読書と日々の記録2004.2上

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]
このページについて
■読書記録: 15日『心理臨床の技法と研究』 10日『ヨーロッパ思想入門』 5日『文化人類学入門 増補改訂版』
■日々記録: 13日5歳児雑記 11日こだわる3歳児 9日批判的思考のワークショップ 6日10万ヒット 2日ビジュアル・お天気メモリ

■『心理臨床の技法と研究(心理臨床の基礎3)』(倉光修 2003 岩波書店 ISBN: 4000067087 3,000円)

2004/02/15(日)
〜イメージで理解〜

 『心理臨床の発想と実践』と同じシリーズの本。筆者は『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』でカウンセラー役をやっていた人で、筆者の心理療法に対する考え方を知ることができる。

 本書はタイトルは「技法と研究」だが、研究に割かれているスペースは少なく、基本的には、筆者の理論とアプローチについての本である。筆者のアプローチは、『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』にも書かれていたのだが、あまりぴんとこなかった。しかし本書では、もう少し理解できたように思う。筆者のアプローチを筆者は、AIO(Approach for Individual Ought: 個人的当為探究アプローチ)と呼んでいるのだが、これだけではイメージしにくいが、簡単に言うと、次のようなものであるらしい。

セラピストはクライエントのさまざまな反応や表現を通して、クライエントの内的イメージや欲求をできるだけ的確に推測しようとする。すると、セラピストの内界にクライエントと類似の感情が発生し、クライエントはその反応を見て、若干苦悩が軽減される。(p.30)

 実際はまだ続きがあるのだが、まあ簡単に言うと、イメージによって相手を理解することを重視する療法のようである。ここまでは『マルチメディア〜』でも書かれていたのだが、わかるような分からないような感じであった。しかし本書では、第三章で、「私のアプローチの実際」というタイトルで、さまざまなタイプの患者に対するイメージが語られており、何となく筆者のアプローチ(の一部)が理解できたような気がした。扱われているのは、自閉症、ADHD、不登校・引きこもり、非行、強迫観念など、統合失調症、境界性人格障害、うつ状態、不登校児の親、災害や犯罪の被害者、老いや死に直面するクライエント、と幅広い。

 たとえば自閉症でいうと、「知的に発達した巨大なバッタが支配している惑星に、あなたが突然転送されたとする。〔中略〕その姿は不気味で威嚇的であり、あなたは思わず目をそらしてしまう。〔中略〕そのような世界で、あなたに安心感を与えるものは、光や水、大地や砂、あるいは、彼らが作り出した物や装置である。」(p.70)という記述で、自閉症者の内的世界がイメージで追体験できるようになっているのである。そしてそのイメージから、彼らに必要なのはこういうことで、そのためにはこうアプローチするのがいい、というような話が続く。確かにこういう形で、相手の内的世界がうまくイメージできれば、うまくアプローチできるような気がした。もちろん的確にそれを行う技法や態度、経験などは必要なのだろうけれども。

 あとちょっと面白かったのは、セラピストがクライエントに対して感じる感情について。クライエントに対する肯定的感情はあまり有害ではないが、「否定的な感情は、直接表現すると有害なことが多い」(p.161)ので、筆者は「怒りは理解の最前線」という格言を作り、「こういう感情が生じるのは、まだクライエント理解が足らないからに違いない」(p.161)と、もう一度クライエントの体験に思いをはせてみるのだという。この話は、イメージを通して相手を的確に理解することの重要性という話でもあるし、心理療法の文脈を離れても、日常での他者理解の話としても理解できるし、批判的思考的な他者理解とも繋がるような気がする。まあいつも日常そういうことができるわけではないのだろうけれども。そのほかにも、「共感は理解の後で生じるもので、けっして完全なものにはなりえない」(p.61)という意見も、初めて見たが、おや?と思わせる考えである。筆者の場合は、イメージを通した理解の後に共感が来る、ということなのかもしれない。

■5歳児雑記

2004/02/13(金)

 過去を振り返りながら、上の娘(5歳8ヶ月)の成長の様子などを。

 上の娘は3年前からサイバーな娘だった。しかし、最近は飽きたのか、あまりパソコンには触らない。最近パソコンに触るのは、Windowに付属しているトランプゲームをやるときか、自分の写真日記を見るときと、メールを送るときぐらいだ。ちなみにメールは最近は、ソフトキーボードの出し方を自分で発見し、それで打っている。

 1年前、彼女は絵を描くときはマンガ絵を描いていた。それは今も基本的には変わらず、人物像を描くときはいつもウィンクしていたりする。しかし先日、ちょっと驚く光景を目にした。それは、ぬいぐるみのクマさんを「見ながら描いて」いたのだ。デッサンとでもいおうか。そんなに正確なものではないが、表面のタオル地を紙の上で再現しようと、模様をつけたりしていた。こういう光景ははじめてみたので、ちょっとびっくりした。誰が教えたわけでもないだろうに、自然に進歩する恐るべき娘である。いや、幼稚園で習ったのかな?

 最近、上の娘が晩飯時などによく言うのが、「今日の朝、誰が一番かわいそうだった?」という問いである。それで、一番は誰で理由は何、と家族4人をかわいそうな順に順序づけねばならない。何が面白くてこういうことを聞くんだか。ちなみに下の娘は「しいちゃん(仮名)は4番がいい」と、かわいそうな人間として扱われるのを好まない。幸せなヤツである。

 他にも、続きモノの絵を描くとか、ママに絵手紙みたいなのを書くとか、妻に聞くといろいろあるようなのだけれど、なぜか私にはくれないので省略。

 ・・・と思ったら、バレンタインのカードに手紙を書いてくれた。催促したわけじゃないのだけれど。

■こだわる3歳児

2004/02/11(水)

 下の娘(3歳5ヶ月)は、以前から好みがとてもはっきりしていた。こだわりが強いというか。

 1年近く前から、好きな動物は「象」であった。最近は、トランプのゲーム(「51」というやつ)をやるとき、集めたいカードは必ず「ハート」。おかげで、他の家族は、どんなに手持ちの手が良くても、ハートを集めることはできなくなってしまった。もっとも、下の娘はまだ十分にルールが分かっているわけではなく、ハートが集まれば喜ぶ(ハートがなければ怒る)、というだけなのだけれど。

 あと、好きな歌は「もろびとこぞりて」。クリスマスで覚えたらしいのだが、今でも、ここぞというときはいつも歌っている。正月も、公園に遊びに行ったら、バネのついた動物の座り物があった(それにまたがってゆすって遊ぶやつ。分かるかな?)。下の娘はそれに乗ってしばらく遊んでいたのだが、楽しくなったのか、急に「♪もーろびとーこじょーりーてー」と歌いだした。正月に歌われると、ちょっと恥ずかしい。

 先日も、出張先から家に電話をいれると、「しーちゃん(仮名)、うた歌うね」といって、また「♪もーろーびとー」と歌い始めた。パパとお話できたのが嬉しかったのだろうか。もっとも、そのあと「パパも歌って」と歌わされたのだけど。

 他にも、朝起きたとき、紅茶を飲まないと次に行かないとか、妻に言わせると、たくさんあるらしい。上の娘(5歳7ヶ月)には、あんまりそういうのはない気がする。同じ親から生まれた子どもでも、なんだか違うんだなあと思う次第である。

■『ヨーロッパ思想入門』(岩田靖夫 2003 岩波ジュニア新書 ISBN: 4005004415 780円)

2004/02/10(火)
〜=ギリシアの思想+ヘブライの信仰〜

 タイトルどおり、ヨーロッパの哲学を中心とした思想史の入門書。タイトルが「哲学」ではないのは、キリスト教も含められているからである。

 このような思想史入門書には珍しいことだと思うのだが、本書は実に明確な枠組みがある。それは、ヨーロッパ思想は「ギリシアの思想とヘブライの信仰」(p.iii)の2つの礎石の上に立っている、という視点である。ギリシア思想の本質は、「人間の自由と平等の自覚」(→民主制)と「理性主義」であり、ヘブライの信仰の本質は、「唯一神信仰=アニミズムの否定」、「神の似姿としての人間=人間のかけがえのなさ」、「神のかぎりない優しさ=愛と赦し」の3つである。

 本書の第一部と第二部では、この2つの思想が詳説され、第三部で、中世以降のヨーロッパ哲学の代表的な人物の思想が概説されている。私としては、第一部と第二部は興味深かったが、第三部はやや難しいと感じた。それは一部には、中世以降の各思想を概説するに当たって、礎石との関連があまり明示されていなかったためではないかと思う。せっかく視点が興味深かっただけに、この点は少し残念であった。

 それでも、本書の視点が興味深いことには変わりない。ヨーロッパ思想が実にさまざまなもののように思っていたのが、たった2つの源流で説明できる、という驚きがあるからである。ただしこの点に関しては、ひょっとしたら、この2つの源流を用いると、何でもとは言わないまでも、かなりのものが説明できるのではないか、とちょっと思った。というのは、たとえば、ヘブライ信仰の中に「人間のかけがえのなさ」(個人の尊重)が挙げられているが、ギリシアの思想である理性主義からは、「普遍的なもの、形相的なもの、法則的なもの、理念的なものを追求」(p.15)するため、「個人の個体的特徴に注目しない」(p.15)ことが導き出されるのである。つまり、この2つの礎石を用いると、個を重視する思想も個を重視しない思想も説明できることになる。もちろんそんなに単純なものではないだろうが、そういう恣意的な説明ではないことは、本書ではあまり説明されていなかったように思う。

 あと、本書でなるほどと思った記述を2つほど。ひとつはソクラテスについてで、「ソクラテスは自然学に絶望し、人々との反駁的対話というロゴスの道によって「善」の探究に向かった」(p.61)というが、このことをさして筆者は、「ひたすら自己の外なる自然界のみを眺めていた理性が、180度向きを変えて自己自身を眺めはじめた一瞬」(p.62)と形容している。なるほど、外から内への視点の転換ね。もうひとつはイエスについてで、いくつかの例を引いて筆者は、「イエスは律法を守る人々の非人間性を暗示している」(p.119)ことを示している。これはおそらく、コールバーグの道徳発達の最高段階が意味することであろう(本書にそう書かれていたわけではないが)。本書でそのことがよくわかったように思う。

■批判的思考のワークショップ

2004/02/09(月)

 昨日は、京都に批判的思考のワークショップに行ってきた。批判的思考をテーマにワークショップが開かれるのは、ひょっとしたら日本ではじめてかも知れない。

 昨日は、朝10時から夕方6時まで、そこに集まった皆が、一日中批判的思考を話題にしていた。もちろん批判的思考のワークショップなので当然なのだが、それは私にとってはある意味、至福のときであった。

 思い起こせば、私が最初に批判的思考をテーマに学会発表をしたのが5年前。この5年間、私は基本的に、一人で研究してきた。たまに知人とメールでそういう話題についてやり取りすることはあっても、基本的には、一人で考え、一人で文献を読み、一人で研究を計画し遂行するという。他人と議論できる場は、学会発表と論文の査読のみであった。それはそれで、ある面自由で楽しくはあるのだが、大変な部分も多い。それに学会でもこの手の発表は、数件しかない。査読だってそんなにしょっちゅう受けるわけではないし。

 それを考えると、何十人ものの人が一日中そんな話題をするなんて、想像を絶する世界だった(ちょっと言いすぎ)。会場には、遠くから来ている人も、朝一番の新幹線で来られた方もおられたようで、ちょっとびっくりだった。これまでの学会での様子から考えても、集まる人は内輪の人ばっかりだろうと思っていたので。この領域、潜在的にはけっこう需要があるようだ。というか、私が学会で発表するような、理念研究や実態調査研究よりも、実践の話が求められている、という部分は大きいだろう。

 ただし、こう言っては何だが、私にとっては、よかったばかりではない。発表された内容は、半分以上はすでに学会などで聞いたような内容だったし、ディスカッションも、討論というよりは、質疑応答が中心だったし、ある程度人数が多いと、聞きたいことをじっくり聞いたり、私の考えに対してじっくり人の意見を聞くというのは、やはり難しい。それに、せっかくの機会にお話したかった人はたくさんいたのだが、そういう人が多すぎて、皆とはお話できなかった。それはちょっと残念。

 もちろんこれは、会がうまくいかなかったと言いたい訳ではない。会としては大成功だったと思っている。それと同時に、次のステップとして自分が欲していることがちょっと見えたような気がする。まあいずれにせよ、収穫のある会であった。

 #帰沖後、半年ぶりぐらいで風邪を引いてしまったのは、寒さのせいか、疲れのせいか...

■10万ヒット

2004/02/06(金)

 ノートン入れているせいか,自宅でも職場でも,たいていのカウンターが表示されない。ので私は,自分のページのカウンタがいくつになっているのか,知らないのである。

 ただし,自分のページに関しては,なぜかローカルファイルをブラウザで開くと表示される(カウンタはFast Counter)。で,今日ふと思い立って,とっても久しぶりに見てみたら,「99998」だった。あと2で10万かあ。

ところでこれって,表示されないときもカウントされているのだろうか。そうだとすると,本当に表示されていないことを,今geoでも確認したので,自分で100000を踏んだかもしれない。踏んでないかもしれない。ローカルファイルを開くと確認できるんだろうケドも,まだ踏んでないかもしれないので,開くのがためらわれる。まあいいんですけど。

 ・・・と迷った末に開いたら,まさに100000だった...

■『文化人類学入門 増補改訂版』(祖父江孝男 1979/1990 ISBN: 4121905601 800円)

2004/02/05(木)
〜またの名を民族学〜

 文化人類学の入門書なのだが、教科書的な無味乾燥さや難解さを廃し、具体的説明をつけ、抽象的な話をカットするなどして、独学に耐えるように作られた本。確かに読みやすく、また、全体像の見える本であった。

 文化人類学というと、言葉は聞くが、どういうものか知らなかった(漠然とイメージはしていたが)。本書によると文化人類学とは、一言で定義すると「世界のさまざまな民族のもつ文化や社会について比較研究する学問」(p.2)だそうである。国によっては「民族学」(民俗学ではない)と呼んでいるところもあり、両者は同義だそうだ。本書は「文化人類学」を主に使っているが、日本における学会組織は日本民族学会というらしい。

 本書で扱われているのは、文化の進化や伝播、言語、家族、宗教と儀礼、民族性、文化の変化などである。本書でちょっとびっくりしたのは、言語学が含まれていること。言語学とは文化人類学(民族学)の一種だったのかあ。言われてみれば確かに言語学が行っているのも、「世界のさまざまな民族のもつ文化」としての言語の比較研究だったりするので、当然なのかもしれないけれど。

 もっとも、言語学は言語の比較だけをやっているわけではない。しかしそれは文化人類学もそうで、本書には文化人類学の目的と役割として、「伝統文化の記録」、「それぞれの民族・種族の移動の歴史、文化伝播の歴史を知る」、「人間とその文化のもつ本質について理解する」の3つが挙げられている(p.235-6)。ここに出てくる「文化」を「言語」に置き換えると、それは言語学の目的や役割を表現しているといってもまったく違和感ないであろう(と素人ながら私は思う)。

 ところで、よくエスノグラフィでは、行為者の視点から理解し記述することが重要と言われる。そのことは「エミック(イーミック)」の立場と言われ、それに対する立場を「エティックの立場」と言われたりするのだが、それが言語学に由来していることを、本書で知った(p.98)。ある言語を理解するには2つの「学」がある。ひとつは、音声を客観的に分析する方法、すなわち音声学(phonetics)である。もうひとつが、住民自身がどのようにその音声を意識し知覚しているかの分析、すなわち音素分析(phonemics)である。つまりこれらが、音の客観的理解(phon-etic)と主観的理解(phon-emic)というわけである。

 エスノといえば、本書には文化人類学と社会学の違いについても論じられていた。文化人類学はもともとは無文字文化の研究から出発しているが、次第に、農村や漁村を研究対象とするようになり、最近は都市も対象とされている(都市人類学)。では都市人類学と都市社会学の相違点は何か。筆者によると、文化人類学では、あくまでも質的な分析が中心なのだが、都市社会学では、「……都市住民の意識、市民運動などを扱い、統計的、量的な研究が中心となる」(p.223)という。しかし最近は社会学でもエスノグラフィーがさかんなはずで、質的−量的という基準では両者は分けられないと思う。

 というよりも、もうこうなると、両者には方法論的な違いはないのではないだろうか。もちろんその学問の出発点は違う。しかしそれらが対象領域や方法論を広げた末、結果的に同じ対象に同じ方法論でアプローチすることになるということは大いにありうるであろうし、実際、そういうことなのだろうと思う。それは文化人類学と社会学だけに限った話なのではないが。ということは、学問分野の境界線は、対象や方法論では引けないのではないだろうか。むしろ、その学問分野のコミュニティに住んでいる人たちが、どういう教育を受けどういう背景知識を共有しているか、という点ぐらいにしか、違いを見出すことは出来ないのではないかと思う(実はこれは、私のオリジナルの考えではないのだが)。

■「ビジュアル・お天気メモリ」で遊んでみた

2004/02/02(月)

 つい最近、ビジュアル・お天気メモリというフリーソフトウェアがあることを知った。各地区の気象台で発表されたデータを元に、過去十年以上の天気や気温を表示するソフトである。インストールするには、けっこう大きなファイルが必要であったが、ちょっと面白そうだったので入れてみた。

 いろんな角度から眺めて楽しめそうなソフトであるが、とりあえず、沖縄(那覇)の冬の最低気温を眺めてみることにした。私の印象では、沖縄はどんなに寒いときでも、最低気温が10℃を下回ることはめったにないような気がする。正確に言うと、10℃を切ったことは、記憶にはない。いや、数年前に一度ぐらい新聞のニュースになってたかもしれない。しかしそれが本当なのか、このソフトで確かめてみた。

 12月から2月までの最低気温を、1992年から2002年まで調べてみたところ、最低気温が10℃を切った日は、6日あった。うーんそんなにあったのかあ。

 先日、旧正月前にタクシーに乗ったら、運ちゃんが「今寒いのは、旧正月の時期だから」と言っていたので、そのことも確認すべく、旧暦の日付もつけてみた。これを見ると、このような寒い日は、新暦では1月から3月にまたがってあるが、旧暦でも12月から2月と、3ヶ月にまたがっている。ということは、「旧正月前後だから寒い」というわけではなさそうだし、旧正月を過ぎても、3月上旬(旧暦2月)ごろまでは、いつ異様な寒さが来てもおかしくないということのようである。

 じゃあ、すっかり暖かくなるのはいつだろうと思って、どの年も最高気温が20℃を越す日を探してみた。過去11年分で見てみると、全部そろって20℃を越す、という日はなかなか来なくて、結局4月23日だった。それ以前でも、11年全部20℃以上という日もあるし(3月21日など)、25℃を越す夏日もある(1993/1/7とか1999/2/1とか)。しかしそれがずっと続いているわけではないのである。

 ちなみに、過去11年で真夏日(最高気温30℃以上)が一番早く来たのは、5月8日(1998年と2002年)であった。熱帯夜(最低気温25℃以上)が一番早く来たのは、4月24日(1998年)。とは言え、同じ4月24日でも、2年後の2000年は約10℃低い16℃が最低気温だったりする。

 そのほかにも、たとえば最高気温25℃を越す夏日は、過去11年間に一度はどの月でもあったとか、いろいろなことがわかる。これはなかなか遊べるソフトであった。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]