読書と日々の記録2002.06下
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■読書記録: 30日短評11冊 28日『科学哲学入門』 24日『アサーティブ・ウーマン』  20日『心と他者』 16日『知力と学力』
■日々記録: 29日「チーモ」という1歳児 26日ウォーキング2題21日「恐いもの」への対処法 18日4歳になった娘

■6月の読書生活
2002/06/30(日)

 今月よかったのは,『心と他者』。しいてもう一つあげるなら『アサーティブ・ウーマン』ぐらいだろうか。あまりないなあ。

 今回はなぜか,小説やエッセイをいつもより多く読んでいる。そのなかでは,『白旗の少女』と『異邦の騎士』がよかったなあ。

 日々の記録は,月初めには書く気があまりしなかったのだが,オヤバカ中心で,と方針を決めたとたん,書くことがたくさんあって困った。来月もこの調子で行きますか。

『失敗の本質−日本軍の組織論的研究−』(戸部良一ほか 1984/1991 中公文庫 ISBN: 4122018331 \762)

 ノモンハン事件から沖縄戦まで,大東亜戦争における代表的な6つの作戦を取り上げ,日本軍の失敗について組織論的に論じた本。前半2/3は戦史研究だが,その後,6つの作戦に共通する失敗の性格が分析され,最後に,日本軍の組織的問題と,今日的課題が論じられている。誤りから学んでいないなど,大まかな内容は『組織の不条理』と重なるように思う。限定合理的という語は用いられていないものの,日本軍は過去の成功に適応しすぎてしまった,という表現は「限定合理的」ということと同じことを指している。そしてそのために,組織としての自己革新能力をもつことができなかった,という結論である。それは具体的にいうなら,「議論」が許されなかった,ということである。そのことを山本七平氏は「日本軍の最大の特徴は言葉を奪ったこと」と表現している。いい得て妙である。そして筆者らも指摘するように,今日でもそういう組織は多い。学校も含めて(筆者らはそこまで指摘していないが)。

実践に活かす教育課程論・教育方法論』(唐澤・山口監修 樋口・林・牛尾編著 2002 学事出版 ISBN4: 761908270 \2,000)

 編者先生に頂いた本。教育課程(カリキュラム),教育方法,教育実践について書かれている。指導要領の変遷など,きちんとは知っていなかった事がまとめられており,勉強になった。そういう話は,教育心理学関係書にはまったく出てこないが,教育心理学を教える者も知っておいた方がいいように思った(学生は教育原理などで学ぶのだろうけど)。また,教育学者と心理学者ではかくも視点が違うものなのか,と改めて思った。

『アサーション・トレーニング−さわやかな<自己表現>のために−』(平木典子 1993 金子書房 ISBN: 4931317014 \1,500)

 再読。今回思ったこと。アサーションという語は,本来的には「自己主張」的な意味なのだろうが,筆者はそれを「(さわやかな)自己表現」と意訳している。しかし本書を読む限り,筆者が使っている「アサーション」という語は,「表現」だけに限っていないようである。アサーティブな考え方(p.80)とか,聴くというアサーション(p.114)とか。このことについては,アサーションが単なる自己表現の技術ではなく,基本的人権の問題やものの見方,考え方を含む,非常に広い意味での<自己表現>(p.152)と述べられている。ふーむ。あと,アサーションは何やかんや言っても,最終的には「自分」を優先するようである。たとえば自分のことをまず考えるが,他者をも配慮するやり方(p.15)という表現からもそれがわかる。このあたりは,カウンセリング的な対応とは反対で,ちょっと興味深く思った。あくまでも素人考えだが。

『木のいのち木のこころ(地)』(小川三夫 1993/2001 新潮社OH!文庫 ISBN: 4102900934 \581)

 最後の法隆寺宮大工西岡常一氏の弟子の本。なるほど,こういう人が,こういう風に師匠の技や思いをうけとったのか,ということを知ることができる。(弟子を)道具を使ってみたくてしょうがないように仕向けるのが俺の役目,という話が興味深かった。徒弟制だからできることなのだろうが。

『道徳性の発達と道徳教育−コールバーグ理論の展開と実践−』(ローレンス・コールバーグ 1987 広池学園出版部 ISBN: 4892051926 \2,200)

 コールバーグの講演などが収められた本。読みやすいとはいえない。が,わかったことがいくつかあったのでそれをメモ。アメリカ人の75%は相対主義(p.21)。相対主義は,道徳発達のひとつの壁かもしれない。コールバーグはロールズを高く評価しているらしい。ジレンマ課題では,どの選択肢を選んだかではなくどういう理由で選んだかを問題にしているのだと思っていたが,第5,第6段階ではそうでもないらしい(p.28)。過去の道徳心理学は,道徳哲学を顧みていなかったために不毛であった(p.60)。高いレベルの概念は低いレベルの概念よりも優れている,ということを証明することはできないが,上のレベルの人はそのレベルを好み,また,上のレベルは下のレベルをより包括的に眺めることができる(p.123)。コールバーグの提唱するジャスト・コミュニティは,教師と生徒の対等な関係を奨励し,学校の問題は教師生徒合同の討議で処理される(p.149)。これが,ニールズのサマーヒルとどう違うのかについては不明。

『なんでも屋大蔵でございます』(岡嶋二人 1985/1995 講談社文庫 ISBN: 4062630079 ¥485)

 『おかしな二人』を読んでから,手持ちの岡嶋作品を読み返してみようと思って読んだ本。軽く楽しく読める本だった。5〜6年前に読んだはずの本なのに,ストーリーはまったく覚えていなかったけれど。解説で宮部みゆきが書いているように,岡嶋作品の魅力は,語り口の暖かさ+トリックのおもしろさであると思った。

『白旗の少女』(比嘉富子 1989/2000 講談社青い鳥文庫 ISBN: 4061485296 \580)

 学生のお薦め本より。7歳の少女が沖縄地上戦の中をたった一人で逃げまどう体験を記したノンフィクション。本書を読む前,この話を聞いたときに,7歳のときのことをどれほど覚えているものなのか,と思ったものだが,戦争という強烈な体験なので,記憶も鮮明であることがわかった。さまざまな偶然や幸運が重なって少女は生き延びたわけで,その背後には,ちょっとした偶然や運の違いでなくなった人がたくさんいるのだろうなと思った。うちの子にも小学校高学年になったら読ませてやらねばなるまい。

『異邦の騎士−改訂完全版−』(島田荘司 1998 講談社文庫 ISBN: 4062637707 \695)

 11年ぶりぐらいの再読。今回読んだのは,大幅加筆の改訂完全版である。とはいっても,何箇所か両者を見比べてみたが,あまり変わっているようには見えなかった。それはさておき,やはり本書は大傑作である。愛と驚き(とちょっと無理)がある。そして強烈に,主人公の気分(プラスもマイナスも)に読者を引き込む力がある。私も読中読後,大きく気分を揺さぶられてしまった。また10年後ぐらいに読んでみるとおもしろいかもしれない。

『きみもきっとうまくいく−子どものためのADHDワークブック−』(キャスリーン・ナドー&エレン・ディクソン 1997/2001 東京書籍 ISBN: 4487796474 \1,000)

 妻の蔵書。子どものためのワークブックと銘打っているだけあって,80ページ弱のごく短い小冊子である。中身は,ADHD(注意欠陥多動障害)の子が,ADHDというラベルではなしに自分を知ることと,状況に対処できる知恵を身につけることといえよう。対処法は,行動療法的な考え方が中心で,そのほかに,人に助けてもらいたいときのアサーションや,問題を解決するための認知心理学的な考え方が用いられているように見える。こういう表現が適当かどうかはわからないが。そういう意味では,落ち着きのない大人にも役に立つ本かもしれない。書かれていることがきちんと実践できればの話だが。

『貧困の克服』(アマルティア・セン 1997-2000/2002 集英社新書 ISBN: 4087201279 \640)

 ノーベル賞学者センの講演集。3つの講演(と人物解説)が収められており,内容的な重複も多いのだが,結局彼の考えの全体像はつかめなかった。冒頭には,私のアジア人としてのアイデンティテイ感覚はたいへん強いものがあります(p.14)とあるが,後ろの方では,途方もなく大きく,異質性に富むアジアの人口すべてにあてはまる本質的な価値,世界全体の人々からアジア人を区別することのできる価値など存在しない(p.69)と言っているし。まあ,一部の知識人が言っているように民主主義は西洋的なものではなく,普遍的なものであり,国民に開かれた議論を愛する文化をはぐくむ必要がある,と考えているようである(p.140)。やっぱり彼をきちんと理解しようと思ったら,ちゃんとした著書を読まんといかんようだ。

『きまりって何?−みんなで考えよう2−』(鶴見俊輔と中学生たち 2002 晶文社 ISBN: 4794926529 \1,400)

 哲学者と中学生の寺子屋。子どもたちが自問自答するというプログラムらしい。趣旨は面白いのだが。こういうのって,もっと上の年齢でやると面白いかもしれない。あ,それって「しゃべり場」か。ホスト役の鶴見氏は,大学の先生をステレオタイプ的に悪く言うことが,やたら目に付いて気になった。

『耳部長』(ナンシー関 1999 朝日新聞社 ISBN: 4022574054 \1000)

 ブックオフで100円で買った本。週刊朝日に連載のコラム「小耳にはさもう」の単行本化第4弾で,1997年〜1999年のものが収められている。あくまでもイメージなのだが,この人の文章には,社会現象を読み解く社会学者の視線が感じられる。テレビの見方というか機能の一つとして「動物園的役割」というのがある(p.96)みたいな(あくまでイメージだけど)。こういう,自分も普段何となく感じていたことを言語化するうまさは,毎度のことながら関心してしまう。ただ,ナンシー関の本を読んだあとでほかの本を読むと,ナンシー的突っ込みを頭の中でしてしまうのが難点だけれども。

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■「チーモ」という1歳児
2002/06/29(土)

 なかなか「宇宙語」をしゃべらなかった下の娘(1歳9ヶ月)だったが,最近それらしきものが聞かれるようになった。それでもやはり「音重視派」なのか,勢いに任せて「ゴニョゴニョゴニョゴニョネ!」としゃべることはなくて,それらしいものが,ちょっと聞かれる程度のことなのだけれど。

 それに加えて,最近プチ感動したのが,「チーモ」という発言である。「チー」は自分の名前(を私たちが呼ぶ呼び方がさらになまったもの)である。「モ」は「私もほしい」の「モ」。たとえば私がお菓子を食べていると,下の娘がやってきて「チーモ,チーモ」とせがむわけである。

 ちょっと前までならこういうとき,ただワーワー言って駄々をこねるだけだったはずだ。それが「私も(ほしい)」と言葉(もどき)で表現できるなんて。しかも自分のこと(チー)も言葉で表現できているし。感動だ。

 4ヶ月前に一歳児が人間らしく感じられるときという日記を書いたが,これはその第二弾といえるかもしれない。考えてみたら,私たちが「チーモ」と言うことはないはずである。ということは,単なる猿真似ではない,自分で作った「文」をしゃべっているのである。ああ,やっぱり感動だ...

 まあ,オヤバカはさておき,内心,寂しさもある。もう赤ちゃんの時期も終わりかと思うと。こういう小さな出来事を積み重ねながら,子どもが成長するのに合わせて,親はそういう気持ちを諦めていかなければいけないのだろうけれども。

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■『科学哲学入門−科学の方法・科学の目的−』(内井惣七 1995 世界思想社 ISBN: 4790705587 \2,233)
2002/06/28(金)
〜科学哲学の再考〜

 ありきたりではない科学哲学の入門書。ありきたりではないとは,寄せ集め的ではないということであり,単に歴史を追っているだけではないということである。

 寄せ集め的ではないのは,テーマがはっきりしているのである。テーマはサブタイトルにある2つ(方法,目的)である。そのうち,本書の中心は科学の方法だと思われる。しかも,単に科学の方法を定式化するのではなく,科学の方法の変化,科学観の変化にかかわる問題に注意を払うよう努力(p.10)されている。たとえばそこでは,帰納の考え方が一通りではなく,科学哲学者によって違うことが明らかにされている(こういう科学哲学書を私ははじめてみた)。そして,最近の科学哲学では「帰納主義」時代遅れの方法論のようにみなされているらしいが,それについて筆者は,「帰納主義」の特徴づけ自体がきわめてズサンであるがゆえにその嘲笑が正当に見えるだけの話(p.55)と断じている。

 また,ポパーやクーンも当然出てくるのだが,それらがただ紹介されているわけではない。ポパーについてもクーンについても,類書ではあまり論じられていないような観点からの批判が論じられている。たとえばポパーは帰納による正当化を否定したが,ポパーの考え方のなかに帰納が潜んでいることが指摘されている。たとえば「誤りから学ぶ」というフレーズはポパーが好んだ言い方だそうだが,過去に誤りであったと証明された推測を捨てるのは,同じ推測を維持し続けると将来も同じ誤りを犯す(p.71)と考えていることになる。これがまさに帰納になってしまっているのである。

 クーンのような新科学哲学については,たとえば,観察が必ずしも理論負荷的ではないことが論じられている。新科学哲学者が観察の理論負荷性を論じるときによくつかうのは,多義図形で,それは直感的にはよく分かった気にさせられるが,実際の科学の営みはそういうものではない。本来科学哲学者は,科学の事例を通して論じるべきであると筆者は述べる。多義図形に依存した論法では,いったい何が正確に論証されたと言えるのか定かではない(p.154)。それに,科学者は一般に,注意深く行なわれた定量的な測定は十分信頼できると思っているが,この点を覆すような「理論負荷性」の論証は,まだ見たことがない(p.154)と筆者はいう。言われてみればまったくそのとおりだと思った。

 そういう風になるほどと思わされた点も多いが,難解で十分には理解できなかった点も多い。特に確率論(確率論的帰納法)が本書では重視されているようだが,この点は十文には理解できなかった。もちろんそれは,私の力不足によるものだけれど。

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■ウォーキング2題
2002/06/26(水)

 健康のために歩きはじめて317日。1日平均7000歩強で,体重も安定している。

 そうやって日々歩いている私をみてうらやましく思ったのだろうか,最近,妻がウォーキングに興味を示し始めている。先日,私の運動靴を買うために靴屋に行ったにもかかわらず,私は娘にまとわりつかれて靴を選ぶことができなかった。その間に妻は,自分用のウォーキングシューズをちゃっかりゲットしていた。数日後には歩数計も買ったりして。これだけそろえるとウォーキング気分が高まるらしく,最近,朝早起きして,近所をひと歩きしたりしている。歩数計も1日中つけてるし。

 ちょっとびっくりしたのは,私なら1日うちにいたら千歩ぐらいしか歩かないのに,妻は,朝ちょっと外出した以外はずっと家にいたりするのに,歩数計が9000歩もいったりしている。主婦業の大変さを改めて思い知った。いや,うちの妻が 動きにムダがある マメなせいか。

 私の運動靴も,日曜日にようやく買うことができた。以前から持っていた靴は,この300日の間に2つダメにしてしまった。毎日歩くせいだろうか。3月には,ウォーキング用の靴を買ったので,今のところはいいのだけれど。

 今使っているウォーキングシューズは,月星のワールド・マーチのカジュアル・ウォークというやつである。「ビジネスからカジュアルまで幅広いスタイルにコーディネートでき日常の生活の中でウォーキングが楽しめる、中長距離用の心地よいウォーキングシューズ」なのである。うたい文句どおり,スラックスでもジーパンでもはけるタイプで,気に入っている。気に入っている点はそれだけではない。3年かけてウォーキング専用の靴として開発されただけあって,実に履き心地がいいのである(MSNジャーナルに関連記事あり)。

 履き心地がいいのはもちろんいいことなのだが,困ったこともある。これが基準になってしまうので,新しい靴が買えないのである。ちょっと安いのを選ぶと,すごく履き心地がチャチに感じるし。微妙に幅が狭かったり甲の高さが合わないのが,異様に気になってしまうし。日曜日は,靴屋3軒まわって,ようやく,まあ悪くないものを手に入れることができたわけである。すっかりぐったりしてしまった。

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■『アサーティブ・ウーマン−自分も相手も大切にする自己表現−』(フェルプス&オースティン 1987/1995 誠信書房 ISBN: 4414325250 \3,000)
2002/06/24(月)
〜クッキーの型抜くロボットではなく〜

 タイトルどおり,女性のためのアサーションの本。本書は1975年に出された本の改訂版で,初版本が出てから12年間の筆者らの体験や迷い,読者からの意見に基づくFAQなどがあって面白い。タイトルには「ウーマン」とついているが,もちろんアサーションは男女共通である。ただし,女性が置かれた立場から来る自己表現の歪みなどについて,やや強調されている。また本書後半は,アサーションというよりはフェミニズム的な話になっているこれらに加えて,自己啓発的な部分もある点が類書と違う印象を与えている。

 以下,わかったことや思ったことを散発的に。

 本書では,模範的な言動をすることよりも,各人の心の中から生まれた,その人なりのアサーティブネスを行なうことを推奨しているようである(p.40など)。このあたりの「その人なり」の探し方に,自己啓発的な匂いを漂わせている(「内なる知恵」「内面への旅」みたいな表現が使われていたりして)。その人なりとはいっても,もちろん攻撃的,非主張的,アサーティブという基本路線は押さえてあるし,例題的なものも豊富にのっているのだけれど。しかしそのような模範解答を「クッキーの抜き型で抜き取ったような解答」(p.131)と呼んだりして,アサーションがそれだけの手軽なものではないことに注意が促されている。要するにアサーティブであることは,単なる技能の獲得ではない(p.370)ということのようである。

 「似せアサーション」的なものが扱われている(p.136-)。結果を省みずに無分別に行なう「向こう見ずなアサーション」,喜ばれるアサーションをしようとやっきになる「ポリアンナのアサーション」,隠れたい意図をごまかすための「欺瞞的なアサーション」,何事も完璧であろうとする「スーパーウーマン症候群」などである。いくつかアサーションの本は読んだが,こういうのは初めて見た。おもしろい。

 批判に対する対処についても,けっこうなスペースが割かれている(12章)。基本的には,批判のタイプを,非現実的な批判,こきおろし,正当な批判に分け,それぞれの対処法や練習法が示されている。正当な批判とは,「現実的かつ率直でアサーティブな言葉で述べられた批判」(p.186)だそうである。なるほど,ここにもアサーティブの概念が出てくるのか。

 攻撃的な主張には,直接的なものと間接的なものがあるが,間接的な攻撃の一タイプとして「操作」がある。同情心や罪悪感などに働きかける「感情的ゆすり」,疑問文を用いて疑問ではなく要求や非難を伝える「疑問文を装った罠」,その人のコンプレックスを刺激することで動かそうとする「気がかりボタン」などである。こういう間接要求は,日本文化では割と当たり前にあるような気がする。私はとても苦手なのだが。

 アサーティブという語のいみが,単なる(自己)「主張・表現」だけではなく,拡張して使われているようである。アサーティブでないやり方を「自分で選ぶ」ことはアサーティブな対応(p.367)とか,「自分自身に対してアサーティブになる」(p.279)とか。前者は自己決定,後者は正直ということであろうか。こういう概念の拡張は,『アサーション・トレーニング』など平木氏の本でも見られたが,彼女に特有のことではなかったわけね。自己決定せずに義務的にアサーションをすることを「アサーティブのロボット」(p.19)と呼んでいる。おもしろい(そして重要な)表現だ。

 まあまとめると,これまでに読んだ本にない視点があって興味深かった,となるだろうか。

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■「恐いもの」への対処法(上の娘vs下の娘)
2002/06/21(金)

 同じ「恐いもの」に対して,どう対処するかは,大きな個人差があるようである。当然だけど。

 上の娘が2歳ごろ,反抗的だったので私がサングラスをかけて「コワイコワイさん」に変身したら,彼女は「神妙な顔をして」言うことを聞いてくれるようになった。

 下の娘(1歳9ヶ月)に対しても,これをやってみた。というのは,最近食事態度がよくないのである。はじめの食いつきはいいものの,すぐに飽きるのか,食べるのをやめて遊び始めてしまう。ご飯をスープのなかにせっせと入れてみたり(入れるだけ。食べはしない),スプーンが使えるのに手でご飯をニギニギしたり(握るだけ)。それで先日,久々に「コワイコワイさん」に変身してみたわけである。

 上の娘が2歳のときは,すぐに神妙になったが,下の娘は違った。まずは笑ってみせる。「な〜に? どうせ冗談でしょう?ヘヘヘ」みたいな顔である。ちなみに妻が下の娘を怒っているときも,こういう表情をするのだそうである。冗談でないと分かると,今度は目をつぶってしまう。怖いみたいではあるのだが,だからといって食べるわけではない。反抗的なのか,食べるどころではないのか。

 あんまり食べないので,その日は割と長い時間かけて,サングラス顔で脅しつづけた。その結果,効果はあったようなないような...である。効果なかったのか,そう思っていたら,その日の深夜,下の娘は寝ながら号泣した。コワイコワイさんの夢でも見たのかもしれない。もちろんたまたまなのかもしれないけれど。

 もしたまたまじゃないとすれば,彼女は笑ったり無視したりすることで,必死に恐さをこらえていたのかもしれない。それ以来,あまりコワイコワイさんには変身しないようにした。妻が下の娘の食事にてこずっているときは,たまに変身するのだが,そのときも,あまり刺激しないよう,時間は短く,そして姿は全部見せないように,ふすまの向うからちょっとだけ顔を出すというスタイルにすることにした。またあんなに夜泣きされたらイヤだもんね。

 #最近,下の娘がライオンの写真が怖いことがわかり,妻は食事中,その写真を密かに常備している。

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■『心と他者』(野矢茂樹 1995 勁草書房 ISBN:4326152990 \2,300)
2002/06/20(木)
〜心の再定位〜

 「心」を「内と外」という比喩から解放し,新たに規範性および意味という観点のもとに捉える(p.i)ことを目指した本。筆者の本はこれまでも何冊か読んでいるが,語り口はソフトで入りやすいものの,その意味するところや全体像はなかなか捉えにくいという印象がある。そういう点は大まかには本書も同じであるが,目指す点や到達点が比較的明確に示されているせいか,わかった部分に関してはまあわかったような気がする。

 本書で否定されているのは,人が知覚しているのは「意識という天蓋の内に映じたかぎりでの知覚像にすぎない」(p.3)という「意識の繭」という考えである。それは「各人がその人にしか体験しえない内なる世界をもっており,それがすなわち心なのだ」(p.56)という「内界モデル」である。それは「外界に登場しているのは身体であり,その各々が身体となんらかの形で結びついた内界=心をもっている」(p.56-57)という「心身二元論」と結びついて現れる。

 これらが前提とされてしまうと,他人の心の存在を知りえないという「他我の不可知性」が帰結されてしまう。あるいは,私の心をもとに他人の心を意味づけようとしても不可能でしかないという「他我の無意味性」が帰結されてしまう。そしてそれは,他人には心がなく,私には心があるという「独我論」への道である。しかも「独我」を想定してしまうと,主観と客観,世界=外で心=内という区別は意味を失う。そんなこんなで,筆者は「内界モデル」を放棄し,それによらない「心」を考察するのである。それは心の放棄ではなく再定位である,と筆者は述べている(このあたりの話の流れは,私には十分についていけているとは言えないのだが)。

 その後の筆者の考察は,基本的にはそれほど複雑なものではないように思われる。簡単にいうと,うさぎ−アヒル図形のような意味反転図形をわれわれは,あるアスペクトのもとに「うさぎとして」(あるいはアヒルとして)見る。知覚と幻覚のようなケースも同様に理解することができる。それはわれわれの「意識」が見せる一種の幻覚なのではなく,すべて現実であり実在に基づくものである。そして,私や他者の心とは,これと同じく,現実に対するアスペクトの違いとして理解できる。私的なまとめなので適切かどうかについては自信がないので,筆者の言葉を引用しておこう。

確かにわれわれは同じこの世界に住んでいる。しかし,必ずしも同じ意味のもとに住んでいるわけではない。いわば,「意味の散乱」が起こっているのである。感情も思考も意図も,それが他者の不透明性を顕わにし,心という領域を出現させるためには,その根底にこうした意味散乱の現象があるのではないだろうか。そしてもしそうであるならば,他者とは,私には覗き込めぬ内界のことではなく,私には理解しきれない,私とは異なる意味秩序のことにほかならない。(p.141)

 このあたりまでは,まあわかったような気がする。でもなんだか,「結局何なのか」みたいなところは今ひとつわかっていない気がする。たとえば,じゃあこの考えに基づくと,人工知能研究については何が言えるかとか,心理学的な人間観はどう再定位されるのか,みたいなところがわからないと,わかった気にはつながらない。印象としては,意味を重視しているところなど,生態学的心理学的な発想に近いような気はするのだが。あと,他のアスペクトの可能性が意識されていない状態を「なめらか」と表現している部分は,ちょっと社会学に近いような気がした。あくまでも印象なのだけれど。それからもうひとつ,教育について語っているところがあるのだが(「教育」とは,たんに行動を制御することではなく,いまだ外なる者をこちら側の文化・制度の内へと導き入れ,やがてわれわれと対等の者として,やがては教えるものとして成熟させていくことにほかならないp.227),これなどは,文化実践への参加としての学習論と非常に似ているように思った。ああ,やっぱり野矢茂樹はおもしろい。

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■4歳になった娘
2002/06/18(火)

 数日前,上の娘が4歳になった。

 1年前,3歳になる時は,1ヵ月ぐらい前からなんだかやたらと期待が高まっていたのだが,今回はそういうことはなかった。2歳から3歳になるのは,赤ちゃん臭い幼児から普通の幼児へと大きな変化だったのだが,3歳から4歳では,あまり変わらないのかもしれない。あくまでもこちらの気分の問題なのだが。実際には,日々できることは増えているし。

 父子関係はどうかというと,つい3ヶ月前は「パパになる」と毎日言っていたくせに,しばらくしてから,「ママがいい。パパきらーい」という日々が続いていた。それって,まとわりつかれずにゆっくり一人で本が読めたりいろいろできる,という点では天国なのだが,ちょっと寂しかったりもする。

 それがまた最近,「パパがいい」時期に入った。お風呂なんかも一緒に入ってくれるのである。久々なのでうれしい。しかも,以前はちょっと目にお湯がかかっただけでギャギャー言っていたのに,最近は平気らしく,自分で髪の毛をジャブジャブぬらしたりしている。こうやって,一歩ずつ成長していき,私たち夫婦は,一歩ずつ楽になっていくのである。まだまだ手がかかることも多いのだけれど。

 それにしても,「すき」になったり「きらい」になったりするのがどうしてなのか,わからない。周期的な変化なのかもしれない。そう思ってのんびり構えることにしますか。来すぎるときも来なさすぎるときも。

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■『知力と学力−学校で何を学ぶか−』(波多野誼余夫・稲垣佳世子 1984 岩波新書 ISBN: 4004202841 \602)
2002/06/16(日)
〜学校の不十分さを逆手にとる〜

 「知力」の発達にとって,学校で学ぶことがいかなる意味を持つかを検討した本。実証研究が重視されている。本書でいう「知力」とは,学校で学ぶことと生活で学ぶことの両者が統合された人間の知的有能さ(p.ii)のようである。結論的には,日常生活で学んだ事実的知識や技能を「理解する」うえで,学校が大きな役割を果たす(p.ii)と筆者らは考えているようである。

 おおざっぱな流れとしては,まず,日常生活のなかで人がいかに有能であるか,しかし日常生活で学ぶことにはいかに限界があるかが論じられる。日常での学びの限界とは,言語化されにくいこと,その確からしさが吟味されにくいこと,そして厳密さにかけることである(p.36-)。そのせいで,日常生活で獲得される知識は「理論」というよりもむしろ「信念」に近い,と論じられる。技能の習得にしても,日常生活でえられるものは,どんな環境でも柔軟に対処できるものでも,理解を伴う応用のきくものでもない,と筆者らはいう。

 続いて,学校での学びの特質が検討されている。それによると,学校で学ぶ知識はそれほど一般性の高いものではない。日常生活で直接有用なことを学ぶわけではなく,どのような意味をもつかが自明でないままに学習が強制される。読み書き計算などの基礎技能は学校でなければ学べないわけではない。では学校は意味がないかというとそうではなく,教師や子ども同士の相互作用を通して,理解が深められる。とはいえ,それも学校でしか得られないわけではない。

 このように検討していくと,学校でしか学べないものがあるわけではないし,学校で学べばそれで十分なわけでもない。しかしこの点を逆手にとって,筆者は次のように述べる。

学校教育は,理解を深める上での十分条件でないばかりか,必要条件でもない。しかし,そのために好つごうな条件をいくつも備えている。日常生活で学んだ,有用だが応用範囲の限られた技能に適応性や柔軟性を与えたり,豊かな具体的経験と結びついているが必ずしも十分に吟味され,適切に抽象されているとはいいがたい概念を超えて学習者が進むのを助けることは,学校に期待されるもっとも本質的な働きだ,といってもよいのではあるまいか。(p.116)
 なるほど,これが「知力」ということであり,「日常と学校の統合」ということか。それに加えて,学校で育成すべき基礎的能力として「自己学習能力」が強調されている。逆に,学校が弊害をもたらすものとしては,テスト,成績評価,競争があげられている。それらは,理解を妨げるような知識観の形成につながり,理解と興味を低下させるのである。つまり筆者の理想とする学校は,外的評価から自由な学校,教師が子どもの内的評価を大切にする学校なのである。それに加えて,日常性と結び付けられた授業や,仲間同士のやりとりを積極的に利用する授業が提案されている。

 このように,本書の意義は,日常と学校をつなぎ,日常を念頭に置きながら学校を論じた点にあるであろう。上の引用のくだりなどは,簡潔かつ的確に学校教育の位置づけを示していると思われる。ただしえらそうに言うならば,全体として記述内容には新鮮味は感じられない。まあ20年近く前の著作ではあるし。それにしても,基本的かつ古典的な意味で重要な本ということができるであろう。

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