読書と日々の記録2002.10上

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■読書記録: 12日『状況のインタフェース』 8日『実践!アカデミック・ディベート』 4日『教育のエスノグラフィー』
■日々記録: 11日「学力低下論争」についての補足

■『状況のインタフェース─状況論的アプローチ1─』(上野直樹編 2001 金子書房 ISBN: 4760892818 ¥4,500)

2002/10/12(土)
〜つながる本〜

 『実践のエスノグラフィー』と同じ,状況論的アプローチシリーズの第一巻。この手の本はいくつか読んでいるにも関わらず今ひとつ十分に理解しているとはいえない。本書もそうであったが,理解できた部分に関しては興味深かった。特に今回は,ただ単に「わけが分からないながらも何かありそうな気がする」的な理解ではなく,これまでに持っていた知識がつながったり関係が分かった,という点が大きい。

 たとえば2章では,「文化的実践としての実験場面の組織化」として,ピアジェの保存課題における非保存児について,状況論的に考察されている。それは,「非保存児にとって実験者と自分の関係は,文字通りの「実験者」と「被験者」ではなかった」(p.81)という考察である。面倒くさいのでその詳細は書かないが,それは,相互行為分析的な視点に基づく考察として,きわめて納得のいくものである。そのことは,次のようにまとめられている。

実験者と非保存児は,まったく異なる相互行為を達成していることになるが,そのことが非保存児に見えるようにはなっておらず,一方,実験者には「能力欠如」の標識として捉えられるために,そのギャップは最後まで修復されることがないのである。(p.81)

 実はこれに似た話は『仕事の中での学習』にもあった。「パイロットと管制官,あるいはパイロットと制御コンピュータのコンテキストの組織化のされ方が異なっていたため,警告や会話の解釈がずれ,航空機墜落事故につながった」という話だ。それに対して私は読書記録で,「このような分析に,本書のような手法は威力を発揮するのではないかと思う」と書いたのだが,なかなかそういう事例にお目にかかれなかった。しかし実は,私でも知っている保存課題の別解釈の根底にもあったとは。それに気づかなかったのは残念だが,それが本書でつながったのは嬉しい限りである。

 また,「行為はプランでコントロールされているわけではない」という考え方も分かりにくいものなのだが,本書ではそれと関係しそうな記述が2つほどあった。一つはオリエンテーリングにおけるナヴィゲーションに関する記述で,初級者と熟練者のプランニングを比較したところ,「初級者はプランをとるべき手順と捉えているのに対して,熟練者はプランを,何がどう見えてくるかという一種の知覚的予期として利用している」(p.175)という結果が得られたと言う記述だ。前者は古典的には,フィードバックなしのフィードフォワード制御で,後者はフィードバック込みの制御と言えそうだが,そう考えると「プランも行為決定の一つのリソース」という考えもそれほど違和感がなくなる。

 もう一つは,ロボット研究でやはり「プログラムとしてのプラン」と「コミュニケーションのプラン」という2つのプランを区別している,という話だ(p.235)。後者のプランは「実行に際して参照し,活動内容を決定するための重要な資源となる」が「実行内容の決定は,その活動の規定に即した環境の解釈に大きく依存する」という点で,単なるプログラムとは異なる。適切な解釈かどうかは分からないが,この2つのプランは,ナヴィゲーションにおける2種類のプランニングと対応するのではないかと思う。というか,そう考えるなら,少しは分かった気になれるのである。私が。

 あと本書では,認知研究における記号論者と状況的認知論者の論争が紹介されており,それも興味深かった。そのような論争を総括して筆者は,記号論や従来の心理学の視点が,「人間の状況的な振る舞いを,状況抜きにすべてそのまま「内部」に押し込んできた」(p.213)と論じている。個体能力主義である。状況的認知とは,そのような視点を解き放つものなのだ。私は最近,反個体能力主義としての関係論にも興味をもっているが,それが状況論とこのように結びつくとは考えもしなかった。私の見た範囲では,そういう論じ方をしている論者はいなかったのではないかと思う。それがこんなに近いところにあったとは。何か得した気分である(何が?)。

 このように,フムフム人工知能やロボット研究を通しての理解は分かりやすいワイ,と思っていたら最終章で編者が,これらは状況論的アプローチとは決定的な違いがある,と論じている。その内容はこちらにある「nowhereの神の視点」に近いものだが,私は本書を読みながら,そういうことは思いもいたらなかった。うーむまだまだのようである。

 ちなみに,「神の視点」も局所的に状況的に組織されているということは,序章で編者が論じていることと同じであろう。道路の状況を見るのに,ドライバーはミクロな視点で,交通管制センターはマクロな鳥瞰的な視点で見ている,と考えられているが実際には違う。管制センターも,さまざまなテクノロジーを使って,局所的に状況的に相互行為として編成されているのである。そのことは分かったような気がする。この理解を手がかりに他の話も考えて見るといいかもしれない。

■「学力低下論争」についての補足

2002/10/11(金)

 先月,『学力低下論争』を読書記録で取り上げた。実はこの本は,著者様にいただいたものだった。そこで,読書記録に書いた旨を連絡したところ,先日返事を頂いた。そこに本の内容についての補足が書かれていた。補足されていたのは,「学力低下」論者たちを,2次元図式内の3極構造として描いていた部分だ(下図)。横軸が「学力低下」の「憂慮−楽観」,縦軸が「教育改革路線」に「賛成−反対」という軸である。

折衷派学力低下
楽観論者
学力低下
論者
 

 上の図でいうと,「学力低下」論争は,左下と右上の議論だったのだが,それを2次元平面に配置することで,左上(学力低下憂慮,教育改革賛成)という立場もあるよ,ということを筆者は図で表現したのだ。それに対して私は読書記録で,「このような理解だけだと,見えにくくなる部分も出てくるのではないか」と書いた。それに対する補足を書いてくださったわけだ。著者の許可を得たので,その内容をここに転載し,補足をしておく(強調は道田)。

あの2次元図式については、誤解を招く危険というよりは、誤解を避けられる可能性のほうが多いというのが、自分、もしくは、何人かからいただいた評価なので、少し釈明を。

もし、それぞれの次元を個別に、2つの1次元としてとらえていたら、重なり合って同じカテゴリーに見えてしまうために「誤解」を生じると思います。しかし、2次元を直交させて組み合わせることで、「実はカテゴリーが3つあるのだ(可能性としては4つですが)」と視覚的にきわだたせることこそがメリットなのだと思っています。その上で、「なぜ、こっちの軸に投影すると同じなのに、別の軸で違いが出てくるのか」という興味をもっていただいて、読み進んでほしいというのが序章に書いたねらいになります。

横の軸は現状認識の軸、縦の軸は対策の軸といえますが、この縦軸がまさに基本的人間観の違いを反映しているので、およそどんなデータを出しても決着はつかないというのは、道田さんの読みとってくださったとおりですね。

 そのあとのメールでも,さらに次のような補足を頂いている。

あの図式の最大の目的は、「学力低下論争をゆとり教育賛成派対学力低下論者という2極の対立図式でとらえている人に向けたもの」だからですよね。ここを読者にわかっていただければ、あの図式の目的の8割くらいは達成できたことになります。

 いや,まったくその通り。一応私も読書記録の中で「筆者の図式は非常に有用」「以下の記述は,筆者の記述のまとめというよりも,私なりに力点を置き変えたもの」と書いてはいるので,その点は分かっているつもりなのだが,ちょっと強調が足りなかったようだ。繰り返しておくが,この図式は「学力低下」論争を理解するのに,「非常に有用」なものである。

 ただ,私なりに,次のように考えてみてつまづいたのだ。「これで「学力低下」論争は分かったぞ。じゃあ自分なりにもう少し整理してみるか。ええと,学力低下の有無を明らかにできるデータはないのか。じゃあ,左の2者(折衷派+学力低下論者)は,何を根拠にそれを主張しているんだっけ・・・。あれ,この2者では,憂慮している「学力」の中身が違うみたいだぞ・・・」

 これは結局,こうまとめられるだろうか。このような論争の理解には,2分法的な大きな理解から,個々人の論点の違いを丁寧にフォローする理解まで,さまざまな形の理解がある。そして,現状として,多くの人がこの論争を,「学力低下」に関する「2極論争」だと理解している,という状況がある。そこで,「実は主な論点は一つではない」「したがって立場も2つではない」ということを示したという点で,この図式は大いに有用である。

 しかしもちろんそれですべてが理解できるわけではない。そのズレを私が気にし,強調したというわけだ。そういうことができたのも,本書で「3極構造」が示されただけでなく,個々の論者や立場の論点がある程度詳しく示されていたからである。つまり本書には,2次元図式という縮約された情報も,個別の論点という詳細な情報も載せられている,「木も森も」見ることができる本であった。そしてそのどこに焦点を当ててみるかは,現状認識やその人なりの観点によって変わってくるのであろう。

■『実践!アカデミック・ディベート―批判的思考力を鍛える─』(安藤香織・ 田所真生子 (編) 2002 ナカニシヤ ISBN: 4888486832 ¥1,800)

2002/10/08(火)
〜ゲームとしてのディベート〜

 私はディベート経験は,見たこともやったこともないが,興味はある。本書は,「大学や高校の教員・学生を対象として,まったくの未経験者がディベートの考え方から学ぶためのもの」(p.12)とある。私にうってつけの本である。そして,これまでディベートの本は何冊か読んだが,あんまり分かった気にはならなかった。しかし本書は,少しは分かったような,やってみようかなと思うような気になった。薄い本ではあるが,そう言う点では良書といえる。

 なぜそう思ったのだろうか。一つには,ディベートのゲーム性が(正しく)強調されている点にあるような気がする。たとえばディベートでは,肯定側か否定側かをランダムに割り振る。その点は,ディベート未経験者にはしっくりこない。しかし本書ではそのことが,サッカーがグランドを東西に分けてルールを導入することでゲームになるようなものだと説明されている。ディベートの論題はサッカーと違って「もともとの自分の意見や立場」があるわけで,完全に同じではないが,一つの説明としてはありうるだろう。また,そういうもともとの立場から切り離すことも,試合に負けても自分が負けたわけではない状況を作ることで,ゲーム性を高めることに役立っているのである。

 ちなみにこれまでに読んだ類書では,ゲーム性よりも教育的効果とか,思考力を高める的な実利性が強調されることが多かったように思う(うろ覚えだが)。その点が本書と類書の一番の違いかもしれない。まず第一にゲームとして捉えられているので,たとえば相手の主張を覆すテクニックなんてのがいくつか紹介されている。将棋の定石のようなものだ。この考えで行くなら,詰め将棋ならぬ詰めディベートなんて本もあってもいいかもしれない。

 ディベートのルールは,ゲーム性を高めるだけではない。肯定側と否定側に分かれて討論し勝敗を決める,自分の意見に関係なく立場を決められる,討論の形式が決められている,という3つのルールは「ディベートが批判的思考力のトレーニングとして機能するために欠くことのできない要素」(p.16)という。といっても,最初のものと最後のものは,それが批判的思考力育成とどう関係しているか,本書中に説明はない。2番目の「立場の任意割り当て」は,「どんな意見を持っていても,その意見は一度棚上げにしておいて,別の立場からものを考えるのだ」(p.20)と,批判的思考との関連性らしきものが説明されている。これは確かにそうである。もっとも,それだけで終わりというのでは不十分で,その視点を,自分が思いいれのあるテーマに生かしてこそはじめて,批判的思考力の育成になるのだと思うが。

 それにしても,批判的思考力の育成という観点で見ると,ディベートがそういう面をたくさん持っていることが,本書で分かる。リサーチの時は一冊の本に頼りすぎず,多様な意見に触れて多面的に見ろとか,証拠が主張を支持する十分な証拠となっているか考えろとか,ジャッジする時は,どちらの理由づけがより明確で説得的かを考えろとか,考える時は「なぜ」を繰り返して,隠された前提や自分の価値観を見出せとか,まるで批判的思考の教科書に書かれているようなことが書かれている。

 あと本書の利点は,ディベート前の準備運動として簡単な練習が紹介されている点である。立場を任意に割り当てるのではなく,自分の意見で賛成・反対に分かれて,1対1で同じ意見の人と話したり異なる意見の人と話す練習とか。立場はくじで任意に割り当てるものの,途中に誰が話してもいい自由討論の時間を設けるとか。3人一組で肯定側,否定側,コメンテーターに分かれてやるワンマン・ディベートとか。徐々に慣れていくための,なかなかうまい段階が作られている。そのほかにも本書では,典型的なディベートの論題がいくつか紹介されていたり,未経験ながら大学授業にディベートを取り入れた先生の話が紹介されている点もよい。こういうのがあると,やってみようかという気になる。

■『教育のエスノグラフィー─学校現場のいま─』(志水宏吉編 1998 嵯峨野書院 ISBN: 4782302584 \2,700)

2002/10/04(金)
〜異文化研究としてのエスノグラフィー〜

 教育と関係したエスノグラフィー(フィールドワークを用いた研究とその成果)をテーマに編まれた本。理論中心の話,方法論の話,実際の研究例,その苦労話と,なかなか読み応えはあった。ただ,タイトルには「教育」がついているが,教育に限定せずとも読める話も多かった。いい意味でも悪い意味でも。全体的には興味深い話が多かったように思う。

 本書を読んでひとつなるほどと思ったのは,エスノグラフィックな調査研究は「異文化」に対して行われるということ。だから対象が,暴走族だったり貧困層だったりするわけね。もっとも本書ではそういうものが扱われているわけではないが,しかし,よく知っているはずの「学校」にしても,それを異質なものとして,内なる異文化として捉えることができたときに,このアプローチの有効性は発揮できるというのはうなづける話だ。

 あと,エスノグラフィーには「行為者の視点から」(p.228)理解し記述することが重要,とあったが,そこには2つのレベルがあるという。一つは行為者の意図や思いそのものを,本人の言葉を通して明らかにすることであり,もう一つは,語りの背後にあるものを研究者が解釈することである。確かにそういう2種類の記述があるようだ。そしてここから先は,本書に直接書いてあったわけではないので,私の勝手な考えなのだが,本書の中には(にも),個性記述と言うよりは,その事象の普遍性を記述しようとしているかのように思える論文があり,そういうものは,「語り」よりも「解釈」が多用されているような気がする。それはややもすると,エスノグラフィーのもつ「当事者の行っている意味づけを明らかにする」ような面よりも,「神や中立者の視点から事象をうまく説明する」どちらかというと「科学的説明」に近い記述に近いように見える。

 そのことと関係するのかもしれないが,エスノグラフィーの本は,理念的な話の部分では,「おお,なかなかよさそうだ」と思うものの,実際の研究例をみると,ちょっと肩透かしをくわせられたような気がすることが多い。それがなぜなのかは今ひとつ掴めていないのだが,なんとなく思ったことは,たとえば1年かけていいフィールドに入って,いろいろな苦労や工夫を経てかたちになっているのに,そういう部分があまり感じられず,苦労の「結果」だけがきれいにまとめられて提示されているからだろうか。常識的な見解に毛が生えたように思える分析の観点を作るのに1ヵ月かかった,なんて裏話が最後に書かれていたりすると,その試行錯誤のプロセスがむしろ知りたいように思える。あとは,筆者の解釈を当事者が聞いたらどう捉えるかとか。こういうふうに思うことが,私が分かっていないということなのか,私に必要なエスノグラフィーのイメージが見えてきたということなのかはわからないのだけれども。


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