読書と日々の記録2003.10上

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■読書記録: 15日『インタビュー術!』 10日『職業欄はエスパー』 5日『死ぬ瞬間』
■日々記録: 13日ウソをつく5歳児 6日素直な3歳児

■『インタビュー術!』(永江朗 2002 講談社現代新書 ISBN: 4061496271 700円)

2003/10/15(水)
〜けっこう調査面接的〜

 インタビューについて考え、インタビューのやり方、インタビューの読み方について説明した本。なかなか具体的でよかった。

 たとえば、相手から言葉を引き出すためには、「ノロノロと話を進めなければならない」(p.18)とか、インタビューできる時間が「細切れの三十分ならインタビュイーが「イエス/ノー」で答えられるような質問をたくさん用意したほうがいい」(p.39)とか、テーマの下調べの仕方(p.44あたり)とか、メモについて「固有名詞や数値は、テープを聞き返してもよく聞き取れないことがあるので、できるだけメモをとる」(p.49とか。

 インタビュー結果のまとめ方も、興味深かった。筆者はインタビュー後、テープ起こしをしてデータ原稿を作り、ポストイットでテーマをピックアップし、話し手の生の声を使いたいところをピックアップして完成原稿を作るという。この流れは、調査面接のやり方とまったく同じだ。本書の中には、実際のデータ原稿と完成原稿が並べられていたりして、どのように生のデータから原稿ができるのかを知ることができて興味深い。

 本書中、ちょっと気になったのは、「批評性が欠如したインタビューがあまりにも多い」(p.34)とプロモーション的インタビューを批判しているが、では実際にどのように批評性を発揮するのかについては、ちゃんと触れられていないように見えた。しいて言えば「「それはどういうことなのか」「ほんとうにそうなのだろうか」という疑問」(p.217)という記述があるので、そのことを指しているのだろう。しかし私の(乏しい)経験では、せっかくインタビューに応じてくれた人に疑問を呈するのは、なかなか難しいことだと思う。まあそのあたりは、実際のインタビューでも読んだり見たりながら学ぶしかないか。なお筆者によると、TVでのインタビューには田原総一郎型と黒柳徹子型があるのだそうなので、そのあたりから勉強するか。

■ウソをつく5歳児

2003/10/13(月)

 最近の上の娘(5歳4ヶ月)のマイブームのひとつに、どうやら「うそをつく」があるようである。ウソとは言っても、だましたり、何かを隠したりすることが目的で言っているようではなく、すぐに「へへー、ウソ」と言うのだが。

 つくウソは、「歯磨きした?」「もうした……。ヘヘー、ウソ」というものだったり、「今日幼稚園でこんなことがあったよ。……ウソ」みたいなものだったりする。いやまてよ。ときどき「ホントホント」と強調することもあるので、そんなに単純ではない。

 しかしなかには、とても分かりにくいウソもある。昨日も、買い物先で、上の娘は「しいちゃん(下の娘。仮名)はキャンディを2つ持ってるよ」と言い出した。へえそうなの、と思っていたら「ウソ」と上の娘がいう。別に1個持ってても2つ持ってても、何か違いがあるわけではないし、本当かどうかは、下の娘の手の中を調べてみればすぐに分かることである。どうしてこういうことを言ってみるのか、ちょっと不思議である。

 ちょっと思ったのは、ウソを「言ってみる」ことを楽しんでいるのではないかと思う。楽しんでいるというか、何が起きているかを試してみているというか。あるいは、ウソをついてみて大人の反応をみてみているのかもしれない。

 それにしても、何のためにそんなことをするのだろうか。そこで思い出すのは、浜田寿美男氏の論考である(『〈うそ〉を見抜く心理学』など)。うろ覚えだが確か、「自分のパースペクティブ」と「他人のパースペクティブ」がずれる(重なり合わない)空間にウソは生まれると考察されていたような気がする。上の娘のウソは、そういうズレをたくみに利用したものではないのだが、そういうズレの存在に気づき、自分がそのズレの空間の存在を知っていること(まあ平たく言うと、大人の知らない世界を自分が特権的に知っていることを知っていること、かな)を楽しんでいるのかなと思う。

 そういうことは、内的世界が発達する上で、必要なことなのだろう。もっとも、こういう時期をある程度すぎたら、今度はたくみにその空間を利用したりするのかもしれないけれど。

 #それをまねして、最近は下の娘(3歳1ヶ月)もときどき(分かりやすい)ウソを言ってみるようになった。そっちはこれからどう変化することだろう。

 #そういえば上の娘は、夜うちで下の娘と遊ぶときは、自分のことを(本名ではなく)「しまぶくろ みき」、下の娘のことを「みほ」と称し、私にも別の名前を割り振り、ゴッコ遊びをする。これも、ウソ(=架空世界の創造)と関連があることなのだろうか。

■『職業欄はエスパー』(森達也 2001/2002 角川文庫 ISBN: 4043625022 781円)

2003/10/10(金)
〜メディア論&人間論〜

 著名な「超能力者」の日常を追ったルポルタージュ。とても面白かった。その面白さには、同著者の他の本にも通じる部分と、本書独自の部分がある。

 筆者の本(私がこれまでに読んだのは『A』『放送禁止歌』)に共通しているのは、筆者が「深夜の低予算ドキュメンタリーが主なフィールド」(p.9)のフリーのTVディレクターである点から来ている。筆者のドキュメンタリー企画のうち本になったものはどれも、テーマの特殊性ゆえ、一度は企画の命運がほとんど絶たれかけている。いろいろな意味でTV的なテーマではないからである。さらには、企画がスタートして、対象者(本書で言ったら「超能力者」)の目線で見ているうちに、いかにテレビが情報を選択し、視聴者に迎合し、本気で現実を見ることを抑制するかが見えてくる。「超能力番組」に関して言うならば、次のような状況である。

要するに、マスメディアが求めるベクトルを極論すれば、「驚異の的中率!」という全面的な肯定か、さもなければ「トリック発見!」という全否定のどちらかなのだ。〔中略〕この両端のあいだのグレイゾーンにメディアは価値を見出せない。(p.184)

 まあこれは、メディアおよび業界人のみの特性というよりも、すべての人間が持つある側面がメディアの特性に合わせて強調された部分なのだろうと思うけれども。逆に言うならば、メディアは人のそういう特性を肥大化したものである。そういう点に思い至らせてくれるという点で、筆者の著作は、少なくともこれまで私が読んだものはどれも、「何か」を題材にしつつも、基本的に「メディア論」になっているのである。これが面白い点の第一。

 もう一点、筆者の本に共通する面白さとして、筆者自身が感じたり揺れ動いたりしていることが表に出されている点がある。筆者は、一般の人(というか私)と同じようなステレオタイプをもって対象に接近し、対象を知る中でそれが変化し、変化することで悩んだり逡巡したりするという点が、読者である私の考えの変化にとてもよく対応していて、興味深い。本書のテーマである超能力でいうと、筆者は最初は懐疑的であったのだが、何回か、とてもトリックとは考えられない現象(スプーン曲げやダウジングなど)に接するうちに、考えが変わりそうになる(ように私には見える)。しかし筆者は、替わりそうになることに抵抗する自分を、次のように見つめている。

認めてはいけない。もしかしたら僕は、意識の底でそう思いこんでいるのではないだろうか。少なくとも僕はそうだ。認めることへの後ろめたさをどうしても払拭できない。認めることへの恐怖がある。平然と否定できた過去への未練がある。でもなぜ、認めることが怖いのか、その理由は未だにわからない。(p.238)

 筆者は最後まで、(2つ上の引用文でいう)全面的な肯定も否定もせずにグレイゾーンにとどまり続けつつ、現象や人間を観察しつつ考えている(もっとも、最終的にはかなり肯定に近いような印象を受けるが)。常に「超能力以外の可能性」を考えながら。その姿勢はとても好感の持てるものである。そういう筆者が、トリックの可能性を思いつかない現象を何回か報告しているので、読んでいる私もそうとう揺れたように思う。ただし筆者のように「目の前で」その現象を見たわけではないので、本書で考えが変わったわけではないのだが。なお筆者は、目隠しで車を運転するというある超能力者の演技を手品師であるナポレオンズが手品で再現したときも、そのトリックに気づいたような記述はない(「間違いなく視界は閉ざされているはずだ」(p.28)という記述はある)。だから、筆者が目撃した超能力が筆者が見破れないトリックであった可能性はあるのだが(その可能性は筆者も十分に考えていることであろう)。

 本書独自の面白さの部分は、いかにわれわれ(というか私)が、超能力者や超能力について知らずにステレオタイプ的に判断していたかに気づいた、という部分である。彼らがどのような日常を送り、テレビや超能力否定派の論者とどのような関係を築き、テレビのフレームの外で何が起こり、何を考えたり感じたりしているか、というようなことである。たとえば、本書に登場する3人の「超能力者」に関して言うならば、超常的な現象に接したときに、どんな解釈可能性があり、それからどこまでが言えてどこまでは言えないか、など、かなり慎重に深く考えているように見えるシーンはいくつもあった。あるいは、彼らのほうが超能力否定派の(一部の)論者よりも、きちんと科学的に実験して検証することを望んでいるとか。そういう部分が見えてくる本としては、『からくり民主主義』を思い出すが、この本と同じく本書は、「見えてくる」ので「わからなくなる」本といえよう。

■素直な3歳児

2003/10/06(月)

 下の娘(3歳1ヶ月)に対する私の印象は以前からあまり変わらず、我が強い、マイペース、反抗的、というものであった。それがなぜか最近、「素直」なイメージに変わりつつある。

 それは、下の娘の変化もあるだろうが、上の娘(5歳3ヶ月)の変化もありそうである。最近なぜか、私とお風呂に入ってくれることが少なくなった。歯磨きもママご指名のことが多いし、ギューとかチューもあんまりしてくれないし。

 それに比べて下の娘は、風呂も割と素直に入ってくれるし、ギューもチューも問題なし。歯磨きは、ときどき強烈に反抗されるが、大丈夫なことも割とある。

 上の娘は、5歳という年齢のせいだろうか、父親との距離感に変化が出てきたようである。それに対して3歳児のほうは、言葉による意思疎通も安定的にできるようになってきたせいか、コミュニケーションが安定している印象である。5歳と3歳ってこんなに違うのかと思う。

 ということで、最近は下の娘がミョーにかわいく感じるのである。もっともこれも、あと2年の命なのかもしれないけれど。

 #ちなみに下の娘の最近のお気に入りの本は、『よるのようちえん』と『ねむくないもん!』。どちらもセリフをかわいく言ってくれるのが楽しい。

■『死ぬ瞬間─死とその過程について─』(キューブラー・ロス 1969/2001 中公文庫 ISBN: 4122037662 1,048円)

2003/10/05(日)
〜患者から学ぶ〜

 有名な「死の5段階」説について書かれた本。5段階説とは,死が瞬間のものではなく,否認−怒り−取引−抑うつ−受容の段階を経る,dyingとでも呼べる長い過程全体である,という説である。実は私はこの節は,ずっと以前に少女マンガで取り上げられていたのを見たぐらいで,あまり知識はなかった。この説,直感的にも理解が容易なような気がするので,なんとなく受け入れていたのだが,筆者がこの説を作り本書を執筆するに至るまで,医者である筆者と牧師が末期患者に,学生の前でインタビューするセミナーを3年間で200回も行った上であることがわかった。

 またこれらは,精神医学でいう「防衛機制」であるらしい。そういう視点は持っていなかったのでナルホドであった。ただし,「各段階は,継続する期間もさまざまであり,順序を変えて現れることもあれば,同時に現れる場合もある」(p.232)というもののようである。本書には,各段階に典型的な患者との対話録が載せてあり,患者のリアルなことばでそれらの防衛を知ることができる点が興味深かった。

 防衛といえば,看護婦も医学生も神学生もその他の医療関係者もこのセミナーに参加するのだそうだが,医師はセミナーに参加したがらないのだそうである。それは「他人にどう見られているのかを聞くのが怖い」からだと筆者は考えている。筆者のインタビューの要点が「患者さんから学ぶ」(p.324)ため,医者が防衛的になるのも分からないでもない。しかし「セミナーに出席した医師たちはみな驚きの声をあげる。患者から何と多くのことが学べるのだろう!」(p.409)ということなのだそうである。ここから夢想するのだが,大学生を患者に見立てれば,大学教育においてもこのようなインタビューを通して学生から学ぶことが可能なような気がする。

 なお,このセミナーを受けた看護婦は,「医師が自己防衛的になったときには,すぐさま指摘することができるようになった。同時に,自分達の自己防衛的な態度もしっかりと見極めることができるようになった」(p.412)という。これはきわめて批判的思考的(しかも強い意味の)であるように思われる。それは、このセミナーを見学することを通して、医者や自分の言動を「患者の目」で見ることができるようになったから、ということであろうか。


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