読書と日々の記録2002.03下
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■読書記録: 31日短評10冊 30日『臨床教育学入門』 28日『哲学的思考』 24日『木のいのち木のこころ(天)』 20日『誤りから学ぶ教育に向けて』 16日『医療事故』
■日々記録: 26日この2年間の成長 23日最近の読書記録 18日体重とか歌い間違いとか
日記才人説明
日記じゃんくしょん投稿

■3月の読書生活
2002/03/31(日)

 今月よかったのは『誤りから学ぶ教育に向けて』『哲学的思考』だろうか。前者は問題はあるものの示唆的,後者は難しかったが理解を促進したような気がする。『被抑圧者の教育学』も,難しかったがここから何か得られそうな気がした。

 今月は小説を2冊も読んだ。春休みに入ってちょっとゆったりした気分になったせいか。相変わらず積読本は多いのだけれど。

『マンガ 心のレスキュー−パニック・不安・うつ・不眠な時−』(越野好文・志野靖史 2002 北大路書房 ISBN: 476282237X \1300)

 サブタイトルにある4つの心の病にかかった人が,精神科に行って治癒するまでを描いたマンガ本。それにコラム的解説,欄外の補足や豆知識,Q&Aなどがついている。なるほどと思ったのは,脳も臓器のひとつであり,カゼをひいたり胃炎を起こすのと同様に病気になることもあります(p.147)という説明。精神疾患に対する抵抗を減らすためには,こういう比喩は非常に有効であるように思った。本書は,よくも悪くも学習マンガ的な本で,身近な精神疾患について簡単な知識を得たい人には悪くないかもしれない。ただ,本書がターゲットとする読者層は明確ではないように思った。あとがきには,困ったり悩んだりしている人たちに救助(レスキュー)の「浮き輪」を投げたい(p.155)という思いで本書を企画した,と書かれている。しかし本文中にあるように,これら4つの疾患の人は,精神疾患であるとは気づきにくく,最初に精神科に行く人は少ないという。そういう人は,本書も手にとらないのではないかと思う。欄外の豆知識の選ばれ方(フロイトとかユングとか)を見ても,患者向けということを明確に意識して作られているようには思えない。やはり良くも悪くも学習マンガ(精神疾患について一般的知識を得るための本)という理解が最適なように思える。

『テクストの読み方と教え方』(ロバ−ト・スコ−ルズ(ISBN:4000264060) \2,900)

 序章は理解できたしおもしろかったのだが,それ以降はあまりちゃんと読めたとは言いがたい。テキストの読み方には,能動的な読み・解釈・批評という3段階があるというのは納得。

『インタラクション−人工知能と心−』(上野直樹・西阪仰 2000 大修館 ISBN: 4469212520 \2,000)

 再読。1年前に読んだときは,どうしてこの人たちは,対談の中でこういう語りが自然にできるんだろう,と非常に不思議に思ったが,今回読んだときは,そういう違和感はかなり減っていた。私もこういう考え方に多少はなじんできたようである。それでも違和感が完全になくなったわけではない。たとえば,文字通り実際に存在する心や内面を推論しているのではなく,ある対象の振る舞いを秩序立て,説明するためのリソースとして,心とか意図とかその種の概念を使っているのではないでしょうか(p.7)という発言がある。私も,「他人の心や意図」に関してはそのとおりだと思う。しかし,自分で自分の内側に感じている自分の心や意図までもそう思うことは,今のところはできない。本書の語りの中には「他者と私の違い」は扱われていないように見える。このあたりがまだちょっとわかりきった感じがしない点の一つである。

『悪童日記』(アゴタ・クリストフ 1986/2001 ハヤカワepi文庫 ISBN: 4151200029 \620)

 大戦中,国境近くの田舎町で過ごした双子の少年たちの日記の体裁をとった小説。まあおもしろかった。主人公の少年たちは独特の雰囲気と力を持っており,独特の行動をするが,それはどう形容すれば一番ぴったり来るんだろう,と読みながらずっと思っていた。聡明で冷静で,少年離れしているというか,スーパーマン的というとちょっと違うような... でも,最後の最後に少年たちがとった行動で思った。これは筋金入りのハードボイルドだ。『不夜城』のような。あるいはゴルゴ13のような。しかし読んでいる最中は,そういうところをあまり感じさせない。それは「単純で明白で直裁」で「独特のユーモア」のある文体(訳者あとがきより)から来ているようである。それが,最後の最後で焦点があったように私には感じた。

『空飛ぶ馬』(北村薫 1989 東京創元社 ISBN: 4488023169 ¥1,700)

 10年ぶりくらいに読み返してみた。5話中1話しか覚えていなかった。まあそれだけ楽しむことができたともいえるが。推理小説であるだけでなく,19歳の女子大学生の日常が書かれており,落語その他の文学芸術について書かれている。その流れのなかに,自然に謎と推理があるのが心地よい。もっとこの人の本が読みたい,と思わせる一品だった。といってもこの10年間で,あと5冊ぐらいは読んでいるのだけれど。そのなかでもこの本のインパクトは大きいように思う。

『プランと状況的行為』(ルーシー・A.サッチマン 1987/1999 産業図書 ISBN: 4782801262 \2,600)

 人間行為の「状況に埋め込まれた」(situated)特性を,エスノメソドロジーと会話分析を用いて浮き彫りにした,状況論革命の古典とも言うべき本(p.210: 監訳者あとがき)。最後まで目は通したが,とても「読んだ」とはいえない。難解なので,わかりそうな記述だけピックアップしたという程度である。ただ一箇所,「おお,なるほど」と思った記述がある。それは,意図や信念のような行為の背景の前提というものは,行為の前提が取り沙汰されたときに,行為を説明するという活動によって生成される(p.46)ことを説明した箇所である(似たような話は『哲学・航海日誌』にもあった)。それは,「オフィスから外に出るとき,ドアの向こうまで床が続いているということを思い浮かべてはいない。しかし誰かに聞かれたら,床がドアの向こうまで続いていると信じていたと答えざるをえないだろう」(p.46: 要約引用)という説明である。なーるほど,信念にしても意図にしてもプランにしても,行為の前提として常に利用されているというよりは,説明のたびに「生成」される,というのはそういうことか。少し理解が進んだような気がする。

『道徳とその外部−神話の解釈学−』(笹沢豊 1995 勁草書房 ISBN: 4326153016 \3,000)

 道徳とその非理性的な「外部」とのつながりを明らかにする(p.329)ことを主たるテーマとした本。具体的には,キリスト教,ギリシア神話,アテナイの民主制がその俎上にあげられている。基本的には難しく,私はキリスト教の章しかきちんとは理解できなかった。しかし,その理解できた部分だけに関して言うならば,異様に面白かった。旧約聖書の道徳観やイエスの愛や人道主義が,当然のこととしてではなく,その外部から考察されており,その政治性や欺瞞性が指摘されている。

『成長する教師−教師学への誘い−』(浅田匡・生田孝至・藤岡完治編 1998 金子書房 ISBN: 4760825754 \3,800)

 教師学なるものを提唱した本。執筆者には,教育方法学と教育工学の領域の人が多いように感じた。そのせいだろうか,教師の行動をシステマティックに理解するための道具立てがいくつか紹介されており,参考になった。たとえば,VTR中断法(p.97),カード構造化法(p.124-),パーソナル・ティーチング・セオリー(p.136-),授業日誌(p.149-),などである。そのような工学的・科学的なアプローチだけではなく,「反省的実践」やリフレクションという語も頻繁に出てくる。しかし本書の基本的な重心は,工学方面にあるように感じた。

『コンピュータのある教室−フレネ教育−』(佐伯胖・田中仁一郎 1999 青木書店 ISBN: 42509929X \2200)

 前半が田中氏によるフレネ教育実践報告,後半が佐伯氏によるフレネ教育と正統的周辺参加の解説である。田中氏の実践で興味をひいたのは,最初,タイプライターを導入しながらも,作文が集まるか,興味をもってくれるか心配だった(p.96-)という著者の心境である。そうして自由作文を行っていくうちに,説明だけの一斉授業に疑問をもち,学習材を導入していくという話も興味深かった。あとは佐伯氏の話で,第一接面(何かをきっかけにその世界と馴染むこと)での学びにおいて,自己との対話が必要(p.159),というものも示唆的であった。

『議会−官僚支配を超えて−』(五十嵐敬喜・小川昭雄 1995 岩波新書 ISBN: 4004303699 \700)

 著者は弁護士と新聞社編集委員。規制緩和や地方分権を進めるためには,議員立法を活用することが重要であることを論じた本。政治オンチの私には,なぜこれまで官僚支配が強く,なぜ議員立法が有効で,そしてどのようにそれを進めていかれるべきなのか,ということがわかり,大変勉強になった。キーワードだけ書いておくと,いかなる政策も法律なくしては実施できない,新政権が新政策を掲げても予算が変わらなければ何も変わらない,機関委任事務で地方自治が骨抜き,官僚は法律の解釈権も実施権も独占している,政党が競うべきはスローガンではなく議員立法,議員は日本で唯一法案が可決できる専門家,議会は「公開で討議する」民主主義な機構,といったところだろうか。

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■『臨床教育学入門』(河合隼雄 1995 岩波書店 ISBN: 4000039350 \1,800)
2002/03/30(土)
〜反省的実践としての臨床教育学〜

 筆者は,1987年に京大にできた臨床教育学講座の初代教授だったそうだ。臨床教育学は新しい分野なので,どういうものかというのは人によっていろいろあるのだろうが,筆者は自分の考える臨床教育学について,次のようなことを述べている。

  • もっとも大切なことは,研究者が研究しようとする現象に自らかかわっており,「客観的観察者」の立場をとらないことから出発すること(p.13)
  • 特徴としてまずあげられることは,その発見的(heuristic)な性格(p.23)
  • 筆者は,教師は「専門職」と考えていいのではないか,と思っている(p.150)
  • 臨床教育学では個々の具体例を大切にすること,子どもの視点でみることを大切にすることを述べた(p.181)

 これはまさに「反省的実践」の勧めである。たとえば2番目に挙げられている「発見」に関しては,ある事例を挙げて,偶然性に対して心を開いていてこそ発見がある(p.26)などと書かれている。以前の私だったら,何ノコトヤラ,と思っていただろうが,反省的実践という言葉(あるいは佐藤学氏の著作)を念等におくと,非常によく理解できる。

 ・・・と思って読んでいたら,筆者は稲垣氏や佐藤氏の研究会(授業カンファレンス)に参加していたようで,そこから考えると,彼らの直接的な影響があったと考えられそうだ。筆者が臨床心理学者なので,本書では,学校の問題の中でも不登校,個性,いじめなどが主に扱われている。しかしそれだけでなく,授業についても多少触れられている。それを見る限り,筆者の考える「教育臨床学的な授業」とは,「総合的な学習」や「子ども中心主義」的な授業であるように見えた。というよりも,教師も子どもも反省的にかかわることのできる授業,ということだろうか。そういえば,誤答や愚問を,うまく取り上げ授業のなかにいかに生かしてゆくかを教師はこころがけるべき(p.223)もあった。

 河合氏の本はひさびさに読んだ気がするが,平易で読みやすく面白いけれども,常に複数の可能性に言及されていて意見が平板になっていないところはさすが。なるほど,と思える箇所も何箇所かあった。たとえば発達段階に教師が縛られると「子どものいちばん光っている部分を見落としてしまう」ことになる(p.98)とか。ただ,本職の心理臨床や深層心理の話に比べて,さほど強いインパクトを私は感じなかったが。

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■『哲学的思考−フッサール現象学の核心−』(西研 2001 筑摩書房 ISBN: 4480842578 \2,500)
2002/03/28(木)
〜無意識を意識する〜

 筆者によると,いまではフッサールをまともに読んでその主張を受け取ろうとする人も,ひどく少なくなってしまった(p.7)のだそうだ。しかし現象学とは,実は哲学に普遍的な,より強く深い思考の方法であるという。たとえばソクラテスの対話も,現象学的な方法論の一種を用いていると考えることができる。本書は,このように普遍的思考法としての現象学を示そうとした本,とでも言えるだろうか。もっとも,全392ページのうち私が十分に理解できたのは半分以下だと思うので自信はないのだが。

 その「思考の方法」とは,みずからの体験を反省しつつその「本質」を記述する(p.31),体験の本質観取と呼ばれる方法である。それは,ある問題意識から経験を眺め考察することで「どんな人にも共通なこと」を取り出すことであり,体験を丁寧に記述することで自説を検証し包括的に位置づけることであり,問いそのものを吟味し検証することも含むことであるようである。

 たとえば「客観的真理」ということがらに対してフッサールが取ったスタンスは次のようなものなのだそうである。

客観的真理の存在を「肯定」するのでも「否定」するのでもなく−−つまり客観的真理の存在をエポケー(判断停止)しつつ−−私たちがどのようにして客観性や真理性と呼ばれるものを「体験」しているかを,つまり,それらの体験における意味をあらためて確かめてみる,というものだった。(p.339)

 ちょっとわかりにくいかもしれないが,基本は,古い心理学の用語を用いるならば「内観」ということのようである(どういう態度でどういう方向に向かって行うか,ということが重要なのだが)。しかし自分の内側を見つめることで,客観的真理について分かるのか? わかるのはあくまでも,意識的にとらえられる範囲に限られてしまうのではないか? そういう疑問がわきそうである。

 しかし,これは本質観取の目的を取り違えたために出てくる疑問のようである。たとえば,本質観取を用いて「無意識」についても考えることができる。というのは,「無意識の存在を確信」しているのは,あくまでもわれわれの「意識」だからである。そこで,私たちのどういう意識体験が,無意識の存在を確信させているのだろうか(p.200)という問いが生まれ,本質観取を行うことができるのである。無意識にしても,客観的真理にしても,それが本当に存在するかどうかは別にして,その存在を認めているのはわれわれの意識ということなのである。実在を問うのではなく,その体験の意味を問うということか。なるほど,ようやくわかった,ような気がする。

 これまで読んだ本のなかにも,『はじめての現象学』とか『「考える」ための小論文』に現象学の話は出てきていた。しかしなかなかわかった感じがしていなかった。それは,思考の方法の説明が主で,実際にそれを用いた場面が示されていなかったからではないかと思う。その点本書では,本質観取の実際と題して,死の恐怖などいくつかの題材を対象に,それが試みられたこと(のおそらく一部)が紹介されているので,これまでよりは少しはわかったような気がする。そのうえ,やり方だけでなく本書全体を通して現象学批判への反論など,さまざまな角度から丁寧に説明されていたのもよかったかもしれない。そういう意味で本書は,入門の次の段階の本としていいのではないかと思う(理解が半分以下の私が言うのもナニではあるが)。

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■この2年間の成長,というか変わっていないところ
2002/03/26(火)

 週末,ふと思い立って,上の娘(3歳9ヶ月)が1歳半だったころのビデオを見てみた。1歳半というと,下の娘の今の月齢である。比べてみようというわけである。

 こうやって比べてみると,改めて二人の違いがよくわかる。ここまで違うとは,思いもしなかった。というか,上の娘がこれくらいのときのことを,すっかり忘れていた。ほんの2年ちょっと前のことなのに。

 一番びっくりしたのは,上の娘のおてんばぶり。ともかく何にでも登るのである。足場がないときは,風呂のイスだの粉ミルクの缶だのを持ってきて登る。テーブルや,寝転がっている私の腹は当然。ベビーベッドの柵にも登る(さすがに登りきってはいない)。そのうえ,洗面台にも登るのである。一人で。巧みに取っ手に足をかけて上まで登りきり,洗面のスペースのなかに座り込んで悦にいっていたりするのである。思わず心の中で「サル」とつぶやいてしまった。

 そうそうそういえば,上の娘が「パパになる」と言っていることを,つい最近書いた。しかしこれに近いことを,もう1歳半でやっていたのだ。たまたまかもしれないが,私が新聞を広げて読んでいたら,自分も幼児雑誌の切れ端をもってやってきて,同じポーズで読んでいる(ふりをしている)のである。私が試しに寝っころがると娘も寝っころがり,私が起きると娘も起きるという具合に。上の娘のサルぶりはなんとなく記憶にあったが,これはまったく忘れていた。

 こういうのも含め,全体的な印象は今とあまり変わらない。笑い方も同じだし。全体的にいたずらっぽい雰囲気が漂っているのである。それに対して下の娘は,同じかわいさでも,どちらかというと愛嬌のあるかわいさを持っているような気がする。二人ともこのまま大きくなっていくのかなあ,なんてちょっとニヤついてみたりして。

 ついでにもうひとつ。このころの私は,ビデオ画面に登場するうちのおそらく2/3以上は,寝そべって本を読んでいるのである。2年ちょっと前というと,この読書記録をはじめてすぐである。そのせいか,寸暇を惜しんで必死になって読んでいるように見える。今はもう少し余裕と計画性をもって読んでいるはずである。というか,自分としてはそう思っている。はたから見たら,大して変わらないように見えるのかもしれないけど。

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■『木のいのち木のこころ(天)』(西岡常一 1993/2001 新潮社OH!文庫 ISBN: 4102900926 \543)
2002/03/24(日)
〜弟子や建物や自分を育てる〜

 最後の宮大工棟梁と言われる筆者の話を聞き書きした本。『対話の技』で引用されており,面白そうだったので読んでみたが,実際面白かった。語られている内容は,木の癖を見抜いてそれにあった使い方をしなければならないという大工話,学者の意見より大工としての経験と勘のほうが役に立つ場合があるという話,職人の技や勘は,師匠と弟子が生活をともにしてはじめて伝えられるという徒弟制の話,あたりであろうか。どれも,教育の話として読み替えることが可能なので面白い。そういうところを抜き書きしてみよう。

 「木の癖」としては,次のようなことが語られている。

ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが,個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。それなら昨日始めた大工でもいいわけですわ。(p.24)

 「平均化してしまう」とは,たとえば合板にしてしまったり,木の性質とは無関係に電動の工具で精密に強引に形にしてしまうことである。それは,木の性格が出ないように,個性を消してしまうことである。個性を生かすのではなく取り除くのである。あるいは曲がった木,使えない木は捨ててしまうことである。このように木の癖を無視するようになるのは,技術が先に立つから(p.70)と筆者は指摘する。

 それに対して「個性を大事にする」とはたとえば,木が生えている場所や向きによって強さや素直さが違うので,それを考慮して適材適所で使うという話である。あるいは,木の捻れを知ったうえでそれを組み合わせて部材同士の力で癖を封じて建物全体のゆがみを防ぐ(p.155)という話である。うーん示唆的だ。棟梁として人をまとめることに関しても,同じようなことが語られている。

 「学者話」としては,再建の会議で建物の様式を検討したときのことを,次のように述べている。

論争になると,学者はこの時代はこういう様式のはずや,あの伽藍はこうやったし,ここはこうやったからこうあらねばならんというようなことを言いますのや。これじゃ,あべこべですな。先に様式を考えているんですな。そうじゃなしに,現にある,廃材の調査からどんなものだったのかを考えなならんのですよ。自分の考えの前に建物があったんですからな。(p.79)

 これはまさに,反省的実践ではなく技術的実践(科学的な理論を道具的に適用する実践)を行う学者の話である。筆者はそういうやり方ではなく,天井裏に置かれた廃材を調べ,それが何の部材でどう使われたのか,ということを見極めてから形式を考える,という作業をやっている。反省的実践というと,複雑性や不確実性などの特質をもつ人間相手の実践に特有な実践かと思っていたが,実はこのような技術の現場でも同じであることが本書でわかった。筆者が木を,個性をもった対象として扱っていることも関係するかもしれない。筆者は最後に,学者たちと長ごうつきあいましたけど,関心せん世界やと思いましたな(p.80)と述べている。もっとも,彼らの話を聞き,自分の学説にしばられない学者もいたそうだが。

 徒弟制度に関しては,一緒に暮らし,やって見せ,肌で感じる中で「育てる」ことであって,「教える」ものではないという。考えるのは自分(p.86)だからである。その,自分で考えるということに関する記述に,次のようなものがあった。

(時代ごとにこんな違いがあるということを教えるときに)丸暗記したほうが早く,世話はないんですが,なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。丸暗記してもろうても後がありませんわな。面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え,極めるには大変な時間と労力がいりますが,後で自分流の木割りができますのや。そうしてはじめて本当の宮大工といわれるようになるんですな。丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。(p.106)

 考える人を育てるための徒弟制か。示唆的である。というか,徒弟制の中では自分で考えるしかないし,考えなければ身につかない,ということだろうか。時間も,遅くてもかまわない,早い人よりもむしろじっくり進んだ人のほうが,刃物なんかはいい切れ味になります(p.109)とも述べられている。ああ,これも示唆的である。

 このほかにも,儲けや流行ではなく,人間のために必要だから農業や林業をやるという話なども興味深かった。深読みや,欠点に目をつぶった一方的な礼賛は避けなければいけないだろうが,弟子や建物や自分を「育てる」ことを考えるうえで,ヒントになりそうなことがいくつか載っていたことは間違いない。

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■最近の読書記録
2002/03/23(土)

 この時期に,読書記録の1年を振り返るというのも変な気がしないでもないが...

 最近,【育】カテゴリーに入る本が多くなっている。今月も,5冊中3冊がそうだ。それ以前も,長評7〜8冊中少なくとも2冊,多いときは4冊の教育関係書が入っている。今,私が最も興味があるのも,最も面白いと思っているのも教育に関する事柄なので,当然という気がするが,ずっとこうだったわけではない。

 目次をさかのぼってみると,この傾向は昨年5月から始まっている。それ以前はというと,1999年9月から2001年4月までの20ヶ月で8冊しかない。それ以降が11ヶ月弱で30冊なので,えらい違いである。

 こうなった理由はいくつかあるだろう。もちろん所属は教育学部だし。それに,たまたま1冊興味深い教育関係書にであったら,そこから連鎖的に関連書を探し,その結果そういう種類の本が増える,ということもある。逆にいうと,それまではたまたまそういう本に出会わなかったために,あるいは出会ったとしてもそこからの連鎖がうまくつながっていかなかったために,教育関係書が増えなかったといえる。ちなみにこの状況を生み出した,エポックメイキング的な本は,『考えることの教育』である。

 でもひとつ困ったことがある。索引を見ると,教育関係書が40冊近く並んでいる。これでは索引の役目があまり果たせない。ここ半年ほど,教育からいくつかのカテゴリーを独立させたいと思っているのだが,なかなかいいカテゴリーが思いつかないでいる。年内には何とかしたいと思っているのだが。

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■『誤りから学ぶ教育に向けて−20世紀教育理論の再解釈−』(ヘンリー・J.パーキンソン 1984/2000 勁草書房 ISBN: 4326298669 \3,200)
2002/03/20(水)
〜自由で応答的で援助的な環境での試行錯誤〜

 ピアジェ,スキナー,モンテッソーリ,ニイル,ロジャーズの教育論を,ポパー的な批判的合理主義の原理を持つものとして再解釈しようとした本。どの程度まで肯定できる内容なのかという判断は非常に難しいような気はするが,非常に興味深い本だった。

 これらの教育理論がもっているものは,生徒(人間)が誤りやすい存在であるとともに,秩序を求める存在であるために,誤りから学ぶことができるという点であると著者はいう。その点について著者は,次のように述べている。

学習者は知識の受容者ではなく,知識の創造者である。そして,学ぶための動機づけや管理を必要としない,秩序の探求者なのである。学習者は,誤りを重ねながら学ぶのである。(p.57)

 なお上記5人のうち,ピアジェは教育理論について述べているわけではない。しかし「調節」を通して成長するという考えは,現実と認知構造のズレから学ぶということであり,それは本書の言い方からすれば「誤りから学ぶ」ための基盤と考えることができるのである。

 上記の教育論,特にモンテッソーリ,ニイル,ロジャーズの検討を通して,著者は,誤り(批判的フィードバック)から学ぶためには,教育環境が自由で応答的で援助的であることが必要であることを明らかにしている。「自由」でなければ,試行錯誤もできないので,そもそも誤りが起こりようがない。そして「応答的」でなければ,誤りが気づかれにくい。モンテッソーリは理論づけが弱いのだそうだが,教具はこの点に特別に配慮されてつくられているようである。誤りが見えやすく修正しやすい教具である。

 このとき,誤りのフィードバック(批判的フィードバック)は,そのような環境にまかせるべきであって,教師がフィードバックするべきではない。教師が行うと,子どもは怖がり,威圧され,興味や自信を失うからである。それは子どもの自由を損ないかねない。モンテッソーリでは,子どもが間違えても,教師は繰り返したり強いたりすることなく,微笑して,子どもを優しく愛撫し,教具を片付けるだけのだという(p.133)。「援助的」環境ということである。援助的教師とは,召使のようなものだとして,モンテッソーリは次のように述べているという。

召使は主人の鏡台をきちんと整理して,ブラシをその場所におくが,主人が使用するときは何も言わないし,食事の世話はするが,食べることは強要しない。(p.159)
モンテッソーリにおける教師の果たすべき役割については,きわめてよくわかる話であった。もちろん援助的環境の重要性は,大変うなづける話であると思う。それはロジャーズの教育/カウンセリング/人間成長の理論を考えてもそうである。このように,複数の教育理論の共通ポイントを提示して見せたという点で,本書は非常に興味深いものであると思われた。

 ただし筆者は,上記の教育論をポパー流(筆者の言葉でいえばダーウィン的)に解釈するため,それに合致しないものは,不適切として退けている。たとえばオペラント条件づけは「神話」である,行動の修正は強化によって起こるのではなく,試行錯誤による誤りの排除によって起こるのだ(p.122),というように。そういう解釈が可能なのかどうかは,私には判断はつかないのだが,少なくとも説明はかなり一方的であるように思えた。あるいは,本書から排除されている伝統的な教育である伝達型のクラスでも,そこで生徒の中で起きていることは結局,「試行錯誤による誤りの排除」であるという(p.257)。そういう言い方をしてしまったら,「すべてが説明できるために何も説明できない」ことになりかねないのではないかと思う。

 また,学習者は誤りから学ぶというが,環境を整えるだけでそれがいつもうまくいくかどうかについても,疑問に思えた。誤っても,対処法がわからないために同じ誤りを繰り返すということもあるだろうし,本質ではないところに誤りの原因を求め,その場しのぎ的な対処や言い訳で,真の学習が生じない可能性もある。たとえば繰り返し引き起こされる医療事故には,そういう側面がなきにしもあらずではなかろうかと思う。誤ることやそれに気づくことはたやすくても,そこから「適切に」学ぶことは,案外難しいことなのではないかと思うのだがどうだろうか。

 そういう難点はあるものの,学習や教育理論を統一的に眺めるための視点を与えてくれるし,学習におけるフィードバック(誤り,批判)のあり方や教師のかかわり方について教えてくれるという点で,興味深い一冊であったことは間違いない。

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■体重とか歌い間違いとか
2002/03/18(月)

 体重は,相変わらずコントロール感を喪失したままである。何もしてないつもりなのに,1日で600gも増減してたりして。あと,気合が入っていないとついお菓子をつまんでしまう習癖もつきつつつあるし。コントロール感喪失に加えて抑止力喪失という感じ。それでもかろうじて先月より減なのだが。

 ということで体重の話題はこれくらいにして,また娘話などを。

 うちの娘たちは,最近毎日「となりのトトロ」をDVDで見ている。いままで,いくつかDVDを買ってあげたけど,こんなに熱心に見ているのは初めてではないかと思う。上の娘(3歳9ヶ月)はセリフも真似してたりしている。

 その上の娘。主題歌の「さんぽ」をよく歌うのだが,歌詞がちょっと自分なりに変化してしまっている。元の歌の,♪坂道 トンネル 草っぱらという部分が,娘が歌うと...

♪さっかみっち〜 とんねる〜 ゆかはったら〜

 ・・・床這ったら? たしかに「いろんな場所を散歩する」という歌ではあるのだが...

 ついでにもう一つ。「トトロ」ではないが,娘が歌うと歌詞が変わってしまう歌がある。「コンコンクシャンのうた」という歌である。NHKの「いないいないばあ」とか「おかあさんといっしょ」などでも歌われていたりする。この曲の出だしは,♪りすさんが マスクしたである。これを上の娘が歌うと・・・

♪りっすさんが〜 ばっすでっした〜

 ・・・バスでした?

 ちなみにこの曲,1番に2回,全部で10回「マスクした」が出てくる。つるさんとかぶうちゃんとかかばさんとかがマスクをして,「コンコンコンコン クシャン」と言うわけである。それが全部「バス」になってしまう。動物が「バスでした」とは...

 #そういえば「トトロ」には「ネコバス」があったなあ(笑)

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■『医療事故−なぜ起こるのか,どうすれば防げるのか−』(山内桂子・山内隆久 2000 朝日新聞社 ISBN: 4022575328 \1,300)
2002/03/16(土)
〜組織的問題の結果として事故の原因が生まれる〜

 タイトルとサブタイトル通りの本。もう一つ付け加えるなら,「どういう事故が起きているのか」についても知ることができる。詳しい説明ばかりではないが,いついつにどこでどのような原因でどういう事故が起きた,的な簡単な記述であれば,本書にはたくさん含められている。医療事故だけでなく,信楽高原鉄道の正面衝突事故などについても書かれている。つまり本書は,医療を中心とした失敗学の本と言える。

 本書にあげられている医療事故としては,次のようなものがある。患者を取り違えた点滴/輸血/手術,点滴チューブに消毒液を誤注入,誤診,チューブはずれ,薬剤やスイッチの入れ忘れ,誤記入や誤指示による薬の大量投与など(p.7)。これはどうやら,珍しいことではない。日本ではきちんとしたデータはないらしいが,アメリカでは医療事故による死亡は死亡原因の第八位であり,交通事故や乳がんやエイズよりも多いという(p.26)。

 こういう事故をみると,「やった人」を責めがちであるが,筆者らの基本的な考え方は違う。それは次のようなものである。

事故は個人が起こすものではなく,組織の中で起こるものですから,個人に責任を押しつけて処分し,それで片付けてしまうやり方では,事故を起こしやすい組織の体質はそのまま残ってしまいます(p.159)

 これは別に,「連帯責任」的な意味ではない。事故の直接的な原因となった特定個人のエラーは,実は潜在的にあったいくつもの「組織の失敗」が重なって起こった結果(p.96)ということなのである。たとえば,横浜市大病院で患者を取り違えて手術するという事故があったが,そのケースで筆者らは,考えられるエラーやルール違反として,伝達エラー,思い込み,看護婦の配置不十分,確認欠如,情報交換不十分など10点をあげている。これを見ても,事故の最後の引き金を引いた個人の行動だけを責めればいいわけではないことがわかる。上の引用にあるように,個人の行動という「原因」が組織的問題の「結果」であるという視点は,非常に重要であるように思った。

 筆者らは心理学者である。したがって,サブタイトル的な部分(なぜ起こるのか,どうすれば防げるのか)に関しては,認知・学習心理学(選択的知覚,学習の般化と抑制,思い込み),社会心理学(基本的帰属錯誤,集団浅慮,リスキーシフト,同調,説得的コミュニケーション,ソーシャルサポート)などの概念を使って説明されている(そのあたりの記述には技術的合理性的なにおいを感じたが)。しかしそれだけではなく,医療裁判の話,医療現場の話,事故調査の話,説明責任の話など,話題は医療事故をめぐって多岐にわたっており,興味深かった。

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