読書と日々の記録2002.07下
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■読書記録: 31日短評10冊 30日『発達臨床心理学』 28日『〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ』 24日『考える営みの再生』 20日『保育者の地平』 16日『意味から言葉へ』
■日々記録: 26日価値観の内面化/思い出す4歳児 21日言葉のバリエーションを楽しむ1歳児 17日仮説実験授業のレポート

 

■7月の読書生活
2002/07/31(水)

 今月はやたらカゼを引いていたような気がする。月初めに5日ほど,そして月末である今も,5日ほど続いている。高い熱も出ずにダラダラと不調が続くのは困ったものだ。夏バテか? トシか?

 今月は,なんとなく関係論的発達&保育月間だった。おかげで少しは理解が進んだかと思う。今月よかったのは,『会議の技法』『意味から言葉へ』『保育者の地平』あたりだな。他の本も悪くないものが多かった。割といい本にあたりやすかったので,余裕をもって読書生活を送ることができたように思う。あ,読書が進んだ理由がもう一つあった。イボのせいで,毎週日曜日は病院に行っている。その待ち時間が,かっこうの読書時間と化しているのであった。週末であれば,病院通いも悪くないかも,と思ってしまった。

『ヘーゲル・大人のなりかた』(西研 1995 NHKブックス ISBN: 4140017252 \970)

 ヘーゲルの思想について書かれた本。最初と最後は面白かったが,途中は挫折しそうだった。キーワードは,自己意識,理性,共同体というところか。本書は社会学の本で紹介されていたのだが,「精神の歴史は,共同体の掟と個人が一体だったポリスから,明確な「私」の意志気が析出されて,それが次第に絶対性を獲得していく過程」(p.80)という歴史的考察が,社会学的な部分かと思われる。あと,ヘーゲルの「反省」の概念(「自分自身の知を自分自身で検討し吟味すること」p.88)がわかったのは収穫か。

『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(島田荘司 1984/1987 集英社文庫 ISBN: 4087492621 \390)

 ふと思い立って再読。10年ぶりくらいか。読後感は10年前と変わらず,推理小説部分はまあまあというか並というかそこそこだが,趣向とか,名人芸的な部分はよくできている。お,ここんとこ良く似てる,とか,こういうのはオレには書けそうにないな,とか考えながら読めるならば,素直にエンターテイメントとして楽しめるかもしれない。漱石の目から見たホームズは,もちろん面白おかしく書かれてはいるものの,たしかにそういうヤツに見えないこともないよなーと納得してしまう部分がある。実際,ホームズの推理をいくつか見ていると,論理的にはけっこう穴が見えたりするし。まあ全体としての評価は○というところか。

『中坊公平・私の事件簿』(中坊公平 2000 集英社新書 ISBN: 4087200639 \660)

 日弁連会長もつとめた筆者が体験した事件とそこから得た教訓を書いた本。筆者が,最初の事件から最近の事件に至るまで,多くを学び,鍛えられ,成長(p.173)しているさまが興味深い。弁護士とか裁判とか事件の現状とあるべき姿について(割と手軽に)知ることができ,考えることができる本である。

『考えることの教育−教育のヤラセ主義を排し考えることの教育とは−』(佐伯胖 1982/1990 国土社 ISBN: 4337659072 \1,553)

 再読。1年前に読んだときほどの感動はなかった。もちろん,思考と思考教育を考えるうえで,十分に示唆的であるけれども。たとえば,本当に「考える子」というのは,このように結果の成否に依存する心から完全に独立し,考えること自体の楽しさを知っている子どもであろう(p.30)なんていう文章を読むと,そうだよなあと思う。1年前に感動したのは,自分がばくぜんと感じていたことやあいまいな考えをしていたことを,明確に言葉にしてもらったからだろうと思う。本書のキーワードは,1年前は「吟味」「納得」と思ったが,「吟味」と「意味の発見」かもしれない。

『人生の教科書「よのなか」』(藤原和博・宮台真司 1998 筑摩書房 ISBN: 4480863206 \1,500)

 『世界でいちばん受けたい授業』の教科書版。接待から自殺や売買春などの現代問題までが扱われている。執筆者は全部で8人いるが,筆者によってスタンスが多少違うように思われる。第一筆者の藤原氏はあとがきで次のように述べている。もっと身近なところから面白く語り起こしてもらうだけで,僕らは"社会"や"世の中の構造"をイキイキと学べるし,そこから自分の居場所もどうにか探すことができそうだ。(p.243) 「ゲームのように楽しく学ぶ」ことを自身もしたかったし,子どもにもしてもらいたい,そういう気持ちで書かれているようだ。そのせいか,藤原氏の担当分では,あくまでも教科書に出てくるような事柄(経済とか円高とか会社とか環境とか)を,身近な題材を通して学ぶという形になっている。いっぽう宮台氏のほうは,内容はもっぱら社会学そのものである。それを通して子どもたちが,自分の周りの社会を読み解けるようになっている。それはしいて言うならば「現代社会」であり「道徳」であるかもしれない。ただ,知識を得るというよりも自分の周りのことを再考するきっかけを提供しているようである。このような筆者によるスタンスの違いは,不統一といえば不統一だが,「人生の教科書」の「幅」を示しているようにも思われる。

『世界遺産の島 琉球王国の謎−甦る南海の理想郷・沖縄−』(武光 誠 2001 青春文庫 ISBN: 4413091825 ¥505)

 沖縄における人類の出現から,明治維新までの歴史を読み物風に書いた本。非常に読みやすい。本書の特徴のひとつは,日本における沖縄(あるいは沖縄における日本)の位置を明確にしようとしている点である。筆者によると,沖縄には日本的なものがたくさんある。創世神話もそうだし,御嶽と神社の類似性などもあげられている。逆に日本本土にも,九州を通って伝えられた南方文化(潜水漁法,鵜飼など)がある。あるいは南方産の貝輪が西日本はおろか,北海道の遺跡からも出土している。これらを通して,(よく言われるものとは違って)沖縄を「日本」に位置づけた本だと思う。その当否はさておき,非常に興味深い,そして,これまであまり目に付かなかった新しい視点であるように思えた。

『日本の警察がダメになった50の事情』(久保博司 2000 別冊宝島Real ISBN: 4796618287 \1,048)

 50の問いに答える形式で,警察の現状や問題点について述べ,警察危機の本質を解明している本。警察は,組織や名称がわかりにくく,最初はなかなか読みすすめるのが大変だった。警視とか警部とか刑事とか,交番とか駐在所とか,警視総監とか警察庁長官とか。しかし本書を通して,警察官と言えども,良くも悪くも人間なんだとか,サラリーマン(社会)なんだと思った。あと,ときどき耳にする警察のノルマという話についても,具体的に書いてあった。地域警察官の月間ノルマは1500点,窃盗1件300点などと数字化されているそうである。ふーん,そうだったんだ。これを見るとつくづく,事件は警官が作り出す(という言葉が悪ければ発掘する)ものだと思った。まあ警察のことって,よっぽどのことがないかぎり身近な話として聞くことはなく,イメージばかりが先行している。それに対して,多少なりとも等身大(と思われる)警察像を知ることができたことは,まあよかった。

『ニイルと自由の子どもたち−サマーヒルの理論と実際−』(堀真一郎 1988 黎明書房 ISBN: 4654007342 \2,816)

 ニイルとも面識のある筆者による,サマーヒルと筆者の実践を紹介した本。1988年出版となっているが,1983年に出た本の新装版のようである。概要は以下の通り。「ニイルは,子どもたちの情緒的な解放だけを説く放任主義の教育家ではなく,自分自身で世界観や価値観をきずく態度と力をもったたくましい人間の育成を目的としていた。授業への出席の強制の排除も,民主的な全校集会も,精神分析の理論を参考にしたプライベート・レッスンも,この究極の目標にいたるための手段にしか過ぎない。」(p.293を要約) また,この精神を生かした筆者の実践も少し紹介されている。ニイルの「究極の目標」は,権威に頼らないで,自分自身のものの見方に従って人生をたくましく肯定して生き,しかもその生き方に責任を持つ人間(p.113)とも表現されている。そのためには,小さいときからできるだけ多くの事柄自己決定する経験が必要であるという。だからといってサマーヒルが完全に自由ではないことは,本書でも押さえられていた(規則とか授業とか)。本書もまあ悪くはなかったのだが,サマーヒルの子どもたちの実態を奥行きをもって捉えられたように感じたのは,本書よりも『自由教育をとらえ直す』でああったように思う。

『コーヒー−おいしさの決めて−』(伊藤博 1994 保育社 ISBN: 4586508663 \680)

 コーヒーカップから,焙煎,抽出器具,生産地と,コーヒーに関する知識が一通りわかる本。最近我が家では,いろいろなおいしい豆を買って楽しんでいる。そういう人には本書は,網羅すぎるかもしれない。スプーンの種類だの欠点豆の種類だのといった細かい知識はいいから,豆を買って楽しむ程度の人に特化された本があるといいのだけれど。

『21世紀を築く学校−岐路に立つ日本の教育を切り拓く−』(原崎茂・小杉康裕(編) 1997 学陽書房 ISBN: 4313630325 \1,900)

 プロローグの,戦後教育史みたいな話のなかには,まあ興味深い部分もあったのだが,それ以外は,理念的な話ばかりで,あまり得るところはなかった。

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■『発達臨床心理学−講座臨床心理学5−』(下山晴彦・丹野義彦編 2001 東京大学出版会 ISBN: 4130151150 \3,500)
2002/07/30(火)
〜自分の人生の物語を生きるために〜

 特定の学派や理論によらず,実証的な議論を展開することを基本方針とした6巻ものの講座の1冊。本巻では,臨床心理学と発達心理学の協働としての「発達臨床心理学」が構想されており,3章からなる基礎編につづいて,発達の各時期における臨床が,出生前から末期患者に至るまで,順を追って論じられている。最後には,関係性に焦点をあてた発達論が論じられている。

 講座の趣旨として「特定の学派や理論によらない」とあるものの,本書はきわめて強烈に「関係性」に焦点があてられている。冒頭の章には,「関係性を媒介とすることで,臨床心理学と発達心理学の協働が可能となるというのが,本巻の基本的な主張」(p.12)とあるくらいである。

 関係論に関しては,前回の『〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ』は今ひとつであったが,本書にある鯨岡氏の論考には,具体的な発達臨床の話もあり,なかなか悪くなかった。関係論的に問題にするのは,「発達の遅れ」や「つまずき」そのものではない。それがあることによって,親をはじめとする周囲の人たちが「生きにくさ」を感じるようになる。その問題に日常生活が振り回されるという感じであろうか。それは二次的な障碍であり,関係から生まれる「関係障碍」なのである(p.29)。そこで目指されるのは,次のようなことである。

(問題を,関係発達が抱えた問題だと捉えなおすことを指して)このように考えれば,問題を当該個人に押し込めてその問題解決を図るという発想を免れ,周囲の人が変わるのはもちろん,社会文化の価値観や共同主観のありようが変わることによっても,当該個人ばかりでなく周囲他者もまた「周囲の人と共に生きる」という展望を切り開くことができるだろう。(p.34)

 そしてこれは,他の章で語られていることだが,「障害を持つ子どもたちに対する援助についての基本的な原則は,健常の子どもたちが「ごく普通に」体験しているような生活環境を彼らに保障していくこと」(p.229)であり,「障害を治療する」ことではないのである。だから焦点が二次的障害にあてられ,相互作用にあてられ,「自分の人生の物語を生きること」(p.10)に焦点があてられるのであろう。なんだか少しわかってきたような気がしてきた。要は,人はむき出しの能力そのままで,それだけを使って生きているのではないということなのだろう。

 それにしても,これまで日本において,「発達心理学と臨床心理学との間で活発な交流がなされてきてはない」(p.3)という指摘にはちょっとびっくり。それは,発達心理学は能力や機能という断面で人間を捉え,臨床心理学は各学派固有の理論で抽象的に発達を論じてきたからだという(p.5)。なるほど,発達臨床心理学という分野は,これからの分野なのだな。そういう,この分野のこれまでと,これからの視点である関係性について知ることができる本であった。

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■『〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ−関係発達の視点から−』(鯨岡峻 2002 NHKブックス ISBN: 4140019387 \1,160)
2002/07/28(日)
〜関係の中での,関係としての発達〜

 筆者がこれまでに3冊の本(『両義性の発達心理学』『関係発達論の構築』『関係発達論の展開』)に書いてきたことを整理して,「関係発達心理学の全体像をスケッチ」(p.303)した本。内容的には今ひとつと思ったが,今月はなんとなく,関係論月間になってしまっているようでもあるし,取り上げてみることにした。筆者のいう関係発達心理学とは,次のようなことを目的としているらしい。

一人の人間の生涯過程に現れる変化の意味を,あい前後する三世代の<育てる−育てられる>という関係の時系列的変化のなかに位置づけて捉えなおす(p.114)。

 つまり発達を,個人の単線的な変化や向上と捉えるのではなく,上の世代に育てられ,下の世代を育てるという3本の線が同時進行しながら,<育てる>ことがリサイクルされていく過程と考えるのである。したがって,生涯発達は誕生時から始まるのではなく,妊娠期から始まると考えるのである。

 関係発達でいう「関係」には,2つの意味があるらしい。一つは,「一人の子どもの心的な成長が,周囲の人たち,とりわけ<育てる者>たちとの対人関係のなかで繰り広げられる」(p.106)という「関係のなかでの発達」という意味である。もう一つは,「時間的にあい前後する<育てられる者>と<育てる者>の二世代の生涯過程が「育てる−育てられる」という関係の中で同時進行しながら変容していく」(p.106)という「関係としての発達」である。関係の中で,関係が発達・変容していくということか。そして,このような目的を実現するために,「一般的,不変的なものを目指す前に,個別具体的なものを重視し,実践の場を重視し,発達臨床的な問題を重視する」(p.114)というアプローチをとるのだという。

 しかし本書では,そのような「個別具体的」な「実践」が重視されているわけではなく,「一般的,不変的」な発達の様相が描かれているだけのように思えた。「何歳ごろになるとこういう行動をとるようになってくる。それはこういう意味がある。それに対して養育者はこう対処しがちだが,このように対処するのが望ましい」という記述が多く,事例の話はあまりないのである。「全体像をスケッチ」している本だからしょうがないのだろうか。しかしそれでは,一般的,伝統的な母子発達の記述,あるいは育児書の記述と大差ないようにしか思えなかった。もっと個別具体的な実践や臨床の話が聞きたいものである。

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■価値観の内面化/思い出す4歳児
2002/07/26(金)

 4歳児は,親の価値観を内面化する。それは,なかなかに想像以上だった。

 先日,部屋着をベッドのところにくしゃくしゃっと放り投げたら,すぐさま上の娘(4歳1ヶ月)に見とがめられ,「きちんとたたまないといけないんだよ」と諭された。当然のことのように。

 上の娘の整理好きは,1年以上前から発揮されていたのだが,ついに,私に注意するまでになった。それはもちろん,日中行動をともにすることの多い妻から学んだものだろう。

 妻がこの調子で,下の娘まで仕込んでくれれば,数年後には,私以外に片付け魔が3人,というステキな環境が現れるに違いない。その日が楽しみである。

 #とはいえ,上の娘も,「パパになる」モードのときは,私と一緒に,脱いだものをベッドに放り投げたり,床に脱ぎっぱなしにしたりする。←いつもそうしているわけではないです念のため

 最近上の娘は,よく思い出す。いろんなことを。

 たとえば,昨日も,夜突然,「じいじが前に足を怪我したよね」と言い出した。車で外を走っていても,「ここ,まーちゃん(仮名)が赤ちゃんのときに来たよね」とか,「まえにこんなことしたよね」とか。ともかくいろんなことを思い出すのである

 その他にも,夜突然,「今日は木曜日」などと言い出す。「なんで知ってるの?」と聞くと,「今朝パパが言ってたサー」なんて言われる。私のほうはおぼえてはいないのだが。そういえば上の娘は最近,曜日に興味があるみたいで,しょっちゅう「今日は何曜日?」と聞かれるので,言ったのかもしれない。それにしても,それを夜までちゃんと覚えているのがすごい。

 こういうのが,最近やたら耳につくようになってきた。どういうことなのかは分からないが,なんか,新しい世界に入りつつあるという感じだ。

 #毎週金曜日は,保育園でプールがあって,娘はとても楽しみにしている。そのせいか,今朝,「パパのお仕事は,何曜日がプールなの?」と聞かれてしまった。ステキ。

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■『考える営みの再生−ラディカルに哲学する1−』(佐藤和夫(編) 1994 大月書店 ISBN:4272401912 \2,718)
2002/07/24(水)
〜多様性を生かして連考する〜

 みんなで知恵をだしあって考え抜くというのは,実は意外と楽しいことではないか(p.13)というコンセプトのもとに編まれたと思われる本。6人が分担執筆しているので,必ずしもそのような「考える営みの再生」と直接関係している論考ばかりではないように思われた。それでも,なんとなく全体として,「考えること」と「豊かさ」というキーワードが追求されているように思えた。

 たとえば,汐見氏は,沖縄を通して,次のように論じている。

ぼくの理解できない言語と,それがつくりだし,また逆にことばがそこからつむぎだされている独自の文化が,ぼくがたまたま生まれたこの国の中にあるということが,なぜかとてもぼくの心を豊かにしてくれたように思うのです。
 この考え方を発展させていくと,多様性がある,ちがいがある,しかも,そのちがいのそれぞれに歴史と独自な文化性がある−−そうした環境があるということが「豊かさ」の一つの条件になるという視点にゆきつきます。
(p.229)

 そして,直接「豊かさ」という言葉は使われていないのだが,このように,多様性を生かすことが,表題にあるように「考える営み」を「再生」する道なのだ,ということを,2人の論者が論じているのである。

 一人は編者である佐藤氏で,彼は,共同制作としての「連歌」に注目している。哲学における従来的な「考える営み」とは,男性的=公的(私的なものの無視)=論理的=個人的(首尾一貫性を重視するために「対話的」にならない)=競争的=支配的=強制的=独裁的なものである。それに対して連歌は,一定のレールのうえに乗ることを強制することなく,双方が自分のよさを生かそうとしながら共通の土俵に乗って協力し合おうとする(p.61)ものである。そして筆者は,これをもじって,思考も「連考」(連歌的思考)となることを主張している。それは次のようなものである。

連考は互いの論点を尊重していき,いつも共同で考える場をつくろうとしますが,誰の説がもっとも優秀でもっとも首尾一貫しているかというたて方をしません。ある人の経験と個性のもち味がどこに行かされているかを重視するのです。一つの共通の現実がどのように多様に一人ひとりの個性を生かして経験され表現されうるかをめぐっておこなわれる集団の試みなのです。(p.64)
ここから逆に言うならば,地域の多様性や独自性を重視しようとする汐見氏の論考は,国レベルでこの「連歌的思考」をしようという提案だととることができる。

 もうひとりの論者は,中山氏である。彼女は,非常に男性的・狩猟的会話が重視されるテレビ界にいた経験から,「男の会議」と「女の会議」の違いについて述べている。一般に「女は非論理的」(p.90)と言われたりするが,中山氏はテレビにでるのをやめてから,女性の会議には男の会議にない心地よさがあることに気づく。

女の会議は徹底的に気楽でした。ヘマを恐れなくてもいい,論理的でなくてもいい,知識がなくてもいい,だから誰でも口出しできる。(中略)まとめていえば,女の会議には,会話能力においての差別がなく,いわゆる政治的な手順や警視気がなく,平等と自由がありました。そして,たしかに能率はよくないけれど,結局,いつのまにか話はある方向にまとまって,誰が決定したということもなく,しかし何かが決まるのです。(p.90)
実に「連考的」である。さらに彼女は,ここから一歩進むと,「それまで無条件にプラス価値だと思っていた「論理的であること」にも疑問がでてくる」(p.91)とも述べている。

 基本的には私も,このような考えには賛成である。論理よりも対話,モノローグよりもダイアローグというところであろうか。それをいかにうまく実現するかは,けっこう難しい問題であるような気はするのだけれど。まあ一つには,唯一の結論を出すためにではなく,多様性を生かすために,生かす方向で議論を行う,ということだろうか。

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■言葉のバリエーションを楽しむ1歳児
2002/07/21(日)

 下の娘(1歳10ヵ月)が牛乳好きで,「ニュウニュウアイ」(牛乳ちょうだい)と言って牛乳を要求することは,以前書いた。

 その言葉に最近,緩急のバリエーションがついている。あるときは,「ニュ・ニュ・ア・イ,ニュ・ニュ・ア・イ」と1拍ごとに区切って言う。またあるときは,「ニューーニューーアーーイーー」と,やたら伸ばして言ったりするのである。見るからに,ただ言うだけではなく「遊び」の要素を含ませているようである。

 以前もバリエーションがないわけではなかった。「ニュウニュウアイ」が短く「ニュアイ」になったり,切羽詰って泣きながら言ったり。これらはいずれも,必要がないので省略したり,必要に迫られて口調が変わったりしている。『意味から言葉へ』で言う,「強制的な反応」の部分と言える。

 それに対して最近のバリエーションは,自分で選択的に選んだ「選択性」の現れであるように思われる。必要があるわけではないのだが,自分なりに言い方を変えて楽しんでいるというか。まあ一言で言うと,「また一歩人間に近づいた」ということなのだが。

 #なお季刊「発達」によると,『意味から言葉へ』の続編にあたる浜田氏の連載は,2001年秋に終わったもよう。となると,書籍化はこれから(もうすぐ)か。

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■『保育者の地平−私的体験から普遍に向けて−』(津守真 1997 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623027422 \2,800)
2002/07/20(土)
〜「表現」としての行動〜

 「しからない・ほめない・はげまさない」学校(こちら参照),愛育養護学校の校長である津守氏が,保育の中で取り組み,考え,発見した(p.ii)ことを書いた本。津守氏は,子どもとかかわるとき,「出会う」「交わる(表現と理解)」「現在を形成する」「省察する」ことを心に留めているという。ここに,津守氏の基本姿勢がすべて現れているようである。それはこういうことである。

出会うのは,偶然の機会を尊重し,相手の側に立とうとすることである。出会った後,相手の行動を表現としてみて,自分の理解に従って応答する。どのように理解するかは保育者に問われている。その現在を充実させることによって次が展開する。その体験を思い返して省察するところまでの全体が保育である。(p.4)

 この中で,特に重要と思われるのが,相手の行動を(内なる世界の)表現としてみる,ということである。たとえば次のようなものである。

(ある子どもが)ある時期には,食物を半分食べて残りの半分を床に投げ捨てることがつづいた。私はどうしたらよいか悩んだが,あるとき,これはこの子が何かを私に訴えているのだろうと気がついた。大好きなお菓子も半分食べて,あと半分をだめにしてしまうというのは,自分がはじめたことを最後までやりとげられないでいる体験を行動によって表現しているのではないかと考えた。そう考えたとき,何事であれ,この子が自分で納得して終結させるまで,この子の活動を守ってあげようと思い,実際そのように努めた。そのときから,食物を投げ捨てる行動は劇的に変化した。(p.251)

 これは「劇的に変化した」例であるが,いつもいつもこうすぐにうまく行くわけではあるまい。それに,その理解はあくまでも津守氏の解釈であり,妥当かどうか確かめられているわけではない。そのような解釈の妥当性については,津守氏はエリクソンの,相手がさらに生きつづける希望をもってその場を立ち去るかどうかが,解釈の妥当性の決め手になる(p.178)という言葉を引用している。他の箇所では,毎日子どもにふれることができるときは妥当性が増す(p.96)とか,解釈がずれているときには,子どもはさらに別の表現を向けてくる(p.180)などと述べている。

 そしてこのような関わりを通して,津守氏が目指すのは「成長」である。

成長とは,大人に具合いがいいように変化することをいうのではない。その子自身が,自分から何かをするようになり,自分で遊べるようになり,自分の人生を自分らしく形成するようになることである。(p.165)

 別のところで津守氏はこのように「自分らしくなる」ことを,「自己実現」と呼んでいる。保育にしても訓練にしても,子ども対象として見て,大人から見て望ましい方向に向かわせるのではなく,その子どもの固有の生命的な動きを引き出すように,子ども自身が意味を理解し意欲をもって取り組まなければ,意味がないのである(p.204)。日々の保育の中で,津守氏の子どもとの関わり方や理解のしかたを知り,それを通して津守氏が目指しているものを知る上で,興味深い本であった。

 津守氏の本の話を妻にしたところ,就寝前,1歳の娘が泣きわめくのをひっつかまえて歯磨きさせていた妻は,「こういうとき,津守さんならどうするのかしら」と言った。なるほど,食べ物なら食べたくなるまで付き合うこともできるだろうが,歯磨きは,ある意味,大人の都合でやっていることである。あるいは,将来問題が起きなくなるための予防というか。しばらくの間は磨かなくても,表面的にはなんの不都合もない。子どもの歯磨きには,私も相当苦労させられているし。ホント,こういうときはどうするんだろう。

 そう思ったので,このことを念頭におきながら,自分がサイドラインをひいたところを中心に,パラパラと眺めなおしてみた。そこで見つかった,ヒントになりそうな文言が以下のものである。

  • まだ起こっていない何かを予想して自己防衛しているときには,人はいまを十分に生きていない。(p.81)
  • N夫はさらに一年前,幼稚部のとき,校長室のソファで毎日のように私のひざの上に寝て何もしないで過ごす時期があった。私はなんとかこの子の味方になればと思って一緒に時を過ごした。そうしている間にこちらも心を決めてゆったりとした気分になると,そろそろとその子は自分で動きはじめるのだった。(p.140)
  • 家で冷蔵庫からジュースを出して飲むので,うすめると怒り,それをめぐる母と子の間の戦いでへとへとだと母親は訴える。(中略)こういうときも,その一つひとつのかかわりの質を良くすることを考えてつきあうよりほかないだろう。(p.215)

 ほかにもいくつかあったが,とりあえずこれくらいで。もう基本的には,行動の意味を考えながら付き合う,ゆったり待つ,ということのようだ。実際的なことをいうならば,そういうことがしやすいように,早い時間から歯磨きに取り組みはじめるとか。もちろん,子どもが磨かないからといってあせってはいけない。ゆったり待たねばならないのである。傍からいうのは簡単ではあるが,一応そう妻に伝えておこう。

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■仮説実験授業のレポート
2002/07/17(水)

 昨年に引き続き,仮説実験授業をやった。やったのは昨年と同じ「自由電子が見えたなら」の一部。「心の実験室」という体験型の授業で,「授業内授業」として行った。「仮説実験授業」の部分は,純粋に考えたり楽しんだりしてもらった。「心の実験室」としては,それを通して,自分の考えがどのように変化した/しなかったか,この授業はわかりやすかったか,おもしろかったか,それはなぜか,などについて,レポートで考察してもらう,という形をとった。

 受講生のレポートも出たので,学生の感想をもとに,私がやった仮説実験授業を振り返ってみたい(なお私は,本当の仮説実験授業は,受けたことも見たこともない)。

 まず数値的なことを言うと,全15問で,正答率は72%だった。最初と真ん中と最後の正答率が低く,それ以外が高い。最初にガツンとやって,慣れ−ガツン−慣れ−ガツンというスタイルで,認識の変容と定着を図っていることがわかる。さすがにうまく組み立てられている。

 レポートをみると,板倉氏の意図が,ダイレクトに受講生に伝わっているとことを感じた。たとえば次のようなものがある。

  • 予想があたったときは嬉しいし,外れたときは,なぜかと原因を考えて学べるし,とてもわかりやすい授業だと思った。
  • 最近,自ら予想を立てて行動することがあまりなかったので,久々に「考えた」という気がした。
  • 予想したことを目の前で実際に確かめてみるので印象に残るし,その後の説明にも納得がいく。途中の電子の話がヒントになって,自分で考えて判断するし,それが知識となって頭の中が整理されていく
  • 自分がなぜ間違ったのかを発見することができるので,とてもいい教え方だと思った。
  • 電流は自由電子の流れだと知ってはいたが,より具体的なイメージをすることができるようになった。私の場合は考え方が変わったわけではないが,自分の考えが強固になった。

 まあ,受講生の9割以上が「分かりやすいし,楽しい」と言っていたので,授業としては大成功だろう。中には「すべての授業が仮説実験授業であればいいのにと思うほど,わかりやすく,楽しかった」と書いている学生もいた。私は授業書どおりに実験をして解説を読んだだけなので,その功績は,すべて発案者(板倉氏)にある。

 ただし,単純にいいところばかりではないと思わせるような意見もあった。ある学生は,最後の問題で不正解だったこととその理由を省察して,「一見,考え方は変わっていたようにみえるが,心の奥底までは変わっていなかったのだと思う」と述べている。また,「鉛筆の問題は正解したが,理由は違っていた」と述べている学生もいる。さらには,「てーげー(いいかげん)でいいので,あまり深く考えないで良いので楽」という学生もいたりして。最後の意見は,ちょっと気になるところではある。

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■『意味から言葉へ−物語の生まれるまえに−』(浜田寿美男 1995 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623025802 \2,800)
2002/07/16(火)
〜反射・情動・三項関係で編む意味の世界〜

 『発達心理学再考のための序説』で提示された,「人は意味で編まれた物語を生きる」というテーゼに肉付けをした本。たとえば,赤ちゃんは反射(本能)や条件反射という「機械的な」反応によって外界に適応している,と一般には考えられている。しかし,筆者はこれを次のように捉える。

反射は生来的に埋め込まれた,周囲の物事への意味づけであり,条件づけはその主体にとってのあらたな意味づけの広がりであり,意味世界の新しい整序のしかた(p.22)
こう考えると,単純な反射にしても,赤ちゃんの側から見ると,赤ちゃん自身による周囲世界の意味づけの過程(p.60)ということができるのである。本書はそのような意味の世界から,言葉が生まれる前後のところまでを,関係論的に論じた本である。

 この筆者の本は何冊か読んでいるが,やはり面白かった。本書は,上記のように「反射」を意味の世界に位置づけていることに加えて,「情動」に関する考察が興味深かった。それは最近,『感情の科学』を読んだせいもあるのだが,本書の場合は「科学」(=すべてを客体として扱う)とは違う視点なのが面白い。筆者は情動を,次のように位置づけている。

人は自分の力ではどうしようもない場面におかれたとき,自分自身に作用を及ぼして,外に向かって見せる自らの姿形を変えるのです。身をよじり,顔を歪め,息を詰まらせて声をあげる。そのことで外の物が動き出すわけではありません。しかし,この自己作用系の働きは周囲の人を動かさずにはおきません。(p.73)
つまり筆者は情動の,表出的側面を重視して位置づけているのである。主にダーウィン説(+ジェームズ説)的視点というところだろうか。そして,この情動が,表出され,相手に伝染することにより,場面理解の相互伝達(相互理解)が行なわれるのである(p.94)。『自閉症の関係障害臨床』でいう「情動調律」であろう。そしてこれが,「同型性」の基礎となるのである。

 反射と情動(表出)を通して「意味で編まれた物語を生きる」ことを全体としてまとめると,次のようになる。あらかじめ図式的に書くと,「ものの世界の意味理解(反射)+ひとの世界の意味理解([情動=同型性]+[三項関係=相補性])」ということになるかと思う。

人は生まれたときから,その身体そのもののなかに周囲のものや人の世界と取り結ぶべき一定の関係を予定しています。第一は反射や本能にはじまる<ものの世界>との予定性,第二は姿勢・情動の働きに見られる<人の世界>との同型的な予定性,そして第三は他者との間で活動をやりとりし,そのやりとりの過程のなかにものを持ち込み,三項関係的に共有の意味世界を作り上げるという予定性。最後のそれは,<人の世界>との相補的な予定性と言うことができます。人はそのようにして,自己身体の働きに沿って周囲世界を意味づけ,組み立て,また周囲の人々と共有の意味世界を作り出していくべく予定されているのです。(p.157)

 そして,この「共有の意味世界」を<地>として,その上に言葉を<図>として浮かび上がらせる,というのが,筆者の考える「意味から言葉へ」という図式である。本書で語られているのは,そこまでである。われわれ人間には,反射がもつような「強制的な反応」の部分ももっているが,言葉のように「環境に対して選択的に選んで行動」している部分がある。おそらくそのような「選択性」が次著で語られているに違いない。さっそく注文しなければ。って,どの本が続編なのかわからないのだけれど。

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