読書と日々の記録2002.03上
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■読書記録: 12日『学校を創る』 8日『被抑圧者の教育学』 4日『終身雇用制と日本文化』
■日々記録: 13日「バーカ」とか「パパになる」とか 11日気持ちが悪い 7日公立中学の授業見学 2日喋る1歳6ヶ月児
日記才人説明
■「バーカ」とか「パパになる」とか
2002/03/13(水)

 1年前は「ボケ!」が口癖だったうちの上の娘(3歳9ヶ月)。最近はどうかというと...

 ボケ!は全然言わなくなった。そしてその代わりに,「バーカ」がマイブームのようである。しかもそれはボケ!の時とは違い,私のマネをしているわけではない。自分のなかにネガティブな感情が高まったとき,それを表現する言葉として,つまり思いのたけをこめて「バーカ」というのである。気持ちはわかるが,実に憎たらしい。

 昨日も,寝る前に「おにぎりが食べたい」と言い出し,妻が「もう歯も磨いたからダメ」と言ったら,「バーカ」ときやがった。「バカは悪い言葉だから使っちゃダメ」というと,今度は「バー」と言いやがる。オマケにそれを下の娘(1歳6ヶ月)もマネをする。二人でけんかしたときは,お互いに「バー」と言い合ったりしているのである(下の娘はまだちゃんとバーカと発音できない)。そういう心境なのだからしょうがないのかもしれないけれど,ちょっと殺伐とした光景だ。もっとも,こちらが怒らず根気よく付き合ってあげていると,10分もするといつものラブリーキュートな娘に戻ってはくれるのだが。

 こういう話題ばかりでもナニなので,今度はそのラブリーキュートぶりをちょっと紹介する。最近,なぜか妙に私になついてくれていたりするのである。

 ここしばらくずっとそうなのだが,毎日「今日,まーちゃん(仮名)パパになる」と宣言している。私が仕事から帰ると,私と同じ色のトレーナーとジャージに着替えている。それだけではない。いちいち「パパ,シャツはズボンの中に入れてる? 出してる?」みたいなことを聞かれる。彼女もすべてその通りにするのである。

 食事のときも,私の横に座って,私が口に入れたものと同じものを食べようとする。そして,一挙手一投足,すべてマネしようとする。新聞を読んでも,あぐらをかいても,鼻を掻いてもすべてマネするのである。おかげで,あまり行儀悪くもできない。ってゆーか,どっかで聞いた落語みたいである。これが毎日,彼女が飽きるまで繰り返される。ちょっと窮屈だが,悪い気はしない。思えばほんの1年前,パパよりもママがいいと言っていたのがウソのようである。

 まあこういうのは,今だけのことだろうと思う。そのうち親のことは見向きもしなくなるだろうから,今の間はできるだけつきあってあげよう(遊んでもらおう?)と思っている。

 #と思っていたら,夕べはいきなり「今日まーちゃんママになる」だって。おかげで一人で自由にいろんなことができてよかったけど。でもちょっと寂しかったりして。

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■『学校を創る−茅ヶ崎市浜之郷小学校の誕生と実践−』(大瀬敏昭(著者代表) 2000 小学館 ISBN: 409837336X \1,700)
2002/03/12(火)
〜子どものメッセージを受け止める学校〜

 『授業を変える学校が変わる』にもでてきた,佐藤学氏が全面的に指導してできた新しい学校に関する本。著者代表者である校長をはじめ,現場の先生の思いや行われている授業の一端を知ることができた。本書全体の印象は,非常に興味深かったけれども残念な箇所がいくつかあった,というものであった。

 まず第一は,著者らの語り口の問題である。同校は月1回の授業研究会をはじめ,佐藤氏が深くかかわっている。そのためか,各著者の語り口には佐藤氏的な語り口が感じられるところがある。私は佐藤氏とは違う視点からの語りを期待していただけに,その点は少しだけ残念であった。

 それから,何人かの教師は失敗した授業や,従来型の授業から出発してそこから脱皮した実践を語っていた。たとえば小5の国語で一太郎のハイパーリンク機能を使ってマルチシナリオの紙芝居を作らせる,という授業を行っているが,当初子どもたちは「殺意あふれる過激な表現」の,内容の薄いストーリーしか作ることができなかったという(p.158)。それがその後,見事に克服されていくわけだが,その克服や脱皮のプロセスがあまり詳細には語られておらず,その後の成功した授業が語りの中心になっていた点も少し残念。そういう部分に,ヒントが見えるような気がするからである。

 もう一つ。学びあう学校が作られていくプロセスで,授業の事例研究が重要な役割を果たしていることは何度も語られている。そこでは「授業の巧拙や優劣を話し合ったり,教材や教え方の是非を中心に」話し合うのではなく,教材や教え方が問われるときも,教室の子どもの事実を語り合う中で議論される(p.20)という。それは佐藤氏の次のような言葉で語られている。

教材の是非や教え方の是非は100通りの正解がある。しかし,その授業の進展における教師の居方や子どもの発するメッセージの受け止め方は,おそらく一通りしかない。(p.20)
あるいは,授業研修に対する教師側の言葉としては,次のようなものがある。
観察して感じたことを事例に即して率直に述べあい,交流していくことに心がけていった。話し合いでは,子どもの学びの具体的な姿を話し合いの中に浮かび上がらせ,授業の「おもしろさ」と「難しさ」を共有していくことができるようにしていった。(p.90)
ここで,どのような話がでてどのようなことが共有されていったのか。この本ではあまり具体的なことは知ることができなかった。次はぜひこの点が知りたいものである。

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■気持ちが悪い
2002/03/11(月)

 どうも最近,伝統的なタイプの心理学の研究の話を聞くと,気持ち悪くなっていけない。なんかこう,つらくなってくるというか,息苦しくなってくるというか。

 とくに質問紙研究が気持ち悪くていけない。データをもとに,AとBに関係があるというのはいい。しかし,それはなぜかという理由をあれこれ「憶測」されていると気持ち悪い。そういうことは,被験者に直接聞けばいいのに,と思う。だが,そういうことはあまりされない。そういう憶測を聞き続けるのが,つらくてしょうがないのである。

 だからといって,実験研究ならいい,というわけではない。実験研究も質問紙研究も,データからある結論を導き出すためには,いろいろなことを前提としなければいけないはずだし,前提が変われば結論が変わったり結論できなかったりすることは多い。それなのに,どうしてそういうことをナイーブに想定して,結論を出すことができるんだろう,と思ってしまう。

 私はどうしてこうなってしまったんだろう。おそらく半分は,批判的思考=よりよい思考や論理ということを日夜考えているからだと思う。あとの半分は,質的研究や,心理学以外の研究に興味を持って読んだり考えたりしているせいか。

 こういうことばかり考えるようになると,今後の自分の研究にも差し支えそうである。そうならないために,進む道はいくつかある。たとえば,心理学研究の王道ははずさずに,より厳密かつ多面的に被験者に迫るとか。

 そのように,「心理学」を優先させるやり方もあるが,学問分野によらず「私が知りたいこと」を優先させるやり方もある。いまここで,やはりそちらのほうがよさそうだといいたいわけではない。どちらの道をとるにしても,少なくともここ数年は,悩みながら進むことになりそうな気がする。われながらヤレヤレと思っている。

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■『被抑圧者の教育学』(パウロ・フレイレ 1970/1979 亜紀書房 ISBN: 4750579076 \1,845)
2002/03/08(金)
〜抑圧者としての教師〜

 識字教育や銀行型/課題提起型教育の概念で有名なブラジルの教育学者フレイレの代表作。抑圧とか解放とか,民衆とか革命とか,マルクスとか毛沢東とか出てきて,難しげで政治臭い本かと思って読み始めた。そういう部分ももちろんあっし,分かりにくい部分も多少あったが,それだけの本ではなく,(理解できた範囲に関しては)興味深く読んだ。

 識字教育に関するフレイレの基本的な考えややっていることに関しては,巻末にある訳者による解説がわかりやすいので,3箇所ほど抜き書きしてみる。

  • 真の識字学習は,疎遠な言葉を暗記することからではなく,学習者が,自らをとりまく具体的な現実を,つまり世界を<命名>することからはじまらなければならない。(p.291)
  • 読み書き学習においては,文字の獲得と同時に,学習者が,言葉を話すことの意味を理解し,世界を変革するために行動を開始しなければならない。(p.291)
  • もっとも重要なことは,民衆自身が,文字を獲得すると同時に現実世界を<読みとり>,それを変革しながら現実を<書きかえていく>ことである。(p.299)

 これもわかりにくいが,文字を暗記することが大事なのではなく,文字を使って世界を読みとり,かつ書き換えていくことが大事,ということのようである。そのためには,行われる教育も知識注入(銀行型)ではなく,教師と生徒が対等な立場で対話し,協同して問題を省察し探究する「課題提起型」で行わなければならない,ということのようである。農民を対等な主体としてとらえ,毎日の農作業のなかから経験的・実践的な知識を身につけてきた専門家とみなす考え方は,私が最近読んだいくつかの本の内容と呼応するように思う。

 本書を読んで私が興味深く思ったのは,次の2点が大きい。一つは,本書で語られている抑圧者(支配者)−被抑圧者は,貧困地域における為政者−農民であるが,この関係は一般的な学校における教師−生徒関係にも見事に当てはまる,という点である。私は本書を,「被抑圧者=生徒の教育学」として読んでいた。たとえば次の文章を,そういう視点で読むことが可能ではないかと思う(もちろんこの場合,抑圧者は知識を注入する権威としての教師である)。

  • かれら(被抑圧者)は自分を無知なものと呼び,「教授」は知識のある人,自分が耳を傾けるべき人であるという。(中略)自分たちもまた物事を知っているということ,つまり自分たちもまた世界と他者との関係のなかで学習してきたのだということが,かれらにはまるっきり理解できない(p.51)
  • 対話のかわりに饒舌やスローガンやコミュニケを押しつけることは,飼い馴らしの道具を用いて被抑圧者を解放しようとすることにひとしい。(p.56)

 興味深かった点の2点目は,課題提起型教育において,対話や批判(的思考)の重要性を著者が強調している点である。

  • 対話をとおして,生徒の教師,教師の生徒といった関係は存在しなくなり,新しい言葉,すなわち,生徒であると同時に教師であるような生徒と,教師であると同時に生徒であるような教師が登場してくる。(p.81)
  • 銀行型教育は生徒を援助の対象として取り扱い,課題提起教育はかれらを批判的思考者にする。(p.88)

 著者は,批判的思考という語を自明のものとして扱っているようで,明確な定義はなされていないが,その基本に対等性や対話があることだけは間違いないようである。

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■公立中学の授業見学
2002/03/07(木)

 ここ数日,いくつかの公立中学校でいくつかの授業(すべて1年生対象)を見せてもらった。実はこういうことははじめてやった。ことの詳細はさておき,感想や思ったことなどをちょっと記しておく。

 まず,当然のことながら,先生によって授業の雰囲気はだいぶ違う。先生と生徒との間に体育会的上下関係を感じさせるような授業もあったし,非常に和やかな,いい意味で小学校的な授業もあった。それに対しては,もちろん個人的な好みはある。しかし授業は,個人的な好みの次元だけで見てはいけないと思った。

 というのは,知り合いの先生に聞いたところ,体育会的授業と思われた先生は非常に生徒に人望があるという。そういえば授業中,生徒はいやそうではなく,熱心に先生の指示に食らいついていく雰囲気があった。

 ある学校では先生方と酒を飲む席を作っていただいた。そこでそういう話をしながら出てきたのは,「先生の哲学」という話であった。実は酔っ払っていたので,これをおっしゃった先生の話をちゃんと理解しているかどうかは自信がない。そこで,この言葉をヒントに私なりに上記のことを考えるならば,表面的には同じに見える体育会系の授業(あるいは小学校系の授業)がいくつかあったとしても,そこに先生の哲学があるのとないのとでは,やっていることの意味や,それがもたらす効果はまるで違う,ということだと思う。

 「哲学がある授業」とは,ある意図に基づいてある目的を達成するために,必然的にそういう授業スタイルが選択された授業である。その反対にあるのは,形式的に(たとえば生徒をコントロールしたり媚びるために)それが行われる授業である。それは,自分(=教師)のためだけにある授業スタイルが選択されているとも言える。哲学のある授業は,そうではなく,生徒も視野に入れ,より遠くを見通した上であるスタイルを選択することである。ちなみに今回授業を見せていただいた先生方は,ひとつ返事で承諾してくださった方ばかりである。その点から考えても,みなさん十分な哲学をお持ちである可能性が高いと言えそうである。

 これとも関連するが,もうひとつ思ったこと。授業を適切な目で授業を見ることができるようになるためには,場数が必要である。佐藤学氏は『学校を創る』で,自分自身の経験をふりかえっても,教室の出来事がひとまとまりの連鎖として見えるようになったのは,教室の観察が二千回を超えた段階(p.225)と書かれている。そういう意味ではおそらく,私にはまだ,ほとんど何も見えていないのかもしれない。

 それにしても,これまでにない貴重な勉強をさせてもらった数日間だった。今後,この体験をもとに,より具体的に教員養成教育や自分の研究や教育について考えることができそうである。というか,授業を見せていただいたことの恩返しとして,この体験をもとに考えていくことは私の義務だと思っている。

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■『終身雇用制と日本文化−ゲーム論的アプローチ−』(荒井一博 1997 中公新書 ISBN: 4121013492 \660)
2002/03/04(月)
〜終身雇用制の問題点とは?〜

 『文化・組織・雇用制度』の著者による本。文化的側面を重視して,主にゲーム論の観点から終身雇用制を論じ(p.i)ており,終身雇用制が信頼を強化する(p.81)ことを主張している点では『文化・組織・雇用制度』と同じであるが,本書のほうが新書ということもあって,数式などは使われず,直感的にわかりやすい議論が中心となっている。

 『文化・組織・雇用制度』と本書が一番違う点は,本書が「終身雇用制の問題点」を1章かけて論じている点だと思われる(この点に関する言及は,『文化・組織・雇用制度』にはほとんど見られない)。この点を論じるために筆者はまず,高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故や厚生省の薬害エイズ問題など,大企業や官庁の不祥事を取り上げている。これらは,日本的な集団主義のせいであると論じられることもあるが,筆者はこのような集団主義のために不祥事の抑止が妨げられたという考え方は皮相的・不正確であることを論じ(p.101)ている。その要点は,次の箇所にまとめられているように思われる。

日本人は集団主義であるために会社(組織)全体の利益を考えて,不正を隠匿したりその他の違法行為をしたりするといわれることがある。しかし少なくとも現在の組織では,ここでみたような私利の追求によって不祥事が生じているといえる。集団主義は個人の利益よりも組織の繁栄を願うことを意味するわけであるから,集団主義者は右で分析した行動をとるはずがない。集団主義者が不正を知ったならば,むしろそれが小さいうちに除去しようとするはずである。右でみた行動をとる人間は集団主義者ではない。(p.123)

 この文章の直前では,「公にできない個人的な嗜好を隠蔽しながら実現する手段」(p.122)として多数決制とインフォーマル・グループを利用できることが述べられている。上の引用にある「右で分析した行動」とは,そのように,私利の追求のために集団を利用する行為を指しているのであろう。

 しかしこれを見る限り,「集団主義のために不祥事の抑止が妨げられたという考え方」の皮相さ・不正確さを論じることはあまり成功していないように見える。というのは,「現在の組織では,ここでみたような私利の追求によって不祥事が生じている」ことは,可能性とは示唆されているが,確認されていないからである。同様に筆者は「先に触れた不祥事には,必ずインフォーマル・グループがかかわっているはずである」(p.117),「おそらくすべての不祥事の背後には,密室での意思決定があろう」(p.119)と述べている。これらも「〜はずである」「〜あろう」という表現がなされているように,あくまでも推測であって確認されているわけではない。しかし「JCOの臨界事故」に関する本や失敗学的な本をいくつか読んだ限りにおいては,組織における不祥事が一部の人の私利の追求のような単純な理由と構図で起こっているとはいえないように思う。

 ちなみに,私の考えと似たようなことは,鳥越俊太郎氏のWebページ「あのくさ こればい!」(1/25)で,最近の不祥事に触れながら,次のように指摘されている(道田による要約)。

「埼玉県警川越署の覚醒剤もみ消し事件」と「雪印食品の牛肉偽装事件」は,「自分の私腹を肥やすためにやったような個人的な事件」ではなく,「組織の利益の為に必死でやった」「組織への過剰な忠誠心」に基づくもの(組織の為によかれと思いやっている),という点で共通している。

 すなわち,「集団主義」のためにこのような不祥事が起きた,とする考え方である。本書の筆者の考えと,鳥越氏や私の考えの違いはおそらく,「組織の利益」「組織忠誠心」「集団主義」などの概念に対する,定義や捉え方の違いのように思われる。この点については,もう少し考える必要がありそうである。

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 #これに関して,50代の元銀行員の方から,以下のようなメールをいただいた(一部のみ抜粋)。

私も鳥越さんの「あのくさ、こればい」を読みました。 まったく同感です。 「自分の利益のために」ではなくて、「組織の為によかれ」と思っ てなされる行為だと思います。

 

■喋る1歳6ヶ月児
2002/03/02(土)

 下の娘は,もうすぐ1歳6ヶ月になる。私は彼女がこの月齢になるのを楽しみにしていた。というのは,2年前の読書日記によると,上の娘(2歳3ヶ月)は1歳6ヶ月のとき,「ゴニョゴニョゴニョゴニョネ!」という宇宙語を喋っていたのだ。残念ながら,もうそのときのことは覚えていない。だから,下の娘にそのときがくるのを楽しみにしていたのだ。

 ところが,少なくとも今のところは,下の娘は「宇宙語」を喋ってはない。彼女が喋るのは,単語(くく=靴下,靴,がっこ=抱っこなど,にゅうにゅう=牛乳。その他にパパ,ママなど)が中心のようである。あとは歌である。

 歌に関していうと,発音できそうなところだけを抜粋して歌っている。彼女の最近のマイブームは,りんけんバンドの代表作「ありがとう」だ(こちらで聴けます。ページの中ほどに曲へのリンクあり)。曲の出だしは「あり,あり,ありがとう」なのだが,彼女がこの歌を歌うと「あい,あい,とー」となる。最初と最後の部分だけである(オヤバカついでに言わせてもらうと,音程はなかなかきれいにとれている。ような気がする)。

 それで思ったのだが,これは,上の娘と下の娘の言葉に対する対処法の違いなのかもしれない。上の娘は,発音は抜きにして,(何かゴニョゴニョ喋っているという)「雰囲気」から入るタイプ。それに対して下の娘は,雰囲気よりも,喋れそうな音だけをピックアップして喋るという,「音重視」タイプ,と言えそうである。

 それはたまたまかもしれないし,上の娘も両方の対処をしていたのかもしれないし,よくあることなのかもしれないし,今だけかもしれない。でも,上の娘も下の娘も,笑い顔や泣き顔を見ると,生まれたときから変わっていないなあと思う。それに上の娘は今でも,私たちが(大人の)会話をしていると,それに加わろうとして,横で大人風の喋りを雰囲気だけ真似してゴニョゴニョいっている。下の娘も,このまま変わらないのか,変わっていくとしたらどのように変わっていくのか,とても楽しみである。

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