読書と日々の記録2001.10上
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■読書記録: 12日『「学び」から逃走する子どもたち』 8日『戦争を記憶する』 4日『発達心理学入門』
■日々記録: 13日子どもにみる親の遺伝子 10日入学試験で課題図書 7日公園でウォーキング 6日妻のいない昼下がり 2日第二の故郷,第一の故郷

 

■子どもにみる親の遺伝子
2001/10/13(土)

 子どもを見ていると,ときどき「遺伝」についてを考える。要するにどっちから受け継いだのか,ということなのだけれど。

 上の娘(3歳4ヶ月)のたれた目は私似。下の娘(1歳1ヶ月)の薄い眉毛は妻似。まあ外見に関してはわかりやすい。

 次は運動方面。上の娘の器用なところは,多分妻似。上の娘は1歳過ぎごろから,寝っころがった私の背中から飛び降りる遊びを始めて以来,いろんなところに登ったり飛び降りたりしているが,その動作は危なげがない。危険そうなときは実に慎重に,そうでないときは実に迅速に登ったり降りたり飛んだり跳ねたりしている。それに対して下の娘は,私に似たのか,実に不器用である。本当に何もないところで,とつぜんゴテッとこけて頭を打っては号泣している。そういうのって,1歳をすぎればさすがに減るかと思っていたが,相変わらずである。

 目にみえにくい点としては耳垢。上の娘は妻と同じでコナ状,下の娘は私と同じでアメ状なのである。私にとっては「アメ」が当たり前でずっとすごしてきたのだが,妻は初めて下の娘の耳垢を見たときびっくりして,どこか病気なのではないか,と思ったらしい。失礼な。まあ,自分がこれまで当たり前と思っていたものが当たり前でないことを目の当たりしたときの驚きは,わからないでもないが。

 もうひとつ。上の娘は,舌先を裏返すことができる(手など使わずに)。私はこれは,当たり前のこととして,物心ついた頃からできていた。しかしどうやら,妻も下の娘もできないようなのだ。え?こんなの,誰でも簡単にできるんじゃないの? 思わず私もそう思ってしまった。

 #もっとも下の娘は,ことばが通じるようになったらどうかわからない。でも上の娘は確か,1歳になる前からできていたような。

 ##こちらによると,「乾型は世界的にみて特殊(とくしゅ)で、寒冷適応をとげた北東アジア人に多くみられます」だそうだ。どうりで妻は暑がりなわけね。

 

■『「学び」から逃走する子どもたち』(佐藤学 2000 岩波ブックレット ISBN: 4000092243 \440)
2001/10/12(金)
〜勉強から学びへの転換を〜

 どうもこの筆者が書くものは,難解でいつも苦労するのだが,この本は60ページ強のブックレットで,非常に読みやすかった。しかし少ないページながらも,内容は非常に濃いものであったと思う。

 私なりにまとめると,次のようになる。現在喧伝される「子どもの危機」がイメージ先行で多くの子どもの実態を捉えていないこと,むしろ問題は「学び」からの逃走であること,現在の学力低下問題の実態は「学力の偏り」問題であること,それは東アジア型教育の終焉(転換)を意味すること。ここまでが前半の話である。

 東アジア型の教育とは,大量の知識を画一的効率的に伝達し,個人間の競争を組織して確実に習得させる教育(p.30)である。それは社会階層の流動性を高めて,一挙に国民の統合と産業化を推進(p.26)し,近代化を加速する推進力として働く。しかしこの教育システムは,産業と教育の急速な拡充と発展を前提として有効に機能するシステム(p.34)であり,それが終わった時に破綻する。というのは,今日のような高学歴社会では,たくさん勉強したからといってそれが報われる(=親や他人より高い学歴やいい職業が得られる)とは限らない。これが「東アジア型教育の終焉」である。

 そのとき学校は,高学歴・高職歴獲得装置ではなく,一部の「勝ち組」と多数の「負け組」を振り分ける装置(p.36)になる。昔のように努力が報われるわけではないので,学ぶ意味や意欲を見失い,「学びからの逃走」が起きる。その上,教師や学校も,努力に応じて約束された将来を与えてくれるわけでもないので,教師や学校の信頼も低下する。それが今日の諸問題を生み出している,と筆者は考えている(似たような話は『日本人のしつけは衰退したか』にもあった)

 そのような状況を背景に,盛んに教育改革が行われているわけだが,それにも筆者は異論をはさむ。というのは,現在行われている新自由主義を根底とする教育改革は,教育行政や学校の責任を極小化し,子どもや親や教師の「自己責任」を極大化する(p.44)という無責任なものでしかないからである。

 そこで必要だと筆者が考えているのは,個人主義的「勉強」ではなく,「学び」である。筆者の言う学びとは,以下のようなものである。

<出会いと対話>による「世界づくり」と「仲間づくり」と「自分づくり」の実践(p.60)
それは,座学ではなく活動的な学びであり,個人主義ではなく協同的な学びであり,知識や技能をたんに蓄積するのではなく表現し共有し吟味する反省的な学びである。これらは結局,「文化実践への参加としての学習」ということであろう。本書は,それが今の世の中で,どのような歴史的流れの中でどのように必要なものかが短いながらよくまとまっており,勉強になった。

 

■入学試験で課題図書
2001/10/10(水)

 読書記録に取り上げた本は,更新する前後にネット上で検索してみている。うまくいけば,類書を挙げている人がいたりして,次に何を読むかの指針になる場合があるからだ。

 たいていは出版社のページや書評のページ,著者のページやオンライン書店のページなどが上位で引っかかるのだが,先日挙げた本は,そのどちらでもなく,ある私立大学の入学試験のページが最初にヒットした。こんなケースははじめてである。なんのページかと思えば,「入学試験 課題図書一覧」とある。その付近のページをうろうろしてわかったことは,非一般入試(公募制推薦入試,AO入試,帰国子女,社会人,編入)で,課題図書(複数から選ぶ場合もある)を読んで,小論文を書いたり面接で聞かれたりしたりしているようである。こういう入試形態がいつごろからあるのかはわからないが,私は今回はじめて知った(ような気がする)。

 各学部学科でしている本は全部で12冊ある。私が読んだことがある本も何冊かあった。それらに限っていうならば,どれも非常に興味深く,強いインパクトを受けたものばかりである。一般の小論文のように,ある文章のごく一部だけを切り取って読ませるのではなく,あらかじめ本一冊読ませるというのは,なかなかおもしろい。もちろん受験生は,あらかじめいろいろな人の知恵を借りることも可能だろうが,面接をうまく利用すれば,付け焼刃でないその子なりの考えを引き出すことも可能かもしれない。

 それに,このようなインパクトのある本を一冊丸ごと読み,自分なりに(あるいは他人を巻き込みながら)その内容について一生懸命考えるという経験は,したことが学生が多いのではないかと思う。高校の授業や課題でもそんなことやらないだろうし。入試の一環とはいえ,この経験から,何かしら得るものがある受験生は少なくないに違いない。そういう意味では,きわめて「教育的」な入学試験であると思った。

 #と思ったら,「入試 課題図書」で検索すると,けっこうヒットするな。流行りなのか?

 

■『戦争を記憶する−広島・ホロコーストと現在−』(藤原帰一 2001 講談社現代新書 ISBN: 4061495402 \660)
2001/10/08(月)
〜自伝的記憶としての戦争〜

 いくつかの国(主に日本とアメリカ)にとって戦争が,どう覚えられ,意味づけられたのか(p.197)を考えることをねらいとした本。心理学における記憶研究の例を引くまでもなく,同じ事柄に対する記憶は,人によって状況によって,大きく変わる。特に戦争体験は,勝ったとか負けたとかダメージを受けたとか,受けたインパクトが国によってまるで異なる。それゆえ,戦争の「記憶」自身が,あるいは戦争とは何かという「戦争観」が,国によって異なる。その点を見事にえぐりだした本だと思う。

 たとえば日本に原爆を投下したエノラ・ゲイは,アメリカ人にとっては戦争の終結(勝利)という終点であり,そこから導かれるものは,まちがった戦争を終わらせるためには立ち上がらなければならない,という「正戦」の考えである。それに対して日本人にとっては,第二次世界大戦における破壊の頂点であり,核時代の始まり(p.62)を意味するものであり,そこから導かれるものは,全ての戦争が悪であるという「反戦」(平和主義)の考えである。

 これは,どちらが正しいか,単純に白黒つけられる性質の問題ではない。その前の段階として,「どう覚えられ,意味づけられたのか」が本書では扱われているわけである。この点について,筆者は次のように述べている。

当事者の強い信念を相手にものを考えるときには,学者の議論を展開したり,また自分の信念を相手にぶつけたりするだけではなく,なぜそのように人々が考えるのか,その認識の根拠から検討する作業も必要になるだろう。(p.9)
ここで行われているのは,相対化ということであり,それぞれの記憶の「物語」としての理解ということができるだろう。

 そのような記憶は,過去の体験によって作られていくとともに,現在語り継がれている記憶が,過去の戦争の意味づけを決定する。さらに今日的な文脈でいうならば,そこから生まれてくる戦争観が,これから起こるかもしれない戦争行為の意味づけをも規定している,ということが言える。これは,各国の(あるいは各人の)戦争に対する捉え方や応対を考える上で,きわめて興味深い点だと思う。

 そして,そのような記憶の意味づけの過程で,アイデンティティを形成し,生きがいを取り戻し,自己愛の回復や癒し(p.100)を得る。そういう意味でこれは,「自伝的記憶」の研究といえる部分を含んでおり,興味深い。またそれと同時に私にとっては,自分の持っている戦争観の前提を相対化する上でも役立つ一冊であった。

 

■公園でウォーキング
2001/10/07(日)

 ここ数日,ちょっと体重が増加傾向にある。金,土と連続して外食をしたせいかもしれない。それで,今日はちょっと真剣に40分くらいウォーキングしたい,と妻に言うと,一緒に行きたいみたいなことを言われた。しかし3歳児と1歳児がいるので,一緒にウォーキングというわけにもいかない。それで,近くの運動公園(中城運動公園)に行った。

 家を出たのは10時すぎで,帰り着いたのは12時すぎ。公園にはちょうど,1周1.2kmのコースがあったので,私はそれを3周半した。妻子はその間,遊具で遊んだ。おかげで私も5000歩強歩けたし,妻子も久々に公園でじっくり遊ぶことができた。でもやっぱり,同じところをぐるぐる歩くのは,ちょっとだけつらい。次はMP3プレイヤーを持参しなければ。

 子供用に,小さな水筒にカルピスを持参し,大人は500mlのウーロン茶を買って飲んだ。でもまだ陽射しは強く,昼前にはけっこうのどが渇いた。次回は,飲み物ももう少しあったほうがいいな。

 こうなったら,週末ごとに,本島内運動公園めぐりしたりして。

 #これでまた娘たちは,たっぷり午睡するな。私たちもそうなりそうだけど。

 

■妻のいない昼下がり
2001/10/06(土)

 先週もそうだったのだが,今週も妻は,午後から仕事関係の用事で出かけている。

 3歳児と1歳児を抱えた我が家では,こういうときに幸せに過ごせるか,そうでもないかの大きな分かれ目がある。それは,娘たちが昼寝をしてくれるかどうか,ということである。昼寝をしてくれれば,ゆっくり本が読める。もちろん起きていても,ビデオなどを見せてほったらかすこともできる。でもずっとそうするのは忍びない。一緒に遊ぶと楽しいのは間違いないのだが,ちょっとは本も読みたいのである。

 これまでの経験から言うと,下の娘は割とすぐに寝てくれる。寝なければミルクをたっぷり飲ませて抱っこすればいい。問題は上の娘である。下手すると,午後ずっと元気で,夕飯時にパタッと寝てしまい,食事の時間も寝る時間も大幅にずれる,という最悪の結果を生むことがある。

 そこで私は,朝から戦略を立てた。まず,最近はいつも土曜日は,上の娘と一緒にゴミを出しに行くのだが,そのあとで公園に連れて行ってひとしきり遊ばせた。今日は,近くの小学校から,運動会らしき音が聞こえてきたので,一緒に見に行ったりした(単なる練習だけだったけど)。

 そんなこんなで午前が終わり,昼飯を食べ,妻がしたくをして出て行った。今度は私は,「ピンクレディしよっか」と言って,上の娘とパラパラを踊った。もちろん疲れさせる作戦である。今日は上の娘は,今ひとつノリは悪かったが,そうこうしているうちに,眠ってしまった。下の娘のほうが寝つきは悪く,私にまとわりついてきたが,それでも私が一生懸命寝たふりをしていると,眠ってしまった。

 二人とももう,2時間半以上は寝ている。おかげで読書は進むし,Web日記も書ける(笑)。

 #・・・なんてこと書いてたら,二人そろって起きちゃったのでこの辺で。

 

■『発達心理学入門』(岡本夏木・浜田寿美男 1995 岩波書店 ISBN: 4000039334 \1900)
2001/10/04(木)
〜文化実践への参加としての発達〜

 実はこの本,帰省のときに持って帰っていたのだが,はじめの20ページほどを読んだ印象では,あまりおもしろいとはいえない,平凡な(あるいはつかみどころのない)感じがしたので,読まずに放っていた。でも実はその印象とは違い,非常におもしろい本だった。

 内容はタイトル通り,発達心理学入門なのだが,普通の入門書とはまったく違っている。普通の入門書では,発達心理学の入り口的,土台的知識がやさしく網羅的に書かれている。しかし本書では,そういう「従来の知識の伝達」的な部分は少なく,筆者自身がおもしろい,と思っている研究トピックいくつかに絞られている。

 では残りの部分は何かというと,発達心理学と他分野や他の学問との関係であり,発達心理学の歴史であり,現在の発達心理学がよってたつ枠組みなど,発達心理学の枠組みや前提の批判的検討である。それが全体の4割も占めている。それはひとえに,筆者たちの次のような思いの反映なのである。

これから発達心理学を志す人びとに,やっていただきたい課題がいっぱいあるということ,そして,発達心理学ほどこれからの参加者に未来の希望を託している領域は少ないのだということを知ってほしかったからです。それを伝えるのが入門書としての第一の役目と考えます。(p.255)
確かに大学生の頃,概論書を読んで,「こんなになんでもわかってるなら,もう研究する余地はないんじゃないの?」と思ったことがあるのを思い出した。このような本を「入門」と銘打つのがいいかどうかは別にして,このようなタイプの本はもっと増える必要があると思う。

 では,本書の4割をも占める「批判的検討」の部分は,どういう観点からなされているのか。それは,現在の(発達)心理学が依拠している,生物学的,能力論的,個体論的(p.146)な人間観,心理学観に対する批判であり,限界の指摘である。それはまとめて言うと,S-O-R図式による人間理解(p.190),と言うことができる。

 それに対して,今後の(発達)心理学研究において重視し導入していくことが必要と筆者が考えているのが,文化・歴史的,行為論的,関係論的な人間観である。それはS-O-Rに対して「O-O図式」と筆者らは呼んでいる。つまり,すべてを個人の内面(能力)に還元するのではなく,主体と主体が能動的にやりとりする,その関係を検討しなければならない,ということである。これは『「学ぶ」ということの意味』に出てきた「関係論的視点」というものである(どちらもワロンの考えに影響を受けているので,視点が同じなのは当然かもしれないが)。ということは,そう,本書は,文化実践への参加としての学習論と大いにつながるものである。というか,その発達心理学版と呼んでも差し支えないような内容なのである。この点が,私がおもしろかった主な理由である。

 そのような人間観は,次のような言葉になって表れている。

  • よく考えてみれば,人は能力発達のために生きているのでも,障害克服のために生きているのでもありません。能力の有る無し,障害の有る無しにかかわらず,人は与えられた手持ちの力を用い,やむをえざる無力を引き受けて生きている。(p.164)
  • <力>を,その使われて持つ実質的意味で捉えるのではなく,<力>そのものの有無や多寡を制度的に評価することがあまりにも一般化した今日,生活能力でさえ,その意味を離れて<力>そのものとして取り出し,<力>そのものの訓練に躍起になったりする傾向が根強くあることを否定できません。(p.210)
ここに,障害とか訓練という言葉があるように,筆者は,障害児の教育にもこのような関係論的な観点から一家言を持っている。そういう意味では本書は,入門期の初学者よりは,従来的な発達心理学なり障害心理学にどっぷりつかっている人のための,再入門書と言えるのではないかと思う。

 

■第二の故郷,第一の故郷
2001/10/02(火)

 今月で,沖縄に来て10年になった。その前に住んでいた土地(県)には9年半いたので,いまや沖縄が第二の故郷である。

 この10年は,沖縄が全国的に認知されていった10年だったのではないかと思う。りんけんバンドやネーネーズなどのOkinawan Musicが全国展開してある程度の成功を収めたのが多分10年前ごろ。そのあと,安室奈美恵やMAXやSPEEDが出,米軍がらみの事件があり県民投票が行われ,沖縄尚学高校が甲子園で優勝し,サミットが行われ,そして「ちゅらさん」が作られた。

 私自身はこの10年の,前半を独身で,後半を結婚して過ごした。内地からつれてきた妻は,幸いにも沖縄を大変気に入っているようだ。暑いのと,魚や野菜の種類が内地と違うことを除けばね。

 うちの娘たち(3歳3ヶ月と1歳0ヶ月)にとっては,沖縄は100%第一の故郷である。上の娘はときどき,ウチナーグチ(沖縄言葉)らしきものを発している。保育園で覚えてくるらしい。もちろん覚えてくるのは,言葉だけではないはずだ。文化心理学者によれば,心そのものの性質が文化によって違うのだそうだ。この沖縄の地で生まれ育つ娘たちが,これからどのような心を形作っていくか,とても楽しみである。

 


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