読書と日々の記録2004.11下

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■読書記録: 30日短評10冊 29日『社会(シリーズ授業)』 25日『つよい子を育てるこころのワクチン』 20日『学校という場で人はどう生きているのか』
■日々記録: 30日【授業】臨界事故と同調< 16日【授業】心の病 16日「先生になる」授業

■今月の読書生活

2004/11/30(火)

 今月は比較的たくさん読むことができたのだが、時間的に余裕ができたわけではない。エッセイや薄い本を何冊か読んだので、結果的に冊数が稼げたのだ。

 今月良かったのは、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(なるほどそう考えたのか)、『学ぶ意欲とスキルを育てる』(なるほどそう育てるのか)、『社会(シリーズ授業)』(なるほどそう見るのか)であった。『学校という場で人はどう生きているのか』も、部分的には悪くなかったのだが。

『転機の教育』(朝日新聞教育取材班 2003 朝日文庫 ISBN: 4022614056 \525)

 朝日新聞に連載された教育記事「転機の教育」「学力は今」「攻防02年」を加筆修正したもの。さすが新聞社だけあって、さまざまな角度から教育問題が取材されている。学力問題、学力低下論争関係者、学校現場、政治家、官僚、新しい試みを行っている学校や地域、米国、学習塾など。ただし新聞記事だけあって、一つ一つの話にはボリュームが乏しい感が無きにしも非ずだったが。これだけいろいろあるなかで、結論を出すのは難しいのかもしれないが、私が見た感じでは、最大のヒントは、「「勉強をやる気にならない」などという子どもや若者は、どんな気持ちなのか」(p.179)という部分。小学生から大学生までの意見があるのだが、一部紹介すると、わかるってことがわかんない、できなかったとき先生に解答を何度も直すように言われいやだった、先生は「家でちゃんと勉強しろ」というだけで、どうしたら分かるか教えてもらった記憶がない、生徒の悪いところばっかり指摘してくる先生がいやだった、将来の目標がない以上、なぜ勉強するのかがわからない、暗記ばかりの単純作業で全然面白くなかった、などなどである。こういうのを見ると、教育問題は結局、「大人の側の意欲やスキル」(p.194)であるように見える。

『公立小学校の挑戦─「力のある学校」とはなにか』(志水宏吉 2003 岩波ブックレット ISBN: 4000093118 \504)

 経済的にも文化的にも恵まれない地域にありながら、確かな基礎学力と良好な集団づくりに成功している小学校を週1回フィールドワークした筆者の報告書。ブックレットなので70ページ強しかないのだが、興味深かった。集団づくりに関していえば、よさの見えにくい子を学級集団の中心にすえながら、「子どものよさを見つめる」ことであり、集団の中の矛盾や歪みを逃さずに「集団を読む」ことであり、それを支える、教師集団の協働を作る(学級王国を作らない)ことのようである。そのような集団を基礎として、「わからない時にわからないと言える学級集団」が作られ、学習に関する教師の深く丁寧なかかわりがあり、その上に確かな学力が作られているようである。このような興味深い話はたくさんあるのだが、挙げだすときりがないので、これぐらいにしておく。この学校についてのほかの本も見てみたいものである。

『忘れられた日本人』(宮本常一 1960/1984 岩波文庫 ISBN: 400331641X \693)

 「生きた生活を捉える」という「生活誌」を中心とした民族誌の本。筆者によると「私の一ばん知りたいことは今の文化をきずきあげた来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生まれた来たか」(p.309)ということなのだそうだ。確かにいろんな人が出てきて、そのエネルギーが感じられる本だった。もっとも私の仕事上の興味からいうと一番面白かったのは、「村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日もはなしあう」(p.13)という最初の話。のんびりしているようで次第に話が展開している話とか、毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをしないよう、論理づくめではなしに体験を通して話をすすめることとか、合議制がみられるのは非血縁的な地縁結合だったとか。

『三三七拍子』(爆笑問題 2001 二見書房 ISBN: 4576007408 ¥1,050)

 太田氏のエッセイが読みたくてBOOK OFFで買ってみた。初めて読んだのだが、ブラウン管でみる太田氏のイメージとは違っていた。内省的というか。読書家のようだし。ときどき、「既成概念を外して、一つ一つの発言が自分にとってどう響いたかを考えなければ、自分のオリジナルな考えなど、なくなってしまう」(p.40)なんていう記述もあるのだけれど。

『天下御免の向こう見ず』(太田光 1997/2004 幻冬舎文庫 ISBN: 4344405285 ¥480)

 太田氏のエッセイ第二弾(私が読んだのは)。書かれたのはこちらが最初だそうだが。エッセイとしてのできは『三三七拍子』が上かもしれない。まあそれでも、太田氏がどんな人(だった)かを知りたかったので、これはこれでよかったのだけれど。

『爆笑問題 太田光自伝』(太田光 1999/2001 小学館文庫 ISBN: 4094022864 ¥560)

 0歳から35歳までを1年ごとに追って聞いたインタビュー形式の自伝。高校時代に友人ができなかった理由のは、「入学式の日に誰とも話さなかった」というぐらいで「何でかっていうのは、今でもよくわからない」(p.102)のだそうだ。面白かったのは、素人オーディションのギャグ1本で芸能界にデビューし、最初は売れて「若手のホープ」というポジションを得たものの、その後仕事が途切れ、そこからまた再起した、という話。再起したのは、「もう一度、若手と同じ土俵に立たないとダメだ」(p.175)と考えて、高校の卒業式の予餞会から、勝ち抜き番組から、何でもやったのだそうだ。ちょっと「わたしはあきらめない」(以前NHKでやっていたインタビュー番組)みたいだ。

『ポパーの科学論と社会論』(関雅美 1990 勁草書房 ISBN: 4326152389 2,600円)

 再読、を一応したのだけれど、ちょっと集中力なしに読んだので、昔引いたマーカー部分を中心に目を通した、という程度。こういう本をちゃんと読むには気合が必要である。今回は、ポパーが批判的合理主義的に振る舞う「態度」を重視しているらしいことが目にとまった程度か。あと、批判的合理主義とは、強い意味に批判的思考と共通する部分が多いようにも思った(自分に対する批判的思考、という点で)。

『ひとに〈取り入る〉心理学――好かれる行動の技法』(有倉巳幸 2003 講談社現代新書 ISBN: 4061496832 ¥735)

 「取り入り」に関する社会心理学的研究について紹介した本。なかなか丁寧かつわかりやすく書いてあって悪くないかも、と前半は思った。しかし中盤以降は、社会心理学に特有の読みにくさ(概念の分かりにくさ)や、単なる列挙的な話になって、全体像や研究の面白みがあまり伝わってこず、残念であった。まあ「取り入り」が、心理学の諸概念とどのように関連するかを多少なりとも知ることができたので、その点は良かったのだけれど。

『ロジカル面接術─2005年基本編』(津田久資・下川美奈 2003 ワック ISBN: 4898310702 \1,470)

『こうして僕らは全員内定』の姉妹編というか、理論編的な本。私はこのほかにも、『超MBA式ロジカル問題解決』を読んでいたのだが、この2冊を足したような内容の本だったので、何かの面接を受ける予定のない私には、不要といえば不要な本だった。

『保育者のためのクリティカル・シンキング入門』(谷川裕稔 2003 明治図書 ISBN: 4189404187 \1,365)

 うーん、『クリティカルシンキング』(ゼックミスタ&ジョンソン)などの本の影響がモロに見える本。筆者自身もそう書いてはいるのだけれど。一応「保育」ということが念頭にあって、そういう例が出されてはいるものの、あまり筆者なりのオリジナリティは見えなかった。かなり残念だった。

【授業】臨界事故と同調

2004/11/30(火)

 共通教育科目「人間関係論」は、今日から社会心理学。前半は導入的事例研究で、JCO臨界事故の概要を説明した。去年、NHKスペシャルでこの事故を扱っていたので、ビデオを15分分ぐらい見せつつ、概要を説明をし、この事故が、複数の要因でおきていることを説明した。その上で、集団の問題もあり、それは私たちにも共通するものだといって、「同調」の話題に。この流れ、はっきり言って『無責任の構造』をベースにしている。

 同調については、基本的にはアッシュの実験を紹介しただけである。といっても、去年までは、JCOに1時間、同調に1時間かけていたものを、あわせて1時間としたので、ちょっと苦労したのだけれど。前半の臨界事故の部分はちょっと難しかったという声もあったが、授業後に質問書を見ると、このような同調を自分のこととして捉えてくれた人が少なくなかったようで、まあ一安心か。

 前回までは、人格心理学を中心に話をしていたので、今回、流れが途切れるなあと思っていたが、考えてみれば、臨界事故のような事件を目にしたときに、「なんてひどいことする人たちなんだ」と考えるのは、前回話した「性格論的自己非難」ならぬ「性格論的他者非難」にしかすぎず、そういう状況になったときに自分もそうしてしまう可能性が考えることにはならない、と、状況に目を向けることの重要性という形でまとめたので、なんとか前回までとの話とつながったのではないかと思う。今回は、前半の流れに難があったのが反省点。

■『社会─社会のしくみと歴史(シリーズ授業 実践の批評と創造 4)』(稲垣・谷川・河合・竹内・佐伯・野村・佐藤・前島・牛山・石井 1992 岩波書店 ISBN: 400004124X \2,400)

2004/11/29(月)
〜社会科の目的とは〜

 小学校の社会の授業を2つを、著者たちがみていろいろと意見をいう本。『障害児教育』と同じシリーズである。BOOK OFFで半額で出ていたので買った。

 対象となった授業は、地域の開発史の授業(4年生)と、蒙古襲来の授業(6年生)である。本書はいろいろな分野の人が参加して討論しているので、書かれている内容もさまざまなのだが、比較的多く話題になっているものに、「社会科の目的」があった。私は、最近社会の授業を見ることが多かったのだが、社会科の目的ってなんだろうと思っていたので、ちょうどよかった。それにしても、社会科って特に小学校では、目的が分かりにくいのだ。少なくとも私は、いくつかの授業を見ながら、そう感じていた。

 筆者らはどういうことを言っているのか。以下にいくつかを抜粋してみる(強調は引用者)。

  1. 四年生では、今と違う生活が存在したという、時間感覚を身につけさせるのが一番のねらいですね。〔中略〕江戸時代まで時間認識を遡らせるのは、この教材だけなんです。(p.18, 宮原武夫氏(歴史教育の専門家))
  2. 社会科の目的は社会認識の形成にあると言われるけれど、ディスカッションを中心に授業を考えると、その目的は、いわゆる社会認識の形成ではないように思うんです。ディスカッション中心の授業では、社会問題に対する批判的思考とか、社会問題を議論するためのディスコース(論じ方や語り口)を形成しているんだろうと思うんですね。(p.27, 佐藤学氏)
  3. 社会科は、子どもが自らのあり方を確立する教科だし、それを認めていく教科だと思いますね。子どもが歴史であれ産業であれ公民的なものであれ、その場に立てる実感をもち、自分なりの見方や考え方を持てる。(p.101, 授業者の一人である南哲朗氏)
  4. 子どもたちに、そういう非常に多層な拮抗しあい矛盾しあう現実を、さまざまな事実をとおして教えていくことで、子どもたちが、結局は、自分自身がその中の一つを選択して決断して、それに責任をもたなきゃいけないんだと気づくようになるのが、最終的な目標だと考えてもいいんじゃないかという気がするんです。そういう意味じゃ、たぶん、今の日本の小学校の授業を考えてみた場合に、子どもたちの中に、自分たち自身がすでに持っている先入観とか固定観念を壊すような力をどうにかして喚起していかなきゃいけないという面が、必ず出てくるような気がするのね。それは、子どもたちの中に批評精神を育てることであって、これは今の教育では、ほとんどタブーに近いことになってるし、日本社会の中でも、たとえば親子関係の中でもタブーに近いことになってるわけだから、本当に口で言うほど簡単なことじゃないというのは、よくわかってるんですけどもね。〔中略〕簡単に言うと、タテマエを壊すということなんですけどね。(p.110, 谷川俊太郎氏)
  5. 社会科指導の目標は、子どもたちが自らより確かな事実をもとに思考・判断し、社会的思考力や判断力を培い、社会認識を形成していくことにある。地理、歴史、公民の各分野の指導内容を注入する指導は、分科社会科に近いが、小学校の社会科はあくまでも総合社会科である。身のまわりにある社会的事象を自分との関わりに即して具体的に調べ、そのようすやしくみに気づき、自らの社会的な見方・考え方を構築していく学習だからである。(p.117, 南哲朗氏)
  6. 子どもたちの思考の発達段階からいっても、小学校の段階では歴史の因果関係の追及の授業は困難であると考え、時代の変化の経過や理由は指導計画の中では軽く扱うか触れないようにしている。また、約100授業時間という授業時数からみても、小学校での通史学習は困難だと思う。各時代の人物や事件を学ぶことを通して得られる時代像を積み重ねて、歴史の進歩、発展を感じ取らせることをねらいとすべきだろう。(p.146, 授業者の一人である平野昇氏)
  7. 中学年の社会科では、〔中略〕高学年のように、目に見える教材から目に見えない教育内容へと進む、高度な思考の訓練は期待されていない。むしろ、目に見える具体的な事実と事実との関連を説明できる程度の資料活用能力や思考力の訓練が期待されているのである。(宮原武夫氏)
  8. 「社会科のおもしろさ」ということは、基本的には「センス・メーキング(sense-making)のおもしろさ」なのだ、ということである。〔中略〕あえて日本語にいいかえると、「なるほど、それで合点がいく!」といった感じであろう。いままでバラバラに見えていたことが実は背後でしっかり「つながって」いることがわかったとか、なんでそうなんだとなんとなく疑問を持っていたが、納得できる理由がそれなりにあることがわかったとか、あるいは、本当の目的が何なのかわからなかったところ、実にもっともな目的が背後にあり、その目的を追求した結果がああなったんだ、ということがわかったり、というような「わかり方」を表現したことばである。(p.192, 佐伯胖氏)

 重要単語だけ抜き出すと、「時間認識」「社会認識」「批判的思考」「語り口」「実感」「批評精神」「思考・判断」「自らの社会的な見方・考え方を構築」「時代像と歴史の進歩、発展」「合点がいく」というところだろうか。これを私なりに一つにまとめるならば、「実感を持って社会を知り、語り、考える」ということになりそうである。そういうことであれば、今後、社会科の授業をみる上での観点とすることができそうである。

 私なりに合点がいったのは、上記2番。「ディスカッション」という方法と「社会認識」という目的は相容れない。そういわれると、社会科の授業の目的の分かりにくさが少し分かるような気がする。なんとなくだけど。あと、私なりにこういう目的がいいのではないかと思ったのは、上記4番(タテマエを壊す)。発言者も、それはタブーに近いと難しさを認めているのだが。しかし、本書1つ目の実践で、「埋め立てで困る人に対しては、お金で解決する」という現実に対して生徒が反対したのを、教師が「タテマエ論に近い」と考え、「先生だったら、たくさんもらえば「うん」って言うかもしれない」(p.137)と答えて、学級全体が騒然となっている。残念ながらそこで時間となったようだが、こういうことをうまく掘り下げてタテマエを揺さぶることができれば、上記4番の目的とも近くなってくるのではないだろうか、と思った。

 ちなみにこういうタテマエは、大学でも見られるように思う。そういえば「心理学」は一応「社会科学」なわけだし(さらにいうならば、上記の「社会科」の目的の一部は、「心理学」にも共通するように思う)。それをどうやって揺さぶり掘り下げるのかは、私自身も考えるべき問題である。

■『つよい子を育てるこころのワクチン─メゲない、キレない、ウツにならないABC思考法』(マーティン・セリグマン 1995/2003 ダイヤモンド社 ISBN: 4478710562 \1,680)

2004/11/25(木)
〜批判的思考的楽観主義〜

 タイトルはアレだが、『オプティミストはなぜ成功するか』のセリグマンが作った、子ども向けプログラムの説明本。基本的な主張は『オプティミストはなぜ成功するか』と重なるのだが、うつ病について少し知ることができたし、前著でよくわかっていなかった部分も本書で多少確認することができた。

 まずうつ病に関しては、アメリカでは、「うつ病にかかる率は、1950年代の10倍以上」(p.3)と増えているだけでなく、低年齢化しているのだそうだ。一言で低年齢といっても、年齢によってリスク要因が違うのだという。具体的には、小学校3〜4年生は、親のケンカやペットの死、兄弟の病気など、「悪い出来事」そのものが原因となっているのに対し、小学校5〜6年生では、「本人の悲観的な考え方が重要になる」(p.42)という。セリグマンの研究は念が入っているというのは前著の読書記録にも書いたが、この傾向も、500人以上の子どもを5年間追跡調査した結果だという。

 前著でよくわからなかった点は、楽観主義/悲観主義と批判的思考の関連である。悪いことが(も)起きる可能性を考えるという点では、悲観主義が批判的思考に近いような気もするが、しかし筆者のいうABC思考とは要するに認知療法とか論理療法のような考え方なわけで、それも批判的思考的である。

 しかし、少なくとも本書においては、悲観主義とは、悪い出来事を「永続的」「全面的」「自分の責任として」捉えること(としてしか捉えないこと)のようである。あるいは、悪いことを見た瞬間にネガティブな結論に飛びついて、それに対する反論を考えもしようとしないことのようである。つまりセリグマンにとっての悲観主義(=うつ病にかかりやすい人)とは、悪い出来事を悪い点だけで捉えようとすることをさしているようである(私の記憶では、前著における悲観主義は、それだけではなかったような気がするのだけれど。「うまくいっている会社に楽観主義と悲観主義の両方が必要」なんていう記述を見る限り)。

 それに対して楽観主義は、少なくとも本書においては、単なる「楽観」ではない。そのことについては、楽観志向とは、コップ半分の水を「半分も入っている」というだけではない、「もっと深いもの」(p.22)と述べているし、「正確でない楽観志向は、うつろなもので、すぐにくずれさってしまう」(p.227)と書かれている。前者に関しては、「楽観志向の本質は、前向きな言葉や勝利をイメージすることにあるのではなく、できごとに対する「原因」をどう考えるかにあります」(p.22)と説明されている。それが上記の悲観志向の反対の態度である、悪い出来事を「一時的」「限定的」「非自分化」して捉えることのようである。あるいは、問題を自分化(自己非難)する場合でも、「性格」のような変えられない次元で行うのではなく、「行動」のように変えられる次元で行う、ということのようである。

 基本的に楽観的なのは、そういう部分(悲劇的な結末を考えない)だけで、あとは、自動思考をキャッチし、証拠を探し、代わりの考えを作り出すということで、そこだけみれば、きわめて批判的思考的である。それが結果的に楽観主義になるのは、どのようなできごとも、一つの原因で起こるわけではなく、いくつもの原因があるので、そこから「変えられる」原因を探したり解釈を考えることが、結果的に楽観主義につながる、ということのようである。筆者はこのような作業を、探偵に例えたりしている。そのことからも、筆者の考える楽観主義が批判的思考的なものであることが伺える。なお、いくつもの原因を考えることをサポートする方法として、筆者は「パイゲーム」なるものを考案している。単に、紙に描かれたパイの絵をいくつにも切り分けながら、可能性のある原因を沢山考えさせる、というものなのだが、なかなか悪くない方法であるように思った。

 話を戻すが、楽観主義と批判的思考の関係に関するこの理解からすると、どうやら私は前著をあんまりきちんと理解していなかったようなのだ(いやいや、これは筆者の前著の書き方が悪かったに違いない、と非自分化してみたりして)。まあ一番いいのは、両方の可能性を念頭において、ちゃんと証拠を探す(=前著を読み返す)ことだろう。それで私の読み方が不適切であったとしても、私はいつも何にでもそうしているわけではなく、あくまでも今回の読み方の問題なのだろうと考えるべきなのだろう。

■『学校という場で人はどう生きているのか』(浜田寿美男・小沢牧子・佐々木賢編著 2003 北大路書房 ISBN: 4762823155 \2,310)

2004/11/20(土)
〜居場所としての学校〜

 学校問題が論じられるときというのは、一般には、学校がどうある「べき」か、なにを「すべきか」、というから論じられる。しかし本書は、そうではなく、学校がどのような場所「であるか」から論じようとしている。編者の言葉でいうならば、「教師の問題、親の問題子どもたちの問題をあげつらい、その原因探しに躍起になり、あれこれの対策をひねりだす以前に、まずは子どもたちが生きている現実世界のありようをより正確につかむことが必要なのではないだろうか」(p.4)という問題意識である。今の私の興味に近い発想の、興味深い本であった。

 結論からいうと筆者らは学校を「勉強するところというおきまりの定義以前に、大勢の子どもと少数のおとなの混沌とした日常の居場所」(p.43-44)と考えており、そのような視点から論じられている。たとえば浜田氏は、「教師たちの教育的なまなざしに隠れて、子どもたちが一種の裏文化をつくり上げる。〔中略〕当の子どもたちにとっては、そうした行為はある意味で必然であり、ある意味で主体的に求めているものなのである。」(p.41)と論じており、まったく同感である。

 ただし、本当に学校がどのような場所であるのか(あるいは、学校という場で人はどう生きているのか)を正面からフィールドワーク的に検討しているのは、「心の教室相談員」を勤めていた3章の筆者のみで、あとは、子どもの詩、作文、発言の単なる列挙などである。フィールドワークに近いものとしては、フリースペースの運営関係者と現職教師の体験談はあったが。あとは理念的な議論が多く、その点はちょっと期待はずれではあった。

 ただし、フィールドワーク的ではないものの、浜田氏の「学力」に関する論考には、いくつか興味深い点があった。それは次のようなものである。

 要は、学力低下そのものが問題なのではなく、子どもにとっての学力(あるいは学校での学習)の意味が問題なのだ、ということのようである。それは、フレイレのいう預金型知識観に通じる問題であろう。そういえば学力低下問題を、こういう視点で論じた議論って、あんまりなかったような気もする。何だかさすが浜田氏である。

【授業】心の病

2004/11/16(火)

 共通教育「人間関係論」。去年までここは、心身症、神経症、精神病とカウンセリングを広く浅く扱っていた。しかし今年は、何かの病気を重点的に扱おうと考え、「うつ病」だけをテーマに授業をした。

 流れは、知っている精神疾患名を挙げさせる、自己評価式うつ尺度を、タイトルを伏せてやらせる、これは何の尺度だと思うか当てさせる(これはすぐに当たってしまった)、うつ病患者のビデオ(回想)を見せる、というもの。

 その後、セリグマン流に、説明スタイル(楽観、悲観)を紹介し、もう少しビデオをみせた。この話は、認知によって症状が変わるということで、前回の性格や、前々回の恋愛(感情)の話とも通じるので、結果的に流れはなかなか悪くないと思った。まあ授業自体は、初めてということもあって不手際もあったのだけれど。

「先生になる」授業

2004/11/16(火)

 今日の2限は、時間ができたので、ある先生の授業を見せてもらいにいった。教科教育法関係の授業である。この授業、最後に受講生がけっこうな模擬授業を作っているのをCDビデオで見せてもらったので、その前段階をみたいと思ったのだ。

 受講生は、6人グループが6つで、36人程度であった(来ていない人が十数名いたけど)。グループワークが多いらしく、みんな、グループに分かれて座っていた。

 授業の途中、先生が説明の中で、グループのことを「クラス」と言っていた。いい間違えかと思ったけど、そうではなかった。というのは、各グループに「今日の先生」(もちろん受講生)もいたのだ。今日の先生を決め、グループワークをする場合は、どういうふうに進めるかは、今日の先生が決めるのだ。また、グループワークはどこでやってもいいのだが、その進行状況は、「今日の先生」が本当の先生にメールで伝える。また、欠席者に今日の授業や作業内容を伝えるのも「今日の先生」で、何をどう伝えたかも、メールで本当の先生に伝えることになっているのである。

 なるほど、最終目的が模擬授業(をビデオ録画すること)であり、各グループは、それに向けて作業する「クラス」であるということのようである。本当の先生はさしずめ、その「学校」の校長先生といったところか。こういうしかけがあるからこそ、大学生が、最後の模擬授業では、なかなかそれなりに先生らしく振る舞えるようになる、ということなのかもしれない。なかなか興味深い授業運営であった。


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