読書と日々の記録2006.10下

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■読書記録: 31日短評7冊 25日『認知科学への招待』 20日『ことばはどこで育つか』
■日々記録: 28日対話的な授業 24日当日ブリーフレポート 17日当日ブリーフレポート

■今月の読書生活

2006/10/31(火)

 引越しして5ヶ月。少し生活ペースが整ってきて,読書量が戻ってきたかもしれない。といってもまだまだではあるのだが。

 今月良かった本は,うーん,『小蓮の恋人』(2つの文化ね)と,『リコウの壁とバカの壁』(おかげでバカの壁に対する理解が深まった)かな。他の本も,そこそこ,あるいは部分的には悪くなかったのだが,全体的に,こりゃあ読んで得した,という一冊はないような気がする。

『オウム真理教とムラの論理』(熊本日日新聞社 1992/1995 朝日文庫 ISBN:4022611189 ¥560)

 1990年、オウム真理教が熊本県波野村に進出した頃の雰囲気がわかる。オウムは坂本弁護士事件との関与がささやかれていた頃で、村としても対応に困り、住民票不受理をはじめとする締め出し策をとった。それは決して適切な対応とは言えない。同じ頃、やはりオウムの進出で困っていた上九一色村では、村長が走り回り、住民が違法行為に走らないよう説得し、教団と住民の対話の道を探ったという。それはきわめてまっとうな策だが、結果だけ見るならば、閉鎖的なムラの論理を貫き通した波野村のほうが、危険性を回避できたともいえる。だからといって手段や考え方が正当化されるわけではないのだが。文庫版あとがきには、「多くのテレビや新聞が少しずつでも教団を追う報道をしていたら、教団はここまで異常な発展をしなかったかもしれない」(p.245)と書かれている。波野村騒動がひと段落したら、オウム報道もひと段落してしまったのだろう。あえていうならば、そういう取り上げ方も、ある種の「ムラの論理」だなあと思った。本書は、新聞掲載時にオウムから抗議があった部分に関しては、改めて再検証するようなつくりになっており、冷静な論理で作られているのだが。

『態度が悪くてすみません─内なる「他者」との出会い』(内田樹 2006 角川oneテーマ21 ISBN: 4047100323 \760)

 筆者がいろいろなところに書いた雑文を集めた本。なかなか興味深い言葉が散見されはするが、しかしどれも、もっと長い論考で読みたいなあと思ってしまう。そういう意味ではやや期待はずれか。というか、私が読む順番を間違えたということだろう。筆者の本をある程度読んだ人が読むと、また違う面白さがあるのかもしれないが、私は本書が筆者の本2冊目なので。印象的な言葉を抜書きしておくと、「真に批評的なことばは対話的なものです」(p.10)、「「私」が「あなた」との間にコミュニケーションを立ち上げようと望むなら、「私」と「あなた」のほかに、「私」に倍音をつけてくれるような、「もう一人の私」に立ち会ってもらわなければならない」(p.77)、「「内省」というのは、「私」と発語した瞬間に、「今『私』と口走ったこの語り手は誰だ?」という問いを自制することができない知性の暴走のことである」(p.168)、「構造主義的なアプローチとは、私にとって「知っているのが常識」であることを「抜いて」、「知らないのが常識」であることを「取り込む」という作業を意味するのである」(p.198)。最初の2つのようなことは、『先生はえらい』でも論じられているような気もするが、多少表現が異なっており、少し理解の足しになったかもしれない。あと、最後の引用のやつを見ると、まずはこの人の構造主義についての本を読むべきだったんだなと思った。

『折り紙分数(授業作りハンドブック4)』(布施まつみ・山野下とよ子・武隈隆彦 1991 国土社 ISBN: 4337646043 \1,325)

 『算数(シリーズ授業)』で引用されていた本。折り紙を使って分数を教えよう、という本である。こういうものに対して、子どもたちがどう反応するかがわからないために、内容についてはなんともいえないのだが、分数をこういう形で目に見えイメージできるようにするのは悪くないと思った。本書のやり方では、折り紙という具体的操作から、数という抽象物での思考に行くのではなく、間の段階として、「折り紙や分数タイルを書く」という段階が入れられている。操作する→書く→頭の中でイメージする、という段階も自然でいいなあ、と思った。

『学習科学とテクノロジ』(三宅なほみ・白水始 2003 放送大学教育振興会 ISBN: 4595236182 \2,310)

 再読。本書で紹介されてた実践は、やはり興味深いと感じた。が、本書は一つの実践をじっくり紹介する本ではないので、次は、一つ一つの実践をより深く知りたいものだと思った。放送大学のビデオでも探して見てみるかなあ。

『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(山内志朗 2001 平凡社新書 ISBN: 4582851037 \735)

 タイトルどおりの本。論文の書き方の本とはいっても、目指されているのは「良い論文」ではなく、不合格にならない程度の論文だし、考え方というよりも、「マニュアル」が目指されているようである。ということで、私にとってはほとんど見所のある部分はなかった。一つだけちょっと気を惹いたのは、「論文執筆格言集」の中に書かれている、「酔っぱらった頭で読み直すとこなれた文章になりやすい」(p.199)という格言である。ちょっと日本語がおかしいと思うが(「読み直す」だけでこなれた文章に「なる」ことはないだろう)、一度試してみようかと思った。

『逆説思考―自分の「頭」をどう疑うか』(森下伸也 2006 光文社新書  ISBN: 4334033628 \740)

 筆者のいう逆説思考とは、「通常の価値観の一面性を暴露し、それを反転させてしまう思考のスタイル」(p.7)のこと。そのような例として、ことわざ(「才子、才に倒れる」、のような)、芥川龍之介など文人の残したアフォリズム(「完全に幸福になり得るのは白痴のみに与えられた特権である」のような)、予言の自己成就現象(「いわしの頭も信心から」のような)、ハンフリーのいう「喪失したが故の獲得」、などが紹介されている。本書は私にとっては、つまらなかったわけではないが、すごく面白かったわけではない。それは、論理学的な厳密なパラドックスに留まらず、通常の価値観を反転させてしまうような思考は、さまざまな研究に見られるからであろうと思う(常識を追認するだけの研究は価値ある研究とはいえないだろう。そういうものは少なからず存在するが)。あと本書では、上記のような逆説に深く踏み込むことなく、紹介だけで終わっているところが、私にとっては物足りなかった。もちろん筆者は、一般向けにあえて踏み込まなかったのだろうが。一般向けという意味では、豊富な雑学をもつ著者が豊富なうんちくを楽しむ、という本としては悪くないだろうと思う。

『くまの子ウーフ』(神沢利子 1977 ポプラ社文庫 ISBN: 459100869X \402)

 マケプレで上の娘に買ってあげたので、読んでみた。幼児の発想ってこんなだよね、というのがたくさん出てくる。いちばん私が興味深かったのは、「ちょうちょだけに なぜ なくの」。ウーフがちょうちょを窓にはさんで死なせてしまった。ウーフは泣いたのだが、それをみて友だちのツネタくんは、「へえ、ウーフ、こないだ、ぼくととんぼとってあそばなかった?」「あのとんぼ、羽もげてしんじゃったけど、ウーフ、なかなかったね。どうして?」(p.58)と聞く、というお話である。もちろんウーフは答えられない。予定調和的に終わる普通の童話にはない感じの話なのだが、作者はどうしてこういうお話を書いたんだろう、と思った。

対話的な授業

2006/10/28(土)

 もう2日も前のことだが、附属小に授業見学に行った。5年生の国語と社会を見せてもらった。

 このクラスでは最近、子どもに挙手も指名もなしで発言させている。「ふつう、対話するときって手を挙げたりしないですよね」という先生の考えらしい。

 この日の授業は、そのやり方が題材とうまくマッチしたせいか、子どもたちの発言が自然につながっており、非常に面白かった。その理由は、先生が意図しているような「日常の対話に近づける」ということ(だけ?)ではないように私は思った。ふつうの授業だと先生が指名し、子どもの声をリボイスしながらも、そのやり方や当て方によって、結果的に子どもの発言をそれとなく評価する形になっている。しかし上記のやり方だと、先生の指名やリボイスが極力少なくなるので、先生の評価なしに授業が進む。それが見ている私にとっておもしろく見えた理由ではないかと思う。

 子どもたちの話し合いが、目的がきちんと共有され、そこからそれない限りは、このやり方は(少なくともこのクラスでは)かなり有効なのではないかと思った。題材のせいもあるのだろうか、子どもたちも乗っていたみたいで、3時間目から始めて、休み時間なしに4時間目も話し合いを続けていた(私は途中で退席した)。

 なお話し合いの後半、言いたいことがある子が増えてきたようで、発言したくて立つ子が同時に5〜6人出ることが何度かあった。そういうときにどうするか、まだルールが確立されていないようなので、混乱が見られたのだが、私は、短時間でもペアや小集団での話し合いに移行したらいいんじゃないかなあと思った。担任の先生がお忙しいようで、まだそういう話はしていないのだけれど。

■『認知科学への招待─心の研究のおもしろさに迫る』(大津由紀雄・波多野誼余夫編 2004 研究社 ISBN: 4327378100 \3,150)

2006/10/25(水)

 認知科学の各分野を鳥瞰するとともに、認知科学研究の面白さを伝えようとした本。扱われている分野は幅広いが、私にとって興味深かったのは、学習科学、洞察的問題解決、創造性の3章だった。この3章に関しては、とても面白かった。

 学習科学については、著者である三宅氏の他の本でも読んだ内容だろうとは思うのだが、何度読んでも面白い。本書最後にある編者同士の対談にあるように、「認知科学は、心の働きについて分かっていくのであれば、どういう方法を使ってもいいんだ、というふうに、そこのところをうんと緩くしてスタートした」(p.267 波多野氏)そうだが、その醍醐味が味わえる分野だから興味深いのだろうと思う。

 洞察的問題解決に関しては、鈴木氏がパズルを用いて、洞察についてうまい実験をしている。この話も、鈴木氏の論文(心理学評論)で読んだはずなのだが、やはり興味深い。たとえばパズルを解く過程で、被験者は「たまたま解に近づくことがあるが、そこから一気に解決できることは少なく、失敗と分かっているやり方に戻ってしまう」(p.49)という。そこから鈴木氏は、問題解決にはレディネスが必要で、十分な経験がないと有効な情報を利用できないのだろうと考察する。これは、批判的思考を含め、あらゆる思考(問題解決、意思決定など)にいえることだろう。そういう意味で極めて重要な指摘であると思った。

 創造性については、Finkeという研究者が、さまざまに条件を変えて創造のプロセスがどう変化するかを調べているという。思考に関しても、こういう条件分析的な研究が必要なのだろうと思った。とりあえずは、Finkeの翻訳を読んでみなければ。

当日ブリーフレポート

2006/10/24(火)

 今日が実質1回目。テーマは青年期であった。以下、思ったことを箇条書き。

 ともかく次回以降,レポートの質を高めるような工夫が必要そうだ。講義部分を中心に。

■『ことばはどこで育つか』(藤永保 2001 大修館書店 ISBN: 446921258X \2520)

2006/10/20(金)

 「ことば」がどのように生まれ、どのように育つのかについて、事例を中心に検討した本。検討されている内容は、人間という種に特異なものなのか、遺伝によってどの程度規定されているのか、逆に環境がどのような影響があるのか、といったところである。

 扱われている事例は、チンパンジーなど人間以外の動物の言語習得、サヴァン症候群の患者たちの言語能力とその他の能力、言語環境が劣悪な条件で育った子どもたちの言語習得などである。本書はそれらの事例を単に紹介しているだけでなく、ときには批判的な検討もなされており、その点が興味深かった。

 とはいっても、筆者が一方的に批判的検討を行っているわけで、批判される相手には相手の理屈があるだろうが、その点はもちろん本書ではわからない。したがってその批判が適切なものかどうかを判断するには、それなりの知識や見識が必要であろう。それができない人間(私のような)は、とりあえず筆者の語り口を見ながら、それがどの程度信頼できそうかを考え、信頼できそうな気がするのであれば、とりあえず受け入れるしかないわけで、私はそういう読み方をした(しかできなかった)。それでも、単純に事例を紹介されるよりは、言語習得についての理解は、本書の方が格段に進むような気がする。

 言語環境の話では、たとえばヘレン・ケラーも取り上げられている。私はヘレン・ケラーの話を聞いたり映画を見たりしたときに、なんだか気になっている部分があったのだが、筆者はヘレンケラーの語っていることや成育史を検討する中で、「「ものには名前がある」という啓示にも似たひらめきは、実は、記憶の再構成の所産だったように、私には思える」(p.249)と述べており、それはかなり納得のいく説明だと私には思えた。

当日ブリーフレポート

2006/10/17(火)

 今日は共通教育科目「人間関係論」。受講者は120人というところだろうか。どんな授業形態にしようか、昨日の夜遅くまで悩んだのだが、結局、当日ブリーフレポート方式をやってみることにした。授業内でミニレポートを書き上げる、というやり方である。レポートをかくために、質問が出たり、受講生同士の話し合いが起きるといいなあと思っている。

 早速今日も、簡単な課題でそれらしきことをやってみた。そこで分かったことを以下にメモ書き。


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