| 30日短評11冊 28日『科学哲学入門』 24日『アサーティブ・ウーマン』 20日『心と他者』 16日『知力と学力』 |
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| 29日「チーモ」という1歳児 26日ウォーキング2題21日「恐いもの」への対処法 18日4歳になった娘 |
■6月の読書生活 |
2002/06/30(日)
今月よかったのは,『心と他者』。しいてもう一つあげるなら『アサーティブ・ウーマン』ぐらいだろうか。あまりないなあ。 今回はなぜか,小説やエッセイをいつもより多く読んでいる。そのなかでは,『白旗の少女』と『異邦の騎士』がよかったなあ。 日々の記録は,月初めには書く気があまりしなかったのだが,オヤバカ中心で,と方針を決めたとたん,書くことがたくさんあって困った。来月もこの調子で行きますか。
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■「チーモ」という1歳児 |
2002/06/29(土)
なかなか「宇宙語」をしゃべらなかった下の娘(1歳9ヶ月)だったが,最近それらしきものが聞かれるようになった。それでもやはり「音重視派」なのか,勢いに任せて「ゴニョゴニョゴニョゴニョネ!」としゃべることはなくて,それらしいものが,ちょっと聞かれる程度のことなのだけれど。 それに加えて,最近プチ感動したのが,「チーモ」という発言である。「チー」は自分の名前(を私たちが呼ぶ呼び方がさらになまったもの)である。「モ」は「私もほしい」の「モ」。たとえば私がお菓子を食べていると,下の娘がやってきて「チーモ,チーモ」とせがむわけである。 ちょっと前までならこういうとき,ただワーワー言って駄々をこねるだけだったはずだ。それが「私も(ほしい)」と言葉(もどき)で表現できるなんて。しかも自分のこと(チー)も言葉で表現できているし。感動だ。 4ヶ月前に一歳児が人間らしく感じられるときという日記を書いたが,これはその第二弾といえるかもしれない。考えてみたら,私たちが「チーモ」と言うことはないはずである。ということは,単なる猿真似ではない,自分で作った「文」をしゃべっているのである。ああ,やっぱり感動だ... まあ,オヤバカはさておき,内心,寂しさもある。もう赤ちゃんの時期も終わりかと思うと。こういう小さな出来事を積み重ねながら,子どもが成長するのに合わせて,親はそういう気持ちを諦めていかなければいけないのだろうけれども。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『科学哲学入門−科学の方法・科学の目的−』(内井惣七 1995 世界思想社 ISBN: 4790705587 \2,233) |
2002/06/28(金)
〜科学哲学の再考〜ありきたりではない科学哲学の入門書。ありきたりではないとは,寄せ集め的ではないということであり,単に歴史を追っているだけではないということである。 寄せ集め的ではないのは,テーマがはっきりしているのである。テーマはサブタイトルにある2つ(方法,目的)である。そのうち,本書の中心は科学の方法だと思われる。しかも,単に科学の方法を定式化するのではなく,科学の方法の変化,科学観の変化にかかわる問題に注意を払うよう努力(p.10)されている。たとえばそこでは,帰納の考え方が一通りではなく,科学哲学者によって違うことが明らかにされている(こういう科学哲学書を私ははじめてみた)。そして,最近の科学哲学では「帰納主義」時代遅れの方法論のようにみなされているらしいが,それについて筆者は,「帰納主義」の特徴づけ自体がきわめてズサンであるがゆえにその嘲笑が正当に見えるだけの話(p.55)と断じている。 また,ポパーやクーンも当然出てくるのだが,それらがただ紹介されているわけではない。ポパーについてもクーンについても,類書ではあまり論じられていないような観点からの批判が論じられている。たとえばポパーは帰納による正当化を否定したが,ポパーの考え方のなかに帰納が潜んでいることが指摘されている。たとえば「誤りから学ぶ」というフレーズはポパーが好んだ言い方だそうだが,過去に誤りであったと証明された推測を捨てるのは,同じ推測を維持し続けると将来も同じ誤りを犯す(p.71)と考えていることになる。これがまさに帰納になってしまっているのである。 クーンのような新科学哲学については,たとえば,観察が必ずしも理論負荷的ではないことが論じられている。新科学哲学者が観察の理論負荷性を論じるときによくつかうのは,多義図形で,それは直感的にはよく分かった気にさせられるが,実際の科学の営みはそういうものではない。本来科学哲学者は,科学の事例を通して論じるべきであると筆者は述べる。多義図形に依存した論法では,いったい何が正確に論証されたと言えるのか定かではない(p.154)。それに,科学者は一般に,注意深く行なわれた定量的な測定は十分信頼できると思っているが,この点を覆すような「理論負荷性」の論証は,まだ見たことがない(p.154)と筆者はいう。言われてみればまったくそのとおりだと思った。 そういう風になるほどと思わされた点も多いが,難解で十分には理解できなかった点も多い。特に確率論(確率論的帰納法)が本書では重視されているようだが,この点は十文には理解できなかった。もちろんそれは,私の力不足によるものだけれど。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■ウォーキング2題 |
2002/06/26(水)
健康のために歩きはじめて317日。1日平均7000歩強で,体重も安定している。 そうやって日々歩いている私をみてうらやましく思ったのだろうか,最近,妻がウォーキングに興味を示し始めている。先日,私の運動靴を買うために靴屋に行ったにもかかわらず,私は娘にまとわりつかれて靴を選ぶことができなかった。その間に妻は,自分用のウォーキングシューズをちゃっかりゲットしていた。数日後には歩数計も買ったりして。これだけそろえるとウォーキング気分が高まるらしく,最近,朝早起きして,近所をひと歩きしたりしている。歩数計も1日中つけてるし。 ちょっとびっくりしたのは,私なら1日うちにいたら千歩ぐらいしか歩かないのに,妻は,朝ちょっと外出した以外はずっと家にいたりするのに,歩数計が9000歩もいったりしている。主婦業の大変さを改めて思い知った。いや,うちの妻が ◇
私の運動靴も,日曜日にようやく買うことができた。以前から持っていた靴は,この300日の間に2つダメにしてしまった。毎日歩くせいだろうか。3月には,ウォーキング用の靴を買ったので,今のところはいいのだけれど。 今使っているウォーキングシューズは,月星のワールド・マーチのカジュアル・ウォークというやつである。「ビジネスからカジュアルまで幅広いスタイルにコーディネートでき日常の生活の中でウォーキングが楽しめる、中長距離用の心地よいウォーキングシューズ」なのである。うたい文句どおり,スラックスでもジーパンでもはけるタイプで,気に入っている。気に入っている点はそれだけではない。3年かけてウォーキング専用の靴として開発されただけあって,実に履き心地がいいのである(MSNジャーナルに関連記事あり)。 履き心地がいいのはもちろんいいことなのだが,困ったこともある。これが基準になってしまうので,新しい靴が買えないのである。ちょっと安いのを選ぶと,すごく履き心地がチャチに感じるし。微妙に幅が狭かったり甲の高さが合わないのが,異様に気になってしまうし。日曜日は,靴屋3軒まわって,ようやく,まあ悪くないものを手に入れることができたわけである。すっかりぐったりしてしまった。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『アサーティブ・ウーマン−自分も相手も大切にする自己表現−』(フェルプス&オースティン 1987/1995 誠信書房 ISBN: 4414325250 \3,000) |
2002/06/24(月)
〜クッキーの型抜くロボットではなく〜タイトルどおり,女性のためのアサーションの本。本書は1975年に出された本の改訂版で,初版本が出てから12年間の筆者らの体験や迷い,読者からの意見に基づくFAQなどがあって面白い。タイトルには「ウーマン」とついているが,もちろんアサーションは男女共通である。ただし,女性が置かれた立場から来る自己表現の歪みなどについて,やや強調されている。また本書後半は,アサーションというよりはフェミニズム的な話になっているこれらに加えて,自己啓発的な部分もある点が類書と違う印象を与えている。 以下,わかったことや思ったことを散発的に。 本書では,模範的な言動をすることよりも,各人の心の中から生まれた,その人なりのアサーティブネスを行なうことを推奨しているようである(p.40など)。このあたりの「その人なり」の探し方に,自己啓発的な匂いを漂わせている(「内なる知恵」「内面への旅」みたいな表現が使われていたりして)。その人なりとはいっても,もちろん攻撃的,非主張的,アサーティブという基本路線は押さえてあるし,例題的なものも豊富にのっているのだけれど。しかしそのような模範解答を「クッキーの抜き型で抜き取ったような解答」(p.131)と呼んだりして,アサーションがそれだけの手軽なものではないことに注意が促されている。要するにアサーティブであることは,単なる技能の獲得ではない(p.370)ということのようである。 「似せアサーション」的なものが扱われている(p.136-)。結果を省みずに無分別に行なう「向こう見ずなアサーション」,喜ばれるアサーションをしようとやっきになる「ポリアンナのアサーション」,隠れたい意図をごまかすための「欺瞞的なアサーション」,何事も完璧であろうとする「スーパーウーマン症候群」などである。いくつかアサーションの本は読んだが,こういうのは初めて見た。おもしろい。 批判に対する対処についても,けっこうなスペースが割かれている(12章)。基本的には,批判のタイプを,非現実的な批判,こきおろし,正当な批判に分け,それぞれの対処法や練習法が示されている。正当な批判とは,「現実的かつ率直でアサーティブな言葉で述べられた批判」(p.186)だそうである。なるほど,ここにもアサーティブの概念が出てくるのか。 攻撃的な主張には,直接的なものと間接的なものがあるが,間接的な攻撃の一タイプとして「操作」がある。同情心や罪悪感などに働きかける「感情的ゆすり」,疑問文を用いて疑問ではなく要求や非難を伝える「疑問文を装った罠」,その人のコンプレックスを刺激することで動かそうとする「気がかりボタン」などである。こういう間接要求は,日本文化では割と当たり前にあるような気がする。私はとても苦手なのだが。 アサーティブという語のいみが,単なる(自己)「主張・表現」だけではなく,拡張して使われているようである。アサーティブでないやり方を「自分で選ぶ」ことはアサーティブな対応(p.367)とか,「自分自身に対してアサーティブになる」(p.279)とか。前者は自己決定,後者は正直ということであろうか。こういう概念の拡張は,『アサーション・トレーニング』など平木氏の本でも見られたが,彼女に特有のことではなかったわけね。自己決定せずに義務的にアサーションをすることを「アサーティブのロボット」(p.19)と呼んでいる。おもしろい(そして重要な)表現だ。 まあまとめると,これまでに読んだ本にない視点があって興味深かった,となるだろうか。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■「恐いもの」への対処法(上の娘vs下の娘) |
2002/06/21(金)
同じ「恐いもの」に対して,どう対処するかは,大きな個人差があるようである。当然だけど。 上の娘が2歳ごろ,反抗的だったので私がサングラスをかけて「コワイコワイさん」に変身したら,彼女は「神妙な顔をして」言うことを聞いてくれるようになった。 下の娘(1歳9ヶ月)に対しても,これをやってみた。というのは,最近食事態度がよくないのである。はじめの食いつきはいいものの,すぐに飽きるのか,食べるのをやめて遊び始めてしまう。ご飯をスープのなかにせっせと入れてみたり(入れるだけ。食べはしない),スプーンが使えるのに手でご飯をニギニギしたり(握るだけ)。それで先日,久々に「コワイコワイさん」に変身してみたわけである。 上の娘が2歳のときは,すぐに神妙になったが,下の娘は違った。まずは笑ってみせる。「な〜に? どうせ冗談でしょう?ヘヘヘ」みたいな顔である。ちなみに妻が下の娘を怒っているときも,こういう表情をするのだそうである。冗談でないと分かると,今度は目をつぶってしまう。怖いみたいではあるのだが,だからといって食べるわけではない。反抗的なのか,食べるどころではないのか。 あんまり食べないので,その日は割と長い時間かけて,サングラス顔で脅しつづけた。その結果,効果はあったようなないような...である。効果なかったのか,そう思っていたら,その日の深夜,下の娘は寝ながら号泣した。コワイコワイさんの夢でも見たのかもしれない。もちろんたまたまなのかもしれないけれど。 もしたまたまじゃないとすれば,彼女は笑ったり無視したりすることで,必死に恐さをこらえていたのかもしれない。それ以来,あまりコワイコワイさんには変身しないようにした。妻が下の娘の食事にてこずっているときは,たまに変身するのだが,そのときも,あまり刺激しないよう,時間は短く,そして姿は全部見せないように,ふすまの向うからちょっとだけ顔を出すというスタイルにすることにした。またあんなに夜泣きされたらイヤだもんね。 #最近,下の娘がライオンの写真が怖いことがわかり,妻は食事中,その写真を密かに常備している。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『心と他者』(野矢茂樹 1995 勁草書房 ISBN:4326152990 \2,300) |
2002/06/20(木)
〜心の再定位〜「心」を「内と外」という比喩から解放し,新たに規範性および意味という観点のもとに捉える(p.i)ことを目指した本。筆者の本はこれまでも何冊か読んでいるが,語り口はソフトで入りやすいものの,その意味するところや全体像はなかなか捉えにくいという印象がある。そういう点は大まかには本書も同じであるが,目指す点や到達点が比較的明確に示されているせいか,わかった部分に関してはまあわかったような気がする。 本書で否定されているのは,人が知覚しているのは「意識という天蓋の内に映じたかぎりでの知覚像にすぎない」(p.3)という「意識の繭」という考えである。それは「各人がその人にしか体験しえない内なる世界をもっており,それがすなわち心なのだ」(p.56)という「内界モデル」である。それは「外界に登場しているのは身体であり,その各々が身体となんらかの形で結びついた内界=心をもっている」(p.56-57)という「心身二元論」と結びついて現れる。 これらが前提とされてしまうと,他人の心の存在を知りえないという「他我の不可知性」が帰結されてしまう。あるいは,私の心をもとに他人の心を意味づけようとしても不可能でしかないという「他我の無意味性」が帰結されてしまう。そしてそれは,他人には心がなく,私には心があるという「独我論」への道である。しかも「独我」を想定してしまうと,主観と客観,世界=外で心=内という区別は意味を失う。そんなこんなで,筆者は「内界モデル」を放棄し,それによらない「心」を考察するのである。それは心の放棄ではなく再定位である,と筆者は述べている(このあたりの話の流れは,私には十分についていけているとは言えないのだが)。 その後の筆者の考察は,基本的にはそれほど複雑なものではないように思われる。簡単にいうと,うさぎ−アヒル図形のような意味反転図形をわれわれは,あるアスペクトのもとに「うさぎとして」(あるいはアヒルとして)見る。知覚と幻覚のようなケースも同様に理解することができる。それはわれわれの「意識」が見せる一種の幻覚なのではなく,すべて現実であり実在に基づくものである。そして,私や他者の心とは,これと同じく,現実に対するアスペクトの違いとして理解できる。私的なまとめなので適切かどうかについては自信がないので,筆者の言葉を引用しておこう。 確かにわれわれは同じこの世界に住んでいる。しかし,必ずしも同じ意味のもとに住んでいるわけではない。いわば,「意味の散乱」が起こっているのである。感情も思考も意図も,それが他者の不透明性を顕わにし,心という領域を出現させるためには,その根底にこうした意味散乱の現象があるのではないだろうか。そしてもしそうであるならば,他者とは,私には覗き込めぬ内界のことではなく,私には理解しきれない,私とは異なる意味秩序のことにほかならない。(p.141) このあたりまでは,まあわかったような気がする。でもなんだか,「結局何なのか」みたいなところは今ひとつわかっていない気がする。たとえば,じゃあこの考えに基づくと,人工知能研究については何が言えるかとか,心理学的な人間観はどう再定位されるのか,みたいなところがわからないと,わかった気にはつながらない。印象としては,意味を重視しているところなど,生態学的心理学的な発想に近いような気はするのだが。あと,他のアスペクトの可能性が意識されていない状態を「なめらか」と表現している部分は,ちょっと社会学に近いような気がした。あくまでも印象なのだけれど。それからもうひとつ,教育について語っているところがあるのだが(「教育」とは,たんに行動を制御することではなく,いまだ外なる者をこちら側の文化・制度の内へと導き入れ,やがてわれわれと対等の者として,やがては教えるものとして成熟させていくことにほかならないp.227),これなどは,文化実践への参加としての学習論と非常に似ているように思った。ああ,やっぱり野矢茂樹はおもしろい。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■4歳になった娘 |
2002/06/18(火)
数日前,上の娘が4歳になった。 1年前,3歳になる時は,1ヵ月ぐらい前からなんだかやたらと期待が高まっていたのだが,今回はそういうことはなかった。2歳から3歳になるのは,赤ちゃん臭い幼児から普通の幼児へと大きな変化だったのだが,3歳から4歳では,あまり変わらないのかもしれない。あくまでもこちらの気分の問題なのだが。実際には,日々できることは増えているし。 ◇
父子関係はどうかというと,つい3ヶ月前は「パパになる」と毎日言っていたくせに,しばらくしてから,「ママがいい。パパきらーい」という日々が続いていた。それって,まとわりつかれずにゆっくり一人で本が読めたりいろいろできる,という点では天国なのだが,ちょっと寂しかったりもする。 それがまた最近,「パパがいい」時期に入った。お風呂なんかも一緒に入ってくれるのである。久々なのでうれしい。しかも,以前はちょっと目にお湯がかかっただけでギャギャー言っていたのに,最近は平気らしく,自分で髪の毛をジャブジャブぬらしたりしている。こうやって,一歩ずつ成長していき,私たち夫婦は,一歩ずつ楽になっていくのである。まだまだ手がかかることも多いのだけれど。 それにしても,「すき」になったり「きらい」になったりするのがどうしてなのか,わからない。周期的な変化なのかもしれない。そう思ってのんびり構えることにしますか。来すぎるときも来なさすぎるときも。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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■『知力と学力−学校で何を学ぶか−』(波多野誼余夫・稲垣佳世子 1984 岩波新書 ISBN: 4004202841 \602) |
2002/06/16(日)
〜学校の不十分さを逆手にとる〜「知力」の発達にとって,学校で学ぶことがいかなる意味を持つかを検討した本。実証研究が重視されている。本書でいう「知力」とは,学校で学ぶことと生活で学ぶことの両者が統合された人間の知的有能さ(p.ii)のようである。結論的には,日常生活で学んだ事実的知識や技能を「理解する」うえで,学校が大きな役割を果たす(p.ii)と筆者らは考えているようである。 おおざっぱな流れとしては,まず,日常生活のなかで人がいかに有能であるか,しかし日常生活で学ぶことにはいかに限界があるかが論じられる。日常での学びの限界とは,言語化されにくいこと,その確からしさが吟味されにくいこと,そして厳密さにかけることである(p.36-)。そのせいで,日常生活で獲得される知識は「理論」というよりもむしろ「信念」に近い,と論じられる。技能の習得にしても,日常生活でえられるものは,どんな環境でも柔軟に対処できるものでも,理解を伴う応用のきくものでもない,と筆者らはいう。 続いて,学校での学びの特質が検討されている。それによると,学校で学ぶ知識はそれほど一般性の高いものではない。日常生活で直接有用なことを学ぶわけではなく,どのような意味をもつかが自明でないままに学習が強制される。読み書き計算などの基礎技能は学校でなければ学べないわけではない。では学校は意味がないかというとそうではなく,教師や子ども同士の相互作用を通して,理解が深められる。とはいえ,それも学校でしか得られないわけではない。 このように検討していくと,学校でしか学べないものがあるわけではないし,学校で学べばそれで十分なわけでもない。しかしこの点を逆手にとって,筆者は次のように述べる。 学校教育は,理解を深める上での十分条件でないばかりか,必要条件でもない。しかし,そのために好つごうな条件をいくつも備えている。日常生活で学んだ,有用だが応用範囲の限られた技能に適応性や柔軟性を与えたり,豊かな具体的経験と結びついているが必ずしも十分に吟味され,適切に抽象されているとはいいがたい概念を超えて学習者が進むのを助けることは,学校に期待されるもっとも本質的な働きだ,といってもよいのではあるまいか。(p.116)なるほど,これが「知力」ということであり,「日常と学校の統合」ということか。それに加えて,学校で育成すべき基礎的能力として「自己学習能力」が強調されている。逆に,学校が弊害をもたらすものとしては,テスト,成績評価,競争があげられている。それらは,理解を妨げるような知識観の形成につながり,理解と興味を低下させるのである。つまり筆者の理想とする学校は,外的評価から自由な学校,教師が子どもの内的評価を大切にする学校なのである。それに加えて,日常性と結び付けられた授業や,仲間同士のやりとりを積極的に利用する授業が提案されている。 このように,本書の意義は,日常と学校をつなぎ,日常を念頭に置きながら学校を論じた点にあるであろう。上の引用のくだりなどは,簡潔かつ的確に学校教育の位置づけを示していると思われる。ただしえらそうに言うならば,全体として記述内容には新鮮味は感じられない。まあ20年近く前の著作ではあるし。それにしても,基本的かつ古典的な意味で重要な本ということができるであろう。 ご意見・ご感想はこちらまでどうぞ。
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