読書と日々の記録2003.02上

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■読書記録: 12日『心でっかちな日本人』 8日『身体から表象へ』 4日『思考のための文章読本』
■日々記録: 13日4歳8ヶ月児のサイバー/マンガ絵/散歩 10日授業評価と授業改善 6日2歳児が人間らしく感じられるとき 2日胃の痛み

■4歳8ヶ月児のサイバー/マンガ絵/散歩

2003/02/13(木)

 上の娘が4歳8ヶ月になった。過去の日々記録の記載と照らし合わせて現在の彼女を見ると,いろいろと興味深い部分が見える。

 2年前から彼女はサイバーな幼児だった。最近は,いたずらにパソコンをもてあそぶことはなくなっている。というか,的確に使っている。といっても,ババールのページでゲームをしたり,オジャ魔女ドレミのホームページを開いてキャラクターを眺めたりしているのだけれど。

 そして彼女は,ホームページというものを的確に理解しているということが,最近わかった。というのは,リカちゃん人形のパンフレットの隅っこにホームページアドレスがあるのを発見し,さっそく妻に見せてほしいとねだったのだそうだ。なんでわかったんだろ。ついでにいうと,最近はカナキーでお手紙も打てるらしい。シフトキーを使って小さいツも打てるし。エンターキーで改行もできるし。恐るべし4歳児。

 一年前,人物画を描く時,彼女は頭手胴足人を描いていた。ところが今は,実にマンガ的な少女を描く。髪はみつあみ,目は上向きの弧,口は下向きの半月,胴体は三角形みたいな。もちろんすべては,正しい位置にある。しかしその描き方とか全体のバランスが,1年前とはうって変わってマンガ的というか記号的というか。どこで覚えたのかわからないが,面白い変化である。

 確か半年ぐらい前までは,ちょっと歩くとすぐ「疲れた」とか「だっこ」と言っていた。たぶん1000歩ぐらいが限界だったのではないかと思う(私の歩数計で)。しかし最近は,ゴミ捨てついでに近所を散歩してみると,けっこうついてくることがわかり,うちの近くを1500歩,2000歩と歩数を伸ばしつつ周回してみた。そしてこないだは,ついに4000歩のコースを文句いわずについてきた。これなら一緒にウォーキングもできるかもしれない。ちょっとしたデート気分である。

■『心でっかちな日本人─集団主義文化という幻想─』(山岸俊男 2002 日本経済新聞社 ISBN: 4532149665 \1,400)

2003/02/12(水)

 人間行動の文化差を,帰属の基本的なエラー,頻度依存行動,相補均衡,心の道具箱などの言葉をキーワードに論じた本。基本的な主張をはじめとして,疑問に思える箇所が何箇所かあり,私にとっては,全体としてはすっきりしない本であった。

 しかし,基本的な主張のさらに前提にあるような考え方に関しては,その通りだろうと思えるアイディアがいくつかあった。たとえば次のような考え方である。

いろいろな性質が相互依存的に均衡をつくっている場合には,そのうちのどれが原因で,どれが結果なのか,を考えることに意味はありません(p.111)

 相互依存性とか,いろいろなものごとの均衡の結果としての行動,という観点は,人間行動を考える上では非常に重要であるにも関わらず,見過ごされがちというのは,筆者の指摘する通りだろう。

 また,人間の心は領域特定的なさまざまな心の道具が放り込まれている「道具箱」であるという考え方もそうである。これは,進化心理学でなされる,「人間の心が領域特定的なさまざまな道具からなるアーミーナイフのようなもの」という例えを発展させたものである。アーミーナイフの例えが,「汎用性の低い多数の道具」という例えであるのに加えて,「心の道具箱」の例えは,「いちばん上に載っかっている道具や,そのすぐ下に入っている道具は目につきやすく,簡単に取りだすことができます」(p.179)という,利用可能性に関する例えも付け加えられている。これはうまい例えだと思う。

 一方,疑問に思った点としては,次のようなものがある。筆者は,集団/個人主義に関する「常識」を否定している。それは,次のようなものである。

日本人は集団で一緒に行動し,集団のなかでは「出る杭」にならないことを好む集団主義的な心の持ち主であり,アメリカ人は集団から独立し自分ひとりで自分の利益を追求する個人主義的な心の持ち主だという常識」(p.35)

 しかし私は,集団/個人主義的な行動傾向や,文化を指摘する常識は聞いたことがあるが,「心の持ち主」という常識は聞いたことがない。このような表現で日本人やアメリカ人を論じたものがあるのであれば,出典を示してほしかった。ちなみにこの両者の表現の違いは大きい。私は,文化規範をふくめた状況がそういう行動傾向を生み出していると理解している。それは,筆者らの実験結果とは矛盾しない「常識」だろうと思われる。

 もう一つあげるならば,筆者は囚人のジレンマゲームを用いた実験結果を元に,集団主義の心に日米差が存在しないか,常識とは反対の方向の差が存在する,と述べている。しかし,上で引用したように,心が領域特定的な道具だと考えるのであれば,そのような「特定の実験状況」から得られた結果を,「〜人の心」として一般化するするのは,不適切ではないのだろうか。そのように考えるということは,「領域非特異的な心」が存在し,それがいろいろな行動の根本の原因として作用している,と考えていることになるのではないだろうか。これだけではないが,こういった部分がいくつかあることが,本書が私にとってすっきりしない原因として作用しているようであった。

■授業評価と授業改善

2003/02/10(月)

 今年度後期,私が担当した共通教育科目の授業評価結果をまとめた。こちらに,1997年度から2002年度分までが載せてある。毎年20弱の項目に対して,5段階で学生が回答したものを集計しているのである。各年度の最後には,自由記述のピックアップと,私のコメント(反省点など)が記してある。

 この作業をやって改めて思ったのだが,ここ数年の私の授業反省や改善に,数値評価部分は何の役にも立っていない。

 特定項目の評価(たとえば「学問に対する興味が増した」)が低くても,どう対処したらいいのか分からないし,仮に何らかの手をうったとしても,数値の変動は,せいぜいプラスマイナス0.3ぐらい。一方,年度が変わると受講生も変わるので,何もしなくてもそれぐらい変動する項目もある。さらには,私の授業の目的に照らし合わせたとき,私の授業の問題点を知るのに適切ではない項目もたくさんある。その一方で,私の授業の問題点を知るために必要な項目はなかったりする(たとえば「早口」と思っている人がどのくらいいるか,とか)。もちろん,総合評価を数値で知ることができ,それが一定の値を出していることは,大きな励みになるということも否定できない。しかしそれも,「励み」や「確認」というだけであって,「改善」の役に立っていないのは間違いない。

 私の授業改善のための情報源は,そのほとんどが自由記述から得ている。そのことは,表の下につけた自由記述抜粋や,それに対する道田のコメントをご覧いただければわかるかと思う。つまり私にとっては,授業評価は基本的に自由記述(+数値による総合評価)でいいのである。質問紙形式にするのであれば,5段階評価などではなく,チェックリスト方式で十分である。たとえば「早口である」みたいな項目を数十個並べ,当てはまるものにチェックをする方式である。それで,そう思っている学生の人数が把握できれば,十分である。そのチェック項目は,次のような要件を満たしていることが重要であろう。

  1. 私の授業目的や方法の特徴に照らし合わせて,そうであることが望ましい(あるいは望ましくない)項目や,
  2. 私が改善したいと思っている項目のなかで,
  3. 私自身が自覚的に把握できないもので,
  4. しかも,学生がその可否を判断できるもの

 現在使われている授業評価項目は,こういう点について検討されることなしに作られているような気がする。

 私自身の授業で,これ以上の改善を積極的に行おうと思うのであれば,既成の評価フォーマットにこだわることなく,自分で,自分に役立つ自分用の評価項目を作って使うしかないような気がする。

■『身体から表象へ』(浜田寿美男 2002 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623037088 \2,800)

2003/02/08(土)
〜パースペクティブ性のある表象〜

 『意味から言葉へ』の続きとなる本。前著を読んだとき,(言葉などの)選択性が次著で語られているに違いない,と思ったのだが,違っていた。その前の段階として,「表象」が身体を元に生まれてくることの不思議さとその発達の様相について描いている。

 扱われている内容は,記憶のパースペクティブ性/模倣の無意図性(このことは,2章6節のタイトル「おのずと重なって,そののち重ねることを思う」で表されている)/鏡像理解の発達を通してみる/子どもの自己・他者理解/「視覚世界の客観性」という特殊性/パースペクティブ性をもつ表象,というところだろうか。どちらかというと,謎を謎として追求しその「謎性」を明らかにする,というような内容で,全体の統一性というかメッセージ性はあまり感じられなかったが,身体を出発点とするという方向性は明確であったし,個々の話も興味深いものが多かった。

 本書では表象について,次のように考えているようである。

人は,その身体の生きるパースペクティブの上に,そこから離れてもう一つのパースペクティブを生きることができますし,そしてその両者を自在に変移することもできます。それが表象的思考というものなのです。(p.210)

 それは,「「人がいて,人はそれぞれの世界を生きている」というかたちで意識される他者世界の表象」(p.220)とも表現されている。表象というと,普通イメージされるのは,俯瞰的というか,無視点的な対象や空間概念であるが,それについて筆者は「これを安易に表象世界の成立のひとこまとして,私がそのパースペクティブ性にこだわって考えてきた表象と一括りにして考えない方がいいようです」(p.191)と書いている。つまり,無視点的なものだけでなく,明確な(しかし自分のものとは違う)視点を持つ表象の存在をこそ考えるべきだ,ということだろう。そして,本書では明確に語られてはいないが,無視点的な表象も,パースペクティブ性を帯びた表象が元で作られているのであろう。それは,状況論(たとえば『状況のインタフェース』)で「神の視点も局所的に状況的に組織されている」といういい方をするのと,基本的に同じであろう。

 本書では他にも,興味深い(ように思える)考察はたくさんあった。野矢茂樹氏の哲学にも通じそうな議論もあった。知覚の恒常性についても,鏡像の左右反転問題も論じられていた。しかしどうもそれらがうまくすっきりと私の中で消化されていないので,ここでは論じることはできない。それでも,上に書いた「パースペクティブ性のある表象」を,その他の表象から明確に分離して捉える視点を得られたというだけでも,本書は意義があったように思う。

 ここから今後,どのような考察が展開するのかは,これまで読んだ筆者の本を考えると,ある程度予想がつかないでもないような気がしないでもない。といってもそれを,まとめてここに記そうと思ってちょっと考えてやめたのだが。筆者のこれまでの出版のペースから見ると,この問題に関する次の本は,4〜5年先か。早くみてみたいものである。

 #なお,鏡像の左右反転問題に関する浜田氏の見解は,以前私が考えた「鏡映人物を他人として見る」説と,基本的に同じものだろうと思う。もちろん浜田氏の方がはるかに深いのだが。それでも2年半前の私のこの論考,今見るとなかなか興味深い。身体とか他者とか重ね合わせ,という浜田氏の論考にも通じるようなことが書かれているし。あくまでも「今(そういう知識をもって)読めば」の話だけど。

■2歳児が人間らしく感じられるとき

2003/02/06(木)

 この「人間らしく感じられる」シリーズも,去年に引き続き3年目である。でも下の娘も2歳5ヶ月。もう十分「人間らしい」ので,いまさらこのネタもないかと思ったが,探せば案外あるものである。

 今うちの娘たちのブームは,DVDで「トムとジェリー」を見ることである。これは年末からずっとで,1日に数回見ていたりすることもあるのだが,飽きることがない。そして毎回,同じシーン(トムが足でピアノを弾くシーンとか)で,同じように笑うのである。

 この中で,ジェリーがダンスを踊るシーンがある。上の娘(4歳7ヶ月)は,それを見ながら,自分も適当に踊っていたりする。それを見てか,最近下の娘もジェリーにあわせてダンスを踊るようになった。

 ところが,そういうことをはじめてするせいか,恥ずかしいらしいのである。私たち夫婦が,「あ,しいちゃん(仮名)が踊ってる」と思って注目すると,踊りをやめてしまう。ちぇ,と思って私たちの視線がそれると,下の娘は,誰も見ていないのを確認して,こっそり一人で踊っていたりするのである。

 こういう「恥ずかしさの表現」って,とっても人間らしいような気がする。ちょっと前までは,人目を気にするそぶりなんて,これっぽっちもなかったのにねえ。

 もう一つある。最近下の娘は,だいぶ自分で服を着たり脱いだりできるようになった。そうなると,自分でやりたいらしい。風呂上りに私がパジャマを着せようとすると,「自分で!」と泣きわめく。こういう,「自分でしたがる」というのも,何だかわからないけど人間らしいような気がする。「意志」が感じられるからかな?

 こうやって改めて振り返ってみたり,テーマを決めて観察したりすると,成長がより強く実感できるような気がする。

■『思考のための文章読本』(長沼行太郎 1998 ちくま新書 ISBN: 4480057544 \660)

2003/02/04(火)
〜問いの思考読本〜

 筆者が読んで目からうろこのおちるような経験をした文章を例文として切り取り,思考のタイプ別にまとめた本。以前から持っていたのだが,途中まで読んでほったらかしていた。今回は最後まで読むことができたが,なぜ前回は途中まででやめてしまったのか,その理由が分かったような気がした。それは最後に。

 本書で扱われている思考のタイプは,以下のものである(どれも章のタイトルとなっている)。

単語の思考,語源の思考,確実の思考(方法的懐疑と論理),全部と一部の思考(反証・量化・代用),問いの思考,転倒の思考(視点の変換),人間拡張の思考(メディア・技術),擬人法の思考,特異点の思考(誇張法),入れ子の思考。

 なるほど,こういう分類がありうるのか,と思うような分類である。自分や他人の思考のあり方を相対化するためのヒントとなりそうな分類である。具体的には,最初の2章でいうと,単語や語源を思考単位とすることの意味や,それで可能になる論法や思考などが考察されている。

 私がおもしろかったのは,考える力をつけるには明確に問うくせをつけることである,という「問いの思考」の章。問いを発見することの重要性が論じられている。それはたとえば次のようなものである。

芸術作品にむかって批評する時の思考とは,すでに作品としてあるもののまえで,さまざまな問いを引き出すことなのではなかろうか。問いから答を生み出す教育的・問題解決型の問いとは異なる,むしろ,自明の答えから問いを創造すること──「いまだかつて問われなかった」ものを問う値打ちのあるものへともたらすこと(ハイデガー)を,もう一つの思考の課題としたいのだ。(p.134)

 もちろんこれは芸術作品に限ったことではない。答えの中に問いを発見し問題を提起する,という形の問いのあり方を提起しているのだ。最初に述べたように,本書は,さまざまな書物から文章を引用して,そこから型や問題を見出している。その意味では本書全体が,問題提起型の問いの思考を目指していると言うことができそうである。

 このように本書は,全体として問いの思考を実践しているという意味で,興味深い発想の本だったのだが,最初に書いたように,私は一度,本書を読むのを挫折している。それはおそらく,本書が,ある程度知識がある人が読者層として想定されているからだろうと思う。ある程度の知識は「前提」として説明なしに使われているようで,そういう部分が気になって,前回は読み終えることができなかったのだ。もっというなら,本書の想定読者の第一は,筆者自身であろう。「筆者が読んで目からうろこのおちるような経験をした文章」が取り上げられているのだが,他の人が読んでもそういう経験をするとは限らないのだから。もっともそれは,しょうがないといか,そうせざるを得ない部分はある。そのあたりに,こういうタイプの本の難しさがあるように思った。

■胃の痛み

2003/02/02(日)

 先週ずっと,胃の痛みを感じていた。始めは,空腹感かと思っていたが,だんだん強くなる感じがしたし,試しに市販の胃薬を飲んでみたところ,最初はおさまったのだが,次は効かなかった。それで医者にいった。検査は受けなかったが,とりあえず1週間分の薬を出してもらい,様子を見ることにした。

 薬を飲み始めてからは,明確な痛みはない。しかし,食事は,やわらかく脂肪分が少なく消化のいいものを,やや少なめで食べているはずなのに,けっこう満腹感が続いている。消化力が弱っているとかしているのだろうか。はやく元に戻ってくれればいいのだが。そう思い,間食も控えている。せっせとウォーキングしても体重は減らなかったが,胃の痛みのおかげで,体重も元に戻りそうな勢いである。

 考えて見れば,最近定期的に胃炎になっている。最初が1996年,次に1999年。3〜4年おきにかかっている勘定になる。今回はまだ様子見だが,何事もないことを祈っている。過去の2回,死ぬ思いをしたのだ。

 それは胃カメラである。とくに2度目は,1度目がつらかったことを訴え,麻酔の注射を強めにしてもらったのだが,それでも死ぬ思いだった。胃カメラを飲みながら,よっぽど自分で管を引っこ抜こうかと思ったぐらいだ。もちろんそんなことはできないだろうが,そう思うぐらい辛かったのだ。できればまたあのような思いはしたくないのだ。

 もっとも,胃カメラの辛さは人によってだいぶ違うようで,うちの妻は「気がついたら終わっていた」といっていたし,知り合いの先生も「歯ブラシは口の奥に入れるだけで気持ち悪くなるが,胃カメラは全然平気だった」といっていたのだが。ウラヤマシイものである。


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