読書と日々の記録2005.08下

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■読書記録: 31日短評6冊 25日『理科(シリーズ授業)』 20日『哲学思考トレーニング』
■日々記録: 25日日常雑記

■今月の読書生活

2005/08/31(水)

 いろいろあって,今月はあまり本が読めていない。が,今年のワタシ的ビッグイベントを一つ消化できたのでよかった。

 今月良かった本は,『資本主義の未来』(なるほど5つのプレートのせめぎあいね)と『憲法で読むアメリカ史(上)』(なるほど分割、抑制、均衡ね)ぐらいか。後者は上巻のみなので,早く下巻を読まねば。

『科学哲学の冒険─サイエンスの目的と方法をさぐる』(戸田山和久 2005 NHKブックス ISBN: 4140910224 \1,176)

 タイトルどおり科学哲学の本で、サブタイトルどおり科学の目的と方法に焦点が当てられている。以前読んだ『科学哲学入門』も科学の目的と方法に焦点が当てられていたが、どちらかというと「方法」に力点があった。その点本書は、どちらかというと「目的」に力点があるように感じた。内容に関しては、なかなか面白かった。面白かったのは、実在論vs社会構成主義とか、実在論vs反実在論という論争に焦点が当てられているからだろう。筆者はできるだけ実在論を擁護しようとしており、自然科学的な方法論を用いる研究者には納得しやすそうな内容になっている。科学哲学というと、いかに実在論ではうまくいかないかを論じているものが多い(私が読んだものもそうだし、本書でもそう書かれている)。しかし実在論も、慎重に扱えば悪くないのだ、ということが本書でわかる。それは科学の目的を「実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ること」(p.254)と考える、意味論的な実在論を筆者は提出している。いっていることは何となくわかるような気はするが、この記述と本書で出てきた諸概念の関連が、私にはまだ今ひとつつかめていない気はする。まあそれでも、これまでに読んできた科学哲学の本の中では、読み易くわかり易い本だったと思う。

『成人期における自我同一性の発達過程とその要因に関する研究』(岡本祐子 1994 風間書房 ISBN: 475990882X \17,850)

 図書館の本。成人期に見られる心理的変化の順序性や一般的特徴を明らかにした本。本研究で示唆されたことは以下の通り。「青年期に獲得された自我同一性は,後の成人期に,そのまま安定して維持されていくのではなく,これらの危機期に,それまでの自我同一性の再吟味と再方向づけという同じ課題が繰り返される。このように,青年期に獲得された自我同一性は,後の成人期にさらに問い直され,再体制化されて,ラセン式に発達,成熟していく」(p.224) とくに再吟味が行われるのが,30代後半から40代前半と,定年を迎える60代だそうである。そのきっかけとなるのは,身体的感覚の変化(もう若くない)とそれに伴う時間的展望の狭まりのようである。これって青年期の危機と基本的には同型のようである。私も40代前半なので,なるほどそういう時期なのかと思った。ちょっと気になったのは,筆者が平均的な順序性や一般的特徴にこだわっているようにみえる点。危機がいつどのようなことをきっかけとして浮上してくるかは,物理的時間(年齢)によって定まるものではないと思うのだが。もっと各人の個別性について知りたかったなあと私は思った。一部そういう事例が示されてはいたけれど。

『教育研究のメソドロジー─学校参加型マインドへのいざない』(秋田喜代美・恒吉僚子・佐藤学(編) 2005 東京大学出版会 ISBN: 4130520768 \2,940)

 タイトルどおり、教育研究の方法論を論じた本。ただし、単なる方法論の本ではなく、第一部では「教育の"場"へのいざない」と題して、筆者らが教育のフィールドに入っていった経緯などについて書かれている。私は本書の中ではここが一番興味深かった。それを受けて第二部では方法論が論じられている。これは、方法論に合わせて研究を創るのではなく、リサーチ・クエスチョンが先にあるべきだと編者らが考えるからである。もっともである。第一部から自分用に一箇所だけ抜書きをしておく。秋田喜代美氏は、現場の先生と共同的アクション・リサーチを行うに当たっては、伝達・啓蒙ではなく、子どもや教師が学び協働し創っていく過程に立ち合い、そこで考えるのだそうである。それは具体的には、「「ああ、そうだったのか」とか「この教材はこんな意味を持っていたのだ」「ここでわからなくあんっていたのは、こういう理由だ」と、授業において自分にはみえなかった子どもの発言や行動にこめられた内容が、ほかの先生のカタリからわかってきたりする」(p.17)と表現されている。もちろん逆方向で、秋田氏の意見を現場の先生が受け止めることもあるわけだが。私も現場に出るとき、こういう気づきが得られるように立ち合いたいものだ、と思った。

『授業研究入門─シリーズ子どもと教育─』(稲垣忠彦・佐藤学 1996 岩波書店 ISBN: 4000039482 \1,700)

 再読。前に読んだのは2年以上前だが、この2年間で学校現場との関わりが増え、またこのような視点からの本に接することも増えたので、以前よりも格段に理解できたような気がする。今回目にとまった記述を書き出しておく。「〔授業では複数の文化が登場し、〕それぞれが主導権を争って衝突しあう」(p.18)、「〔誤答に対して〕必要なことは、答えの当否を裁断することではなく、一人ひとりの答えに埋め込まれた「理の世界」を洞察し、その省察を教室で共有し擦り合わせて、真実へといたる筋道を共同で探索すること」(p.89)、「「反省的実践」を志向する「授業の探究」は、教室の事実と事実の間の見えない関係を読みとって、そこに生起している出来事の意味や経験の意味を探究する研究」(p.122)、「授業の検討会においてもっとも重要なことは、一つの正解を求めないことであり、多様な見方や考え方を具体的な事実を通して擦り合わせ共有し合うこと」(p.137)。これらで述べられていることは、基本的に一つなのだろうと思う。つまり最初に引用した部分にあるように、授業では複数の文化が衝突しあっている。それを読み解き味わい共同探索の糧にするのが、授業であり、授業研究なのだと。

『日本語教師のためのアクション・リサーチ』(横溝紳一郎 2000 凡人社 ISBN: 4893584677 \2,940)

 日本語教育におけるアクション・リサーチの本。筆者はアメリカ留学中にアクションリサーチに出会い、日本で教鞭を取りながらアクションリサーチについて勉強し、実施しているのだという。そういう経緯からか、本書は筆者がこれまでに調べてきたことが網羅的な感じで載せられている。こういうつくりの本って辞書的な使い方としていいかもしれないが、未経験者がこれからやろうとすることを後押しする部分はあまり多くないような気がした。本書の中では、筆者の所の大学院生と筆者自身が実施したアクションリサーチについての実践報告が載せられており、その部分に関しては「後押し」的ではあったのだが。しかしそれにしても、実践の内容があまり具体的にわからないため、これならできそう、とか、やってみよう、というところにまではなかなかなりにくかった。少なくとも私には。アクションリサーチの歴史とか定義とか特徴とか一般的な実施プロセスの説明よりも、そういう実践報告を詳細に多数示してくれる方が私としてはありがたいと思った。

『教育学入門(上)』(村井実 1976 講談社学術文庫 ISBN: 4061580272 \620)

 教育哲学者による教育学の本。一応なんとか最後まで目を通しはしたものの、私には難しかった。最初のほうで、教育とは単に教えることや育てることとは違う、と書かれているあたりは、これは面白そうかも、と思ったのだが、私の理解ではそこまではいかなかった。ということで、本書は上下巻あるのだが、読むのは上だけでおしまいとする。

■『理科―電気の実験・花粉のはたらき(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦(編) 1991 岩波書店 ISBN: 4000041258 ¥2,447)

2005/08/25(木)
〜ハッとはするけどピンとこない〜

 このシリーズを読むのも『体育(シリーズ授業)』に続いて5冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。本書には、小学校2年生の電気の授業と、小学校6年生の花粉の授業が収められている。本書では、授業における教師の関わりについてと、授業研究会における参加者(批評者)の関わりについて考えさせられた。

 授業における教師の関わりについては、佐藤学氏が『教育方法学』などで、「一見どんなに誤って見える子どもの意見や行動にも合理的な根拠がある。その「理の世界」を省察し,「反省的思考=探究」をその子ども自身の思考と活動の内側から促進することが,教師の重要な役割」と書かれている。言っていることはわかるような気はするものの、しかし具体的にはどうするのだろうとか、間違いの理を見出した後はどうするのだろう、と前々から疑問であった。本書でも佐藤氏は、〔教師は〕「子どもたちのわかり方やつまずき方に興味と関心を寄せ、子どもの思考の空間に教師自身の思考を漂わせる感覚が求められるのであり、「なるほど、そういう見方もあるのか、そういう意味なのか、そういうわかり方や考え方もあるのか」と、子どもの思考の揺れと共振する柔軟な発見的思考が求められるのである」(p.209)と述べている。具体的な「共振」に関しては、実践の批評の中で佐藤氏が、子どもが書いた様々な回路図(の一部)を見て、「ふと思ったんですが、線がヘソに集中した図を描いた子どもは、たぶん、前の時間の豆電球をともすときに、電池のプラスの突起の上に豆電球をのせたんだと思うんですよね」(p.38)とか、「フィラメントから口金に導線をいっぱい書き込んだ図を描いた子どもは、たぶん、しっかり力を入れてつないだんだと思う」(p.38)という解釈を披露している。

 このような、「理の世界の省察」の具体例を知ることが出来たのは本書を読んだ収穫である。しかし本書や佐藤氏の他の本を見ても、私が覚えている限りでは、佐藤氏は共振したり理を見出した後にどうするのかについては述べられていないのである。ものによっては理を見出すだけでよいものもあるであろうが、そうではないものもあると思うのである。たとえば豆電球の図に導線を書き込むなんていうのは、やり方がまずければ点かないという現実があるわけで、その現実と理の間にどう折り合いをつけていくかは、とても重要なのではないかと思う。

 佐藤氏はそのことに関しては述べていないようであったが、本書の他の参加者がそのことと関係しそうなことを述べているので、以下に抜粋してみる。

  1. そのときに、80パーセントまちがっていても、20パーセント合っている点があったならば、「実は君いいこと言ったんだよ」と言ってあげると、これはすごく効果が高い。(p.20: システム工学者の西村氏)
  2. 〔子どもがつくった〕モデルには、子どもの多様なまちがいが表れ、多様なメンタル・モデルが表れているんだけど、それらがどういう根拠で出てくるのかということが先生のリードで吟味されてもよかったんじゃないかな。(p.36: 稲垣氏)
  3. 佐伯先生がメンタル・モデルと言われた一つの現象の理解、ワーキング・ハイポセシス(作業仮説)と言ってもいいけれど、そういう理解が、たぶん小学生のレベルではうんとあって、そのこと自身が説明できれば、仮に自分が思いついたことだって、ぼくは全部よしとすべきだと思うんですよ。それはまちがっているとか、ほんとうはこう考えなければいけないとかいうべきではないと思うんです。(p.48: 西村氏)
  4. 20パーセントの正しさがあったら、それをとがめてはいけない。私どもは、100パーセントのまちがいというのはないんだという言い方をしているんです。(p.48: 教育心理学者の細谷氏)
  5. 厳密に言うと、電子が流れているだけのことなんですが、子どもが考えている流れというのは、ボールみたいなモノ、あるいは、水みたいなモノが流れている感じがあるんじゃないかと思う。だから、豆電球をつけましょうとトライアル・アンド・エラー(試行錯誤)をしてゆく中で、そういうメンタル・モデルを育てたり、検証したりすることについて、こちら側で、子どもがこんなモデルを頭の中で描いているにちがいないということへの配慮が欲しかった。ただ、導線と豆電球と乾電池をポッと与えて、「電気つけてごらん」とやると、そのときに子どもが持っているメンタル・モデルや仮説に従ったことをただやってみて、検証も反証もなく、自分の独特の説明をフワーッとつくってしまう、それがずっと尾を引いている。そのところで細かく調べるべきときというのが、まさに実験の段階だったと思うんですね。(p.54-55: 佐伯氏)

 ここで述べられていることは大きく3つあるかと思う。とがめない(1, 3, 4)、吟味する(2)、実験する(5)である。このうち、「とがめない」だけでは足りないような気が私はする(「自分なりに説明を考える」ことが授業の目的ならその限りではないが)。この授業の実践者である菊池氏も、あるときから子どもたちを理解することを授業において重視するようになったのだそうだが、そういう面が今回の授業では悪く出た、と次のように考察している。「こういう授業は(子どもたちは真剣に考えてはくれたのだが)理屈と体験だけがまかり通ってしまって、内容を深めることができないということを、改めて反省させられた」(p.130)。それは結局菊池氏が、「この問題に対して子どもたちがどんなふうに考えるのかを確かめておきたいという、待ちの姿勢をとっていた」(p.130)ために、「言わせっぱなし」にしてしまったからだという。つまり実践者も「とがめない」だけでは足りないと考えているわけである。しかしどのように吟味なり実験すればいいのかについては、本書には特に具体的な記述はなかったように思う。ただ5のような内容でいいのであれば、なんとかイメージはつかめそうだが。

 ところで、ここに挙がっているような、「教師が子どもの世界を理解した上でその考えを吟味する」という流れは、授業研究会にもそのまま当てはまることだと思う。つまり研究会参加者は、「授業者の理の世界」を理解した上で、その内容を吟味すべきだと思うのだ。しかしどうやら、授業者による補論を見ると、授業者は参加者にあまり理解されたと思っていないようである。授業者の一人である菊池氏は「今回の批評会のようにああいうさまざまな専門分野の方々の発言というのは、ものすごくハッとさせられたんですが、すぐにはピンとこない」(p.227)と述べているし、もう一人の授業者である永沢氏も「実践者の手ごたえから見ると、授業者の意図がビデオの参観者にわかってもらえなかったのかな、とこれはちょっと気になりました」(p.219)と述べているのである。多くの参加者が、子どもの体験からくる理解を教師が理解することを重視していながら、授業検討会でそのような視点を実践者に向けられないというのは、いいのだろうかと思ってしまう。そういう視点があってこそ、授業者自身の「思考と活動を内側から促進」するような研究会になるのに、と思う(もちろんその後に、その理解を踏まえた吟味は十分になされるべきなのだろうが)。そのような授業研究会がどのようにありうるのかについて考えることは、今後の課題か。

日常雑記

2005/08/25(木)
2005/08/21(日)
 帰省初日。夕方に到着。暑いかと思ったが、ちょっと雨が降ったのだそうで、さほど暑くはなかった。でもこの夏、その日の日本最高気温になったことは何度もあるのだそうだ。ちょっと怖い。
2005/08/22(月)
 昼間は上の娘と近所を散歩。30年前に私が通っていた小学校にいってみた。変わっている部分もたくさんあったが、私たちが卒業時に作ったレンガの製作物は今も残っていた。妻の実家に移動。夜は子どもたちと同じ布団で寝たのだが、夜中に上の娘には何度も蹴られてしまった。おかげで睡眠不足。
2005/08/23(火)
 雨なので散歩には出られなかった。妻と車で、近所のヤマダ電機に行った。夜は幸いなことに、あまり上の娘に蹴られることはなく寝ることができた。
2005/08/24(水)
 午後からまた上の娘と散歩。最初に、私の出身中学校に行ったが、小学生が喜ぶような遊具はあまりないため、小学校に移動。遊んでいたら、小学校1年生と2年生の女の子に「何年生ですか?」と声をかけられ、一緒に遊ぶことに。途中で3年生の女の子も合流して、4人で鬼ごっこをしたり、校内探検(というか散策)をしたり、駄菓子屋に行ったり。とくに1年生の子は物怖じせずにどんどん話しかけてきたり友達をリードしたりしていた。ちょっと面白い体験だった。

■『哲学思考トレーニング』(伊勢田哲治 2005 ちくま新書 ISBN: 4480062459 ¥819)

2005/08/20(土)
〜哲学風味の論理学的クリシン本?〜

 哲学的クリティカルシンキングのスキルについて書かれた本。クリティカルシンキングの定義には実にさまざまなものがあるが、筆者の考えるクリティカルシンキングとは、「ある意見を鵜呑みにせずによく吟味すること」(p.11)であり、「情報の送り手と受け手両方の共同作業の中で、社会において共有される情報の質を少しでも高めていくためのものの考え方」(p.15)のようである。もっとも本書では、「情報の送り手と受け手両方の共同作業」の話はなかったように思うのだが。

 筆者が扱っているのは、「哲学的」クリティカルシンキングである。別名「改築型クリティカルシンキング」である。「どういうルールにしたがって思考すると正しい結論につながるか、という基礎の部分から考えていく。「土台から建てなおす」方式」(p.12)だそうである。哲学的クリティカルシンキングと呼ぶということは、それ以外のクリティカルシンキングがあるということである。それは、人間の思考の間違いを知り、それを避ける「修理型クリティカルシンキング」(壊れたところを修理する方式)である。ほぼ「心理学的クリティカルシンキング」と言ってよいであろう。

 もっとも私のイメージでは、「どういうルールにしたがって思考すると正しい結論につながるか」は一般には論理学が目指しているところだと思う。筆者が哲学的と称するのはおそらく、単なる論理だけでなく、「ほどよい懐疑主義」を目指しているからのようである。たぶん後半で「文脈主義」と呼ばれるのがそれに当たるのだろ思うのだが、文脈主義とは、「あることを知っているかどうか、ある主張が妥当かどうか、といったことについての判定は、その判定を下す部脈(何のために判定するのか、判定が間違っていたときはどうなるのか、など)によって変わりうる、という立場」(p.137)だそうである。たとえば、関連する対応仮説との比較である主張が優れていることを示す、という「関連する対抗仮説型」の文脈主義、というのがあるそうだ。このあたりはなかなか興味深かった。

 また、実際の思考例として、疑似科学としての今西進化論に対するクリティカルシンキングが示されていたり、地球温暖化論争に対するクリティカルシンキングが示されていたりする。こういうところも興味深かったのだが、全体としては、何か今ひとつワクワク感がなかったなあ、というのが正直な感想。哲学的クリティカルシンキングとはいっても、論理学色が強いせいだろうか。私のイメージする哲学的クリティカルシンキングは、『自分と世界をつなぐ哲学の練習問題』のような西氏の著作かなあ。


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