読書と日々の記録2006.05上

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■読書記録: 15日『文化心理学入門』 10日『「学び合う学び」が生まれるとき』 5日『わかったつもり』
■日々記録: 15日疲れる一日 9日プログラム学習 3日日本的ステレオタイプ 2日思考のパースペクティブ性

■『文化心理学入門』(波多野誼余夫・高橋惠子 1997 岩波書店 ISBN: 400003958X \1650)

2006/05/15(月)
〜文化の中での教育〜

 絶版本なのでマケプレで購入したが、いい本だった。今まで何冊か文化心理学と関係するような本を読んだと思うのだが、本書のおかげで、全体を整理して理解することができたように思う。

 たとえば、今まで文化心理学と進化心理学の関係がよくわからなかった。どちらもトレンドでかっこいい、という程度の理解だったのだ。それが本書ではすっきりと整理されていた。我々が生きていくうえで、解が簡単には決まらない問題がたくさんある(本書には出てこないが,知覚における逆光学がその一例)。しかし人は、効果的かつ効率よく振舞うことができる。それは、一定の「制約」(特殊な規定条件、規定因)の元で行動を決定しているからである。それを身につけるひとつの源泉が「進化」であり、もうひとつが「文化」である。前者が一般的で強い制約、後者が特殊的で弱い制約となることで、人が特定の環境にすばやく適応できるのである。なるほど、であった。

 またこれまで、文化心理学と教育の関連がよくわからなかった。というか、両者を直接に結びつけて論じたものは、私が読んだ中にはなかったかもしれない(単に見落としているだけかもしれないけど)。しかし、教育−状況論という結びつきはよくみるし、状況論−文化(心理学)という結びつきもみる。ので、教育と文化心理学は関係があっておかしくないのだが、そういう記述を見たことがなく、私の中でも整理されていなかった。このことは本書では明快かつ簡潔に、「文化は新しい成員を絶えず社会化することなしには維持されないから、発達と教育は文化心理学の中心課題」(p.187)と論じられている。これもなるほどである。やはり教育において文化は重要な概念であることを、本書で再認識した。

 もうひとつ。本書でも、あるいは状況的認知の話の中でも、人が(制約の元で)知識を構成していることが論じられる。それが「文化」心理学の中でどのように位置づいているのかについても、私はわかっていなかった。本書でも、一読後はわからなかった(というか、そういう疑問さえもっていなかった)のだが、本書に書かれていることを「文化」という観点に注目して読み直したり自分なりに構成し直しながら、その関係がようやくわかった。本書によると、心の発達が知識の構成過程であるという考え方に関しては、「認知心理学と文化心理学の発達観にはかなりの共通性がある」(p.185)という。つまり文化心理学の専売特許ではないわけだ。ただし文化心理学では、知識を構成するときの文化や社会の役割を重視する。また、知識の獲得だけでなくそれに伴う自己概念の変化や、知識獲得を制約もするものとして文化や社会を考える点は文化心理学に独自のようである。

 最後に教育についてまとめておく。本書は「子どもと教育」というシリーズの一冊であるせいか、教育に対する示唆が何箇所かで述べられている。筆者らは、学校での学びが意義のあるものとなるためには、ひとつには、学校外での学びに近づけることが好ましい、と述べている。そのひとつのアイディアが「学習者のためにコミュニティ」という考えであり、「熟達を分散」(つまり、一人一人が得意なものを持つ)をした上で、「教え合い」をすることを提唱している(というか、これを提唱しているブラウンの考えを紹介している)。また、「学校においても、より正しくかつより深い理解を求める活動を支える文化的伝統を学校内・学級内に構築すること」(p.187)も提唱している。これらの示唆は、子どもの学びだけでなく、たとえば教師集団の学びにおいてもまったく同じことが言えると思う。そういうことを考える上で、文化(心理学)に着目することの有効性を、本書で考えることができた。

疲れる一日

2006/05/15(月)

 今日は,私が1週間の中で一番ハードな月曜日。先週の教訓を活かし,3コマ目と4−5コマ目の間で,栄養ドリンクを飲んでみた。でもやっぱり,身体がちょっとヘロヘロしかかっている。トシかのー。

■『「学び合う学び」が生まれるとき』(石井順治 2004 世織書房 ISBN: 4902163098 \1,470)

2006/05/10(水)
〜同質の発言の繰り返しから〜

 私は、授業を見、語る眼を養う一助とするために、「シリーズ授業」(これなど)をずっと読んできた。そこで学べることはもちろんたくさんあるのだが、ちょっと見えにくい部分もある。そのことを、ある先生に話したところ、紹介されたのが本書である。本書はシリーズ授業のように、小学校における実践が2時間分収録されているが、シリーズ授業と違い、多くの人による実践検討会は行われていない。そうではなく、筆者一人が授業記録の合間合間でコメントをはさみ、また、授業記録後には、授業に見られる教師の働きかけや子どもたちの学びあいの姿が、筆者の視点から総合的に読み解かれている。さらには、筆者と授業者との対談も収録されている。いうならば、授業を見ることに長けた人の指導助言(+α)を聞いているような本で、シリーズ授業とは違う角度から学ぶことが少なくなかった。また、「学びあい」がどのようなイメージなのかについて、今までよりももう少し明確になったような気がする。といっても、本書に収録されているのは、国語の中の文学教材なので、その範囲での話なのだが。

 まず、本書のタイトルにある「学びあう学び」とは何か。それは、教師側からの発想としての「学びあう授業」ではない。「「授業をつくる」という概念から「子どもの学びをつくる」という概念への転換を意味するもの」(p.16)である。それは、教師の思いで子どもを引っ張るのではなく、子どもの考えから出発する学びであり、教師の役割は子どもの考えを「受信」することである。

 いや、こう書くとちょっとうそっぽくなる。そういう表現は今までにもたくさん目にしてきた。しかし、本当に「受信」だけなのか、という思いはいつもつきまとってきた。それでは授業がどこに向かうかわからないではないか。いつもそう思ってきた。

 本書に収められた授業を見ると、教師の仕事が「受信」だけではないことがわかる。授業の中で、その時間に目指していること(?)からずれそうな子どもの発言があった。そのとき授業者は、板書してある単語を指差し、その観点から語るよう子どもに促している。やはり「子どもたちの学び合いが、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしないよう、教師は絶えず留意しなければならない」(p.84)のである。ただし、発言をまるで変えさせるわけではない。子どもがある登場人物の観点から語ろうとしたとき、そのことを別の登場人物の観点から語るよう促したのである。しかし軌道修正は見事になされているのである。もちろんこれは、教師が子どもの考えを「受信」しているからできることであろう。しかしそれだけではない部分がある。そうそう、こういう例が知りたかったんだよ、と思った。このほかにも、子どもの発言に対して、「どこからそう思った?」と聞くことで、テキストから離れないような配慮がされていたりしているようである。もっとも、それで子どもの間違いを間接的に気づかせる、とか、それを問うことで常にテキストを意識させる訓練としている、なんていう意図はなさそうで、確認の意味で使っているようではあるのだが。

 このような学びにおいて、特に重要なのではないかと私が感じた点は、以上のような教師の役割のほかには、2つある。ひとつは、教師の授業観とでもいうべきもので、ひとつの正解に向かうことを目的としない、ということである。筆者は、「その場その場で子どもたちが作品と出会い、その時々に子どもなりの鑑賞をするのが大切なのであって、何も、ある解釈に到達させることが目的なのではない」(p.87)と述べている。子どもなりの考えを発表し、他人の意見を聞きながら、自分の納得のいく考えが作られればよしと考えているようである。この考え、ワークショップなどで目指されているものにとても近い気がする。そういう場を作るためにどうするか。それと関係するのではないかと私が思ったのは、以下の記述である。

「学び合い」の授業では、最初の段階で、同質の内容を繰り返し繰り返し何人もの子どもが語ることがある。それは一見、冗漫な感じに思えたり、子どもの考えが画一的に聞こえたりする。しかし、それは子どもたちにとって必要なことなのだ。まず、ある一定のことをみんなで確認する意味合いがある。そしてその確認に基づいた新たな発見が、その繰り返しの中で準備されるのだ。いわばお酒が発酵していく時間のようなものである。」(p.125)

 これが、私が特に重要だと思った2つ目のものである。そこで話題となっていることを、他者の「声」を参照しながらも、自分の「声」で自分の納得いくストーリーとして、十分に表現することである。それがあって初めて、それを基礎として「新たな発見」が生まれる、というのである。本書に収められた実践でいうと、最初、何人かの子どもたちが「僕も一緒で……」という前置きで同じようなことを語っていると、そのうち、「いっしょかどうかわからないんだけど……」という前置きで語る子が出てきたりする。その発言も、他の子どもたちの腑に落ちるような発言なら、同意的な発言が後に続くし、そうでなければそこで終わってしまう。そこで終わるのも、時期が早すぎたという場合があり、その場合は、その発言が伏線となり、後々生きてきたりしている。この流れは、ワークショップでの一見冗長な話し合いの中で生まれる納得や創発にとても似ている気がする。

 ということで、本書でまた一歩、学びあいについての理解が深まったような気がしたのだが、先も述べたようにこれは文学の授業だけの話である。教師が子どもたちにある一定の理解や技能を身につけさせたいと思っている場合(たとえば算数など)ではどうなるのか、知りたいものである。この本を、シリーズ授業みたいな感じでシリーズ化してくれるといいんだけどなあ。

 ただしここでひとつだけ疑問がある。このような納得による語り合いは、ある種の学びのスタイルとしては意義深いことであろう。しかし、それだけだと、『わかったつもり』にならないか、という疑問である。「その子なりの鑑賞をする」ということはもちろん大切なことだが、それが時として、「文章の結末を読者なりに想定したり、一部の記述のみに着目してしまい、その他の部分をそれにあわせて読み飛ばしたり読み間違えたりする」なんてことになる可能性はあるだろうと思う(この問いは、民主主義が安易なポピュリズムに堕することがあるのではないか、という問いに近いかもしれない)。それに対して筆者がどういうか、聞いてみたいものである。

【授業】プログラム学習

2006/05/09(火)

 昨日の授業なのだが,備忘録をつけておこう。昨日の教育心理学は,学生が発表と質疑をする授業の初回だったので。

 発表は1グループ。発表グループは,それなりにわかりやすいコンセプトマップを作り,2分ちょっとで発表を終えてくれた。引き続き質疑タイム。昨年は,2分程度でグループで質問を考えてもらい,挙手で質問してもらったのだが,発表グループが即答が難しい場合があったようなので,今年度はやり方を変えた。質問をA3用紙にマジックで大書してあらかじめ黒板に貼ってもらい,それを見ながら答えてもらうようにしてみた。このやり方,先週に試してみたところ,全グループの質問が出揃うのに結構時間がかかったので,今回は8グループ(全体の半分強)限定で質問を紙に書いてもらった。このやり方でも,質問が出揃うのに11分かかった。次週は,「6グループ限定」もしくは「9分以内」で質問を募ってみるか。

 ただ,発表グループにとっては,昨年よりも答えやすそうだった。発表グループも途中で気づき,答えた質問は黒板からはずしていった。最後に一つ質問が残ったところで,私が引き取った。回答時間が結局,14分というところか。今回は,次週発表グループ(2グループ)に,今回のマップ,発表,質疑の評価を記入してもらっていたので,それぞれに,今回の発表グループのよかった点と改善すべき点を一つずつ紹介してもらった。

 残りの時間が,私の補足とビデオ視聴である。内容は,昨年よりもはしょった。ビデオは,1本は昨年も見せたジャグリング練習のビデオ,もう1本は,NHKわくわく授業であった「ダンボールでだんだん上達!」という体育の授業だった。後者のビデオを見る際には,「どんなスモールステップで学習をしているか」をワークシートを埋めながら見てもらった。これは悪くなかったようだ。時間的にはギリギリだったのだが。

■『わかったつもり─読解力がつかない本当の原因』(西林克彦 2005 光文社新書 ISBN: 4334033229 \735)

2006/05/05(金)
〜文脈を交換して脱出〜

 文章読解に関して筆者は、批判的に読み、書くことの前提として、「通り一遍ではない、よりよく読めることが必須」(p.5)と考え、よりよく読めないのはどうしてなのかについて論じている。よりよく読めないのは要するに、ある程度の理解(あるいは誤解)で「わかったつもり」になって、それ以上考えないからである。

 本書には、「わかったつもり」の種類がいくつか挙げられている。たとえば、文章の結末を読者なりに想定したり、一部の記述のみに着目してしまい、その他の部分をそれにあわせて読み飛ばしたり読み間違えたりする、というわかったつもりがある。また、いくつかの事例が並べられていると、要するにいろいろあるんだなと理解して、全体構造などを考えなくなってしまうわかったつもりがある。あるいは、読む前からもっていた自分なりの思い込みがあり、それにあわせて読んでしまうわかったつもりがある。こういう分類は初めてみたので、なかなか興味深いと思った。

 ではわかったつもりに陥らず、よりよく読めるにはどうしたらよいのか。わかったつもりは「文脈」から起きていることが多い。それと同じで、「以前とは異なる、より細かな文脈を使い、部分から異なる意味を引き出して、「わかったつもり」から脱出」(p.72)することが可能だという。以前とは異なるより細かな文脈を使うとは、ある観点をもって文章全体を整理したりすることのようだ。それを通してよりわkるようになるプロセスについて、筆者は次のように述べている。

最初の「わかったつもり」を、文脈を交換しながらたんねんに読むことによって壊すと、通常、次には新たな「矛盾」や「無関連」による「わからない」状態が待っています。〔中略〕「わからない」状態の克服は、「矛盾」を引き起こしている部分間に、また「関連のついていない」部分間に、関連をつける作業によってなされます」(p.176)

 私が読書記録でやっているのは、まさにそういうことだ、と自分では思っている。ここでは本の内容を、自分なりのストーリーで再構成しているのだ。自分なりのストーリーにまとめるときには、自分なりの文脈を設定し、それをもとに、文章を眺めなおしている。そこで、自分の理解の「矛盾」や「無関連」に気づくことがよくある。それで十分に読めているかどうかはわからないが、少なくとも最初の「わかったつもり」は、この作業の中で揺るがされている。また、国語の授業の中で文章の読みを深めることってこういうことなんだ、とも思った。そんな授業を受けた記憶はあんまりないのだが(国語の授業については、また後日)。

 もう一箇所、なるほどと思った箇所を引用しておく。

文章の探求は終わりのない過程ですが、とくに最初の一歩、すなわち、一読後の「わかったつもり」からの脱出がなかなか困難であるというのが私の経験からくる印象です。ここを抜けると、比較的少ない努力で、ときには自動的とも思える感じで、次々と気になるところを見いだしていけるように感じています。(p.180-181)

 述べ忘れていたが、「わかったつもり」から脱出するというのは、批判的読みそのものである。あるいは批判的思考そのものである。おそらく、最初の一歩が一番困難、というのも同じだろう(終わりのない過程というのも)。そのヒントとして、本書の考察はとても参考になるように思った。

日本的ステレオタイプ

2006/05/03(水)

 今日は、午前中は上の娘と近所の公園で遊んできた。

 午後は自分たちで遊んでいるので、私はちょいと昼寝などしたりして。

 今、娘たちは、カレンダーにお絵かきをしている。カレンダーといっても、前に何かの機会にパソコンで作って打ち出した、下半分が白紙のカレンダーである。子どもに絵を描かせようと思って作って使わなかったものだ。

 月ごとに、下の娘が上の娘に聞いている。「3がちゅは何書くの?」「3月はひなまつりだよ」というように。

 4月は何書くの、と下の娘が聞いたとき、上の娘は「4月は桜」と答えた。

 ここ沖縄では桜は4月には咲かない(1〜2月に咲く)。つまり身の回りで経験していないはずなのに、上の娘、こんな純日本的ステレオタイプ、どこで身に付けたのだろうか?(国語の教科書とかかな?)

思考のパースペクティブ性

2006/05/02(火)

 ここ4年ほど,半年に一回,自分なりのスタイルで書いている紀要論文の原稿を書き終え,提出した。1ヶ月間,このことばかり考えていたが,ようやくひと段落である。

 今回は,パースペクティブ性という観点から思考について考えてみた。基本的には,浜田寿美男氏の『「私」とは何か』から発想を得て書いたものだ。

 このスタイルで紀要論文を書いていると,たいていいつも,今まで考えていなかったアイディアが出るのだが,今回も出た。それは,「批判的思考にとって一番重要なのは,「批判」ではない」というものだ。今回の結論としては,むしろ「自分の「視点」を自覚すること」が批判的思考にとって最も重要,ということになった。

 この考えが妥当なのかどうかは,まだわからない。半年間,このことは忘れておいて,刷り上がり後にもう一度読み直して考えてみたいと思う(校正はあるけど)。


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