読書と日々の記録2001.09下
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■読書記録: 30日短評8冊 28日『学び合う共同体』 24日『日本の教師文化』 20日『おもしろ記憶のラボラトリー』 16日『現代民主主義の病理』
■日々記録: 26日読む3歳児とか寝る1歳児とか 23日減量とか再インストールとか 17日エイサーとか減量とか

 

■9月の読書生活
2001/09/30(日)

 今月は,学会に行って10冊近く本を入手してきたので,机の横の未読本置き場がかなり高くなっている。でもまだ1冊しか読んでないんだよなぁ。

 今月よかった本をあげるのは,なかなか難しい。どれもインパクトが今ひとつで。しいてあげるなら,『組織の不条理』『現代民主主義の病理』『学び合う共同体』あたりだろうか。あくまでも,強いてあげればだけど。

『東京コリアン純情日記』(安里 1999 総合法令出版 ISBN: 4893466534 \1,400)

 日本で暮らす韓国人留学生(女性)が,自分で感じた日本や韓国について書いたエッセイ。韓国のことを全然知らなかったことに気づいた。強烈な男尊女卑(男の子を産まなければ一人前ではない)とか,友だち同士でも自分をよく見せるよう見栄を張るとか,漫画とアニメが国策産業になっているとか,親しい仲では礼儀などなく,相手の都合を考えずに押しかけるとか。また逆に,彼女の目から見ると日本がいかにいい国に見えるか,という点も驚き。ただ,韓国はこう,日本はこうと,ステレオタイプ的過ぎる気がしないでもないが。

『放送利用からの授業デザイナー入門−若い先生へのメッセージ−』(鈴木克明 1995 日本放送教育協会 ISBN: 4889580220 \1,845)

 ARCSモデルという動機づけモデルについて知りたくて買った本。タイトルどおり,放送利用という観点が中心の本だが,それだけで話が終始しているわけではなく,教育工学的な知識を得ることができた。実は教育工学が何なのか,私はよくわかっていなかったのだが,本書によると,教育工学では,テクノロジーを教育に応用することに加えて,テクノロジー(問題解決過程)として学校教育を見直す視点を模索してきた(p.193)という。なるほど,テクノロジー利用だけではないわけね。後者の視点としては,システム的思考,柔軟な思考,問題解決志向,一般化への志向,実証的,帰納的思考がある(p.187)。この点は,きわめて教育心理学的なような気がする。あと,現在の学校制度も,放送メディアもどちらも,工業型のシステム(p.171-172)という指摘にも納得した。

『新・コンピュータと教育』(佐伯胖 1997 岩波新書 ISBN: 400430508X \700)

 コンピュータなどを道具と考え,そのような人類の道具使用と,そこにおける学びが中心に考察されている本。なんだか雑多な印象で,どの章も,深まる手前で終わっている印象。とくに前半は。後半,学びの共同体に関する話は,まあまあ。あと,p.147-152あたりで,インターネットにかこつけて展開されている「調べ学習」批判はおもしろかった。ちなみにここで批判されている調べ学習には,学者の学術論文も含まれている。

『学びの共同体−フレネの教室1−』(佐伯胖・中西新太郎・若狭蔵之助編 青木書店 ISBN: 4250960323 \2,200)

 最初の章は,佐伯氏による正統的周辺参加の解説。今まで私が目にした中では,一番わかりやすいものだった。それによると正統的周辺参加とは,垂直方向への参加(正統的参加)と水平方向の広がりに対する参加(周辺参加)の2種類の参加という形で理解できるという。残りの章は,クラスという学びの共同体のなかで知を習得させようとしているフレネ流の学習を展開しているクラスの実践記録。こちらの方は,私は今ひとつピンとこなかった。

『<意識>とは何だろうか−脳の来歴,知覚の錯誤−』(下條信輔 1999 講談社現代新書 ISBN: 4061794392 \680)

 再読。以前読んだときよりも,難しく感じた。それだけ頭が退化しているのであろうか。前回この本の記録を書いたときにはまったく注目していなかったのだが,本書には,他者の心の存在は,それ自体イリュージョン(p.159)とか,自分と他人の間でお互いに他人を認知し合うところから,意識は発生する(p.169とか,ヴィトゲンシュタイン的な「痛み」の獲得に関する考察とか,『哲学・航海日誌』にあるような議論が含まれていた。今度は『哲学・航海日誌』を再読するのが楽しみである。

『閉鎖病棟』(帚木蓬生 1994/1997 新潮文庫 ISBN: 4101288070 \552)

 精神病院の入院患者が主な登場人物である小説。最初オヤッと思わせて,中盤なるほどと思わせて,最後にじーんとするような,とてもおもしろい本だった。最後まで読み終わってから改めて,病院のシーンから少し読み返してみたが,精神病院の入院患者が主な登場人物だから,言動も考え方もそういう面が見られるに違いない,というステレオタイプ的な期待をもって読んでいたことに気がついた。筆者は,精神分裂病という病名は,人間を白人とか黒人と呼ぶのと大して変わらないのではないだろうか(p.92)と言ってる(登場人物に言わせている)のにね。

『Y』(佐藤正午 1998/2001 ハルキ文庫 ISBN: 4894568586 \648)

 「時間を超えた究極のラブ・ストーリー」と解説に書かれているお話。ミステリーというかサスペンスというかSFが混じっている。面白いので,休みの日に一日で読んでしまった。とはいっても,同じタイプの本なら『リプレイ』のほうが好きなような気がするけど。

『クラインの壺』(岡嶋二人 1989/1993 新潮文庫 ISBN: 4101080127 \520)

 昔読んで,すごくおもしろかった記憶はあるのだが,本棚からふと取り出してみたところ,内容を全く覚えていないことに気づいて,なんとなく読み始めた。おかげで,初めて読むときのように楽しめた。やはりおもしろく,ちょっとだけ読むつもりが,ついつい時間を忘れて読みふけったことも... ネタばれになるので詳細は書かないが,冷静に考えてみると,ここで書かれていることは,この小説の道具立てがすべて実現できたとしても,やはり不可能なように思う。というのは,外部的な感覚をいくらシミュレートしても,内部感覚まではシミュレート不可能だからだ(すくなくともこの装置では)。車に関しても同様。あと,ラストが内なのか外なのかも,かなりな程度自明なように思われる。8年前はそんなこと,考えもしなかったような気がするけど。この8年で,本の読み方も変わってきているようだ。それがいいか悪いかは別にして。

 

■『学び合う共同体−シリーズ学びと文化6−』(佐伯胖・藤田英典・佐藤学編 1996 東京大学出版会 ISBN: 4130530704 \2,200)
2001/09/28(金)
〜開かれた関係の重要性〜

 『学びへの誘い』『科学する文化』と同じ,「学びと文化」シリーズの最終巻。まとめの巻ということで,3人の編者の論考が中心になっている。論考のテーマは,いかにして<学びの共同性>を回復し,豊かな<学びの共同体>を構築することができるか(p.i)ということであり,学校や教師の問い直しがなされている。もちろん根底にあるのは,文化実践への参加としての学習論であり,文化的実践への誘い(p.iii)としての教育である。

 今日の教育改革の問題点に関する認識は,編者間で共有されているようである。それは,「国家主義と産業主義と市場原理が新保守主義の政策とイデオロギーにおいて統合」(p.91)され,「学校選択の自由と教育の多様化を主張して教育の私事化と市場化を推進」(p.67)している,というものである。そのような今日的な教育のあり方に対する,批判と提言が含まれている本である。以下,ちょっと興味を引いた記述を中心に。

 まずは,教師同士の関係について。

学校の内側からの改革が遂行できるかどうかは,教師たちが相互の実践を公開し合い,批評し合い,創造し合う関係(=「同僚性」)が築かれるかどうかにかかっている。(p.93)
ここでいう「同僚性」とは,授業を創造し合い専門家として成長し合う教師の共同的な連帯(p.93)のことのようである。日本語で言うところの「切磋琢磨」というイメージだろうか。そしてここに出てくる,「専門家」とは,『日本の教師文化』に出てきた「反省的実践家」である(科学的な理論や技術に習熟した「技術的熟達者」ではなく)。でもあの本では,「「反省的実践家としての教師」の文化は,わが国では,インフォーマルな研究サークルや学校の同僚関係の育ちあいの文化において保持され伝承されている」と,よく見られるかのような書き方がしてあったのだが,本書では,「改革が遂行できるかどうかの要」という扱いであり,この書き方だと,あまりないことのようである。いったいどっちなのか,いまひとつよくわからない。まあ,大事だということはよくわかったけど。

 次は,小学校における質問書や授業評価的試みについて。

小学校では,授業についての感想やわからなかったことなどを授業のあとに子どもたちに書いてもらうという実践は以前から広がっているが,これがそのまま「評価の双方向性と対話性を取り込んだ実践」とみなせるかというと,そうとも言えない面もある。教師は「えらい人」だという先入観が抜けきれていない場合は,「感想文」では教師に適宜「賛辞」をサービスし,自分自身については「わからない私」を自己評価(反省)する,ということになっているケースが多い。(p.153-154)
これについては,私も最近,似たようなことを考えている。筆者(佐伯氏)は,上のような関係は,教えと学びの二分法から出てくる「評価」と「被評価」の二分法であるという。しかし関係論的な視点からすると,評価とはそのようなものではなく,人びとの間でさまざまな行為やその結果を社会的に「位置づける」という,共同的ないとなみ(p.153)と言うことができる。私も,教師をえらい人だととらえることが問題だとは思っていたが,そこから先がうまくつかめないでいた。なるほど,二分法的でない,共同的,対話的なものとしての評価か。学生を「文化実践へ誘う」ためには,重要なことだ。

 最後は,対談の中で,学校の先生は最先端(の知識や研究)とは切れている,という指摘を受けて。

これは知識の問題というよりも,知識観というか,知識というものについての考え方の問題だと思う。つまり,知識を自分が作り出すもの,自分で吟味したり否定したりできるものという考え方を教師がどこまでもてるか,それとも,知識は誰か「エライ人たち」が考え出したものだという権威主義的知識観にとらわれてしまうか……。(p.255)
これもまったくその通りだ。権威主義的知識観であれば,知識は注入するものとなる。創造的知識観(という言い方でいいのかどうかわからないが)であれば,知識は作り出し吟味し否定するものとなる。そういう知識観の持ち主を作るのは,教師の自助努力もあるだろうが,教員養成大学・学部の責任もあるだろう。

 以上3点取り上げたものは,どれも「開かれた教師」という観点で一致している。同僚との開かれた関係,生徒との開かれた関係,知識との開かれた関係。このほかにも,教室が均質で閉鎖的な共同体(p.217)になりがちなので,外の共同体とつなぐことを考えなければならない,という「外との開かれた関係」についても語られたりしている。とすると,文化実践への参加/誘いとしての学び/教育のキーワードは,「開かれた関係」ということかもしれない。

 

■読む3歳児とか寝る1歳児とか
2001/09/26(水)

 そういえば今月はまだ育児ネタを書いていなかった。

 上の娘(3歳3ヶ月)は最近,ひらがなが読めるようになっている。妻が娘に,アンパンマンのひらがなパズル(\400)を買ってやったのが最初だ。それで,「赤ちゃんマンの"あ"」とか言いながらパズルをやっているうちに,いつのまにか一通り読めるようになっていた(けっして教え込んだわけではない)。

 昨日も一緒に風呂に入っていると,急に「せ・つ・け・ん」と言い出した。なんだろうと思うと,そこに置いてあった液体せっけんの容器に書かれた字を読んでいたのだ。最近はトイレに入っても,壁の張り紙の字(ひらがなのみ)を読んだりしている。別に早く読めるようになってほしいわけではないし,実は私としては,この時期には字以外のものに目を向けてほしい,なんて思っているのだが。まあでも,本人が読みたくて読んでいるのだろうから,そのままにしているけど。

 次は下の娘(1歳0ヶ月)の話。現在私は,腰痛や冷房病を理由に,妻子とは別の部屋で寝ている。寝る時間になって電気を消してそれぞれの部屋に向かうのだが,しばらくすると下の娘が私のところに来る。一緒に寝たいようなのだ。それで,ベッドに載せると,しらばくゴロゴロしたあげく,眠りについてしまう。その間に妻と上の娘は,絵本など読んで,寝るようである。ちょっと前まで,娘二人のうち,かならずどちらかが寝つきが悪くて,妻は寝入りばなに苦労していたようだが,このやり方で,かなり問題が改善されている。下の娘が寝付いたら,私は電気をつけて本を読んだりできるし。一石二鳥なので,もうしばらくこの体制でいってもいいように思うのだが。

 あと,夕ご飯も最近は,妻は上の娘,私は下の娘対応ということで分業している。下の娘は,柔らかいものなら大人と同じものが食べられるので,だいぶやりやすくなった。その上,この分業には私の減量にとってもメリットがあるのである。

 たいがいのダイエット本には,「早食いの人は太る。ゆっくり食べるようにしなさい」と書かれている。私もその例に漏れず早食いなのだが,これはなかなかわかっていても変えられるものではない。それが,下の娘にご飯を食べさせるおかげでゆっくり食べざるをえなくなったのだ。下の娘はくいしんぼなので,しょっちゅう「クレクレ」とせがむ。しかたがないので,私が一口,下の娘が一口,というペースになっているのである。ということで,こちらも一石二鳥なのである。

 

■『日本の教師文化』(稲垣忠彦・久冨善之編 1994 東京大学出版会 ISBN: 4130513001 \3,900)
2001/09/24(月)

 教師文化とは,教員世界に見出される行動様式や信念・慣習・伝統・思考法・心性・つき合い方のセットのことである(p.12)。この教師文化を明らかにするために,理論,子どもの視点,比較的視点,歴史の各観点から13人の研究者が論じたのが本書である。そのうち,3つの論考について記録しておく。

 私が本書を読もうと思ったのは,「反省的実践家」という概念について知りたかったからである。この言葉は本書でも何度か出てくるが,はっきりとわかったとは言いがたい。その中で,比較的まとまっていると思われる記述を引用する。

「反省的実践家としての教師」は,上記の「技術的熟達者としての教師」の対抗文化として形成された教師像である。この教師像は,教職を高度の専門職として規定するが,その根拠を科学的な知識や技術に求めるのではなく,実践場面における省察と反省を通して形成され機能する実践的な知見と見識に求めている。またこの教師像は,官僚的な制度化に対抗して民主的な自律性を主張し,生徒や親や同僚や他の専門家との共同関係を築きあげて,科学的技術では解決できない複雑で難解な問題の解決に創造的に立ち向かっている。この「反省的実践家としての教師」の文化は,わが国では,インフォーマルな研究サークルや学校の同僚関係の育ちあいの文化において保持され伝承されている。(p.30)
うーん,わかったようなわからないような,である。わからないのは,「技術的熟達者としての教師」像との違いである。これは,地方教育センターの研修と大学の教師教育において漸次普及し,現在では,授業の研究と教師の研修における支配的な文化として機能している(p.31)という。こちらがフォーマルなもの,反省的実践家はインフォーマルなものを通して形成される,ということだろうか。それにしても,フォーマルな研修においても,「実践場面における省察と反省」は行われると思うのだが。もうこれは,自分の目で教師の研修(研鑚)のあり方を見るしかないのか。それに,省察と反省は,どう違うのだろう。このあたり,今後の課題か。

 次は,カウンセラーにして大学教員をされている近藤氏が,自分の体験を通して両者の違いを考察したもの。この論考は非常に興味深いものだった(下線は原著では傍点)。

教師がいつのまにか注視(あるいは重視)するようになってしまうものは,どうも,(1)子どもの行動の背後にある子どもの思いではなく,表面にあらわれた子どもの行動そのもの,(2)子どもの人格の変化過程の中に位置づけられた行動ではなく,その文脈から切り離された現在の行動そのもの,しかも(3)その行動に托されたその子どもなりの意味ではなく,社会的規範に照らし合わせてみたその行動の当否,であるらしいことが次第にわかってきた。(p.51)
この引用部分は,まとめの部分なので,さほどおもしろいわけではないが,このように考えるにいたった近藤氏の経緯が,ある意味おもしろい。20代のころ,近藤氏はカウンセラーとして学校に入り,先生が生徒の「敵」として存在していることを感じた。ところが30代になって大学の教師になってから,そのような教師の気持ちがわかるようになっただけではなく,自分もそのような教師として振舞いはじめた。それから10年ほどしてから得られた考察が,これなのである。そこにあらわれているのは,教師文化が強烈に持つ,隠そうとしても隠し切れない評価の視線であり,権威性や尊大病であろうか。筆者はそこから,教師とカウンセラーが同じ課題に取り組んでいる,という安易な前提自体を壊して考えていかないと,事態を正確に把握できない,と述べている(p.52)。こういうことに関するカウンセラーの論考は,なかなか興味深いものがある。

 最後は,アメリカの文化人類学者が日本の小学校で2年間にわたってフィールドワークを行ったことを報告したもの。筆者は,アメリカ人が日本の教育制度について抱いているステレオタイプ(単一文化,画一的,厳格)とは違う光景に,いくつも出会ったという。

(ベテラン教師が新米教師にアドヴァイスする場面に居合わせた体験を,印象深いものとして考察している:)私はアメリカの研究者であるにもかかわらず,日本の多数の教師が行うのと同じ方法で,よい教師になる方法を学んでいた。その方法とは,観察し,話を聞き,吸収するという同僚間の経験の共有によるものである。おそらく,現職研修のもっとも強力なメカニズムは,大学や文部省が提供するどんなプログラムよりもむしろ,教師たちの日常的な相互交流において生成されている。(中略)おそらく,このような同僚間の経験の共有は,過密なスケジュールでへとへとに疲れていても,エネルギーとモラルを維持するのに有効な,日本の教師の方法なのだろう。(p.136)
なるほど,これが最初の引用個所にあった,「学校の同僚関係の育ちあいの文化において保持され伝承されている反省的実践家としての教師文化」ということであろうか。それであればこれは,日本ではごく日常的なことのように思われる。それと同時にこのような相互交流は,「文化的実践への参加としての学習」ということも可能であろう。逆にアメリカの教師は,カリキュラムも統一されておらず,仲間の教師と協議することなしに毎年同じ学年を教えている(p.134)ため,このような光景は見られないという。そのためアメリカの教師は,孤立に悩んでいるそうである。

 そういえば,日本でもこのようなアメリカの教師と似た姿(責任の範囲も孤立した姿も)が見られるところがある。大学である。ということは最近の大学でのFDの高まりは,大学に(フォーマルにもインフォーマルにも)小学校的な教師文化を導入しようということだといえそうである。それがいいか悪いかは別にして。

 

■減量とか再インストールとか
2001/09/23(日)

 先週はじめに病院に行った。中性脂肪の値は半減して,正常範囲になっていた。ひと月で正常範囲だなんて,ひと月で半減だなんて,このひと月の苦労が報われた思いである。 まあ逆にいえば,ひと月前まで,通常のの倍もの中性脂肪をため込んでいたことになるわけだが...

 尿酸は変わらずで,薬を出してもらった。脂肪肝は... 超音波検査した人に,「うーわー。こーんな脂肪肝,ひっっさしぶりにみたなー」とかなんとか,かなりしつこく言われた(泣)。ちなみに医者には,「このままいくと,先は大体予想がつくね。60ぐらいで脳卒中になって半身不随で,こういう病院に入院して,何年かしたらあの世行きだ。」と脅された。まあこれはすぐに脅しと思ったが,検査技師の素直な驚きようは,本気で減量せねば,という気にさせられた。人を動かすのは,結局はひゃくまんの理性的な言葉よりも,ひとつの感情的な言葉かもしれない。

 そこまでは減量計画も順調だったのだが,先週の半ば頃から,体重が減らなくなってしまった。一応,体脂肪率は下がっているようなので,いいのかもしれないが。それにしてもここまで順調にきたので気になる。もうちょっと運動のレベルを上げるか。1歳児リフティングとか。

 昨日から,OSの再インストールをしている。まだ買って1年も経っていないのに... それにしても,OSの再インストールは疲れるね。インストールそのものに時間がかかるし。マニュアルどおりにしても動かない周辺機器があったりすると,疲れは倍増である。結局メーカーのテクニカルサポートに長電話して,ようやく解決した。でもそれで終わりではない。ソフトのインストールやら,それぞれのオプション設定やら,完全に元の環境に戻すのに,これから数日はかかるだろう。それまでは,今までとはどこか違う,不自由な環境で作業することになる。日記も快適に書けるようになるまでに,一苦労であった。ああ疲れた。

 

■『おもしろ記憶のラボラトリー−認知心理学を語る1−』(森敏昭編著 2001 北大路書房 ISBN: 4762822213 \2,500)
2001/09/20(木)
〜21世紀の認知心理学を創る〜

 「21世紀の認知心理学を創る会」を名乗る気鋭の認知心理学者たちが,最先端的研究テーマをめぐる最新の研究動向を紹介(p.14)している本。本書は3冊シリーズの第1巻で,「記憶」がテーマとなっている。残りの2巻のテーマは,「言語」「思考」である。

 実は私も,第3巻に書かせていただいているので,「21世紀の認知心理学を創る会」会員ということになる。とは言っても,私は認知心理学の正式なトレーニングを受けたことはない(ぢつは,本書の編者先生の「認知心理学」という講義を受講して,単位を落とした経験さえある(笑))

 ということで本書は,認知心理学をよく知らない認知心理学者(笑)である私にとって,認知心理学の基礎や最新の事柄を知るのに格好の本であった。全部で10章あるが,そのなかから3箇所ほどを取り上げておこう。

 まずは「自伝的記憶」の章から。

過去の自分を想起するときに,人は現在の自己を基準として,それに「自分は過去からこんなに変わったはずだ」あるいは「この点は変わっていないだろう」という素人理論を組み合わせて,過去の姿を想起する(p.22)
要するに,想起された過去は,現在の自分の考えによって再構築されたものだ,ということである。自伝的記憶については,『記憶は嘘をつく』に詳しいが,本章では上記引用の件について,興味深い実験が紹介されていた。それは,短い期間では絶対に身につくはずのない「ノートのとり方」や「テキストの読み方」を教えられた学生が,実際にはスキルの改善はなかったのに,参加者はこのプログラムで自分のスキルが上達したと信じていた(p.22)というのである。まさにこれは,上にあるように,「自分は過去からこんなに変わったはずだ」という思い込み(記憶の再構成)がなせる業であろう。この事実は,回想法によって自分のことを評価させようとするときには,見落としてはならない点であろう。あるいは,授業後の学生の感想も,額面どおり受け取っていいのかどうかについては,十分な検討が必要と言える。

 次は「作動記憶」について。

(多義語を含む文章を読むときに)作動記憶容量の大きい人は複数の意味を保持しながら文章を読むことができますが,作動記憶容量の小さな人は,文を読んでいるうちに処理資源が減少し,二つの意味の活性化が下がる(p.207)
実は私は,作動記憶とは何かについて,いままでよくわかっていなかったのだが,本章を読んで理解することができた。簡単に言ったら,「短期記憶」のように情報の保持期間のみに焦点を当てるのではなく,そこで行われる「処理」にも焦点を当てたもののようである(合ってるかな?)。そこで,その作動記憶の使われ方の個人差によって,文の読みが異なってくるという上記の話になるわけである。上の話は文章理解の話だが,複数の可能性を保持した上でものごとを理解・検討するというのは,批判的思考を行う場面ではよくあるわけで,上の話は,そういう場面での話としても読むことができると思う。実際,この作動記憶のモデルは,言語理解だけでなく推論,問題解決,空間的思考など,種々の認知活動に応用が可能だとされています(p.210)とある。これは要チェックだな。

 最後は「メタ記憶」について。

協力し合って想起する際に,人は互いに自分が記憶している内容を語り,確かめ合い,補い合うことをします。(中略)シャンクは,こうしたプロセスを想起促進(reminding)とよんでいますが,広い意味で,話し手個人の記憶システムを超えたメタ記憶であるといえるかもしれません。(p.230)
メタ記憶とは簡単に言うと,「上位の記憶」のことであり,自らの記憶のプロセスや状態を見つめる(意識する)(p.216)ことである。そしてこの引用部分は,それが社会的に,他人との間にも成立している,という話である。つまり,ある人の記憶を,他人が上位から見つめたり意識化したり,コントロールすることができる。それが共同想起というわけだ。これ自身は,経験的にもよくわかる話だ。そしてその話をここで引用したのは,これと同じで,他人との間で,社会的な意味でメタ認知なり批判的思考がなりたつ場面もあるだろうな,と思ったからである。まあ自分用のメモというか。

 本当は,この3箇所以外にも,勉強になった箇所や付箋をつけた箇所はたくさんあるのだが,あまり長々と書いてもどうかと思うので,この3つで止めておく。さあ,あと2巻を読めば,私も晴れて(21世紀を創る)認知心理学者だ。

 

■エイサーとか減量とか
2001/09/17(月)

 昨日は予定通り,全島エイサー祭りに行ってきた(新聞報道はこちら。去年の教訓を生かして早めに行ったら,長時間すぎて疲れた。途中(特に琉球國祭り太鼓のあと)で帰る人もちらほらいたので,次回は遅めに行くと言うのも手かもしれない。

 減量宣言からちょうどひとつきがたった。今朝の体重は,1ヶ月前よりも2.4kg減であった。このうちの半分は,風邪による食欲減退で,あまり苦労せずにやせたのだけれど。

 まあそれにしても,当初の予定では,1ヶ月で1kg減だったので,もうすでに,1ヶ月半後の予定体重を先取りしている。無理をせずにこのままの方針(1日最低5000歩+間食を減らす)で,あと1ヵ月で600g減らして目標達成だ。

 肥満度の指標として,BMI(Body Mass Index)というものがあるらしい。この方法は,正常範囲だと合併症が少ないという疫学的調査に基づく医学的根拠があるのだそうだ。こちらのページでは,JAVAを使って手軽に自分の値やその増減を見ることができるが,どうやら減量前は,BMI=26.8で,レッドゾーン(要するに「肥満」)だったようだ。+21.7%の肥満である。なるほどやせろと言われるはずだ。現在の私のBMI値は26.0で,あまりいばれた数字ではないが,かろうじて「肥満傾向」の範囲にとどまっている(+18%の肥満)。よーしこうなったら,3kg減の次は標準範囲を目指すか。そのためには減量前より,少なくとも8kgやせなくちゃいけないんだけど。

 #ちょっと検索してみたら,「肥満の基準がBMI=26.4から25に引き下げられた」と書かれたページを見つけた。BMIが25の人は,高血圧や高中性脂肪血症を発症する危険率が標準値(BMI=22)の人の2倍になるのだそうだ。ということは,私は相変わらず「肥満」だ。BMI=25まであと3kg。まずはこっちを目指すか。

 

■『現代民主主義の病理−戦後日本をどう見るか−』(佐伯啓思 1997 NHKブックス ISBN: 4140017880 \920)
2001/09/16(日)
〜正しいわけでも間違っているわけでもない〜

 民主主義について,筆者がいくつかの雑誌に発表した文章を集めたもの。それゆえ,全体として一つの明確な流れがあるわけではないし,また,同じ話が何度も出てきたりもする。さらにいうなら,論証が不十分であったり不適切であるように見える点もあるし,難しすぎて思考の流れすべてについていけていない部分もある。が,民主主義ということを軸に戦後の日本について考える,という点では一貫しており,なるほどと思わせるような視点もあるので,ここで取り上げた。。

 筆者の視点を一言でまとめるならば,オビにあるように「デモクラシーは普遍の理念なのか」ということのようである。もう少し詳しく,本書の中から引用すると,基本的な考えは,次のような点に現れていると思われる(本書に出てきた順番とは異なる順番で引用している。その方が筆者の考えがわかりやすくなると考えたので)(強調は道田)

  • 市場競争や個人主義,デモクラシーは決して無条件で正しいわけではない。(p.223-224)
  • 重要なことは,この「アメリカナイゼーション」が本来は,歴史的にもいささか例外的な方に属する人為的,人工的な国家アメリカの特異な事情の中から生じたにもかかわらず,それが普遍性の装いを獲得していったことである。(p.27)
  • ところが,ここへきて明らかになったことは,「経済」がそれぞれの「文化」や「歴史」や「社会」から分離することはできないということなのである。(p.61)
  • 近代化とは,あくことのない「既成のもの」の否定であるといっても言いすぎではない。たえず,現状を懐疑し,現状を改編し,合理的に変革することによってよりよい社会をつくることができるという進歩主義の観念をそれは近代化の原動力にしている。(中略)そして,秩序破壊のモーメントが,どうやら,その種の臨界状態にまで近づきつつあるのではないかという疑いが濃厚になりつつあるのが,まさに戦後五十年を経過した,この二,三年ということなのである。(p.180)
2番目に出てくる「アメリカナイゼーション」とは,大雑把に言うと,1番目に出てくるような「市場競争,個人主義,デモクラシー」である。詳しく言うとそのほかにも,大量生産方式などの産業経済,平等主義,幸福追求,自由主義,アメリカ的ビジネスモデル,金銭的評価(p.47)などがあげられる。

 筆者の基本的考えの方向性を,大雑把にまとめるならば,反市場主義であり,『文化の経済学』ならぬ「文化の政治学」的な発想なのだろうと思われる。あるいは,市場経済はルールや制度を含んでおり,それらを支えるものは相互に対する信頼である,という議論もある。文化の政治学に関してはたとえば,デモクラシーの種類として,人民主権や直接民主主義を理念とみなすフランス型,議会制,代表制を民主主義の本質とみなすイギリス型,個人の自由と強く結びついたアメリカ型(リベラル・デモクラシー),地域コミュニティに民主主義の基礎を求めるジェファーソン型,などが挙げられている(p.230-232: 名称は本のものと変えている)。

 #ここで一つわかったのは,私が『デモクラシーの論じ方』で感じた不満の一つが,こういう区別なしにすべてが同列に論じられていたことだ。それが本書を読んでわかった。

 なるほど本書は,「戦後日本をこう見る」という視点を提供してくれる。しかし,そのような戦後日本の問題点(あるいは「病理」)を指摘したうえで,どういう方向性をめざしたらいいと筆者が考えているかは,残念ながら私には明確にはわからなかった。上記引用1番目にあるように,筆者は市場競争などが,「無条件で正しいわけではない」とは言うが,その直前には「むろん,間違っているわけではない」とも書いている。もちろんこの2つの表現は矛盾はしないのだが,しかし,じゃあどうすればいいのか,という疑問はわいてくる。そのような提言がなければ,上記引用の4番目に書かれていることと同じように,本書自体が「既成のものの否定や破壊」だけに終わってしまうのではないだろうかと思ってしまう。

 もちろん筆者も,何も提案していないわけではない。本書のところどころに散見されるのは,民主主義や市場競争を相対化すること,疑いをもつこと,前提を問うこと,などである。たとえば,現代デモクラシーに必須の世論形成を担うメディアについて,次のように述べている(強調は道田)

われわれの得る情報や事実なるものが,常にメディアの手によって差し出されているという認識は,それ自体,情報や事実を相対化するのに役立つはずだということである。簡単に言えば,われわれはメディアから受け取るものをいったんは疑えということだ。(p.151)
特にメディアが取りざたされるのは,現代のデモクラシーにおいて,世論がつくられる前段階として,誰もが実際には知らない「世界」を,切り取り,簡略化し,討論可能なように変形する(p.150)のがジャーナリストの役割だから,というわけである。

 まあこれは,きわめてメディア・リテラシー的発想であり,私の立場からすると大賛成なのだが,ここで一つ疑問が残る。それは,ここで言うような「疑うこと」,つまり批判こそ,ポパーを例に出すまでもなく,上記引用4番目にあるような,きわめて近代的な「既成のものの否定や破壊」にあたるのではないだろうか,ということである。はたしてこういう行為は良いものなのか,悪いものなのか,ケースバイケースなのか,やり方次第なのか,目的によるのか。この点に関する筆者の考え方を知りたいものである。

 


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