| 31日短評10冊 30日『臨床教育学入門』 28日『哲学的思考』 24日『木のいのち木のこころ(天)』 20日『誤りから学ぶ教育に向けて』 16日『医療事故』 |
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| 26日この2年間の成長 23日最近の読書記録 18日体重とか歌い間違いとか |
日記じゃんくしょんに投稿 |
■3月の読書生活 |
2002/03/31(日)
今月よかったのは『誤りから学ぶ教育に向けて』と『哲学的思考』だろうか。前者は問題はあるものの示唆的,後者は難しかったが理解を促進したような気がする。『被抑圧者の教育学』も,難しかったがここから何か得られそうな気がした。 今月は小説を2冊も読んだ。春休みに入ってちょっとゆったりした気分になったせいか。相変わらず積読本は多いのだけれど。
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■『臨床教育学入門』(河合隼雄 1995 岩波書店 ISBN: 4000039350 \1,800) |
2002/03/30(土)
〜反省的実践としての臨床教育学〜筆者は,1987年に京大にできた臨床教育学講座の初代教授だったそうだ。臨床教育学は新しい分野なので,どういうものかというのは人によっていろいろあるのだろうが,筆者は自分の考える臨床教育学について,次のようなことを述べている。
これはまさに「反省的実践」の勧めである。たとえば2番目に挙げられている「発見」に関しては,ある事例を挙げて,偶然性に対して心を開いていてこそ発見がある(p.26)などと書かれている。以前の私だったら,何ノコトヤラ,と思っていただろうが,反省的実践という言葉(あるいは佐藤学氏の著作)を念等におくと,非常によく理解できる。 ・・・と思って読んでいたら,筆者は稲垣氏や佐藤氏の研究会(授業カンファレンス)に参加していたようで,そこから考えると,彼らの直接的な影響があったと考えられそうだ。筆者が臨床心理学者なので,本書では,学校の問題の中でも不登校,個性,いじめなどが主に扱われている。しかしそれだけでなく,授業についても多少触れられている。それを見る限り,筆者の考える「教育臨床学的な授業」とは,「総合的な学習」や「子ども中心主義」的な授業であるように見えた。というよりも,教師も子どもも反省的にかかわることのできる授業,ということだろうか。そういえば,誤答や愚問を,うまく取り上げ授業のなかにいかに生かしてゆくかを教師はこころがけるべき(p.223)もあった。 河合氏の本はひさびさに読んだ気がするが,平易で読みやすく面白いけれども,常に複数の可能性に言及されていて意見が平板になっていないところはさすが。なるほど,と思える箇所も何箇所かあった。たとえば発達段階に教師が縛られると「子どものいちばん光っている部分を見落としてしまう」ことになる(p.98)とか。ただ,本職の心理臨床や深層心理の話に比べて,さほど強いインパクトを私は感じなかったが。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『哲学的思考−フッサール現象学の核心−』(西研 2001 筑摩書房 ISBN: 4480842578 \2,500) |
2002/03/28(木)
〜無意識を意識する〜筆者によると,いまではフッサールをまともに読んでその主張を受け取ろうとする人も,ひどく少なくなってしまった(p.7)のだそうだ。しかし現象学とは,実は哲学に普遍的な,より強く深い思考の方法であるという。たとえばソクラテスの対話も,現象学的な方法論の一種を用いていると考えることができる。本書は,このように普遍的思考法としての現象学を示そうとした本,とでも言えるだろうか。もっとも,全392ページのうち私が十分に理解できたのは半分以下だと思うので自信はないのだが。 その「思考の方法」とは,みずからの体験を反省しつつその「本質」を記述する(p.31),体験の本質観取と呼ばれる方法である。それは,ある問題意識から経験を眺め考察することで「どんな人にも共通なこと」を取り出すことであり,体験を丁寧に記述することで自説を検証し包括的に位置づけることであり,問いそのものを吟味し検証することも含むことであるようである。 たとえば「客観的真理」ということがらに対してフッサールが取ったスタンスは次のようなものなのだそうである。 客観的真理の存在を「肯定」するのでも「否定」するのでもなく−−つまり客観的真理の存在をエポケー(判断停止)しつつ−−私たちがどのようにして客観性や真理性と呼ばれるものを「体験」しているかを,つまり,それらの体験における意味をあらためて確かめてみる,というものだった。(p.339) ちょっとわかりにくいかもしれないが,基本は,古い心理学の用語を用いるならば「内観」ということのようである(どういう態度でどういう方向に向かって行うか,ということが重要なのだが)。しかし自分の内側を見つめることで,客観的真理について分かるのか? わかるのはあくまでも,意識的にとらえられる範囲に限られてしまうのではないか? そういう疑問がわきそうである。 しかし,これは本質観取の目的を取り違えたために出てくる疑問のようである。たとえば,本質観取を用いて「無意識」についても考えることができる。というのは,「無意識の存在を確信」しているのは,あくまでもわれわれの「意識」だからである。そこで,私たちのどういう意識体験が,無意識の存在を確信させているのだろうか(p.200)という問いが生まれ,本質観取を行うことができるのである。無意識にしても,客観的真理にしても,それが本当に存在するかどうかは別にして,その存在を認めているのはわれわれの意識ということなのである。実在を問うのではなく,その体験の意味を問うということか。なるほど,ようやくわかった,ような気がする。 これまで読んだ本のなかにも,『はじめての現象学』とか『「考える」ための小論文』に現象学の話は出てきていた。しかしなかなかわかった感じがしていなかった。それは,思考の方法の説明が主で,実際にそれを用いた場面が示されていなかったからではないかと思う。その点本書では,本質観取の実際と題して,死の恐怖などいくつかの題材を対象に,それが試みられたこと(のおそらく一部)が紹介されているので,これまでよりは少しはわかったような気がする。そのうえ,やり方だけでなく本書全体を通して現象学批判への反論など,さまざまな角度から丁寧に説明されていたのもよかったかもしれない。そういう意味で本書は,入門の次の段階の本としていいのではないかと思う(理解が半分以下の私が言うのもナニではあるが)。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■この2年間の成長,というか変わっていないところ |
2002/03/26(火)
週末,ふと思い立って,上の娘(3歳9ヶ月)が1歳半だったころのビデオを見てみた。1歳半というと,下の娘の今の月齢である。比べてみようというわけである。 こうやって比べてみると,改めて二人の違いがよくわかる。ここまで違うとは,思いもしなかった。というか,上の娘がこれくらいのときのことを,すっかり忘れていた。ほんの2年ちょっと前のことなのに。 一番びっくりしたのは,上の娘のおてんばぶり。ともかく何にでも登るのである。足場がないときは,風呂のイスだの粉ミルクの缶だのを持ってきて登る。テーブルや,寝転がっている私の腹は当然。ベビーベッドの柵にも登る(さすがに登りきってはいない)。そのうえ,洗面台にも登るのである。一人で。巧みに取っ手に足をかけて上まで登りきり,洗面のスペースのなかに座り込んで悦にいっていたりするのである。思わず心の中で「サル」とつぶやいてしまった。 そうそうそういえば,上の娘が「パパになる」と言っていることを,つい最近書いた。しかしこれに近いことを,もう1歳半でやっていたのだ。たまたまかもしれないが,私が新聞を広げて読んでいたら,自分も幼児雑誌の切れ端をもってやってきて,同じポーズで読んでいる(ふりをしている)のである。私が試しに寝っころがると娘も寝っころがり,私が起きると娘も起きるという具合に。上の娘のサルぶりはなんとなく記憶にあったが,これはまったく忘れていた。 こういうのも含め,全体的な印象は今とあまり変わらない。笑い方も同じだし。全体的にいたずらっぽい雰囲気が漂っているのである。それに対して下の娘は,同じかわいさでも,どちらかというと愛嬌のあるかわいさを持っているような気がする。二人ともこのまま大きくなっていくのかなあ,なんてちょっとニヤついてみたりして。 ついでにもうひとつ。このころの私は,ビデオ画面に登場するうちのおそらく2/3以上は,寝そべって本を読んでいるのである。2年ちょっと前というと,この読書記録をはじめてすぐである。そのせいか,寸暇を惜しんで必死になって読んでいるように見える。今はもう少し余裕と計画性をもって読んでいるはずである。というか,自分としてはそう思っている。はたから見たら,大して変わらないように見えるのかもしれないけど。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『木のいのち木のこころ(天)』(西岡常一 1993/2001 新潮社OH!文庫 ISBN: 4102900926 \543) |
2002/03/24(日)
〜弟子や建物や自分を育てる〜最後の宮大工棟梁と言われる筆者の話を聞き書きした本。『対話の技』で引用されており,面白そうだったので読んでみたが,実際面白かった。語られている内容は,木の癖を見抜いてそれにあった使い方をしなければならないという大工話,学者の意見より大工としての経験と勘のほうが役に立つ場合があるという話,職人の技や勘は,師匠と弟子が生活をともにしてはじめて伝えられるという徒弟制の話,あたりであろうか。どれも,教育の話として読み替えることが可能なので面白い。そういうところを抜き書きしてみよう。 ▼
「木の癖」としては,次のようなことが語られている。 ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが,個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。それなら昨日始めた大工でもいいわけですわ。(p.24) 「平均化してしまう」とは,たとえば合板にしてしまったり,木の性質とは無関係に電動の工具で精密に強引に形にしてしまうことである。それは,木の性格が出ないように,個性を消してしまうことである。個性を生かすのではなく取り除くのである。あるいは曲がった木,使えない木は捨ててしまうことである。このように木の癖を無視するようになるのは,技術が先に立つから(p.70)と筆者は指摘する。 それに対して「個性を大事にする」とはたとえば,木が生えている場所や向きによって強さや素直さが違うので,それを考慮して適材適所で使うという話である。あるいは,木の捻れを知ったうえでそれを組み合わせて部材同士の力で癖を封じて建物全体のゆがみを防ぐ(p.155)という話である。うーん示唆的だ。棟梁として人をまとめることに関しても,同じようなことが語られている。 ▼
「学者話」としては,再建の会議で建物の様式を検討したときのことを,次のように述べている。 論争になると,学者はこの時代はこういう様式のはずや,あの伽藍はこうやったし,ここはこうやったからこうあらねばならんというようなことを言いますのや。これじゃ,あべこべですな。先に様式を考えているんですな。そうじゃなしに,現にある,廃材の調査からどんなものだったのかを考えなならんのですよ。自分の考えの前に建物があったんですからな。(p.79) これはまさに,反省的実践ではなく技術的実践(科学的な理論を道具的に適用する実践)を行う学者の話である。筆者はそういうやり方ではなく,天井裏に置かれた廃材を調べ,それが何の部材でどう使われたのか,ということを見極めてから形式を考える,という作業をやっている。反省的実践というと,複雑性や不確実性などの特質をもつ人間相手の実践に特有な実践かと思っていたが,実はこのような技術の現場でも同じであることが本書でわかった。筆者が木を,個性をもった対象として扱っていることも関係するかもしれない。筆者は最後に,学者たちと長ごうつきあいましたけど,関心せん世界やと思いましたな(p.80)と述べている。もっとも,彼らの話を聞き,自分の学説にしばられない学者もいたそうだが。 ▼
徒弟制度に関しては,一緒に暮らし,やって見せ,肌で感じる中で「育てる」ことであって,「教える」ものではないという。考えるのは自分(p.86)だからである。その,自分で考えるということに関する記述に,次のようなものがあった。 (時代ごとにこんな違いがあるということを教えるときに)丸暗記したほうが早く,世話はないんですが,なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。丸暗記してもろうても後がありませんわな。面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え,極めるには大変な時間と労力がいりますが,後で自分流の木割りができますのや。そうしてはじめて本当の宮大工といわれるようになるんですな。丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。(p.106) 考える人を育てるための徒弟制か。示唆的である。というか,徒弟制の中では自分で考えるしかないし,考えなければ身につかない,ということだろうか。時間も,遅くてもかまわない,早い人よりもむしろじっくり進んだ人のほうが,刃物なんかはいい切れ味になります(p.109)とも述べられている。ああ,これも示唆的である。 このほかにも,儲けや流行ではなく,人間のために必要だから農業や林業をやるという話なども興味深かった。深読みや,欠点に目をつぶった一方的な礼賛は避けなければいけないだろうが,弟子や建物や自分を「育てる」ことを考えるうえで,ヒントになりそうなことがいくつか載っていたことは間違いない。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■最近の読書記録 |
2002/03/23(土)
この時期に,読書記録の1年を振り返るというのも変な気がしないでもないが... 最近,【教育】カテゴリーに入る本が多くなっている。今月も,5冊中3冊がそうだ。それ以前も,長評7〜8冊中少なくとも2冊,多いときは4冊の教育関係書が入っている。今,私が最も興味があるのも,最も面白いと思っているのも教育に関する事柄なので,当然という気がするが,ずっとこうだったわけではない。 目次をさかのぼってみると,この傾向は昨年5月から始まっている。それ以前はというと,1999年9月から2001年4月までの20ヶ月で8冊しかない。それ以降が11ヶ月弱で30冊なので,えらい違いである。 こうなった理由はいくつかあるだろう。もちろん所属は教育学部だし。それに,たまたま1冊興味深い教育関係書にであったら,そこから連鎖的に関連書を探し,その結果そういう種類の本が増える,ということもある。逆にいうと,それまではたまたまそういう本に出会わなかったために,あるいは出会ったとしてもそこからの連鎖がうまくつながっていかなかったために,教育関係書が増えなかったといえる。ちなみにこの状況を生み出した,エポックメイキング的な本は,『考えることの教育』である。 でもひとつ困ったことがある。索引を見ると,教育関係書が40冊近く並んでいる。これでは索引の役目があまり果たせない。ここ半年ほど,教育からいくつかのカテゴリーを独立させたいと思っているのだが,なかなかいいカテゴリーが思いつかないでいる。年内には何とかしたいと思っているのだが。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『誤りから学ぶ教育に向けて−20世紀教育理論の再解釈−』(ヘンリー・J.パーキンソン 1984/2000 勁草書房 ISBN: 4326298669 \3,200) |
2002/03/20(水)
〜自由で応答的で援助的な環境での試行錯誤〜ピアジェ,スキナー,モンテッソーリ,ニイル,ロジャーズの教育論を,ポパー的な批判的合理主義の原理を持つものとして再解釈しようとした本。どの程度まで肯定できる内容なのかという判断は非常に難しいような気はするが,非常に興味深い本だった。 これらの教育理論がもっているものは,生徒(人間)が誤りやすい存在であるとともに,秩序を求める存在であるために,誤りから学ぶことができるという点であると著者はいう。その点について著者は,次のように述べている。 学習者は知識の受容者ではなく,知識の創造者である。そして,学ぶための動機づけや管理を必要としない,秩序の探求者なのである。学習者は,誤りを重ねながら学ぶのである。(p.57) なお上記5人のうち,ピアジェは教育理論について述べているわけではない。しかし「調節」を通して成長するという考えは,現実と認知構造のズレから学ぶということであり,それは本書の言い方からすれば「誤りから学ぶ」ための基盤と考えることができるのである。 上記の教育論,特にモンテッソーリ,ニイル,ロジャーズの検討を通して,著者は,誤り(批判的フィードバック)から学ぶためには,教育環境が自由で応答的で援助的であることが必要であることを明らかにしている。「自由」でなければ,試行錯誤もできないので,そもそも誤りが起こりようがない。そして「応答的」でなければ,誤りが気づかれにくい。モンテッソーリは理論づけが弱いのだそうだが,教具はこの点に特別に配慮されてつくられているようである。誤りが見えやすく修正しやすい教具である。 このとき,誤りのフィードバック(批判的フィードバック)は,そのような環境にまかせるべきであって,教師がフィードバックするべきではない。教師が行うと,子どもは怖がり,威圧され,興味や自信を失うからである。それは子どもの自由を損ないかねない。モンテッソーリでは,子どもが間違えても,教師は繰り返したり強いたりすることなく,微笑して,子どもを優しく愛撫し,教具を片付けるだけのだという(p.133)。「援助的」環境ということである。援助的教師とは,召使のようなものだとして,モンテッソーリは次のように述べているという。 召使は主人の鏡台をきちんと整理して,ブラシをその場所におくが,主人が使用するときは何も言わないし,食事の世話はするが,食べることは強要しない。(p.159)モンテッソーリにおける教師の果たすべき役割については,きわめてよくわかる話であった。もちろん援助的環境の重要性は,大変うなづける話であると思う。それはロジャーズの教育/カウンセリング/人間成長の理論を考えてもそうである。このように,複数の教育理論の共通ポイントを提示して見せたという点で,本書は非常に興味深いものであると思われた。 ただし筆者は,上記の教育論をポパー流(筆者の言葉でいえばダーウィン的)に解釈するため,それに合致しないものは,不適切として退けている。たとえばオペラント条件づけは「神話」である,行動の修正は強化によって起こるのではなく,試行錯誤による誤りの排除によって起こるのだ(p.122),というように。そういう解釈が可能なのかどうかは,私には判断はつかないのだが,少なくとも説明はかなり一方的であるように思えた。あるいは,本書から排除されている伝統的な教育である伝達型のクラスでも,そこで生徒の中で起きていることは結局,「試行錯誤による誤りの排除」であるという(p.257)。そういう言い方をしてしまったら,「すべてが説明できるために何も説明できない」ことになりかねないのではないかと思う。 また,学習者は誤りから学ぶというが,環境を整えるだけでそれがいつもうまくいくかどうかについても,疑問に思えた。誤っても,対処法がわからないために同じ誤りを繰り返すということもあるだろうし,本質ではないところに誤りの原因を求め,その場しのぎ的な対処や言い訳で,真の学習が生じない可能性もある。たとえば繰り返し引き起こされる医療事故には,そういう側面がなきにしもあらずではなかろうかと思う。誤ることやそれに気づくことはたやすくても,そこから「適切に」学ぶことは,案外難しいことなのではないかと思うのだがどうだろうか。 そういう難点はあるものの,学習や教育理論を統一的に眺めるための視点を与えてくれるし,学習におけるフィードバック(誤り,批判)のあり方や教師のかかわり方について教えてくれるという点で,興味深い一冊であったことは間違いない。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■体重とか歌い間違いとか |
2002/03/18(月)
体重は,相変わらずコントロール感を喪失したままである。何もしてないつもりなのに,1日で600gも増減してたりして。あと,気合が入っていないとついお菓子をつまんでしまう習癖もつきつつつあるし。コントロール感喪失に加えて抑止力喪失という感じ。それでもかろうじて先月より減なのだが。 ◇
ということで体重の話題はこれくらいにして,また娘話などを。 うちの娘たちは,最近毎日「となりのトトロ」をDVDで見ている。いままで,いくつかDVDを買ってあげたけど,こんなに熱心に見ているのは初めてではないかと思う。上の娘(3歳9ヶ月)はセリフも真似してたりしている。 その上の娘。主題歌の「さんぽ」をよく歌うのだが,歌詞がちょっと自分なりに変化してしまっている。元の歌の,♪坂道 トンネル 草っぱらという部分が,娘が歌うと... ♪さっかみっち〜 とんねる〜 ゆかはったら〜 ・・・床這ったら? たしかに「いろんな場所を散歩する」という歌ではあるのだが... ついでにもう一つ。「トトロ」ではないが,娘が歌うと歌詞が変わってしまう歌がある。「コンコンクシャンのうた」という歌である。NHKの「いないいないばあ」とか「おかあさんといっしょ」などでも歌われていたりする。この曲の出だしは,♪りすさんが マスクしたである。これを上の娘が歌うと・・・ ♪りっすさんが〜 ばっすでっした〜 ・・・バスでした? ちなみにこの曲,1番に2回,全部で10回「マスクした」が出てくる。つるさんとかぶうちゃんとかかばさんとかがマスクをして,「コンコンコンコン クシャン」と言うわけである。それが全部「バス」になってしまう。動物が「バスでした」とは... #そういえば「トトロ」には「ネコバス」があったなあ(笑) ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『医療事故−なぜ起こるのか,どうすれば防げるのか−』(山内桂子・山内隆久 2000 朝日新聞社 ISBN: 4022575328 \1,300) |
2002/03/16(土)
〜組織的問題の結果として事故の原因が生まれる〜タイトルとサブタイトル通りの本。もう一つ付け加えるなら,「どういう事故が起きているのか」についても知ることができる。詳しい説明ばかりではないが,いついつにどこでどのような原因でどういう事故が起きた,的な簡単な記述であれば,本書にはたくさん含められている。医療事故だけでなく,信楽高原鉄道の正面衝突事故などについても書かれている。つまり本書は,医療を中心とした失敗学の本と言える。 本書にあげられている医療事故としては,次のようなものがある。患者を取り違えた点滴/輸血/手術,点滴チューブに消毒液を誤注入,誤診,チューブはずれ,薬剤やスイッチの入れ忘れ,誤記入や誤指示による薬の大量投与など(p.7)。これはどうやら,珍しいことではない。日本ではきちんとしたデータはないらしいが,アメリカでは医療事故による死亡は死亡原因の第八位であり,交通事故や乳がんやエイズよりも多いという(p.26)。 こういう事故をみると,「やった人」を責めがちであるが,筆者らの基本的な考え方は違う。それは次のようなものである。 事故は個人が起こすものではなく,組織の中で起こるものですから,個人に責任を押しつけて処分し,それで片付けてしまうやり方では,事故を起こしやすい組織の体質はそのまま残ってしまいます(p.159) これは別に,「連帯責任」的な意味ではない。事故の直接的な原因となった特定個人のエラーは,実は潜在的にあったいくつもの「組織の失敗」が重なって起こった結果(p.96)ということなのである。たとえば,横浜市大病院で患者を取り違えて手術するという事故があったが,そのケースで筆者らは,考えられるエラーやルール違反として,伝達エラー,思い込み,看護婦の配置不十分,確認欠如,情報交換不十分など10点をあげている。これを見ても,事故の最後の引き金を引いた個人の行動だけを責めればいいわけではないことがわかる。上の引用にあるように,個人の行動という「原因」が組織的問題の「結果」であるという視点は,非常に重要であるように思った。 筆者らは心理学者である。したがって,サブタイトル的な部分(なぜ起こるのか,どうすれば防げるのか)に関しては,認知・学習心理学(選択的知覚,学習の般化と抑制,思い込み),社会心理学(基本的帰属錯誤,集団浅慮,リスキーシフト,同調,説得的コミュニケーション,ソーシャルサポート)などの概念を使って説明されている(そのあたりの記述には技術的合理性的なにおいを感じたが)。しかしそれだけではなく,医療裁判の話,医療現場の話,事故調査の話,説明責任の話など,話題は医療事故をめぐって多岐にわたっており,興味深かった。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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