読書と日々の記録2001.04上
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■読書記録: 12日『失敗学のすすめ』 8日『日本的経営の論点』 4日『科学する文化』
■日々記録: 14日2歳児と公園に行く楽しさ 9日妻解放タイム 6日大学生に読んでほしい12冊 2日読谷旅行記

 

■2歳児と公園に行く楽しさ
2001/04/14(土)

 今日,娘と公園で遊ぶことの楽しさに気がついた。

 理由はいくつかある。一つは,上の娘(2歳10ヶ月)の運動能力が向上してきたため,新しいことに挑戦する様子を見ることができる,という点である。たとえば最初は登れなかった遊具でも,ちょっと補助したり要領を教えてあげたりすると,数回のうちに,一人でできるようになる。そういうことが,1時間ちょっと遊んだうち,3つほどあった。ちょっと感動である。

 それに,娘にかこつけて私も一緒に遊ぶことができる。娘がまだ小さいので,危なくないようそばで見るためだ。が,一緒にすべり台で滑ったりすると,子どもの頃にかえったようで,なかなか楽しい。

 さらには,私は最近太り気味なのだが,そうやって一緒に遊んでいると,結構なアスレチックになって,なかなかいいのだ。

 ふと見ると,木陰にディレクターズチェアみたいなのをおいて,本を読んでいるお父さんがいた。ちょっとうらやましい。まだ下の子(7ヶ月)が小さいので無理だけど,もう数年したら,子どもは半分ほったらかして,屋外で優雅に読書ができるに違いない。その日が楽しみだ。

 以下は昼食のメモ:昼食は安波茶の「食堂 城(じょう)」で。非常勤先の学生に教えてもらった,ぜんざいのウマい店だ。ソーキそば(700円)は,麺は普通の工場製麺,汁はまあまあだったが,ソーキが4つも載っており,結構うまかった。ぜんざい(250円)は,氷が細かかくてふわふわしていた。5段階評価の4というところか。駐車場がないのが難点。

 

■『失敗学のすすめ』(畑村洋太郎 2000 講談社 ISBN: 406210346X \1,600)
2001/04/12(木)
〜創造における批判の役割は?〜

  失敗を嫌うことなく,有効に活かしましょう,という本。失敗学とは,著者が提唱するもので,まだ学問体系をなしているわけではない。それゆえか,エッセイ的な部分も多いが,それでも,結構網羅的な内容になっているように思う。

 分野的には,『無責任の構造』に近いかもしれない。本書でもJCOの臨界事故に言及しているし(その他,最近の失敗の事例として,JR西日本のトンネルコンクリート剥落事故,地下鉄日比谷線の脱線事故,雪印の食中毒事件,医療ミスが挙げられている:p.14)。『無責任の構造』がその状況を社会心理学で「説明」しようとしたのに対し,本書では,現場経験もある工学者の立場から,失敗学として「体系化」しようとしている点が違う。その意味では,『人はなぜ誤るのか』の方が近いかも。

 面白かったのは,失敗の持つ性質を筆者が格言風にまとめたもの。「失敗は成長する」(p.72),「失敗情報は隠れたがる」(p.82),「失敗は神話化しやすい」(p.90),「失敗情報はローカル化しやすい」(p.91)などがある。なかなかうまい。内容的には,多少重なっているような気がしないでもないけど。それにしても,失敗情報はこのような性質を持っているので,本書では,失敗情報を皆が利用しやすい形(知りたい人に知りたいとき,知りたい中身を欲しいかたちで示す:p.232)蓄積することを提唱している。

 本書で一つ疑問だったのは,創造における批判のあり方について。ある箇所では,「失敗を糧に優れた創造を行う」ためには「アイデアの種に一応の脈絡をつける」ことができたあと,「本当にそれでいいのか何度も検討し直す」(本書では仮想演習と呼んでいる:p.147)のがいいと述べられている。あるいは,「想定される失敗と真正面から向き合う」(p.148)とか,「グループ内での徹底的な批判が大切」(p.149)ともある。

 ところが別の箇所では,「創造力,あるいは企画力を高める」(p.155)には,思いつきノートをつけるのがいい,という話が出てくる。そこでは,まず思いつきを書き,次に脈絡をつけ,具体化・問題解決を考え,最後に発展を考える,とある(p.157)。この「発展」の段階では,「考えるときの姿勢は肯定的かつ積極的であれ」と述べられている。「ことを始める前から可能性を自分で潰している」のはいただけない,とか,「自分でいたずらに否定的な制約条件をつけるのではなく,自由な発想で取り組むべき」とも書かれている。

 この2つの記述は,明らかに矛盾している。一方では批判が必要と言い,一方では否定的ではいけない,と言っているので。対象としている状況が違うのかとも思ったが,そうでもなさそうである。どちらも「創造」を行う際の話だし,「アイデアに脈絡をつけてから後」の話,という点も一致している。その上,どちらでも「仮想演習」という言葉が出てくる点も一緒である。

 私の考えだが,やはりこれらは,対象とする状況が違うのではないだろうか。後者(否定的になるな)は,創造の早い段階で自分の中で検討する時の話,前者(批判せよ)は,創造の後の方の段階,あるいはアイデアを形にするなど,創造が終わったあとの段階の話なのではないだろうかと思う。

 

■妻解放タイム
2001/04/09(月)

 昨日,妻解放タイムというのを作ってみた。

 事の起こりは,うーん,なんだろう。妻が,仕事の残りをうちに持って帰ってきているのだけれど,なかなかそれに取り掛かれない,ということもあった。それに,ある日記書きさんが「妻解放日」というのを作っているらしい,ということを知ったというのもある。

 でもいちばん大きいのは,妻が私を愚痴っていた,ということかもしれない。「パパは,寝ているか本を読んでいるかのどっちか」とか何とか,娘相手にボソボソやられた。「どっちか」というのは言いすぎだと思うが,それにしても何とかせねば,という気になったのは確かだ。

 それで,下の娘(7ヶ月)をダッコ紐でだっこし,上の娘(2歳9ヶ月)を連れて,公園に行ったりお散歩をしたりした。公園で,近所の子ども(2歳前)と一緒になり,その子が帰るのに合わせて帰宅したので,妻解放時間は70分程度だったのだけれど。

 最初は,半日ぐらい娘二人を連れてどこかに行こうかと考えてみたりした。その計画を妻に話すと,「ミルクはどうするの? オムツは?」と,私の無計画さを突かれたので,とりあえず1時間以上を目標に,試行してみた。これぐらいの時間なら,まったく問題なさそうなので,次はもう少し長くしてみるか。

 

■『日本的経営の論点−名著から探る成功原則−』(飯田史彦 1998 PHP新書 ISBN: 4569602975 \857)
2001/04/08(日)
〜経営を通して「日本」を知る〜

 いわゆる「日本的経営」が,これまでどのような論点によって研究されてきたのかについて,包括的に整理統合した本(p.11)。本書の9割以上は「成功原則」の話ではなく「整理」の部分で,日本的経営に関する本150冊以上を元に,論点が整理されている。その部分に関しては,元の本からの直接引用も多く,半分とまでは行かなくても,1/3以上は引用文ではないかと思われる。

 最初,本書の中身をちらりと見たとき,羅列的で面白くないかなー,と思ったが,全然そういうことはなかった。それは,各参考文献を,単に羅列的に引用しているのではなく,著者なりに論点を明確にし,その論点について,賛成や反対など,いくつの立場が考えられるかをあらかめ分類した上で各書が紹介されているので,対立する論点が明確になっていたからであろう。

 たとえば,日本的雇用の考えられている「終身雇用制」で言うと,その概念は何か,あるいは,そもそも日本に終身雇用制は存在するのか,という論点がある。そこで,終身雇用制の概念について,4つの立場に分類してそれぞれの主張を紹介し,次に,終身雇用制の存在に否定的な見解について,何を元にそれを主張しているかによって,2つの立場を紹介している。さらに,終身雇用制の効率性や有効性について,支持的な見解と疑問的な見解を紹介している。

 そこで明らかになっているのは,たとえば「終身雇用は公式な制度ではなく,あくまでも慣行や努力目標にすぎない」という同じ事実を指して,一方は「存在する」と言い他方は「存在していない」と言っている,ということである。その他の論点も似たような状況であり,

「何が日本的で,何が日本的ではないのか」という命題の立て方は,(中略)「解釈の前提の違い」「研究視点の違い」などによってもたらされるものにすぎず,目くじらを立てて議論すること自体がさほどの実りをもたらさない危険性さえありうる(p.292)
と著者はまとめている。全ての論点がこのような具合に扱われているので,羅列的でありながらも,退屈ではないのである。

 特に面白かった章は2つあり,どちらも「文化」と関係した議論である。ひとつは,集団主義と忠誠心を取り上げた4章。集団主義に関しては,日本人あるいは日本的経営が本当に「集団」や「人間」あるいは「和」を志向しているのか否か(p.202),という問題である。忠誠心も同じで,それが「日本人の本性」なのか,それとも「会社から強要されたものなのか」というのが論点である。

 もうひとつは,文化的影響と特殊性を取り上げた5章である。こちらは,日本的経営がどれほど「日本文化」の産物なのか,そしてそれは,どれほど「日本独自の経営システム」なのか(p.244)という論争である。これについて著者は「いつ果てるともなく続く,終着点の見出せない,勝敗を決することのできない論点」であり「試練」である(p.244)と述べている。まあ最終的には,各論者の研究目的や方法論上の相違によってもたられるものであり,それぞれの立場・論点から見ると,それぞれに正しい(p.285)とまとめられてはいるのだけれど。

 本書,特に上にあげた2つの章が興味深いのは,日本文化や日本人という漠然とした幅広い問題を,「経営」という観点に絞って取り上げており,しかも必ず複数の対立する論点が取り上げられている点である。それに比べると,一般的な日本文化論,日本人論が,いかに,一方の論点だけを取り上げて結論を導いているか,ということがわかる(少なくとも私の目に触れるような一般書は)。これが本書の最大のポイントであり,そのため,読んでいる最中は「結論は何だ?」という感じで不安になることもあるが,最終的には,全体を見渡せた感じがし,非常に納得のいくものであった。今後,「日本」について論じている本を読むときには,この本のことを思い出すのではないかと思う。

 

■大学生に読んでほしい12冊
2001/04/06(金)

 

 昨年に引き続き,この12ヶ月間に読んだ本(短評したものを除くと88冊)のなかから,大学生に読んでほしい本を12冊選んでみた。

 選定規準は,基本的には「大学生にとって何か得るものがあると思われるもの」である。つまり,その分野の専門的知識がなくても大丈夫(分かりやすい,かつ,得るものがある)ということである。選んでみたら,結果的にはどれも,「きちんと考えることの必要性を説いていたり,その見本となるような本」であった。

 と言っても,これらの本の中身をすべて良しとしているわけではない。読みながら,ハテナマークの書き込みをした本も複数ある。それは,よくわからんという意味だったり,書いてあることに同意できないという意味だったり。そういう点があるにせよ,見どころもある本,ということだ。

 前回は,どんな人にお勧めかという1行コメントをつけたが,今回は,その本の文章を一部抜粋してみた。読書の参考になればさいわいである。

  • 【社会心理】『無責任の構造』(岡本浩一) \693〜属人主義から属事主義へ
    「無責任の構造」は,ほとんどつねに,集団のなかに形をなしている。したがって,「無責任の構造」から逃れるためには,集団とはどういうものなのかを理解しておくことが有用である。(p.100)
  • 【自然科学】『地震は妖怪 騙された学者たち』(島村英紀) \780〜分かりやすく面白くためになる本
    むかし,大地震を起こしたマグマは,ハワイの地下で,まだほとんど同じところにいる。ただ,建築・観光業者の都合によって,無視されているだけなのである。(p.42)
  • 【社会科学】『謎とき日本近現代史』(野島博之) \640〜論理的物語としての歴史
    日本が選択することのできた別の道を熟考しておくことも,後世に生きる者の一つの責務だといえるかもしれません。(p.160)
  • 【哲学】『哲学の謎』(野矢茂樹) \640〜哲学的思考の実況中継
    明確な答えがあるわけではなく,それゆえうまく論文にのせることができないでいる,しかし,だからこそ大事な問題を,へぼな答えで謎としての生命力を失わせないよう,謎のまま取り出してみたかったのである。(p.5)
  • 【議論】『「考える」ための小論文』(西研・森下育彦) \660〜批判的作文のすすめ
    考えるというのは,そういう,わけのわからないもやもやから脱出しようとする営みだ。そして,「深く思考する」というのは,性急に言葉を見つけようとしないこと,「もやもや」に何度も立ち戻って,じっくりと言葉を捜すことである。(p.104)
  • 【教育心理】『勉強法が変わる本』(市川伸一) \700〜教育に生きる心理学
    とりわけ大切なのは,はじめに間違えてしまったときに,「なんで間違えたのか」を考えることだ。それをはっきりさせておくかどうかで,学習の成果は大きく違ってくる。(p.14)
  • 【研究法】『「社会調査」のウソ』(谷岡一郎) \690〜非常に良書なのだけれども
    (政府・官公庁から)ヘンな調査が生まれる理由を分類すると,(1)動機自体は悪くない「単なる思慮不足」,(2)外部の不満の声に対する「弁明的なごまかし」,(3)将来の予算を獲得するための「政策的サポート」の三種類に大別できる。(p.29)
  • 【言語】『日本語ウォッチング』(井上史雄) \660〜生きたことばの合理性
    若者の間に新しい言い方が見つかったときに,言葉が変わった理由を考えると,ちゃんと言語体系上の理由が見つかる。(p.197)
  • 【エッセイ】『「疑惑」は晴れようとも』(河野義行) \1262〜人を疑う前に自分を疑え
    (弁護士の話)「警察という捜査機関は人の潔白を証明するところではない。やっていない人間が逮捕され,無実の罪を着せられるということはいくらでもある」(p.129-130)
  • 【心理学】『図解 心理学のことが面白いほどわかる本』(渡邊芳之・佐藤達哉) \1400〜心理学的な見方とは?
    心理学は,私たちが自分について見ているようで見ていないこと,知っているようで知らないことを見つけだす「ヒント」や「切り口」をたくさん持っています。(p.2)
  • 【言語】『自己表現力の教室』(荒木・向後・筒井) \1300〜秘技・メタディスコース削りの術
    読者の分析と,微妙なニュアンスを文字にすること,このふたつの仕事を意識してできるようになれば,文章を書くことはそれほど大変な仕事ではなくなる。(p.140)
  • 【議論】『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(遥 洋子) \1400〜遥流トポイ・カタログ
    「疑う」という訓練を積むことで,枠を超えた発想が可能になる。(p.204)

 

■『科学する文化』(佐伯胖・藤田英典・佐藤学編 1995 東大出版会 ISBN: 4130530674 \1,800)
2001/04/04(水)
〜科学とは行為であり文化である〜

 「科学を学ぶとはどういうことか」という問いをめぐる本。論文的なものから,体験談,実践報告,討論,インタビューなど,多彩な内容となっている。基本的には,スキルや知識として科学の「成果」を学ぶのではなく,プロセスも含め「文化」として科学を学ぶのがいいのではないか,という話だと思う。以下は気になった部分の抜書きとコメント。

 まずは,従来的な「カリキュラムとしての学習観」に対するアンチテーゼとして,実際に共同探究を行った実践に関して:(以下すべて,強調は道田)

ローズベリーらは,科学を談話だと考えた。科学という談話は理論構築の物語であり,推測,根拠,観察,実験,説明を含んだ批判的で反復的なプロセスから育っていくものである。「科学を学ぶということは,特定の事実や手続きの獲得でもメンタル・モデルの洗練でもなく,それ独自の語り方,推論の仕方,行為の仕方を持ち,規範と信念と価値を持ち,制度を持ち,共有された歴史を持ち,共有された神話すら持っている,科学という社会的・文化的に作り上げられた考え方,知り方を学ぶことである」。(p.28)
以前,「すべての学問は,結局は「物語」を作っているのではないだろうか」(12/6)と書いた。そのときはあまりうまく言葉にできなかったが,ここにこんなにきちんと文章化されていた。「理論構築の物語」であり「独自の語り方,推論の仕方」を持っているというのは,その通りだろう。その点を重視すると,従来とは違う科学教育があり得る,ということだ。それはおそらく,ここに紹介された実践例のように,「共同体への実践的参加」という形を取ることになる。『日本史討論授業のすすめ方』は,それが最も成功したケースと言える。

 本書では,仮説実験授業を長年やってきた教師の実践報告がある。仮説実験授業とは簡単にいうと,科学する心のセンスを「予想を立てる・討論する・実験する」という3つの中に集約(p.103)させたやり方だ。本書で面白いのは,実践報告の後に討論があり,その中で編者たちが仮説実験授業批判めいたことを言っていたりする点である。

佐藤 (中略)仮説実験授業は予め正解のシナリオ的なものを含んでいるから,諸刃の剣という性格を持っていると思いますね。
佐伯 下手すると教師の権力的構造ができあがってしまうというのは,ぼくも感じてきたことですね。カーテンの後ろに教師がいて,カーテンの後ろで無難なものをつくってしまう危険ですね。
(p.109)
このような批判が本書内でできるのは一つには,実践者(平林氏)の実践が,仮説実験授業からはみ出しているところにおもしろさがある(p.109: 佐藤氏)からなのだろうけども。それに討論とはいっても,仮説実験授業の是非について正面からやりあったりしているわけではない。あくまでも仮想敵は,従来型の教え込み型授業だ。それでも上の引用のほかに,「実験後に分かり直しの場がない」「試行錯誤の過程がない」「下手をするとやり込めあいになってしまう」という問題点が指摘されている。どれもごもっともという感じ。

 最後に,日常知と科学的知識をつなぐことについて。

科学的知識というのは,日常的直感の否定の上に成り立つものではなく,日常的直感の不徹底さを補い,きちんと考えることから,むしろ,それまでぼんやりとしか見えていなかった日常生活を,くっきりと辻褄があって見えるようにしてくれるものである。(p.224)
そのためには,日常経験を一歩一歩確かめ,納得しながら,それらを別の視点から見直すことでかえって視野が広がることをガイドする,経験の見直しが必要である,と著者の佐伯氏は言う。「科学的な見方・考え方」を身につけるためには,本来,そのような経験が必要なのだろう。

 本書は,すぐに何かの役に立つ本ではないが,教師が科学(心理学も含め)を教えるという日常の経験を捉え直し,その語り方,呈示の仕方を考え直すきっかけを作ってくれる本だと思う。

 

■読谷旅行記
2001/04/02(月)

 週末,読谷(よみたん)村のホテルに泊まりに行ってきた。

 目的は,家族サービスと,私たち夫婦の休養。妻は育児疲れ,私は目の疲れである。妻の方は,昼間はともかく,夜は結局,散らかす娘をしかったり掃除に追われたりして,結局はいつもどおりだったようだ。子どもが小さいと,ゆったり過ごすのはなかなかむずかしいのかも知れない。私の方は,まる二日,本は読まなかった。とは言っても,つい雑誌を読んでしまったのだけど。

 このホテルにしたのは,和室があるリゾートホテルだったから。よく修学旅行でも利用されているホテルのようであるが,サミットの時にはカナダが使用した,それなりのホテルのようだ。この日も,まだシーズン前だろうに,客室稼働率は7割ほどだったようだ。ちなみに料金は,地元民は正規料金の6割以下で泊まれ,お得である。

 和室にしたのは,上の娘(2歳9ヶ月)はめちゃくちゃ寝相が悪いし,下の娘(6ヶ月)はすぐに夜泣きをするので,和室でないと宿泊は無理だろうと考えたから。予想通り,夜中もいつもと同じく娘たちに振り回されて,なんだかぐっすり寝た気がしないまま朝を迎えた。

 それでも,両日ともビーチで(主に上の娘が)楽しく過ごせた。土曜日は天気もよく,初夏のような暑さだった。日曜日は午前中に行ったせいか,日差しも柔らかく,海もきれいで,絶好の浜遊び日よりだった。日曜日(4月1日)は海開きで,浜辺の一角でいかめしい行事が行われていた。神主さんがお祓いをしたり塩をまいたりテープカットをしたり。私たちはそれとは関係なしに,浜辺で遊んでいたのだけれど。泳いでいる子どももいたが,さすがにちょっと寒そうだった。

 


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