31日短評8冊 30日『自分と世界をつなぐ哲学の練習問題』 26日『教材設計マニュアル』 20日『考えることで楽になろう』 | |
| 21日おはじきやトランプをする5歳児 16日模擬面接を見ながら考えた |
今月は、仕上げるつもりだった論文が書きあがらなかった。来月中には終えたいものである。
今月よかった本は、『放送禁止歌』、『将棋の子』(なかなかうまいルポだ)、『自分と世界をつなぐ哲学の練習問題』(なかなかうまい考え方だ)だった。これからちょっと、ノンフィクションとかルポものを意識的に増やしてみようと思っている。
50個ほどの問いに対して、筆者なりの考えを千字で表現したものをまとめた本。問いには、「どうやってかんがえていけばいいの」「そもそも事実って何」「世界はみんなにも同じに見えるのだろうか」「資本主義はよい子、それとも悪い子」「他人と「わかりあえない」とおもうのはなぜ」「私たちはどこへ向けて問えばいいのか」、という感じのものである。筆者の考え方は、現象学でいう本質観取であろう。単に先達の言葉や考えを紹介する、というのではなく、筆者の実感に基づく筆者なりの考えが示されている。
筆者の考えでは、「哲学とは、なるべく根っこから考えようとすること」(p.10)だという。そのために具体的には、第一に「自分の問いに明確に向き合うこと」(p.10)であり、第二に「問いそのものを吟味する」(p.11)ことである。これはまさに批判的思考そのものと思う。そのほかにも、どこかにただしい考え方があるという態度を脱することが哲学するためには肝心(p.149)、という意見も、感情を正直に受け止めた上で、その中にある理屈の普遍性を検証する、という形で思想は育てなければいけない(p.153)、という意見も、哲学とは、前提をはずして考えようとする営み(p.187)という意見も、どれもきわめて批判的思考的な考え方であると思う。
あと、「話しあうとは、〔中略〕お互いの感触をたずねあい確かめ合う」(p.121)ことであって、論争して相手より優位に立とうとすることではない、という意見は示唆的であった。その意味を実感するには、これから自分で考えていかなくてはならないのだろうけれど。
本質観取については、いくつかの本で読み、興味を持ったが、その実際を見てみたい、と常々思っていた。『哲学的思考』はそういう本だが、内容が高度すぎた。『考えることで楽になろう』は,哲学者ではない者がこのような問いを検討している。しかし、最後は哲学者(西氏)に助言を得ており,答えが完結していない,という難点があった。
その点本書は、日常レベル(ともいえる)の疑問から出発して、簡潔かつ的確に、その問いが「哲学」されている。いわば本質観取の模範回答である。そういう点で、私が求めていた本に近い。問いが平易(に見える)なので、自分でも考えてみようかなという気になるし。ただし、熟考の結果だけが整理して提示されているので,やはりうまくはまねできないような気がする。あまり「根っこ」ではないところとか、考えてもしょうがない方向性に考えてしまいそうな気がするというか。次は、熟考の「過程」とか習熟していく過程をも示したような本があるとうれしいのだけれど。
教育工学実践の中核にある「インストラクショナルデザイン」の基礎について概説した本。筆者も書いているように、「ベテランの先生方がふだんから無意識にやっていることを形式化して、初心者にわかりやすくしたもの」(p.157)である。
たとえば、教材を作るためには、出入り口(学習目標)を明確化する必要がある。そのためには「教材を作る前に「テスト」を作る」(p.17)のがいいという。私もうすうすそんな気はしていたのだが、実際にはそういうことはせず、しかも課題内容の分析も丁寧にしないものだから、試験をしたら「こんなにもわかっていないのか」ということがわかってがっかり、ということがよくある。一度は本書に書いてあるようなことを意識的に実行すべきなのかもしれない。ほかにも、知的技能、運動技能、態度の測定法や問題点も挙げられており、本当にきちんと学習者の変化をチェックすることに配慮されている。こういうところも、通常はカンと経験で適当に済ませてしまいがちな点である。さすが教育工学という感じだ。
なお本書でいう「教材」とは、通常の授業で用いられる「授業のための補助教材」ではなく、「独習教材」(それだけですべてがマスターできるもの)である。プログラム学習におけるプログラムド・ブックである。この点ははやめに注釈があってもいいのではないかと思った。
……と思って読み返していたら、一応冒頭の「本書の使い方」の部分に、独習教材であることは書かれているようであった。ただしそのことは非常にわかりにくい(少なくとも私はそうであった)。本書自体が、「インストラクショナルデザインを読者が独学するための本」と位置づけられている。したがって、「独学」という語が2種類の意味で使われているのだ。読者の独学と、教材を使って学習する人の独学と。前者は「初めて独学で教材作りにチャレンジする方へ」(p.xi)というような表現がなされている。後者はたとえば、同じページに「独学を支援する教材作り」(p.xi)という表現で出てくる。さらには、「授業で使うときには、この教材で予習をさせておき、それを前提に授業や研修を始める」みたいなことも書かれているので、いつまでも私は、「授業の補助教材」というイメージが抜けなかったようだ。このあたりに注釈が必要だったのではないかと思う。私みたいな読者のためには。
また、このタイプの教材にすることができない授業もあると思う。仮説検討型授業のような、生徒や教員との対話を中心とした授業とか。この点も本書ではあまり明確にされていないように思うのだが。というか本書では、知識や技能を習得しそれを使う、というタイプの授業のみが想定されているようである。そういう,本書の限界とか適用範囲みたいなことも,早い時期に明示されているとよかったのにと思う。
つい1ヶ月前に、ゲーム好きの上の娘(5歳2ヶ月)のために、「5歳児でも楽しめそうな(勝てそうな)ゲームをリサーチしておかねば」と書いた。しかしこの1ヶ月の間に、上の娘には2つのゲームブームがあった。
ひとつはおはじきである。雑誌の付録に、紙でできたおはじきがついていた。それは破れたり曲がったりしやすいので、私がふと、百円ショップに行ったついでに、ガラスのおはじきを買ってきたところ、大喜び。ひところは毎日相手をさせられた。案外難しくて、私も真剣になったりして。
このおはじきには余禄があった。上の娘は、1年以上前までは、よく「パパになる」と私にくっついて私のまねをしていた。それが最近は、姉妹で遊ぶことが多くなったせいか、まったくなくなってしまった。それが最近復活したのだ。きっと、おはじきで丁寧に相手をしてあげているので、私に対する愛着が復活したようなのである(もっとも、ごく一時期だったのだが)。
もうひとつのゲームブームはトランプである。妻がふと、7並べを教えてみたところ、これも気に入り、毎日相手をさせられている。はじめのうちは、手を出すのにもなかなか時間がかかったのだが、最近は、少し早くなっている。夜は、妻が家事で忙しいことが多いし、下の娘はまだルールが理解できないので、私と二人でやることが多い。二人で7並べというのもなかなかなのだが、まあ楽しんでやっている。
漫画家である第一筆者が自分のことについていろいろ考えて、哲学者である第二筆者にアドバイスを得る、という内容の本。考えているのは、「他人の目が気になって、自分じゃないキャラを演じてしまう」みたいな内容。テーマ的には「人生相談」的なものなのだが、そういう内容ではない。
本書の最初のほうには、「考えるということ」と題して、西氏が考え方を指南している。それは、「なるべく正直に公平に自分の感情を感じ、何が核心かを言葉でつめ、どうすることが私にとって一番いいか、態度を決める」というものである。別の箇所では「恥ずかしさ」を「感じる」ために、次のようなアドバイスをしている。
「恥ずかしいと思った体験」をリアルに思い出してみます。そして、どういう言葉でいうとぴったりくるか、考えてみる。そういう言葉の練習をやってみるわけです。(p.131)
要するにこれは、本質観取の一種だろう。
このような考える作業を通して第一筆者は、「考えることって、けっこう役に立つ。考えることって心を落ち着かせる」(p.8)という心境になっている。別の箇所では、次のようにも述べている。
とことん考えるってほんとうに大事。自分が何に痛みを感じているかをみつけて、言葉にしてみる。言葉にすると、輪郭がはっきりするし、痛みを客観視できる。(p.158)
こういう風に思えるって、とてもすごいことだと思う。
本質観取については、たとえば『哲学的思考』で、第二筆者が試みらたことが紹介されている。しかしこちらは本職の哲学者である。それを見ただけでは、立派な芸術作品を見ても描けないのと同じく、やけに難しいもののように感じたものだった。しかし本書は、素人がやっているのである。その意味では本書は、「本質観取道場」あるいは「公開レッスン」と言うこともできよう。ただし、第一筆者の考え方も、けっこううまいもののように見える。できたら次は、「だんだん考え方がうまくなっていく」みたいな内容だと、もう少し自分でもできるような気がするんじゃないかと思うんだけど。
昨日とおととい、教員採用試験対策セミナーで模擬面接を体験した。昨年に引き続いて2度目。今年は、面接「官」は体験せずに、オブサーバーとしてもっぱら観察していたのだけれど。昨年と違い、集団面接も個人面接もフルに参加した。
今年おもしろいと思ったのは、こういう面接の中で、学生の教育観や教師観を垣間見ることができた点である。面接官に「こういう場面であなたならどうしますか?」みたいに問いかけられて答えるわけだが、実際にその答えどおりのことを、教師になったときにするとは限らないだろうとは思う。
しかしそこには、学生が「社会的に望ましいと思っている教育/教師像」が反映されているはずである。たとえば担任している子が問題を起こしたら、自分の家族は二の次にしてその対応に全力を尽くすとか。いじめっ子もいじめっ子なりに問題を抱えているはずなので、それに丁寧に耳を傾けて心のケアをしてあげるべきだとか。
これは想像なのだが、大学に入学した時点では、こういう教育観/教師観は明確にもっているわけではないと思う。もしそうだとするならば、大学教育も含めた大学生活のどこかでこのような教育/教師観に接し、それをよいものと受け取っているのであろう。それ以前の教育/教師観がどういうもので、それがどういう経験を通してどのように変容して現在に至っているのか、そして、面接のような場面でなければ、彼ら自身はどのような教育/教師観を持っているのか、あるいは教師になった後、それがどのように変容していくのか、なんてことを知ることができると面白いだろうなあなんて思いながら、面接を見ていた2日間であった。