をもたらすのだという。これもなかなかナルホドな考えであった。そういえばプロジェクトXに出てくるような斬新なプロジェクトというのも、それ以前に「喪失」があったり行き詰まりがあり、それを打開しようとして結果的に「獲得」があり、それがボーナスをもたらした、という話が多い。そういう大きな話ではなくても、日常レベルでも「窮すれば通ず」ということは少なくない。喪失と獲得は、日常レベルから進化レベルまで、人間の進歩の一つの重要な原理なのかもしれない。本書でそのことに気づくことができた。
ただし全てに納得がいったわけではない。第三部では、イエス・キリストを、ユリ・ゲラーのような手品師のような人だったのではないか、と論じている。しかしこの論は、かなり無理があるように思えた。こういう進化心理学的な「解釈」って、うまくいけばすごい論考になるが、下手をすると「こうも考えられる」というトンデモレベルのものになってしまう。その両方を本書では見ることができたように思う。あくまでも私の印象なのだけれども。