読書と日々の記録2006.07上

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■読書記録: 15日『戦争広告代理店』 10日『麻原彰晃の誕生』 5日『無敵のハンディキャップ』
■日々記録: 14日メガネ 7日調査面接開始 4日スカートの購入額

■『戦争広告代理店─情報操作とボスニア紛争』(高木徹 2002/2005 講談社文庫 ISBN: 4062750961 \649)

2006/07/15(土)
〜あいまいな状況を白黒にする〜

 1990年代前半に起きたボスニア紛争の背後でアメリカの広告代理店が情報操作をしていた、という話。筆者はNHKのディレクター。NHKスペシャルの制作の過程やその後に得た情報などを元に、本書が書かれているらしいが、かなり綿密な取材をしている印象を受ける本であった。本書は、講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞を受賞している。

 ボスニア紛争とは、旧ユーゴスラビアの民族紛争である。民族浄化という言葉が世界的に使われるようになったのは、この紛争が最初である。ボスニアだの民族浄化という言葉は、当時私も耳にした記憶はあるが、しかし紛争の中身はほとんど理解していなかった。本書によると、ボスニアはもともと旧ユーゴスラビアに属しており、モスレム人、セルビア人、クロアチア人が住んでいた。このうち、人口の4割強を占めるモスレム人が数を恃みにユーゴスラビアから強引に独立したために、ボスニアに住むセルビア人が反発して起きたのがボスニア紛争である。セルビア人は数は人口の3割強と多くはないが、隣国のセルビア共和国の支援を受け、軍事的に強大であったために、泥沼的な紛争が起きたようである。

 当時、セルビア人が「民族浄化」を行っていたとして、国際的な非難を浴び、ユーゴスラビア連邦は結果的に国連から追放されている。では当時、セルビア人が一方的にモスレム人に人権侵害をしていたかというと、どうもそうではないようなのである。その逆も行われていたことは、どうやら間違いないらしい。ではなぜ国際的な世論は、セルビア人=悪というものにかなり一方的に傾いたのか。それは、タイトルにもあるようにアメリカの広告代理店が情報操作をしたからであり、その一部始終を明らかにしたのが本書である。

 もっともその内容は、「情報操作」という言葉でイメージされるようなものとはかなり異なっている。少なくとも、明らかなウソがあったという証拠はなさそうである。とはいえ、きわどいものがなかったわけではないようだ。しかし広告代理店がやったことの多くは、メディアやアメリカ議会に働きかけてボスニアの悲惨な状況を知らせる、ということであり、情報の出し方を工夫する、というものであった。その中心人物であったハーフ氏は、「私がしたのは、たとえば日本の外交当局なら、外務省の官僚がするべき仕事だったわけですね」(p.179)と述べている。たしかに外務省の仕事には、「国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」が含まれている。彼らがやったのは、まさにこれであった。最初は、彼らが流す情報は見向きもされなかった。それは、バルカン半島での出来事など、アメリカとの関連は皆無だからだ。しかし彼らの地道かつ多方面からの努力が功を奏し、次第にアメリカ市民の注目を集めるようになり、国際的な世論が形成されていったのである。

 それはとても興味深いプロセスだったのだが、ここで疑問に思うことがあた。それは、メディアが何をしていたのか、ということである。もっというならば、メディアの検証能力は適切に発揮されたのかということである。最初に述べたように、どちらが悪いと明確にはいいがたい状況で、一方的な悪の印象が作られたわけで、結論から言うと、メディアは検証能力を十分には発揮しなかったことになる。どのようにしてそのような状況が作られたのだろうか。

 もちろんメディアは、広告代理店から流されてきた情報をそのまま流すことはない。少なくとも大手メディアであれば、情報のウラをとる作業はしているようである。しかしどうやらここに落とし穴があるようだ。少なくとも本書の記述によると。

 というのは、流された情報が本当のことであれば、ウラをとった上でその情報は流される。しかしウラがとられるのは、「流されてきた情報」についてだけなのである。その外で何が起きているかは、調査されることはない。流されてきた情報が、「セルビア人がモスレム人に人権侵害を働いた」ということであれば、確認されるのはその事実であって、その逆、つまり、モスレム人がセルビア人に人権侵害を働いているかどうかが確認されることはないのである(どこかからそういう情報が流れてくるか、誰かが意識的に調査でもしないかぎり)。それなら、最初に述べたようなあいまいな状況の中で、一方が悪であるという印象を作ることは可能になるだろう。

 本書の中でも、あるコラムニストの言葉である「各紙の論説委員会議はボスニア・ヘルツェゴビナ政府だけと接触して、セルビア人からは情報をとろうとしなかった。それが問題なんだ」(p.130)というものが紹介されている。そして、そういう情報が国際的に広がり始めれば、今度は、ウラをとるよりもスクープをほしがるマスコミも出てきて、さらにそういう方向の情報が、十分に検証されることなしに流れるようになる。セルビアのある大臣は、「いったん"悪者"ができると、その"悪者"を、ろくな検証もせずに書きたてて、ニュースとして報道するのです」(p.251-2)と述べているが、まさにそういう状況が作られたようであった。

 このことからわかるのは、マスコミが検証能力や自浄作用を持っているといっても、それがうまく発揮されるときと発揮されないときがあるということである。また、対立する二者のどちらか一方だけが明白に悪い(あるいは間違っている)わけではない状況であっても、ちょっとしたことの積み重ねで、第三者に見える印象が大きく変わってくるということである。ひょっとしたら、世の中にある論争の多くは、実はどちらか一方だけが明白に間違っている、というものではないのかもしれない。しかし何らかのことが原因で、その印象がどちらか一方に大きく傾くことは大いにありえることである。しかし第三者にとって、その「実は」を知ることは非常に困難である。とするならば、一方が明白に悪いようにみえる対立も、その背後に「実は」がないとも限らない、という態度で情報に接することが重要、ということになるであろうか。そのことを思い起こさせてくれる事例を提供してくれるという意味で、本書を一読しておくことは、とても大切なことかもしれない。

メガネ

2006/07/14(金)

 メガネのツルの根元が折れた。レンズがはまらない。裸眼ではよく見えない。しょうがないので、新しいメガネを買った。

 最初は、前のメガネを買ったメガネ屋に車で行こうと思った。考えてみたら、メガネがないと車の運転ができない。

 さらに考えてみたら、職場の近くにメガネ屋があることを思い出した。久々に職場を定時に出て、そこに行った。安売りメガネの店で、店に入ってから30分でメガネが出来上がった。値段は4000円強。感動的な速さと安さである。これなら予備用として気軽に買える。ということで、いつも使うメガネよりも、心もち小さいメガネを買い、それをつけて帰宅した。

 しかし...帰宅して5分以上(というか私がヒントを出すまで)、誰も気づいてくれなかった(泣)。

■『麻原彰晃の誕生』(高山文彦 2006 文春新書 ISBN: 4166604929 \798)

2006/07/10(月)
〜陰の部分のライフヒストリー〜

 これまでオウム真理教ものというと、『極秘捜査』など11冊ほど読んできた。それらによって、事件とその周辺の問題について、多少は理解できたような気がしたが、しかし、一番わからないのが教祖についてであった。元信者の本を見ると、とても怖い人物として描かれていたり、とても魅力的で能力のある人として描かれていたりする。まあ一人の人でもさまざまな面は持っているのだろうが、それが極端というかバラバラという感じがした。

 本書は、ノンフィクション作家である筆者(『火花─北条民雄の生涯』を書いた人だった)が、さまざまな取材を元に、その人となりを浮かび上がらせようとしたノンフィクションである。おかげで、少しわかった部分がある。それと同時に、本書でわからなかった(わからなくなった)部分もあるのだが。

 わかった部分とは、彼の言動を陰陽で分けたときの「陰」の部分(怖い部分、残忍な部分や尊大な部分)は、学生時代からもっていたものだ、ということである。ある教師は、「智津夫がオウムでやったことは、盲学校でしょっちゅうやっていたことの延長です」(p.49)と述べているし、そのようなエピソードが本書にはたくさん載っている。なるほどこれが彼の基本的な性格(行動傾向)なのか、ということが本書でわかった。ちなみにそれは、もちろん学生時代だけの話ではなく、ヨガ道場を旗揚げするまでは、基本的に彼はそういう言動の目立つ人間だったようだ。たとえば、彼が薬事法違反で捕まったとき、関わった警部補は「きっとまた法律にふれるようなことをしでかす、そう直感したんです」(p.90)と述べている。要するにそういう人間だったようなのだ。

 本書は、そのような彼の「陰」の部分を中心に彼の生い立ちを追っている。だからそれはよくわかる。しかしそれだけでなく、彼はヨガの修行者として、また指導者としては優れていたようである。たとえばある元弟子は、「あのころの麻原さんは、まだそういう行者的な高い精神レベルにあった」(p.147)と述べているし、筆者も彼を、「修行者としての才能に満ちて、修行の核心をだれよりもすばやく鋭くつかむことのできた彼」(p.247)と評している。それがいつごろから、どのようにそうであったのかは、本書にはほとんど記述されておらず、残念であった。彼のそういう部分は、元信者の手記である『オウムはなぜ暴走したか。』にはふんだんに書かれているわけで、それは単なる気まぐれや見せかけではなかったようなのである。彼の陰と陽の両方をバランスよく解明してくれる本があるといいのになあと思った。まあ陰の部分をよく知ることができただけでも本書は価値があるとは思うのだが。

調査面接開始

2006/07/07(金)

 今日から調査面接を始めた。初日は2人。

 いつもそうなのだが,こういうのって始めるときは,なかなか気持ちが前向きにならない。準備は十分だろうかとか,大事なことを聞き忘れて失敗するんじゃないだろうかとか,聞き方が悪くて偏った(あるいは表面的な)情報しか得られないんじゃないだろうかとか,単なる雑談に終わるんじゃないだろうかとか,ラポールがうまくとれないんじゃないだろうかとか,いろいろと心配してしまうのである。

 しかし,終わってみたら,やっぱりやってよかったなー,と思った。本当に。自分がインフォーマントのことを,いかに表面的な印象で理解していたかを思い知らされるので。そして改めて,人を来歴や内面から理解することの大切さを,再確認したと思う。もちろんインタビューの限界はあるのだろうけど。

■『無敵のハンディキャップ―障害者が「プロレスラー」になった日』(北島行徳 1997/1999 文春文庫 ISBN:  \514)

2006/07/05(水)
〜障害者と対等に関わる〜

 障害者(主に脳性まひ)のプロレス団体を立ち上げた筆者によるドキュメンタリー。障害者によるプロレスがどのように構想され、どのように育っていったかが書かれている。非常に面白く、ほぼ一気に読んでしまった。

 筆者は、障害者のボランティアに携わる人なのだが、筆者が何を狙ってこの活動を始めたのか、実は私は読んでいる最中には、十分に理解できなかった。そこで、そのことと関わりそうな記述を、抜き書きしてみる。

  1. 障害者問題の原因の一端が、健常者の無関心による無理解にあるとするならば、障害者が真面目なやつだけでなく面白いやつもたくさんいることを知れば、関心を持つためのきっかけになるはずだ。それには、障害者たちが人前で自己表現する発表会活動が有効だと思えた。
  2. どうしたら同情ではなく、観客に正当に評価されるのだろう。〔中略〕健常者に近づくのではなく、逆に障害者であることを強調することでこそ、固定化されてしまった障害者観を揺るがすことができるはずだ。(p.26)
  3. 健常者社会やボランティア業界に波風を起こそうとしているのに、反応が返ってこない。(p.80)
  4. 健常者と障害者は違う。それを表現するために闘い抜き、最後に得た物は、障害者も健常者もないという一瞬だった。(p.134)
  5. 私たちのやっていることは、決して無駄ではない。少なくとも、障害者のことを考えるきっかけにはなっているのだ。〔中略〕障害者レスラーたちの姿を見て、いろいろと思いを巡らせてもらいたい。健常者レスラーの闘いぶりを見て、障害者との付き合い方を考えてほしい。(p.204)
  6. 麻痺のある体を限界まで酷使し、自分の内面までをさらけだすことで、観客の心にまとわりついて離れない何かを残す。それこそが障害者プロレスの神髄だったはずである。(p.222)

 なるほど、これで少し見えてきた。まず筆者がターゲットとしているのは、3にあるように、「健常者社会」と「ボランティア業界」であり、そこに「波風を起こそうとしている」のである。健常者は、障害者のことをほとんど知らず(あるいは関心を持たず)、きわめてステレオタイプ的な障害者像を持っており、その人本人を評価するのではなく、障害者として見、一方的に「同情」するだけである(2)。そこで、1にあるように、「面白いやつ」などいろいろな障害者を表に出す戦略として、プロレスを使っているのである。いっぽう、ボランティア業界(ボランティアの世界)に対しては、閉鎖的で、しかし障害者と表面的な関わりしかもっていないことに対する批判となっている。それは単なる批判ではなく、筆者なりに障害者プロレスラーと対等に、深く関わる(上記4、5)という代案提示にもなっているのである。

 それだけではない。プロレスに参加する障害者にも、この活動には大きな意味がある。それは、この活動が、ボランティア業界をはみだして行われ、一般の人の注目を集めることで、大きな自信を生み出しているのである。そのことが、本書に出てくる障害者たちの姿からよくわかった。

 ただしそれはあくまでも、プロレスという領域固有の自信である。本書の主人公である慎太郎氏は、プロレスラーとしての自分と社会人としての自分のギャップを、次のように述べている。

さんぼしんたろうは、どんなぴんちでも、あきらめないでたちあがる、つよいおとこなのですね。そして、みんなに、みとめられ、あいされる、にんきものでもあるのですね……〔中略〕でも、やのしんたろうは、ちがうのですね。いつもみんなに、ばかにされ、なにをやっても、だめなおとこなのですね……どうして、ずっと、さんぼしんたろうのようにいられないのでしょうか……」(p.167)。

 「よく学校現場などで、一つのことで自信をもつことができれば、なんにでも積極的になれる的な言い方がされることがある。もちろん一つの自信がいろいろなものに広がることもあるであろう。しかしそうではない例はある。日常を振り返ってみるとむしろ、そうではない例のほうが多いかもしれない。その両方のケースがあることをちゃんと自覚しておく必要はあるであろう。本書では、その強烈な例が示されている。それだけ、障害者の内面に迫ったノンフィクションになっているということであり、それが本書が興味深かった一因であると思った。

スカートの購入額

2006/07/04(火)

 総務省の「全国消費実態調査」によると,スカートの購入額を地域比較すると,最下位は沖縄県だそうで,1位の愛媛県の1/4以下だそうだ(沖縄タイムス7月2日朝刊9面より)。

 これはどういうことなのだろうか。タイムスの記事では,「沖縄の女性はアクティブな方が多い?」と締めくくっているが,そういうことなのだろうか。こういうものの理由を考えるのって,統計資料を読む練習になると思うのだが,私には理由は皆目わからない。だからといって「アクティブ」という説明が的を射ているとは思えない。

 ちなみに,沖縄の次に低いのは,順に,岩手,長野,青森,山形,新潟,岡山。私は最初,これだけを見て,貧乏な県(=おしゃれする余裕がない?)と思ったのだが,一位が愛媛なのであれば,この説明では駄目な気がする(消費支出でいうと,沖縄は最下位だが,愛媛も下から10番目であるhttp://www.stat.go.jp/data/zensho/2004/hutari/youyaku.htm)。

 新聞の記事では,下位7県と上位1県しか載っていないので,これ以上のことはわからない。全国の結果がわかったとしても,これ以上のことは何も思いつかないかもしれないけど。


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