読書と日々の記録2003.12上

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■読書記録: 14日『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』 10日『ニュースの職人』 5日『異文化理解』
■日々記録: 13日言葉への感受性が高まる5歳児 6日イメージ遊びする3歳児 3日証明ではなく信憑性とは?

■『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』(倉光修・宮本友宏編著 2003 誠信書房 ISBN: 4414400104 3,400円)

2003/12/15(月)
〜ロールプレイと架空カンファレンス〜

 CD-ROMつきの本。CD-ROMには、ロールプレイによる1回分の初回面接(60分以上のもの)が収められており、本書にはその逐語録が収録されている。セラピストは第一編者、クライエント役は、セラピストとは初対面の院生だそうである。本物ではないとはいえ、本物にかなり近いセッティングの臨床心理面接を見ることができるのは、画期的である。少なくとも私は見たことがないので。そしてクライエント役は、架空の人物を役作りし、15時間ほども下準備して収録に臨んだそうである(p.101)。私はてっきり、自分の経験を脚色しながら話しているのかと思った。それほど迫真の演技であった。本書の残りの部分は、セラピストのコメント、クライエント役のコメント、学生、若手臨床心理士、専門家(2名)のコメント、セラピストの再コメントで、要するに本書1冊で、ケースカンファレンスをしているような構成になっている(って見たことないけど)。

 で、生まれてはじめて見た初回面接であるが、私の印象は、次のようなものであった。「セラピストは足を組んで後傾姿勢で座っており、なんだか偉そう」「話を聞きながらメモを取っており、あんまり相手を見ていないよう(特に最初のほう)。そんなんでいいんだろうか」「そういう姿勢や態度も含め、あまり「共感的応答」には力点が置かれていないよう。そういうのもアリなのかあ」。ちなみにこれらの印象は、本書に収められているコメントでいうならば、学部生のコメントに近い。こういう印象は、経験を積むにつれて変わってくるのだろうか。なお、見ている「私」は偉そうに感じたが、「クライエント」がどう感じたかは分からない、というか私の受け取り方と同じとは限らないであろう。もしそうなのであれば、上記のような態度や言動は、良い方向に働くことも悪い方向に働くこともあると言えよう。ということは、面接場面でどう振舞うのがいいかということについて、一般論で語ることは難しい(出来ない?)のかもしれない、と思った。そういう意味では、1ケースだけではなく、複数のセラピストによる複数のケースが収録されていると、もう少し違うものが見えるかもしれないと思った。もっとも、こういうことは言い出せばきりがないのだろうけれども。

 あと、専門家のコメントは、いい意味でも悪い意味でも興味深かった。たとえば、クライエントとセラピストが出会った瞬間に「起こっていることは転移で、深い転移の場合が多い」(p.160)などのように、転移とか自己愛とか超自我のような専門用語(ジャーゴン)で面接過程が解釈され説明されている。しかしそのような解釈の妥当性は、どのように確認されるのかは疑問として残った。少なくとも本書に載せられていたそのようなコメントについては、妥当性の確認が行われたような形跡はなかったように思う。コメンテイターは2人とも分析系の人のようなので、そのように捉えるのが当然ということなのであろうか。それにしても、クライエントの態度を別様に解釈することも可能だろうにと思う。この場合、その方向性の解釈でクライエントが治ればOK,治らなければNGというものでもないように思うのだが、では何を持って解釈の妥当性を専門家は判断しているのか。それが示されていない点はちょっと残念であった。

 もちろん本書の目的によっては、そういうことをする必要がない場合もあるかもしれない。しかし第一章に書かれている「本書のねらい」によると、「心理療法の初回面接をアクティブに観察することを通じて、みなさんが、自分と一人ひとりのクライエントに応じたアプローチを、より豊かな形で創造できるように促すこと」とか「私のアプローチを批判的に検討していただきたい」(p.1)とある。そうであれば、やはり解釈の根拠は示されるべきではないかと思う。

■言葉への感受性が高まる5歳児

2003/12/13(土)

 上の娘(5歳6ヶ月)は最近、言葉への感受性が高まっているように思う。

 文字は3歳過ぎから興味を持っており、読んでいたのだが、最近は、意識的に逆さに読んでみることが多くなった(「シンデレラ」を「ラレデンシ」)。時には絵本を読むときも、逆さに音読したりしている。何が楽しいのか知らないけれど。

 ちょっと前なのだが、まさにそういうことをしていたとき、幼稚園から定期購読で持ってくる絵本が、回文の絵本だった。『つつみがみっつ』という本で、「にかいめいかに」(二回目如何に)、「かなものやのさきさのやのもなか」(金物屋の先、佐野屋の最中)なんて書いてある。それを結構楽しんでいたので、私が「みちたのたちみ」なんて教えてあげたら、パソコンで「よるのるよ」「すいかのかいす」なんて打ちだした。文章にはなっていないが、逆さに読んでも同じになることに感動していたようだ。

 あと最近、ダジャレまではいかないけど、似た言葉を面白がるようになった。ちょっと前にBSでバスター・キートンの短編をやっていた。子どもも結構喜んだので、録画して見ていたら、「バスとバスター、似てるね」なんて言い出した。これは、と思って私がいくつかダジャレをいっても、あんまり反応はしなかったけれど。

 さらに最近は、何だか足し算とか引き算に興味を持っている。足し算は少しはできるようで、問題を出すと(というか、せがまれて出してあげると)、すごく時間をかけて考えて、答えてくれる。まあ、当たってたり当たってなかったりするんだけど。当たっているときは、指で数えてるみたいだし。それにしても、うちでは教えたりしないのに、どこで覚えてくるんだろう。

 引き算もそうで、「パパァ、1ひく1は?」なんて聞いてくる。「1ひく1も、2ひく2も、3ひく3も、ぜんぶゼロ。じゃあ5ひく5は?」と聞くと「ゼロ」と答えるので、法則性が分かったのかと思って「2ひく1は?」ときくと、やっぱり「ゼロ」と答える。まだあてずっぽうで言っているようだ。まだ幼稚園生だから、できなくてもちっとも構わないのだけれど。

 と、こうやって、ここ最近の上の娘の様子をまとめてみると、言葉(記号?)への感受性が高まっているのかと思った次第である。

■『ニュースの職人─「真実」をどう伝えるか─』(鳥越俊太郎 2001 PHP新書 ISBN: 4569618472 660円)

2003/12/10(水)
〜ルポルタージュ的記者の視点〜

 新聞記者から始まり、週刊誌記者、ニュースキャスターを勤めてきた筆者による、エッセイ風の読み物。軽い読み物ではあるが、筆者がどのような考えでジャーナリストとして活動してきたのかがわかり、興味深い。

 筆者は記者時代、役人や事件関係者から得られる「伝聞」では満足できず、「できるだけ狭い範囲、ピンポイントの現場に立ち、そこで何が起きているかをこの目、この体で経験したい」(p.23)、とか「"産地直送"で原稿を送りたい」(p.51)との思いで、ルポルタージュ的に現地で密着取材をしてきたという。その例として、田中元首相がロッキード事件で逮捕された後の選挙時に現地に住み込んだり、テレビ番組制作の現場に密着したり、阪神大震災では特定の地区に腰をすえて定点観測している。しかし、あえてそういうことが本書で書かれているということは、逆に言うならば、通常、記者はそうすることは少ないということであろう。本書では筆者のそういう現場精神を見ることができ、興味深かった。

 ところで、メディアの報道が同一方向に暴れ馬のように走り出すという現象がある。オウム報道、神戸少年A事件、ヒ素カレー事件などがそうである。このような現象には「スタンピード現象」(p.104)という名前がついていることを本書で知った。日本でそういう報道が多い理由として筆者は、日本のマスコミの中で生きてきた私の、内側から見ての感想だが、ひとつには日本の文化の特徴が根源にある」(p.104)と述べている。すなわち、日本人の多くは、歴史、言語、文化、伝統、習慣などを共有しているため、「同一のアイデンティティーを共有する受け手に向けて、送り手から情報は発信される。だから必然的に新聞は各社とも同じようなニュースを扱ったものが毎日朝と夕に刊行され、テレビも似たような内容の番組が並ぶことになる」(p.105)と、それが必然であると考察している(ちなみに「ひとつには」とあるが「2番目」は見当たらなかった)。なお、このようなスタンピード現象について、『』の著者である森氏は、文化の問題というよりも、ここ数年の現象と捉えているようである。これは、両方あるのかもしれないし、どちらかが優勢なのかもしれない。この点を検討することは、マスコミ外部の人間には難しいかもしれないが、可能であれば今後の検討課題かもしれない。

 あと筆者の考察で興味深いのは、ニュースが鮮度と完成度が両立しないジレンマを抱えるものだとうもの(p.161)。そのことについて筆者は、報道に関わる人間が報道が欠陥商品であることを自覚することと、検証し修正することもセットで考えないといけないことを論じている。また筆者は最近は、情報を伝えるだけでなく、情報を取捨選択するノウハウも一般の人に伝えようとしているらしい(p.216)(その成果はこちら。現在は休載中のようだが)。これらの点は、批判的思考という観点からも、興味深いものであると思われた。

■イメージ遊びする3歳児

2003/12/06(土)

 下の娘(3歳3ヶ月)がほんの1年前、「カタコトの外国人みたい」な言葉をしゃべっていたなんて、今は想像もつかないぐらいに滑らかに日本語をしゃべっている。とはいっても、発音は舌足らずだし、ときどきたどたどしいこともあるのだが。

 最近、下の娘は、なんだか幼児っぽい遊びをする。たとえば、「ブッブー」と言いながらおもちゃの車を走らせたり。もちろん正真正銘の幼児なのだが、上の娘はあまりそういうことをしなかったので、新鮮である。そもそも、「ブッブー」なんて言いながら車で遊ぶなんていう絵に描いたような幼児がいるとは、実は思っていなかった。

 あと下の娘は、上の娘(5歳5ヶ月)と一緒に遊ぶことも多いが、一人で遊んでいることも多い。そういうときはたいてい、人形を手に、自分なりにストーリーを作るというか、空想のおもむくままに、「ぞうさんがイタイイタイしたの」などと人形同士の会話を一人芝居的にやっている。そういえば、一人で人形を使ってごっこ遊びするというのも、絵に描いたような幼児だ。それにしてもそういう空想がいくらでも沸いてくる年齢なんだなあと思う。

 そういえば上の娘が3歳3ヶ月の頃は、やたらひらがなに興味を示していた時期であった。下の娘は、今のところそういうことはない。ひらがなパズルはよくやっているけど。しかし、その代わりといっては何だが、数字に興味を持っているみたいである。たとえば、絵本にカエルが何匹も出ていると、「いーち、にー、さーん、しー」と指差しながら数えている。数字の形をしたマグネットも好きだし。内容こそ違え、記号に興味が出る時期なのだろうか。模型遊びに人形遊びに数字、いずれも「イメージ」みたいなものがはっきりしてきている時期ということなのだろうか。ちょっと面白い。

■『異文化理解』(青木保 2001 岩波新書 ISBN: 4004307406 700円)

2003/12/05(金)
〜急所を通して理解〜

 「異文化にどう対すればいいのか、この問いについての基本的な問題点について述べてみよう」(p.199)という本。筆者は文化人類学者。元がNHKの「人間大学」講義テキストらしく、平易で読みやすい。が、なかなか興味深い点も多かった。

 異文化理解に関して、本書では「どの社会や文化でもある種の急所というのがあります」(p.61)とか「異文化は、境界の時間と空間を生きることを通して、象徴的に理解される場合が多い」(p.65)と指摘され、筆者がタイの僧院に入って僧となった経験が述べられている。また、異文化を理解する手がかりとして、「儀礼や儀式、そして祭」(p.74)があることが指摘される。あるいは、文化におけるコミュニケーションには「信号」「記号」「象徴」の3レベルがあり、これらが総体として文化を作っていること、特に象徴のレベルが文化的な中心部で外部者には理解しにくいことが指摘されている(p.145あたり)。さらには、異文化に対して向けられる偏見とステレオタイプを含む見方を筆者は「オリエンタリズム」と呼び、異文化へのアプローチに対する警告の言葉としている(p.106)。

 ここで心理学研究を考えてみると、特定の集団(特定の発達段階とか特定の民族とかとか特定の職業人など)を理解するための心理学研究は、基本的に「異文化理解」研究ということができると思う。そう考えるなら、筆者の指摘はとても有益なものであると思う。急所となる時間や空間が理解できているか、その集団にとっての「祭」(文字通りの意味ではなく)が分かっているか、深いレベルのコミュニケーションが理解できているか、オリエンタリズム的理解に陥っていないか、などという点である。そういう意味で本書は、私にとってとても興味深いものであった。というか、文化人類学を勉強する必要があるかもしれない。

 本書でひとつ思ったのは、文化や異文化接触の問題は、『ことばと国家』で指摘されているような、言語変化や言語接触の問題(あるいは標準語と方言の問題)に似ているということ。たとえば「人は生まれ育った文化から抜け出し難く、同時に異文化と絶えず出会わなければならないという二つの宿命」(p.19)があるという指摘は、人が母語から離れがたいのと同時に、言語は常に異言語と接触し変化する、という指摘ととても似ているように思った。あるいは、「現代世界において、本当に「純粋な文化」というものがあるのかといえば、それは存在しないと言っても過言にはならない」(p.159)と筆者は述べ、それを「混成文化」と呼んでいるが、それは、「純粋な言語というものはなく言語はすべて他の言語と接触して変化しつつあるもの」という指摘に似ているように思った。こちらは、だから何というわけではないのだけれど。

■証明ではなく信憑性とは?

2003/12/03(水)

 先月、『心理学研究法入門』を読書記録で取り上げたところ、第一編者である南風原先生からメールをいただいた。それは、私が読書記録で、疑問を書いたことについての説明であった。私が疑問を感じた記述のは、「仮説の検証と証明」という項の中の、「仮説の評価は完全な証明や反証ではなく、仮説を支持する結果、すなわち仮説からの予測に合った結果によってその仮説の信憑性(仮説の妥当性に対する信念)が高められ、逆に仮説を支持しない結果、すなわち仮説からの予測に反する結果によって、その仮説の信憑性が低められるというように、連続的な尺度で考えていくべきものである」(p.88)という記述である。私の疑問は、「仮説に合致する結果が得られても、その背後に未知の第三変数があるのであれば、その点に気づかない限り、いくら研究が蓄積されても、それが意味のある(仮説の信憑性を高める)ものか否かは判定できないと思う」というものである。

 いただいたメールは、それに対する補足であった。ありがたいことである。ご本人の許可をいただいたので、メールの該当箇所をここに転載する(強調は引用者)。

まず「仮説の信憑性」という言葉についてですが、これは本文中にも書き、道田先生も引用されているように「仮説の妥当性に対する信念」という意味で使っています。「信念」ですから主観的なものであり、たとえばどんどん信念が強くなっていっても、真実はそれとは異なっていて、単なる誤信念であったということもありえます。つまり、「真実への近さ」というような客観的な意味ではないということです。予測通りの結果が得られたら「しめしめ」と思って、その仮説への信用を増大させ、予測に反する結果が得られたらその仮説への疑いが強まる、というような意味です。
同じパラダイムで研究を蓄積していっても、大事な未知の第三変数に気づかずにいれば真実に近づいたことにはならない、ということは先生のおっしゃる通りです。そのこととは違う意味で「仮説の信憑性」という言葉を使っているという点を、補足させていただきたいと思いました。

 このメールをいただいてから考えたことを、ここに記しておく。まず私は、「信憑性(信念)」という語の意味を、私はすっかり誤解していたようだ。そういえばこの読書記録を書いたとき、上の引用箇所を書き写しながら、「信憑性? 信念? どういうことだろう?」とチラと思ったような気はする。が、高低の話なので、要するに(客観的な意味での)帰納だろうと解釈して終わりにしていた。しかしどうやらそうではなかったらしい。

 ただ、「完全な証明/反証ではなく信憑性(信念)の高低」という表現は、やっぱりちょっと分かりにくいのではないかなあと思う。というのは、「客観か主観か」という対比と、「完全か程度問題か」という2つのことが同時に対比されているので。私が誤読したのは、後者のみを「客観」についての話として理解したからであった。それは、(おそらく南風原先生が書かれているものではなく)確率論的帰納主義という立場になるのだろうと思う(自信はないが。ちなみにこの言葉は『科学哲学入門』にあった)。

 そして、ここから先は自信がまったくないのだが、「客観ではなく主観」という考えは、ポパーに近いのではないかと思った。ポパーは、客観的真理の判断基準が存在しないと考え、そしてすべての仮説や理論を暫定的なものと考えている。ということは、そこで得られた暫定的仮説は、客観的な知識かどうかはわからないもの(≒主観的な信念?)、ということができるのではないだろうか。ポパーがそういう表現をしているわけではないのだが。

 もっともポパーは、主観的な確信度が上がったり下がったりするというようなことは言っていない(と思う)。1回反証から免れた仮説も100回反証から免れた仮説も、「今のところ反証されていない」という意味では同じだからだ(『ポパーの科学論と社会論』によると、「験証の度合い」という考えもあるのだそうだが、よくわかっていないので省略)。

 これは、科学哲学という立場からみた規範的な話だ。しかし、日々研究を行なっている研究者は、ちょっと違うイメージももっているのではないかと思う。いくら規範的には確証度が上がったりすることはないとは言え、多くの事例で確かめられれば確かめられるほど、あるいは、多くの追試をクリアすればするほと、仮説が真である可能性が高いと感じるのは自然であろう。

 このように考えるならば、「完全な証明/反証ではなく、信憑性(信念)の高低」という表現は、前半がポパー的見解、後半が研究者の実感、と分けて理解するのがいいのではないか、という気がする。まったく自信がある話ではないが、少なくとも私にとっては、そう考えるのが一番しっくりくると思った次第である。


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