読書と日々の記録2003.12下

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■読書記録: 31日短評7冊 30日『自動車絶望工場』 25日『日本のゴミ』 20日『A2』
■日々記録: 27日この1年 21日5歳児のサンタ理解 19日夜更かしする娘たち

■今月の読書生活

2003/12/31(水)

 今月は,とてもよかったものがあるわけではない。強いてあげるなら,『異文化理解』(なるほど急所ね)と『自動車絶望工場』(内側から見える)ぐらいだろうか。『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』は,もう一度ぐらい見る必要があるかもしれない。

 結局今年1年で読んだのは,再読も含めて156冊。減ってはいるが,まあしょうがないだろう。来年もいい本にめぐりあえますように。

『白夜行』(東野圭吾 1999/2002 集英社文庫 ISBN: 4087474399 1,000円)

 はじまりは普通の殺人事件だった。人が殺され、刑事が現れ、疑わしい人物には皆アリバイがあるという。章が変わるごとに、新しい人物が現れ、登場人物が年をとり、事件が起きる。それらは一見関係がない事件のように見えるが、背後に細い糸がちらつく。この本は、激しく惹きつけられ寝る間も惜しんで読む、みたいな惹きつけ方はまったくしなかったが、じわじわと迫ってくる面白さがあった。なんせ、800ページ以上もあるのに、読むのがちっとも苦ではなかったのだ。◎の本といえよう。

『法廷にたつ言語』(田中克彦 1983/2002 岩波現代文庫 ISBN: 4006030681 1,100円)

 『ことばと国家』の著者によるエッセイ。あまり内容に統一性のない、本当にエッセイだった。ところどころ興味深い記述もあったけど。たとえば「方言にはふつそれを固定する文字がなく、方言劇などという規範の場もないので、たえず揺れ動いている」(p.77)というくだり。沖縄の人はよく「私はちゃんとした方言は話せない」というが、私はそれにとても違和感をもっていた。方言というのは私のイメージでは、人々が日常に使う生活の言葉であり、たえず揺れ動く(つまり「正しい方言」が存在しない)ものだと思っていたからだ。しかしこの記述を読んで合点がいった。沖縄口(うちなーぐち)の場合、方言劇はもとより、方言による歌も本(古典)もある。その上方言ニュースまである。このように「規範の場」がたくさんあるので、それが「標準」となり、「私はちゃんとしたのは話せない」という意識が生まれるのだろう。つまり沖縄における正当な沖縄口とは、日本における標準語のような位置にあるということである。それは一般的な感覚では「方言」と呼べるものではなく、沖縄語(琉球語)と言うべきものであろう。

『個人主義と集団主義─2つのレンズを通して読み解く文化─』(ハリー・C.トリアンディス 1995/2002 北大路書房 ISBN: 4762822418 \3,600)

 再読。羅列的な内容なので、内容をじっくり理解したりしたわけではなかった。しかし重要な内容を含んでいると思うので、本書を生かすためには、自分なりの観点から整理するなりする必要がありそうである。

『開かれた社会の哲学─カール・ポパーと現代』(長尾龍一・河上倫逸編 1994 未來社 ISBN: 4624011201 2,500円)

 ポパーが京都章を受賞したときの講演など3編と、日本人による小論が15編収められた本。ポパーの話は、ヨーロッパ文化の起源に関する仮説、ポパーのライヒヒストリー、日本についての3本である。日本人による小論は、おそらく一部はそのときに行われたシンポジウムのようで、それ以外に随想的なものも含まれている。小論には、ポパーの紹介的なものもポパーの批判的なものも含まれており興味深いが、どれも10ページ前後と短く、私にとってはちょっと消化不良であった。興味深かったものとしては、新古典派的経済学的な個人主義的功利主義者が、「開かれた社会」に潜む内なる敵であると論じた論考があるが、これはポパーには不評だったらしい。あと、「すべての諸個人がつねに高度に批判的であるような社会は望ましいのだろうか」(p.173)という問題提起もあったが、その後の論はよくわからなかった。

『現象学的社会学の応用(新装版)』(アルフレッド・シュッツ 1964/1997 御茶の水書房 ISBN: 4275016904 2,800円)

 理論社会学というのだろうか、なじみのない世界で、半分の章は全然理解できなかった。しかし中には、とても興味深い章もあった、という本である。興味深かったのは、他所者の適応の話、帰郷者の再適応の話、知識の社会的配分に関する話、ドンキホーテにとっての現実の話、平等における常識的思考の話である。もっともこれらの章も、全部を理解できたわけではないのだけれど。

『哲学の道場』(中島義道 1998 ちくま新書 ISBN: 4480057595 660円)

 哲学は学問でも知識ではなく,「哲学的センスに裏打ちされた真性の「問い」を見出すこと,そして純粋に哲学的な態度でその「問い」に挑むこと」(p.106)と考える筆者による,哲学の入門書というか,哲学することの難しさを論じた本。筆者の20代の回想部分は興味深かった。筆者は,上記のような問いから出発しつつも,哲学内外をさまよい,カントを研究し,しかし最近,「x「西洋哲学」という豪邸の広大な「カントの間」から,夜逃げ」(p.138)し,「自分の哲学的思索の「故郷」に帰ることを思い立った」(p.137)という。いわば「哲学(者)研究」から「哲学」への方向転換ということのようである。これって,最近心理学でも見られる,「問題をいかに科学的に扱うか」という方向からの転換に似ていような気がする。

『「恋する身体」の人間学』(小浜逸郎 2003 ちくま新書 ISBN: 448005992X 700円)

身体や情緒を「意味」の体系として捉え」(p.10)るという出だしの部分は興味深かったのだが、あとはそうでもなかった。意識や情緒についての考察は恣意的に見えたし、性愛感情についての考察はよくわからなかった。全体としてのまとまりもイマイチ。最初が興味深く見えただけに残念だった。

■『自動車絶望工場─ある季節工の日記』(鎌田慧 1973/1983 講談社文庫 ISBN: 4061830961 552円)

2003/12/30(火)
〜内側から追体験〜

 最近,ノンフィクションというかルポルタージュに興味があり,そういうものを意識的に読んでいるのだが,なかなかいいものに出会わない。どうやら私が読みたいのは,人物や現場が内側から見えてくるようなものなのだが,ルポといっても,そういう面に焦点を当てたものばかりではないらしいことが最近うすうす分かってきた。

 そう思っていたところで出会ったのが本書である。本書は,サブタイトルにあるように,自動車工場で季節工として6ヶ月働いた筆者の日記であり,自動車工場がどのような場所で,季節工がどのような仕事をし,何を感じ何を考えているのかがよくわかる。筆者は新聞や雑誌記者を経てフリーのルポライターになった人なので,日記以外のデータも抜かりがない。他の人の職場に見学に行ったり,途中でやめていった人たちに後日会いに行ったり,工場を再訪したり,工場の歴史的資料で補足したりと,自分の経験範囲外もきちんとフォローされている。それらを通して,この工場の高い生産性が何に支えられているかが明らかにされている。これは社会学者によるエスノグラフィーと言っても違和感のないものではないかと思う。実際,『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』では本書が,フィールドワークの事例として紹介されている。

 自動車工場をルポや質的調査的に扱う場合,さまざまなやり方があると思うが,自動車工場では,観察や聞き取りだけでなく,実際に自分で体験してはじめて分かる部分があるようである。たとえばベルトコンベアに関しては,「さっきまで,ゆっくり回っているように見えたベルトのスピードは実際自分でやってみると物凄く速い」(p.28)と筆者は書いているように,見ることとすることのギャップは大きい。そういう点が,とても興味深い本であった。なお「参与観察」の弱点として『聞きとりの作法』には,(参与観察は)「技能の高い職場の慣行を調べたり、高い技能の内実を吟味するには、それほど有利とはいえないかもしれない」と述べられており,むしろそういう場面では聞きとりが有効であることが述べられており,私も納得していたが,本書を読んで,必ずしもそうとも言えないと思い直した。それは筆者が,6ヶ月の体験の中で,熟練者の技能についてもある程度観察しえていたと思うからだ。

 もう一つ,本書が興味深かった点として,筆者の体験がかなりリアルに追体験できた,という点がある。たとえば筆者は期間満了の直前に,「ここで半年間働いているうちに,人間が消極的になったような気がする」(p.200)と書いている。それは,企業が工員を徹底的に管理し,作業を単純化かつ高密度化することで,工員は何も考えられなくなっている状況をさしている。これは役割に沿った内面の変化とも言うことが可能だろう。もちろんその心境は,読んだだけの私に十分にわかるわけではないのだろうが,しかし,その一端を多少なりとも追体験できたような気がする。

■この1年

2003/12/27(土)

 この1年を語るキーワードはいくつかあるような気がする。

 一つは「(不)健康」。胃は2月以降,断続的に痛くなったり良くなったりしていたし。6月には尿管結石になって激しく痛い思いをしたし。はもう半年近く調子が悪いし。その他にも目や肩の調子もイマイチだし。私はトシのせいだと思っているのだが,それをいうとたいがい人には笑われる。

 「研究」は昨年のキーワードだった。昨年,種や芽やつぼみや花ができたと書いた。それがその後どうなったかというと,芽は芽のままで終わってしまったが,それ以外は,種は「芽」になり,つぼみは「花」になり,花は「実」になった。まあ悪くない出来ではないかと思っている。来年はさらに新しい種が生まれそうな予感もある。あくまで予感でしかないのだけれど。

 あと,今年のマイブームは,昨年秋に買ったHD&DVDレコーダ。それまでテレビを定期的・恒常的に見ることはなかったのだが,この1年間は,いくつかの番組は必ず録画して見ていた。それまでもビデオデッキはあったわけで,環境的にはそれほど変わっていないはずなのだが,ビデオに録画するのに比べて,ハードディスクに録画するのは,はるかに手間がかからないので,活用度が全然違う。手間といっても,録画時にビデオを探して挿入する手間,再生時にビデオを巻き戻す手間,要不要を判断して,必要なものにはラベルをつけ,不要なものは消す手間ぐらいなのだけれど,ちょっとの手間に見えて大きな違いであった。

 録画したのは,主に授業用の資料。なかなか悪くない番組がいくつかあるので,授業のスタイルも多少変わったのではないかと思う。機会があればこのページで映像の記録も,と思っているのだが,それは今年は果たせなかった。来年はできることやら。

 あと,来年はひょっとすると,英語の多読がマイブームになりそうな予感がしている。それについてはまた後日。

■『日本のゴミ』(佐野眞一 1993/1997 ちくま文庫 ISBN: 4480033297 900円)

2003/12/25(木)
〜不適正処理されるモノたち〜

 さまざまなゴミの行方を追ったルポルタージュ。扱われているのは、自動車、服、OA機器、紙、電池、ビルなどの産業廃棄物、水、注射針などの医療廃棄物、食べ物、ガラスびんなどの器、核燃料、犬猫などの生き物、と幅広い。

 本書を読んで、ひとつ合点がいったことがあった。それは、最近、電池を分別収集していないなあ、どこに捨てたらいいんだろう、と思っていたのである。本書によると、以前は使用済み乾電池に自治体が対策することは一般的だったのだが、1985年に厚生省が使用済み乾電池の安全宣言を行い、それ以降、対策を行う自治体が減少したのだという。廃乾電池対策が必要なのは、乾電池に水銀が含まれているからだが、1991年には、マンガン、アルカリ乾電池で水銀量がゼロになっている。それ以降、国内に流通している乾電池のほとんどは、水銀量ゼロであるという。しかし本書では、水銀の代わりに腐食防止剤として使われているインジウムや、充電池に使われているカドミウムに問題があることを指摘し、廃乾電池問題が解消していないことを指摘している。また本書は1993年という水銀ゼロになって間もない時期のルポということもあるからであろうか、都内の市街地の地表は、清掃工場からでる廃乾電池焼却後の水銀ガスによって、地中よりも6.7倍もの高濃度の水銀によって汚染されているそうである(p.145)。それは、水銀回収処理施設が日本では1箇所しかなく、適正処理されているものは流通量の6%しかないからである。したがって、冒頭の「どこに捨てたらいいのか」という疑問に対する答えとしては、(自治体が分別回収していないのであれば)「燃えないゴミとして出すしかないけれども、適正処理されているわけではない」というものになるわけである。

 本書で扱われているモノの多くは、電池と同じく、生産は容易だし流通量も多く我々の生活を支えるものになっているが、適正な回収・処理システムがないために問題が先送りされているモノである。本書を読むことで、電池だけでなく、服にしてもコンピュータにしても水にしても食べ物にしても、安く手に入るし生活に必要だからといっても、安易に手に入れたり捨てたりすることにためらいを覚えるようになる。本書はそういう本である。

 ただし本書は、断片的な知識の面白さはあったし、啓蒙的な意味も十分にあるのだが、悪く言えばそれだけという感じの本だった。特に「ルポルタージュの面白さ」という点では、私には今ひとつだったように思う。本書では多数の素材が扱われているが、むしろひとつの素材について、それに関わる人(生産者も消費者も含めて)の話をじっくり聞きたいように、私には思えた。本書はゴミ処理現場にのみ焦点を当てたせいか、それらの人々があまり見えないルポであった。まあ人物ルポを目指したのではないのだろうが。

 しかし、たとえば服の消費者に関していうと、「少子化時代の今、お古、おさがりという言葉は完全に死語となった」というような、紋切り型的憶測がいくつか見られたように思う。しかし「完全に死語となった」とは、言いすぎであろう。それは、『私の体験的ノンフィクション術』の言い方で言うと「大文字」の理解でしかない。『私の体験的ノンフィクション術』が面白かっただけにちょっと残念。筆者のほかの本は違うのかもしれないけれど。

■5歳児のサンタ理解

2003/12/21(日)

 2年前、「インフレ・サンタ」という日記を書いた。この時期、あちこちにサンタがいるが、「インフレ状態で,価値が激減してしまいそう」なので、うちの娘が物心ついた頃には、「あまりたくさんのサンタさんに会わないようにしてほしい」というものだ。

 最近は、それほど外でサンタに出会うことはないような気がするのだが、それでも会わないわけではない。しかし上の娘(5歳6ヶ月)は、私の心配とは違い、自分なりのサンタ理解をもっているようである。

 たとえば、幼稚園でクリスマス会がある。当然サンタ(に扮した人)が登場し、お菓子を配ってくれたりする。でも上の娘はそのことを、次のように報告してくれる。「クリスマス会にサンタさんが来たよ。でも本物じゃないんだよ。サンタの格好をしているだけだよ。」 なるほど、それならいくら外で、たくさんサンタらしい人に会っても、あまり影響はなさそうである。もちろん上の娘は、「24日の夜中に枕元に贈り物を置いてくれるのが本当のサンタさん」と信じているわけである。

 それで思い出したことがある。大学生のとき、どこかの保育園のクリスマス会に行ったことがある。当時私は吹奏楽をやっていたので、金管5重奏の演奏をしにいったのだ。演奏の後、メンバーの一人がサンタの格好をして、「○×保育園のみんな、いい子にしてたかな」とおじいさんぽい口調で登場した。さぞや子どもたちは喜ぶかと思いきや、ちっとも本物だと信じていないみたいで、口々に「さっきの人だよー」とか言いながら、後ろで見ていた私たちのところをちらちらと見ている(こっちを見て「一人いないよー」なんて言っていた)。それを見たとき、「へー、信じてないのかー、案外夢がないんだな」と思った。しかし、最近のうちの上の娘の様子からすると、どうやらそうでもなさそうである。こういう理解は、今後どう変わっていくのか、楽しみである。

#ちなみに「サンタクロースは本当にいるのか?」という論文がある。それにならって、上の娘に「本物のサンタクロースに会ったことがある?」と聞くと「ない」、「どうやったら会えると思う?」と聞くと、「夜中にずっと起きている」と答えた。

■『A2』(森達也・安岡卓治 2002 現代書館 ISBN: 4768476821 1,700円)

2003/12/20(土)
〜関係性のドキュメンタリー〜

 『A』に続くオウムのドキュメンタリーである「A2」についての、撮影日誌プラスアルファ的な本。とはいっても、『A』が撮影日誌的ノンフィクションであったのに対し、本書は、そういう部分は全体の1/3強で、あとは、「A2」のシナリオと、第二著者から見た第一著者や2つの映像作品についての文章になっている。『A』やその他の森作品的な内容を期待していた私にとしては、少し期待はずれだった。

 それでも興味をひいた記述はいくつもあるのだが。たとえば、第一筆者は自分のことを、「関係性を描くのが俺のドキュメンタリー」(p.1)と自己規定しているようである。なるほど、単なる「密着取材」というよりは、関係性を描くというのはその通りだと思った。逆に言うと、「関係性」以外のところに焦点を当てたドキュメンタリーもあるということである。何かそういうドキュメンタリーの分類でもあると、もう少し明確に筆者その他のドキュメンタリーが位置づけられそうな気がするのだが。

 あるいは、筆者が『放送禁止歌』の取材を受けるとき、「プロフィールやコメントから「A」については跡形もなく消されたことは一度や二度じゃない」(p.12)なんていう、「A」の後日談もある。「A」は私は単純に面白く、人に薦めたりしていたのだが、そういう捉え方もあったのか。もっともそのころは、本書で描かれているような「住民や役所のオウム受け入れ拒否」が過熱していた時期だったから、という部分はあるかもしれない。

 あと、「A2」に収められたシナリオの中では、マスコミの虚偽報道に対して信者が、「ここまで本当にでデタラメなことされると、気持ちが現世からどんどん離れていく」(p.116)というセリフもある。事件後、悪の教団から離れない信者がいるのか、という疑問が出されていたが、そうではない状況を社会も作り出している、ということのようなのだ。

 最後の安岡氏の文章では、森氏や作品だけではなく、同世代の二人が育ってきた時代についての考察も含められているのだが、全共闘後の世の中について、「様々な分野で、批判的な姿勢を持つことを「かっこ悪い」「やばい」ものであるとするような気風がわれわれ以降の世代に広がっていったような気がする」(p.190)という記述があった。「われわれ」と言っている安岡氏は50歳前。まあ短い記述なので詳しいところは分からないのだが、今の世の中を考えるひとつのヒントかもしれないと思った。

■夜更かしする娘たち(5歳と3歳)

2003/12/19(金)

 うちの娘たち(5歳6ヵ月と3歳3ヵ月)は,生まれたときから,とはいわないまでも,物心ついた頃から,宵っ張りである。

 ところが1年前の日記を見ると,「それが最近,少し改善されてきた」だの「さらに努力して,9時過ぎには寝せるようにしている」だのと書かれている。これにはちょっとびっくりした。今では,そういう気配さえもないのだ。

 そうなったのには理由がある。一つには,今年度から妻の仕事が増えて忙しくなり,夜はいつもあわただしく過ごしていること。また,上の娘が幼稚園(+学童保育)に行くようになり,その準備に案外手間取っていること。さらには,上の娘が5歳になったせいか,着るものにうるさくなり,翌日何を持っていくか,何を着ていくかでけっこうもめていることがある。

 要するに,夜が忙しくなったので,あまり早く寝る体制になれない,ということなのだ。もっとも,子どもを寝せてから雑事をすればいいのだが,うちの子どもは,親が寝ないと寝ないときている。なので,大人並みに宵っ張りなのである。

 それ以外にもう一つ理由があるような気がする。朝,子どもたちを起こしてからが,1年前よりもスピーディになっているのである。1年前は,起こしてご飯を食べさせて着替えさせて髪の毛を結ぶ,という順序だったのだが,最近は,着替えさせながら目を覚まさせ(これは上の娘だけだけど),ご飯を食べさせながら髪の毛を結ぶ(妻が),という順序にしている。あるとき,幼稚園の行事で早く出なければいけなくなったとき,苦肉の策でこういう順序にしてみたら,うまくいったので,それ以来そうしているのである。

 このような朝の工夫のおかげで,夜,早く寝せようという努力を最近あまりしなくなった。まあ今のところは,これで一日がそれなりにうまく回っているからいいのだけれど,小学校に上がったら,登校時間がもう少し早くなるので,きっとうまくいかなくなるに違いないと心配している(まだ先だけど)。まあそのときはそのときで,新しい知恵が生まれたり,子どものほうが自分でできるようになっているのかもしれないけれど。


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