読書と日々の記録2001.07上
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■読書記録: 12日『「わかる」ということの意味』 8日『この国の失敗の本質』 4日『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』
■日々記録: 13日仮説実験授業をやってみた 9日トロピカル・ビーチ 6日仮説実験授業に関する仮説 5日仮説実験授業の理解と疑問(1) 2日仮説実験授業に関する追記

 

■仮説実験授業をやってみた
2001/07/13(金)

 今日,授業のなかで「仮説実験授業」をやってみた。

 やったのは,「心の実験室」という共通教育科目。この授業は,週1コマの実験科目なので,半期で1単位しか出ないが,毎回楽しく実験ごっこができるせいか,受講希望者は多い。しかし,実験用機材の関係で,登録は50人を上限としており,毎年多くの希望者をお断りしている。

 この授業,全体のスケジュールは4月時点で決まっているのだが,今日の分だけ,なかなかいい実験がなく,「未定」になっていたのだ。なにか適当なことをしてお茶を濁すか,と思った矢先に,仮説実験授業についていろいろ考える機会7/27/57/6)ができたので,もうやるしかない,と思ったわけだ。一応,「実験を通して心理学を学ぶ」という趣旨の授業なので,最初に,「教育心理学とは」とか「教育心理学的に見てよい授業とは」みたいな前振りをしておいた。

 やったのは「自由電子が見えたなら」(電気を通すもの,通さないもの)という授業書『仮説実験授業研究掘檻化検参照)。要するに,一円玉だのアルミホイルだのが電気を通すかどうか,予想させて実験する授業で,「ピカピカした金属光沢のあるものはみんな電気を通す」という概念を学ばせることが目的だ(と思う)

 材料(豆電球,電池ボックス,リード線,ワニ口クリップ)を,ホームセンターに買いに行ったところ,100円ショップに,これらが組み合わさってできた「タッチライトミニ」なるものがあったので,それを使った(もちろんひゃくえん)。ふたを開けて線を一箇所はずし,新たなリード線をケースの外に伸ばしてワニ口クリップをつけたら出来上がりだ。たいしたことない作業だけど,久々にハンダゴテを握ったら,実験心理学講座出身の血が騒いだりして,なかなか楽しんでしまった。(^^ゞ

 授業は,うまくいったのかどうかはよくわからない。再来週提出のレポートを楽しみにすることにしよう。よくわからないというのは,一つは,私が慣れていないので,人数集計に手間取ったりして,学生の様子をじっくり見ることができなかったからだ。あと,討論(意見交換)も,最初に何人かに聞いてみたりしたのだが,みんな「何となく」としか言わないので,途中でやめてしまった。実験前は,「大学生なんだから,すぐに全問全員正解になってしまっておもしろくないのでは?」という危惧があった。しかし実際は,かならずどの問題でも間違える人がいて,ちょっとびっくりした(「サランラップは電気を通すか?」でさえも!)。おかげで,学生は最後までワクワクだったろうけど(最後まで「何となく」だったのかも)

 それにしても,授業を通して感じたのは,大学生の意見の変わりにくさ。この授業書では,途中で「金属光沢のあるものはみんな電気を通す」という解説が入るので,もうそのあとは間違えるヤツはおるまい,と思っていたのだがさにあらず。その解説の直後にある「アラザン(銀色の粒状の食材)は電気を通すか?」なんて,正解者1人(39人中)。それだけに,豆電球がつくと感嘆の声があがっていたけど。それにしても,直前に仮説を直接与えているにもかかわらず,それに,理系の学生もいるにも関わらず,これはいったいどうしたことか。ちなみに上記の本では,小学6年生の8割以上が,この問題に正解している。大学生だから,もうひとひねりあるはず,などと深読みしちゃったんだろうか。それとも,先生の話なんか,聞いちゃないのか? まあ,そんなことはないのだろうけれども,それでも,何だか話がうまく染み込んでいっていない感じはする。

 このことから推察するに,ほかの授業でも,私が「これぐらい言えばいくらなんでも全員が十分にわかるだろう」と思っているものが,案外通じていない可能性が大いにある。

 その点を知るためには,すべての授業の最初に,「仮説実験授業」をやるといいかもしれない。その学生たちの,ノリのよさ/悪さや,意見の変わりやすさ(=従順さ)/変わりにくさがわかるかも。なんて,ちょっと思ったりして。

 #メモ:アラザンは,小学校の実践報告のように,実験前に全員に配布するといいかも。それにしても今日は,熱があってつらかった。(^^;;

 

■『「わかる」ということの意味−学ぶ意欲の発見−』(佐伯胖 1983 岩波書店 ISBN: 4000043730 \1107)
2001/07/12(木)
〜わかりつづけていく人生〜

 この本,今は新版が出ているが,本棚にこれ(旧版)が転がっていたので,こちらを読んでみた。内容は,子どもは常にわかろうとしている(p.3)ということ「だけ」を訴えたいのだそうだ。全体的には,まあまあそれなりにおもしろかったのだが,やはりさすが佐伯先生,ところどころに,ハッとするような言葉がちりばめられている。それをいくつか拾ってみた。

こう考えてきますと,「わかっていない人」を「わかっている人」に変えるにはどうすればよいかについても,少しは示唆が得られるのではないでしょうか。つまり,世界を常に変形可能なものとしてとらえ,さまざまな自分なりの目標を仮想的に設定して,事態を変形し,新しい可能性をさぐり出すのです。(p.27)

 「こう考えてきますと」というのは,「わかっている人」というのは,当面の事態の中で,自分なりに新しい探究目標を設定してみて,それを達成するためにはどうしたらよいかと考えている(p.25)というあたりを受けているようだ。つまり,わかっている人は,与えられた問題でも与えられたそのままで考えているのではなく,自分なりに問題を設定しなおしている,と。本当に「わかる」ためにはそれが必要ということだ。そのためには,与えられたものは固定されているではなく,自分なりに変形可能であるというとらえ方も必要である。それに,一度わかったとしても,それも変形可能で,別の目標設定も可能だと考えるならば,この作業は永遠に続くことになる。それを本書では「わかり直し」と呼んでいるが,これが本書のキーワードの一つと見た。

「わかるということは大変なことなのだ」ということを,正直に認めましょう。そして,私たち自身,わかったふりをかなぐり棄てて,何度も何度も「わかり直し」を経験していくべきだと思います。当然と思っていることを疑ってみたり,あらためて「やっぱりそうか!」と感動してみたり。私たち自身の,そのような「わかり直し」の渦に,子どもを巻き込んでいくのが本当の教育なのではないでしょうか。(p.69)

 これこれ。これがその「わかり直し」のススメである。「何度も何度も「わかり直し」を経験していくべき」とは言ってもそれは,同じことを何度も振り返ってみよ,ということでは多分ないと思う。そうではなくて,おそらく,ある事柄をいろいろな状況のなかでいろいろな形で理解することによって,「上と横に向かって一貫性をひろげる」『「学び」の構造』ということなのだろうと思う。・・・と,書きながら『「学び」の構造』の読書記録を読み返していたら,ここにも「問い直しがキーワード」,と書いていた(ことを忘れていた(^^;;)

「活発な子」も,未だ「対象の世界」に向かって,活発に頭を働かせているとはかぎらないのです。単に思いつきやアゲ足トリに活発な場合もあります。(中略)そこで,対象の世界が予想と異なったり,自分がこうすればああなると思っても,なかなか思い通りにいかなかったり,思いがけない側面を発見したりすると言う経験が必要となるでしょう。そのような「思うようにいかない」経験を通して,人は対象の世界によって「自分が変えられる」実感をもち,相手が語りかけてくることに耳をかたむけます。このときは,自己が原因だというよりも,対象が原因となるのです。(p.116)

 心理学者ド・シャームが「自己原因性」こそが動機づけの根元,と主張したことに対する筆者の異論。自己原因性とは,自己統制感と同じだと考えていいだろう。自分がコントロールしているという実感である。しかしそれだけだと,「受け狙いの発言」みたいなものも誘発してしまう。そこで必要なのは,自己原因性に加えて,対象に動かされること(他者原因性)だという。これを筆者は「双原因性感覚」と呼んでいる。自分の外に原因があるとはいってもそれは,「相手にやらされる」ということではなく,意外で不思議な対象に対して,好奇心をもって追求したくなるような,対象からの語りかけに突き動かされる,ということなのだろう。

 ということは,(私なりに補足しつつ)以上をまとめると,世界を自分なりにさまざまに変形しながら眺めることによって対象からの語りかけを求め,それに対して新しい可能性をさぐることを通してわかり直す。それを繰り返すことによって,私たちは意欲をもってわかり続けていくことができる,という感じだろうか。

 

■トロピカル・ビーチ
2001/07/09(月)

 週末,ビーチに遊びに行ってきた。行ったのは,我が家から一番近い,トロピカルビーチ(宜野湾市営)というところ。昼間は暑いので,夕方5時から6時ぐらいまで海に浸かった。

 実はこのビーチ,水着を着て中にはいったのははじめてである。天気がよくて暑くないときに,弁当を食べたり浜辺で遊んだりしたことはあったのだが。泳ぐときは,もっと北の方のきれいなところに行っていた。が,今回は,娘(3歳&0歳)をちょっと海に浸けてみるのが目的だったので,近場に来てみたわけだ。

 上の娘は,浮き輪をしても,コワイコワイと言って親のそばを離れなかった。ので,私たちも,泳ぐのではなく,風呂のように浸かっていただけだ。まあ娘は,海で泳ぐのは2年ぶり2回目だし,プールも1年前に1回しか行ったことがないから,しょうがないか。下の娘は,まだ状況がよくわからないらしく,ヘラヘラしていた。

 それにしてもこのビーチ,あまりきれいではない。そんなに深くないのだが,水はにごっていて,底はおろか,自分の足も見えないくらいだ。遊泳範囲をぐるっと囲っているからだろうか。それでも,子どもから若者から黒人(米兵?)まで,たいへんなにぎわいだった。次はもっときれいなビーチで,バチャバチャ(スイスイ?)泳ぎたいなあ。

 #メモ:遊泳は午後7時まで。コインロッカー200円,シャワー100円。荷物は,私+上の娘,妻+下の娘に分けたほうがよさそう。沖縄ビーチ評価ページでは5つ星中2つ星。

 

■『この国の失敗の本質』(柳田邦男 1998/2000 講談社文庫 ISBN: 406264892X \700)
2001/07/08(日)
〜豊富な事例による失敗学の本〜

 薬害事件,阪神大震災,医療事故,もんじゅ事故,ミッドウェー海戦,官僚の汚職などを通して,わが国の失敗の本質について論じた本。とは言っても,一続きのものとして書かれたわけではなく,雑誌などに載せられた文章を寄せ集めたものであるので,全体として明確な統一的視点があるわけではない。とは言っても,それらに比較的共通する問題がないわけでもなく,それが最後に書き下ろしで論じられている。それは要するに,(1)合理的な討議よりも人的ネットワークが重視され,(2)学習が軽視され,(3)責任の所在が曖昧にされる組織であった,ということのようである(p.350-352)。

 (1)はたとえば,水俣病やさまざまな薬害事件で,現状に警鐘をならすような論文や情報があっても,行政からも学界からも無視される,という構図が何度も繰り返されている。そこで軽視されているのは合理的な討議であり,重視されているのは,関係者の保身など,人的ネットワークの保全である。薬害事件だけでも,サリドマイド,キノホルム,クロロキンなど,同じ構図が繰り返されている,というのは,まさに上記(2)の学習の軽視(不在)であろう。

 これらの問題に対処する処方箋として,筆者が挙げているのは,以下の4つである(p.323-324):

  1. 調査とは何かについて明確な理念と方法の裏づけをもった「失敗の調査システム」の確立。
  2. 「素人が前面に出るシステム」をあらゆる場面でつくること。
  3. 情報公開の原則を確立すること。
  4. 動乱の猛者よ輩出せよ。
1は要するに『失敗学のすすめ』と同じ主張である。たとえば第2次世界大戦中,日本(という括り方が適当かどうかはさておき)とは違い,アメリカは,特攻隊に体当たりを受けた戦艦と逃げ切れた戦艦の違いを分析し,対処法をはじきだしたという(これがオペレーションズ・リサーチの始まりらしい)。

 2に関してはたとえば,薬害エイズ事件で,部下の医師が非加熱血液製剤の投与中止を進言しても,「専門的なことを知らないくせに,何も言うなっ」(p.56)と上司に一喝されたようなことがあったらしい。あるいはもんじゅ事故で,動燃が事故直後の映像を隠したりしていたが,これも,「一般の人に生のデータを公表しても,どうせわからない」という判断もあったという(p.202)。素人であれ,他人のチェックが入るシステムは必要だし,素人がわからないというのであれば,上記3にあるように,情報を公開し,素人にもわかるように説明する責任がある,ということだろう。ちなみに,これと同じ「素人を取り込む必要性」は,『学校を問う』にもあった。4はちょっと分からないけど,まあ,今で言えば,小泉首相みたいなイメージだろうか。

 全体的にいうと本書は,失敗学の本としては,社会的な問題に関する失敗の事例が豊富で,その点で使い出がありそうである。

 

■仮説実験授業に関する仮説
2001/07/06(金)

 昨日の続きである(ただ,疑問にとどまらなくなったので,タイトルは変えている)。その前に,昨日書き落としたことを書いておく。山口さんは7月3日の日記に,「同じ本を読みながら,こんなに「読み取り方」が違うのはおもしろいことだ」と書かれている。その理由はもう,ひと言で言うと私の思い込みの強さゆえである。私には「討論のある授業」に対する強い憧れがあるのだ。だから,板倉氏の本のなかから,その憧れを強く刺激してくれるような記述に,必要以上に反応してしまい,逆にその反対のことが書かれている部分は,軽く読み飛ばしているようである。ま,結局は典型的な「誤った関連づけ」(相関の錯覚)ですね。それは板倉氏の本自体に,両様に読める多義図形的な部分があるからでもあるが。それにしても,読み取りのまずさ(偏り)は私自身の問題。

 それはさておき,昨日の続き。残っている疑問は,「実験」についてと「討論」についてだが,まずは討論から。とりあえず,『仮説実験のABC』のなかから,討論について触れている部分をいくつか抜き出してみると(強調は筆者自身):

  1. 教師の手前勝手な考えで発言させる以上,子どもが何をいってもよいという権利が保障されるべきです。(p.15)
  2. 「なんとなく」というのも,ちゃんとした理由です。(p.15)
  3. 討論するかしないかは子どもの主張に属することであって,先生が勝手に「討論すべきである」とか「討論すべきでない」とか考えるべきでない,というのが私の考えです。いいたい子どもがいいやすい雰囲気を作り,無理にいう必要のないような雰囲気を作ること
  4. 討論なんかしないで「じゃあ,割っちゃうぞ」といって,パカッと割って,「これはSだ」「Nだ」とやれば,時間は10分の1ぐらいですよね。10分の1ぐらいですむけど,おそらく記憶にあまり残らない。(p.37)
最後のものは,磁石を途中で割ったら,割ったところはSかNか,という問題。うーんやっぱり,討論するのがいいのかしないのがいいのか,わかりにくい。もちろん「それは先生が決めることではない」と言っているわけだが,その一方で,上記4のように,「討論しないと記憶に残らない」とも言っているわけで・・・。まあここはとりあえず,「討論するといいけど,しなくてもいい」ということだと受け取って,この問題はいったん置いておく。。

 最後の疑問は「実験と語り聞かせの関係」である。昨日引用した,定義(らしきもの)でみる限り,「実験のみによって科学的認識が成立する」と言っている一方で,「他人の成果を教えてもよい」と言っているわけで,両者の関係はわかりにくい。この点については,本のなかでも「今いった言葉となかば相反するようにも思えるんですが」(p.24)と著者自身述べているが,講演記録であるせいか,それについては,あまりつっこんで論じられてはいない。ただ,「何でも自分自身が直接対象に問いかけて認識していかなければならないとするとこれはたいへんです」(p.24)とのみ語られている。じゃあなぜ,「実験によってのみ」の「のみ」をはずさないのか,という疑問が生じてくる。その点を除けば結局,やりやすい範囲で実験すればよく,それ以外は全部語り聞かせちゃおう,ということであるように理解できる。つまり「実験」と「語り」は代替可能,ということである。実際,社会科など,実験できないものに関しては,すべて「語り」が実験の代わりになっている。でも,仮説「実験」授業,と看板を掲げているしなあ,実験はどういう位置づけなのかなあ,という点は疑問なわけである。ついでに言うと,「おしつけをきらう授業」(p.101)とか,「私は講義廃止論です」(p.39)という表現と「語り」の関係も気になる。

 しかしこの疑問,ひょんなことから氷解した(ような気がする)。それは,たまたま本棚に転がっていた,仮説社の雑誌『楽しい授業』の1998年2月号によってである。このなかには,社会科において「いろいろな世界地図」という仮説実験授業を行った報告が載っていた(松崎重広"実験"だからこそ感動的に!−"社会の科学における実験"を意識した<いろいろな世界地図>の授業−)。そこに,次のような文章が引用されていたのである。

ぼくの実験概念で言えば,理科でも社会でも同じなんです。〔中略〕
 理科の実験では物を持ってきて,「はい,やります」といって,「ワーッ,ナッタ!」といくでしょ。社会科でも,そういうセレモニーをやれば,すごく実験らしく盛り上がるんです。例えば,統計データをやおらカバンの中から出して「はい,これです」とやれば実験的になる。また,結果を書いた紙をパッと出してもいいでしょう。
(p.108)
これは,堀江晴美編,板倉聖宣「<日本の戦争の歴史>授業メモ」からの抜粋である。なるほど,これでわかった(ような気がする)。実験することの一番の意義は,セレモニーにあったということだ。実験とは,ある事柄を目の前で劇的に提示する方法だったのだ。だから,自然科学ならそれは実験になるが,そうじゃなくても,語り聞かせでも,社会科の資料の提示でも代替可能なのだ。実験にはそういう,「劇的に結果が目に見える」という部分だけではなく,「実験することによって、科学的発見の現場を再現し追体験する」という部分もあるはずであるが,これはそれほど重要ではないのだろう。たとえば社会科学でいえば,その作業は「統計データを自分で集め,分析すること」になってしまい,その作業は劇的なセレモニーではなくなってしまう。だから社会の仮説実験授業で必要なのは,そのような地道な作業を再現することではなく,ハデに資料を取り出してみせることなのだ(もちろん,時間的に余裕があり,かつ,その作業によって十分な効果が得られるのであれば,地道な作業もアリに違いない)。

 そうすると,全体も見えてきた気がする。まず,同一の原理原則(これが教えたいもの)で判断がつくような問題を複数集めてくる。子どもはそれらに対して「予想」を繰り返すなかで,その原理原則が「仮説」として心の中に生じてくる。これが理想。もちろんそんな子ばかりではないわけだが,しかし討論をすると,場合によっては子どもの口から,そのような原理原則が仮説の形で飛び出すことがあるかもしれない。そうすれば,自分で思いつかなかった子でも,その仮説を使ってみることができる。そして,使いながら,その有効性に気がつけば,それは心の中に定着していくだろう。それでも仮説に気づかないで間違いつづける子もいるだろうが,その場合でも,授業全体の途中あたりで,先生が仮説を「語り聞かせ」てあげ,それを使わないと正解できない問題がさらに続くので,結局はその仮説が,子どもの中に定着する,と。間違いつづけた子は,自分の仮説のまずさ(無効性)もたっぷり体験しているわけで,これなら「押しつけ」じゃなくても,先生の言葉を受け入れる可能性は高いに違いない。だから,基本的には「単なるクイズ形式の授業」でもいいわけだが,しかし、意外性のある,しかも同一の原理原則が必要な問題をたたみかけないといけない。そこに仮説実験授業とクイズの違いがあるような気がする。

 討論があってもなくてもいい理由も,この点から説明がつく。仮説が利用可能になるルートは,少なくとも3つあるからだ。子どもが自発的に予想のなかから生み出す場合,討論を通して他人から聞く場合,先生が言う場合,の3つである。だから,討論はあってもいいけど,無理にしなくてもいいんだな。他にもルートはあるわけだし。ということは,仮説実験授業においては,少なくともその授業内においては,「創造性の発揮」はあまり重要視されていないのではないだろうか。一つ目のルートを行く人は,創造性を発揮することもできる。でも,そうじゃない道もある。無理にそのルートを通ることはないし,創造性の発揮自体が授業の目的の中にあるわけでもない。

 とすると,仮説実験授業を「討論のある授業」と理解・期待していた,最初の私の考えは,まるで違っていたわけだ。その討論部分に重点を置いたのが,守屋先生の仮説検討型授業だ。それを通して守屋先生は,教え込まれた知識の定着よりも,「対話的・社会的な理解」を期待している。だからこれは,仮説実験授業と似て非なるもの,と考えた方がよさそうだ(そして,私が求めるものも,こちら方面にありそうだ)。実際,守屋先生は,実験(解答セレモニーと解説)のあと,1コマまるごとを使って,対話や討論(多分紙上で)を行おうとしている。それに対して仮説実験授業では,実験の後はじっくり考える時間や討論の時間が取られるわけではない。先生の解説が行われるか,次の問題に行っているようである。つまり,間違ったとしても,その間違いをじっくり考える時間はない。というか,考えることは,次々に問題をこなすなかでやるしかない(討論時間も含む)。だから仮説実験授業は,「考えることが主目的の授業」とは考えない方がよさそうだ。これは悪い意味で言っているのではない。そう考えた方が授業の性格がはっきりする,ということだ。それに,「考えない授業」と言っているわけでもない。あるルートを通る子にとっては,十分に考える授業にもなりうる。

 ただし,昨日も書いたように,これは,主に1つの授業記録と本1冊を読んで考えたことだ(ほかにも,『コックリさんを楽しむ本』も読んでいるし,それ以外の授業記録も,あと2つほどはみているのだが)。だから,ひとつの授業書や授業記録の特徴を過度に一般化している可能性も,大いにある。だから今後は,ここで考えたことを「仮説」として,さらに仮説実験授業について,考えていこうと思っている。

 #道田の授業記録はこちら

 

■仮説実験授業の理解と疑問(1)
2001/07/05(木)

 仮説実験授業について,また山口さん(7月3日)が書いてくださっていた。おかげで,仮説実験授業に対して理解が進んだとともに,私の疑問が明確になってきた。これは批判ではなく,あくまでも「疑問」である。今後,この疑問を念頭におきながら,仮説物の本を読んでいこうと思っている。

 まず,理解が明確になったのは,仮説実験授業の目的。山口さんが書かれているように,科学上の最も基本的な概念や原理・原則を教えるということを意図した授業(p.23)であることは,『仮説実験授業のABC』に明記されていた(以下,断りがなければこの本からの引用)。だから前回,私が,「教え込みの授業であることは表看板には書かれていない」と書いたのは,まったくの誤りということになる。しかし一方で,別の箇所には仮説実験授業は,なによりもおしつけをきらう授業です(p.101)ということも書いてあるわけで,そのあたりが私の誤解の原因になっている(私はこれを読んで,断定的な教え込みはすべて排されているのかと思っていた)。そのように,あいまいに思える点がいくつかあるので,それを以下に挙げていこう。

 なお,この本には上記引用部分が,仮説実験授業の「定義」と書かれているが,これは適切ではないと思う。というか,定義というには広すぎる。上のものは仮説実験授業の「意図」(目的)であって,それ以上のものではないと思う。仮説実験授業の定義は,その先に出てくる,次のものだと思う(強調は筆者自身)。

仮説実験授業は今申しました「科学上の最も基本的な概念や原理・原則を教えようとする授業」であり,それを教えるときの子どもたちの認識ということを考えたときには,「科学的な認識というものは実験によってのみ成立する」という考えをとり,しかもその科学的認識というのは,個々ばらばらの人が自分自身で確かめなければならないというふうに成立するものでなしに,社会的にお互い協力しながら,自分が研究しなくても,自分自身が確かめなくても安心して使えるような,そういう知識の体系として科学というものを教える−−こういう三つの,いわばスローガンみたいなものによって,仮説実験授業は成り立っているわけでございます。(p.24-25)
ここで「三つのスローガン」といわれているものが仮説実験授業に必要な要素であり,定義と考えていいと思う。ここで言う三つとは,「目的=原理原則の習得」「方法1=実験」「方法2=先人の考えや研究結果の語り聞かせ」ということだろう。

 さて,ここでいくつか疑問が出てくる。それは,「仮説とは何か? そしてその位置づけは?」「実験と語り聞かせの関係」「討論の位置づけ」あたりである。疑問は3つあるとも言えるが,しかしこれらはどれも「仮説実験授業における「教え込み」の位置づけ」について問うている,一つの質問のバリエーションとも言える。

 長くなりそうなので,今日はとりあえず,仮説についてだけ。「仮説」に関しては,『ABC』では次のような記述がある(強調は筆者自身)。

  1. 「仮説実験授業は<仮説>実験授業というのだから仮説を選ばせるのだろう」というふうに思う方がありますが,実は,そうではありません。予想を選ばせるのです。仮説というのは説です。(p.13)
  2. ある程度似た問題をいくつかやりますと「一般的にこうではなかったろうか」という仮説がはっきりしてきます。(p.18)
  3. ただ予想を立てさせて実験をするだけならば,あてものごっこになる恐れが多分にあります。ですから,私たちの授業はそのようなあてものごっこではないんだ,ということをいわんとして「仮説実験授業」とよんでいるのです。(p.27)
  4. 仮説実験授業では,絶対というぐらいに仮説を先生の方から子どもに与えるようなことはございません。仮説は子どもたちが考えることです。(p.32)
つまり,子どもたちが問題の答えを予想し,それを実験で確かめていく。これを繰り返すなかで,子どもたちの心の中に「仮説」ができ,予想が安定してくる,ということのようだ。しかしこれは,あくまでも理想というか,希望的観測でしかない。実際は,当てもの的な判断でも十分に通用する授業だからである。というのは,「予想の理由はなんでもいいし,仮説は先生の方からは与えない」のだから。

 しかし,自由電子の授業記録を見る限り,実際のところは少し違うようである。上記4とは違い,「仮説を与える」ということが行われている。自由電子の授業書は,3部に分かれており,全部で20の問題がある。第1部は,「一円玉は電気をよく通すか」からはじまって,「アラザンは電気をよく通すか」まで,9つの問題−実験がある。そして,問題9の前で,「これまでの実験をまとめると,(中略)コインなど,ふつう金物とよばれているものはみんな電気をよく通す」というまとめからはじまって,「金属とは,(石墨以外の)電気をよく通すもののことをいう」(『仮説実験授業研究掘檻化検p.158-159)と,先生がすべてをまとめ,さらに,第2部以降の問題を考える上で,十分に仮説となるような言葉を,生徒に直接与えているのである。こういうものは仮説とは言わないように思えるかもしれないが,上記1に「仮説とは説」とあるし,また,この説が,第2部以降の問題を考える上でのあからさまな指針になるので,結局これは,「仮説を与えている」と言っていいように思われる。

 ということはまとめると,少なくとも自由電子の授業書に限って言うならば,仮説実験授業とは,「いくつかの実験を通して,子どもたちが仮説を受け入れやすい状態にしたあと,(仮)説を与え,されにその正しさが確認できるような実験を行うことによって,その(仮)説が定着することを目指している」と言ってよさそうである。これならば,一見自由に見える授業をしつつも,結局は教師の強力なコントロールのもとに「原理・原則を教える」という目標が達成できる。直接教えているのだから,当然といえば当然だが。

 私は,これがいいとか悪いとか言いたいわけではない。ただ,上記4のような文章は,授業の実態と合っていないんじゃないのかなあ,と思う次第である。もっとも,そのような「仮説の教え込み」がどこかの時点で存在しなければ,それは単なる「当て物実験授業」に堕してしまうだろうけど。

 まあ,ここに書いたことは,あくまでも「自由電子」という一つの授業に基づくものである。他の授業では,もっと上記4が生きているものがあるかもしれない。今後は,仮説実験授業の記録を,そのような「仮説のでき方/与え方」に着目しながらみてみたいと思う。

 #続きはこちら

 

■『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』(灘本昌久 1999 径書房 ISBN: 4770501714 \2,400)
2001/07/04(水)
〜実感から考える差別語問題〜

 実は読み始める前,ちょっと気が重かった。要するに差別に関する本なわけだし,きっと重苦しい内容で,読むにつれて,自分が無意識に持っている差別意識なんかを指摘されたりして,重苦しい気分になったりするんだろうなぁ,という気持ちだ。

 しかし,ぜんぜんそんなことはなかった。それはおそらく,著者のスタンスが,「自分がその言葉を使った意図や日常的な実感こそが重要」というものだからであろう。著者は次のように言う。

私が思うに,実際に可能な作業は,まず自分のまわりをみわたして,その歌や言葉がどんな意味で使われているかを考えることだけだろう。それ以外は,外からやってくる知識でしかない。外からやってくるしかない「正しさ」は,自分の内部で確かめるすべがなく,権威のある個人や機関・団体にお伺いをたてるしかなくなる。ところが,そうして確定された判断は,人に伝えるときに自分の言葉ではなく,権威をふりかざしての押しつけになり,とかく鬼面人を威す類の誇張された話になりがちである。そんなやりかたが,差別の解消に有効かどうかはいうまでもないだろう。(p.120)
もう完璧に納得してしまった。このような言説に対しては,「差別されている人の痛みを感じることが大事だ」(p.189)的な反論がされることが多いが,それも筆者は否定する。それは,この種の「被差別者への配慮」も,今日にあっては,最後の一線で被差別者を特別あつかいにする,差別解消にとっての阻害物であるにすぎない(p.190)からである。この構図は,文化大革命における「正義の暴走」と同じであることが指摘される。それまで差別されていた労働者や農民を高貴なものとし,地主,富農などブルジョア的なものを(ほとんど言いがかりのような形で)批判し差別する,という,いわば逆差別の構図である。言いがかりとは,たとえば「片目を閉じたフクロウの絵」があると,それは「現実を直視したくないというブルジョア的表現」として槍玉にあげる,みたいなものである(あまり適当な例ではないかもしれないが。『ワイルド・スワン』などが参考になる)。確かにこれは,サンボ問題をはじめとする「差別語狩り」とよく似ている。

 本書では,このような筆者の主張のみを述べるのではなく,『ちびくろサンボ』の歴史,欧米や日本における反サンボ運動の論拠,『ちびくろサンボ』の現在,そして,先にあげた「被差別者の痛み論批判」と,ちびくろサンボの差別問題にまつわる問題を網羅したような内容になっている。しかも,ちびくろサンボだけではなく,映画「風と共に去りぬ」に対して起きた反差別運動,日本において差別語と考えられているもの(エスキモー,チュウレンボウ,馬鹿チョン)など,幅広く差別問題を考える手がかりを与えてくれる。けっこう長い本だったが,ちっとも読むのが苦にならなかった。

 なお最近,「昆虫や動植物につけられた差別表現を含む名前を見直す動き」があるようだこちら参照)。これなどは,本書の筆者なら,「そんなことを言っているあなたが差別をふりまいているんだ!」と説教するところだろうと思われる。

 

■仮説実験授業に関する追記
2001/07/02(月)

 先月末に『仮説実験授業研究掘檻化検を取り上げたときに,最後に健康作り日記の山口さんのWebページから引用をした。その件について,山口さんが6月29日の日記で言及されているので,それを受けて補足をしておく。

私自身は「子どもの学習を教師が強力にコントロールして教師が設定したゴールに子どもを到達させる授業」を,けっして「よくないものだ」と考えているわけではないのに,この道田さんの引用だけを読むとそのような印象を与えかねない

 「そのような印象を与えかねない」というのは,まったくその通りだと思う。失礼しました。誤解のないよう,この「教育課程・方法論1」という授業の概要を以下に転載しておく。「「仮説実験授業」「ソクラテスの対話法」「総合的な学習」といった方法を取り上げ、実際に体験したりビデオ(映像資料)でその実例を見たりしながら、「楽しい授業」を実現するために役立つ基礎知識を習得させたい」(シラバスより)。つまり山口さんにとっては,仮説実験授業も,基礎知識として習得させたい楽しい授業(あるいは,楽しい授業を実現するためのヒントがある授業)の一つ,ということだ。

 私が山口さんの,「仮説実験授業=教師中心主義の授業」という指摘を引用した意図は,次のようなものだ。仮説実験授業は,山口さんの指摘どおり「教師が設定したゴールに子どもを到達させる」(つまり一定の知識を教え込む)ための方法としては,非常に強力だ。しかもそれだけではなく,「楽しさ」も兼ね備えている。しかし,「楽しさ」はともかく,「教え込み」の授業であることは,表看板である,『仮説実験授業のABC』のような本には書かれていないと思う。

 この本には,「生徒の自由な討議と実験に任せることで創造性を発揮させる」という趣旨のことが書かれているが,実際は,討議と実験を通して,楽しく「伝統の受け継ぎ」(=知識の教え込み)」が行われている,と思う(あくまでも2つの授業記録を読んで思ったことだが)。だから私は,山口さんが仮説実験授業の(問題点ではなく)特徴,としてあげられた言葉を,問題点=理念と実際の食い違い,の指摘として使ったことになる(それは大いに誤解を生む可能せいのあることだったと思う)。

 なお,上記引用箇所に続いて,山口さんの日記には,次のような記述がある。

「批判的思考力」を一切身につけず,「たった一つのことを信じて狭い世界の中で生きて死んでいく」ほうが幸せな人間がいるかもしれない
これについても,何か書こうと思ったのだが,断片的な意見がいくつか出てくるのみで,うまくまとまりそうになかったので,今回は保留とする。同様の指摘は,学生の質問書にも出てくることがあり,これに対して,自分なりの意見をもちそれを上手に人に伝えることは,実はとても重要なことなのだが...

 #続きあり。

 


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