読書と日々の記録2007.10下

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■読書記録: 31日短評4冊 25日『教えて考えさせる授業(小学校)』 20日『物語 アメリカの歴史』
■日々記録: 27日学び 20日空飛ぶ娘たち 17日メタボ?

■今月の読書生活

2007/10/31(水)

 もう10月も終わりか。はやいなあ。今学期は,昨年の同学期に比べて授業が2つ増えているせいか,なんだかやけに忙しく感じる。どの時間にも大福帳みたいなものを書かせていることも,こちらに多忙感につながっているのかもしれないが,それはまあしょうがない。

 今月良かった本は,強いてあげれば『ホンダ神話』かな。やけに分厚くて万人向けではないと思うが。

『はじめての質的研究法─事例から学ぶ─教育・学習編』(秋田喜代美・藤江康彦(編) 2007 東京図書 ISBN: 9784489020162 \2,940)

 教育と関係する場面での質的研究を、事例を通して論じた本。今私がまさに必要としている内容で、得るところも多かったのだが、やや残念なところもあった。それは、章の中には、どのような問題意識(問い)の元にその研究が行われたかが明示されていないものがあるため、なんでこんなデータをとって分析しているのか、それがどのように教育に還元されるのか(教育現場の理解にどのように役立つのか)、よく見えないものがあったことである。これらの点が非常にはっきり見える形にした本があると、学校現場との共同研究を行う上での強力な足がかりになるのになあ、とちょっと残念だった。あと、「研究法入門」であることを意識しすぎてか、「事例を通して」という内容ではなく、研究上の理論や注意点があまりにも一般論的に書かれており、せっかくの「事例から学ぶ」という本書の特徴が活かされていないようにみえる節がいくつかあったのも残念だった。

『平等社会フィンランドが育む未来型学力』( ヘイッキ・マキパー 2007 明石書店 ISBN: 4750325333 \1,800)

 学会会場でブースを出していた明石書店の人が、うちのフィンランド関係の本で今一番売れているのはこの本、と言っていたので買ってみた。読んでみると、私が知りたいような情報はほとんど載っていなかった。知りたいような情報というのは、フィンランドの学校(特に小中学校)でどのような授業が展開されているのか、教師はどのような考えで教育を行っているのか、などということである。改めて本書の「はじめに」を読むと、「本書では、フィンランドの教育制度がいかに子どもたちの平等を保障し、学習の助けとなって高学力を支えているかについて論じています」(p.3)とある。つまり本書で焦点が当てられているのは教育の「制度」なのであった。それでは私の求める情報がなくて当然である。しいて言うならば、「学校内コミュニティの発展において、もっとも重要な判断が実践されるようになったのは、おそらく1980年代から1990年代にかけて、授業のあり方を「教えること」を中心とするものから「学ぶこと」を中心とするものへと移行させることについて、話し合われたときでした」(p.32)という記述がそれに近い。しかし、なぜそれが話し合われたのか、どのように話し合われたのか、それがどのように実現されたのか、どのような成果と課題がそこから生まれたのか、などについて突っ込んで知りたいところなのだが、そういうことに関する記述はなかった。残念。

『爆笑問題の日本史原論 偉人編』(爆笑問題 2001/2005 幻冬舎文庫 ISBN: 4344406478 \495)

 Book Offで見かけたので買ってみた。日本史の部分はさておき、ときどき、くだらないギャグに思わず笑ってしまった。まあでも本当の漫才を見たほうがはるかに面白いだろうな。

『決断力』(羽生善治 2005 角川oneテーマ21 ISBN: 9784047100084 \720)

 棋士羽生善治氏のエッセイ。棋士の考え方を凡人の日常に活かす、というようなことを目指された本ではおそらくないと思う。天才棋士はこんなことを考えているんだ、と垣間見る程度の本か。そういうふうに読めば、まあそこそこ面白くないこともないが。本当は、将棋に詳しい人向けに、彼の棋譜を具体的に示しながらここではこう考えたとか、今はこう考える、みたいな内容のほうが具体的でおもしろいのではないかと読みながら思った。もっともその場合は私は読者からははずれるわけだが。

学び

2007/10/27(土)

 金曜日、久々に中学校で授業見学をした。授業見学は1ヶ月ぶりぐらいか。

 子どもたちはその時間、あまり学びが充実していないように見えた。もっと何回も試行錯誤をするなかで、自分なりに学んでいけるといいのに、と見ながら思った。あるいは、友だちのやり方を見ながら。友だちに見てもらいながら。

 でも機材の数が十分にないため、そして他人との交流についても先生がそういう場を意識的に作っていなかったため、そんなふうに学べた子どもはごく一部だったのではないだろうか。少なくとも私にはそう見えた。

 自由に試行錯誤できる環境(と興味深い課題)があれば、人はそこから自然に学んでいけるのだと思う。他人と見せ合ったり話し合ったりできれば、そこからも学べるだろう。

 そういうものがない場合、人はどこから学べるのだろう。(学べない、と行っているわけではない。それ以外に何があるのか、私自身、きちんとした考えをもっていないので、上記の授業についても、結局のところは、パキッとしたことをうまく言うことができないのだ)(授業を見て考える力がちょっと落ちているのかな? ひょっとして)

■『教えて考えさせる授業(小学校)─学力向上と理解深化をめざす指導プラン』(市川伸一・鏑木良夫(編著) 2007 図書文化社 ISBN: 9784810074888 \2,100)

2007/10/25(木)
〜ルールを教えて考えさせる?〜

  出版社の編集の方にいただいた本。「教えて考えさせる授業」について、指導プランだけでなく、授業の作り方・すすめ方のコツや、実際に実践されている先生方の座談会などが載っている。

 指導プランは、算数、理科、国語、社会のそれぞれについて、複数学年の4つの指導プランが載せられている。そこでも、この単元は今までの授業はこのようなやり方でこのような問題があったのでこのように変えるのだ、という記述があったり、本時の急所、展開のポイント、子どもの感想などが載せられており、なかなか丁寧に作られている印象である。

 なお前書きには、「「教えて考えさせる授業」の特徴が表れやすいことから、慣例的な教科の配列とは異なり、「算数、理科、国語、社会」の順とし」(p.3)と書かれている。実際指導プランを見ても、算数と理科はよくできている授業が多いが、国語と社会は、教えて考えさせる授業の特徴がちょっとよく分かりにくい感じがする。

 本書を読みながら(また編集の方と多少のメールのやり取りをしながら)考えたのだが、教えて考えさせる授業の形にしやすいのは、要するに「ルール学習」的なものなのではないだろうか。従来型ではルールを自力発見させていたところを、基本ルールはあらかじめ教えてしまい(理解確認を丁寧にやりながら)、ルールの定着が不十分であるために引っかかってしまうような応用・発展問題を、考えさせる対象にする、というのが「教えて考えさせる授業」の基本ということなのではないだろうか(本書には「ルール学習」というような表現は出てこないが)。となると、たとえば社会科でも、ルール学習的な要素のあるもの(仮説実験授業や極地方式で扱われているような)なら、このスタイルに乗りやすいのではないかと思うがどうだろうか。

空飛ぶ娘たち

2007/10/20(土)

 うちの二人の娘たちを見ていると、下の娘(小1)がきわめて空想的であるのに対して、上の娘(小3)はきわめて現実的で面白い。おそらくこの対比は、年齢的なものに加えて、彼女らの持っている傾向が関係しているのだろうと思う。ただし小3といっても、完全に大人と同じような現実判断をするわけではないようである。

−−−

 さっき、ショッピングセンターに家族で行って、私は娘たちと売り場をウロウロしていた。ふと見ると、竹ボウキが置いてあった。へえこんなものスーパーで売ってるんだ、そういえば初めて見たような気がするなあ、なんて思いながら眺めていたら、娘たちがやってきた。

 竹ボウキを下の娘が見て一言。

 「あ、これに乗ったら飛べるかもよ!」(そういえばちょっと前にDVDで魔女の宅急便を見ていた)

 それを聞いて上の娘が一言。

 「たぶんね。乗ってみようか」

−−−

 ふだんの娘たちの会話なら、上の娘は「そんなはずないじゃん」とか、「そんなすごいものがスーパーで売ってるわけないじゃん」といいそうである。それをあっさりと「たぶんね」と言ったのは、ちょっと驚いてしまった。

■『物語 アメリカの歴史─超大国の行方』(猿谷要 1991 中公新書 ISBN: 4121010426 \861円)

2007/10/20(土)

 アメリカ史の本はこれまでに、『憲法で読むアメリカ史()()』、『アメリカ外交』などを読んできた(ほかに、一時代のみを扱った本を何冊か読んでいる)。本書は上記の本のように憲法や外交という一側面で見るのではなく、アメリカの歴史を全般的に扱っている。とはいっても、筆者の個人的な体験や興味という観点は比較的色濃く出されているようではあるが。

 本書で特に認識を新たにしたのは、次のようなことだろうか。

 本書で再確認したのは、アメリカでは、「建前として掲げられる理想」(建国の理想のような)と、「現実」に大きなギャップが見られることがあることである。たとえば18世紀に行われた対インディアン政策もそうだし、その後の黒人の処遇に関しても同じである。健全な批判精神と反知性主義もしかり。そういう二面性のある国として捉えないと見えてこないものはあるなあと思った。

メタボ?

2007/10/17(水)

 先日、娘がどこからか「メタボメジャー」みたいなものを持ってきた。単なる紙製のメジャーで、85cmのところに「危険」とか書いてあるやつだ(ウロ覚え)。

 私はズボンのサイズが85cmなので、ということはウェストの実寸は85cm未満ということだろうとずっと思っていたのだが、これで計ってみると、そうではなかった。要するに「危険」ということのようだった。

 おかげで、今まで他人事だと思っていたメタボが、急に身近なものになってきた。もう少し体重を落とさんといかんのかなあ、なんて漠然と考えた(といっても何をしたわけでもないのだが)。

 なんて思っていたところ、「ウエスト男85cmは「メタボ」  診断基準に厳しい批判」なんていうニュースがあった。

男性の腹囲85センチという日本の基準は、中高年の平均値とほぼ同じで「半数を患者に仕立てるために初めから結論ありきだったのでは」と疑っており、「患者が増えれば専門医と製薬業界が潤います」と「背景」を「解説」した。

 ...なんていう医学部教授のコメントも紹介されている。

 なーんだ平均値なのか。なんて、ちょっと安心したりして(それでいいのかどうかはさておき)。


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