31日短評4冊 30日『バカの壁』 25日『問題解決学習のストラテジー』20日『教育への告発』 | |
| 29日病院に行った 23日議論 18日帰省 |
顎関節症で,再び病院に行った。今日は専門外来の日なので。
そこで口が開いた。あけ方は「力技」だけど。専門家らしき先生が,ちょっと触ってみたらり,レントゲンを見たりした後,こじ開けた(!)のだ。開くときは,右顎が「ミシミシッ」と音を立てた。比ゆではなく,確かに聞こえた。そして開いたのだ。思わず身体に力が入ってしまった。まだまだ硬いが,多少動きがスムーズになったので,今は自分で「力技」して開けている。痛くても動かすことがリハビリになるのだそうだ。そういえば骨折して入院しているうちの母も,医者や理学療法士に同じことを言われていた。
開いたときはとてもうれしかったが,困ったことに気づいた。食べ物を咀嚼すると,右顎の関節部分がとても痛く,かみ締めることができないのだ。さび付いたちょうつがいを無理に動かしている感じである。おかげでちょっとでも硬いものは食べられない。これでは,口が開く前よりも悪い。しょうがないけど。消炎鎮痛薬をもらったので,これが効いてくれるのを待つしかないか。
それはさておき,今月面白かった本は...うーん,難しい。時間を置いてもう一度読んだほうがよさそうな本はとしては,『問題解決学習のストラテジー』だろうか。しいてこの中でいうなら,だけど。
数年前、現職教員対象の授業(教育心理学)で「スキーマ」の話をした。そのとき、ある受講生が「スキーマはバカの壁と同じですか?」と聞かれた。そのとき私はこの本を読んでいなかったので、答えようがなかったのだが、その受講生にバカの壁とは何かを説明してもらった限り、同じような感じがした。ようやくこの本に、BOOK OFFの100円コーナーで出会ったので買って読んでみた。
で結論から言うと、「バカの壁とは、一般的な意味で言うならばスキーマと同じようなものだけれど、しかし、本書で筆者が述べているものは違う」ということになるかと思う。前者はどういうことかというと、筆者が「まえがき」で述べているように、「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない」(p.4)。これを、「われわれが理解できるのは、スキーマ(既有知識)の中にうまく位置づくものだけである」、と理解するならば、それはスキーマの説明とほぼ同じになるだろう。
本書冒頭における「バカの壁」の定義はこのようなものである。しかし本書の本編で筆者はその内容そのものを論じているのではないのである。述べられているのは、解剖学者として人間の身体や無意識に目が行くようになった筆者にとって、現代人の多くが理解していないと考えていることとしての「バカの壁」である。そのことは、たとえば次のような表現に現れている。
我々は脳化社会に暮らしていますが、そういう自覚が出来ていない。いつの間にか、身体を忘れ、無意識を忘れ、共同体を意識しないままに崩壊させてしまっている。今の状態が昔から普遍で当たり前のように思っている。/オウム問題、外務省を始めとした役所の問題、多くのことの根はここにあるのではないでしょうか。(p.121)
脳化社会については、『人間科学』などで筆者が論じているが、要するに人間の意識によるコントロールがすみずみまでいきわたった社会=都市社会のことである。つまり本書は、「バカの壁」一般について論じた本ではなく、筆者に見える現代人の持つバカの壁としての、「都市(=非自然)の壁」「脳(=非身体)の壁」「意識の壁」(無意識の軽視)について論じている本なのである。
ちなみに、私が興味を持っている「思考」は、筆者の言い方でいうならば「身体」ではなく「脳」に属することがらである。「考えること」について筆者は、「入力を自給自足して、脳内でグルグル回しをする」(p.80)とか、「これだけ巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要」(p.80)などと書いている。しかしこういう捉え方だけをしているのではないことは、他の箇所でわかる。他の箇所で筆者は、幼稚園児なみの思考を示した学生を指して、「実物から物を考える習慣がゼロ」(p.166)と評しているのである。となると筆者は、脳−身体の対比で言うならば、単なる「身体礼賛」をしたいのではなく、「身体に根ざさない思考」批判をしたいのだろうと思う(本書の存在自体、筆者の思考の産物だろうし)。重要なのは、身体や自然、無意識に根ざした思考を軽視しないことなのだろう。さらにいうならば、「自分の壁」を越えたものを持つ存在(=他人)も、自分の壁を自覚したり、自分の思考を意味あるものとする上で必要だろう。そう考えると、筆者の主張(自然、身体、無意識の重視)は、最近私が考えていることともとてもよく符合するものであると思う。
金曜日に顎関節症(開口障害)になって今日で4日。これは25年ぶりの長さである。ということで昨日,病院に行った。レントゲンをとってみてもらったが,はっきりした原因は見当たらないといわれた(もっとも,言っていたのは研修医ではないかと思う)。とりあえず,理学療法的なやり方をならったので,ひまがあるごとにやっている(指で上下の顎関節を押し開く)。
木曜日が顎関節症の専門外来の日なのでそこで専門の先生に診てもらう予定である。ここでなんとかなればいいのだが。場合によっては,ちょっと痛い治療をすることもある,なんて話もあるのだが。
主に小学校の社会科で、「基調提案−検討方式」というスタイルでの話し合い活動を含んだ問題解決学習を提唱している本である。そこで語られていることは、最近よく耳にするような「学び論」と似ている部分を持ちつつもよりストラテジックである。また、1時間の授業だけでなく、前後のつながり、単元レベル、あるいは学級経営全体とも関連させて論じられているところもストラテジックであり、なかなか興味深い本だった。
筆者は、「学習問題」は初期の段階で設定して固定するのではなく、学習の深まりとともに発展的に変容していくべきだと論じる。発展的に変容といってもだんだん移り変わっていく、というのではなく、最初に設定される「仮の学習課題」に基づいて調べ活動をするなかで、あるいは友達と意見を交換するなかで、ゆさぶりが生じ、「真の学習課題」が成立するという。この2段階の学習課題の考えは、アメリカのウィギンズ氏のいう「エントリー・ポイント」と「本質的な問い」に対応しているように思う。
1時間の授業に関して言うと、筆者は、1時間の中で、問題の成立から解決までを目指すよりも、1時間(の後半)で問題に決着をつけないでオープンエンドに終わることにより、1時間と1時間の間の時間に追及する(調べる、考える)時間をおき、次の時間(の前半)で解決を目指すサイクルを提唱している。これも、間の時間の追及に十分な必然性を持たせることができるのであれば、問題解決としては自然なあり方のように思った。
これとどう関係するのかは十分には理解していないのだが、最初に述べた「基調提案−検討方式」は、少し違う形をとる。あるテーマで各人が各様の調べ学習をしているとき、他の人とも絡みそうな内容を扱っている子を「基調提案者」として調べた内容を発表させる。それに対して他の子が、自分の調べた内容を元に基調提案に対して意見を述べていく、というのが基調提案−検討方式である。このやり方だと、全員が(あるいはグループが)同じ内容を調べるのではなく一人一人が自分の課題を持って追及できるし、しかしそれだけではなく、それらを関連させていくことができる、悪くない方法であるように思った。しかも筆者は、このような「基調提案」と「他の子による発展、検討」の方式を、朝の会でのスピーチでも行うことを薦めている。問題解決学習なら問題解決学習を、特定教科以外も含めて行うという点は、なるほどと思った。こういう形で子どもを育てるというやり方は、研究授業では見たことがない。附属などにおける研究も、最終的には特定教科に戻るにしても、ある部分は教科の枠を超えて進めていかれるべきなのではないだろうか、と本書を読んで思った。
という感じで、私にとっては興味深い本だった。ただし、ある章で提案されている方法と他の省で提案されている方法の関係が分かりにくい部分はあった。1冊の本に、さまざまなことを、十分な整理なしに詰め込んでいるからだろうと思う。それは逆に言えば、いろんな情報が含まれているお得な本ということでもあるのだが。
昨日は、高校時代の同級生と会ってラーメンを食べた。その後、喫茶店を3軒はしごして話をした。
途中、彼が、オレの頭がひっくり返るぐらいの話をしてくれ、と言ったので、彼の考えをネタに議論をした(そういうものを求めていたのかどうかはわからないが)。
普段はいつも、相手の様子や場を見ながら、遠慮しながら議論しているが、今回は遠慮なく思いっきりやった。おかげで、自分の議論のパターンというか得意技が見えた気がした。それは要するに、相手があるところでやった議論のパターンを、相手の別の議論に当てはめる、というものである。アナロジカル(類推的)に考えるというか。得意なパターンがあるということは、限界があるということでもある。それにしても、めったにできない経験なので、おもしろかった。相手も面白がってくれたようなので(疲れもしたようだけど)、よかったのかな。
浜田寿美夫氏が編者ということで、内容も知らずにマケプレで買った本。まあ浜田氏の文章でも読めればいいかと思って。しかし本書には、浜田氏をはじめ、編者の文章は誰一人として載せられていなかった。載せられていたのは、さまざまなところでさまざまな形で教育と関わり、さまざまな思いを持っているさまざまな人々で、31人の論考が載せられている。さまざまな思いの基本的な方向性は、タイトルにもあるように、これまでの教育を「告発」する、というものである。おそらく、教育の現状の問題を洗い出した上で、今後の教育について考えていこう、というシリーズなのだろうと思う。本書が第0巻と銘打たれているのは、これからの教育を考える上での出発点となる巻ということだろう。
教育に対する告発めいたものは、これまでもさまざまなところで目にするものであるため、本書を最初に読んだときは、さほど目新しいものは感じず、さらっと読んだ。しかし読み終わって全体を眺めてみると、教育について考えるために、実に目配りされた人選がなされているように感じた。本書に登場して教育を告発しているのは、定時制高校の先生、受験秀才であった在日コリアン、不登校児の親、自閉症児の親、訪問教育担当の先生、などである。これらの人はいずれも、一般の人がイメージする学校教育の中に入りにくい人たちと言えるだろうか。周辺から見ると中心が良く見える、ということが本書では狙われているように思う。
そのほかに本書では、宮大工や噺家の徒弟性的な学びについても触れられているし、文部省官僚(寺脇氏)が、教育とどのようにかかわってきたかなどという話もある。教育がさまざまな面から告発された上で、ここから読み取れる方向性というのは、子どもに寄り添い、子どもの納得を重視し、体験を重視した教育という感じがする。今後の教育を考える上での原点として、有用な本であると感じた。
本書を読んでいて、ちょっと面白いと思えることがあった。上に書いた「寄り添う」をはじめとするような教育を実現する上で必要なこととして、何人かの論者は、「情報公開」を挙げている。情報を元に説明責任を果たすことで、学校は信頼を回復できるというのだ。基本的にはそのとおりだろうと思う。しかし本書には、実はそれが思うほど簡単ではないことを示す論考も載せられている。冒頭に収録されている、定時制高校の先生の論考である。それによると、情報開示、内申書の開示が進んだ結果、中学の先生たちは、「余分なことを書いて後で追及されてはかなわんという難逃れ」(p.5)から、内申書には数字以外の記述はしなくなっているという。この問題は、開示側の問題だけではすまない、社会や制度の問題を含んだ問題のような気がする。情報開示は、方向性としては基本的に間違っていないとは思うのだが、それがうまく機能し、先生も生徒も学校も社会もハッピーになれるような形でそれが具体化される必要があるのだろう、と思った。
午後から帰省した。昨日までの疲れか、飛行機の中ではかなり寝てしまった。
私の実家は台風がいるところなので、ちゃんと着陸してくれるか、それとも近隣県の空港に降ろされるか、ちょっと心配だったが、無事に目的地に到着した。着陸前、機内のスクリーンでは機外の光景が映されるが、ずーっと雲だった。最後の最後に、滑走路に並んでいる色とりどりの明かりが見え、すぐに着陸した。揺れもあまりなくてよかった。
空港に迎えに来ていた妻が連れて行くままに、入院している母のところと、しばし一人暮らしの父のところに行った。なんだか、ふたりとも老けたという印象だった。
夜は妻の実家で、食事とお酒をいただき、無線LANにつないでネットをしている。仕事をたくさん持って帰ってしまったんだけど、どれだけできるだろうか...