28日短評6冊 25日『ワークショップ』 20日『道徳は教えられるか』 | |
| 27日【育児】幼稚園の音楽発表会 20日【育児】4歳児の立ち入り禁止 |
今月よかったのは,『アメリカの反知性主義』(なるほど知性主義じゃない行き方もあるのか),『道徳は教えられるか』(なるほど司法と立法か)あたりか。『ワークショップ』も,具体的で悪くなかった。
今月のヒットはアマゾンのマーケットプレイス。今月は5冊購入している。まだ読んでない本が多いので次を買うのは抑制しているが,しかし買いたいと思って目をつけている本が何冊もある。何冊か買ってみてわかったのだが,「良い」という評価の本(本の状態の評価ね)は本当に状態がよい。しかし「可」評価本の中には,悪臭がついていたりして,あまり読む気がおきないものがあるので要注意である。ファブリーズを噴霧したら,読める程度にはなったのだが。
昨日は幼稚園の音楽発表会だった。私は仕事でいけないと思っていたので,金曜日に行われた公開リハーサル(!)に行ってきた。公開リハーサル方式は今年度から始められたもので,リハーサルを公開する代わりに,本番当日の写真・ビデオ撮影は厳禁となっていた。幼稚園の発表会というと,ビデオカメラが林立していたり,撮るのに夢中であまりちゃんと見聞きできていなかったりするので,これは悪くない試みだと思う。なお,本番当日の仕事は,ひと段落したところで主任にお願いをして早めに抜けさせてもらったので,後半を見ることができた。
1年前,この幼稚園の音楽発表会を,ほとんど初めて見て,大げさに言うと度肝を抜かれた。あまりの高度さに。で今年度はというと……。
まず年少。年少は昨年同様,「年少らしいほほえましい演奏」だった。今年はうちの下の娘(4歳5ヶ月)も加わっているので内実がわかるのだが,うちの娘に関していうならば,「見た目は堂々としているけれども,本当に演奏しているかどうかは不明」という状態であった。ちなみに下の娘の担当はキーボード。なかなかうちで教える時間もないし,4歳児はなかなか思うように教わってくれないので,まあこんなもんだと思っていた。ただし,妙に得意なフレーズがあり(「小さな世界」の中の「レドシラソ・レ・ソ」という部分など),そこだけは自信満々に弾いているようだった。まあ他の子どもの中には,ちゃんと弾けている子もいるのだろう,全体としては,それなりに曲になっていた。
年中は「クシコスポスト」という曲をやっていた。悪くない演奏だった。特に,大太鼓がちゃんと指揮にあった拍子をきざんでいたので,とてもきちんとした演奏に聞こえた。
年長は去年はホルストの「木星」(短縮版)を演奏し,「ちょっとこれにはビックリした」という出来だった。今年の曲は「アイーダ大行進曲」。曲は昨年ほど難しくはないものの,やはりちゃんとまとまった演奏をしており,びっくりした。上の娘(6歳8ヶ月)は木琴の担当だった。木琴は妻(ピアノ経験者)や私(金管楽器経験者)では指導が難しい。ということでほとんどうちで見てあげることも出来なかった(木琴自体は毎日持って帰らせられていたのだが)。しかし上の娘は,幼稚園の練習だけで弾けるようになったらしく,軽々と演奏していた。まあアイーダはさほど難しいフレーズはないのだが(1箇所,三連符の連打がある),トレモロなんかも,我流だろうけれどもそれなりに弾いていた。オレはできないぞそんな高度なこと,と思った。
アイーダだけでは短いし簡単すぎるのか,今年はもう一曲用意されていた。それは「ルパン三世のテーマ」。ルパン三世で木琴といえばある意味主役だが,こちらも上の娘は楽譜をもらってからほどなくしたらちゃんと弾けるようになっていた。まあ運動神経のいい娘ではあるのだが(←オヤバカ半分,ホント半分),それにしても6歳児恐るべしである。
来年は下の娘が年中。昨年のことを思うと,ちょっと怖いような楽しみのような……。
最近はやり(?)のワークショップについて論じた本。ワークショップについては、私は『参加型ワークショップ入門』を読んでいる(『会議の技法』も近い発想だろうと思う)。この本は(それなりに悪くない)ネタ集だったが、ワークショップなるものの概要についても知りたいと思っていた。
本書は、ワークショップとは何か(定義、歴史、分類)、ワークショップの実際、ワークショップの意義が扱われており、とても私が望んでいるような内容だった。ワークショップの定義については、本書は辞書的定義から説き明かされているが、要するに「参加」「体験」「グループ」をキーワードとした学習ということのようである。本書には、次のような記述がある。
何かについて学ぶ時、先生や講師から一方的に話を聞いたり、ただテキストや教材を読んだりするだけでなく、実際にそのことをやってみて感じてみようという「体験」を重視した学び方。まちづくりなどを行政も住民も専門家も一緒に「参加」して計画していこうという参加型の合意形成や計画の手法。その場に参加した参加者同士がお互いに語りあい学びあう双方向の学び方。(p.i)
こうやってみるといろいろあるようだが、筆者によるとワークショップでの学び方のエッセンスは、「輪になって座る」ことと「深く聴くこと」だという。ワークショップは行政もふくめさまざまな分野で行われているが、その歴史をたどるならば、出発点にはデューイの教育哲学があり、そこから発展して、まちづくり、識字教育、Tグループ、エンカウンターグループの流れになっているという。ふーんデューイが源流か。
このようにワークショップにはさまざまなものがあるが、筆者はそれを、2軸(2次元)で整理している。軸の一つは個人(内向き)−社会(外向き)という軸、もう一つは創造(能動的)−学び(受容的)という軸である。こうやって整理すると、自分のテーマをワークショップ型に乗せようと思ったときに、現在どの分野で行われているワークショップが参考になるのかがわかりやすくて、なかなかよい。あるいは逆に、タイプの違うワークショップでも、どこの部分が参考になるのかを考える手助けになりそうである。
「ワークショップの実際」については、筆者がこれまでに参加したワークショップが複数、具体的に紹介されている。中にはスケジュールまで紹介されており、ワークショップがイメージしやすくなっている。たとえば環境問題に関するあるワークショップでは、関連するビデオ映像を見たあと、「四人ずつのグループを作り、「各人が地球環境の危機を最初に痛感したときの話」(エコストーリー)をそれぞれ五分ずつ話そう」(p.74)というワークが行われたという。いきなり「どうするか」から始めるのではなく、このような経験や感覚から始める、というのはナルホドである。体験だけではない。別のワークでは、「「私にとって『仕事』とは」どういうものかを、何かの「たとえ」で語ってもらった」(p.99)りするようなのもあるらしい。「たとえ」させるというのもナルホドである。
本書ではこういうワークショップそのものの実際だけでなく、ワークショップのやり方の応用を、会議、講演会、シンポジウムに対して行う、なんてのもあり、本当にできそうなところからやるためのヒントになりそうな本である。講義的なものへの応用に関していうならば、伝えたいことを体験的に納得してもらうために行う倍には、「一つの感じ方を正解や絶対的なものとして想定することは慎むべき」(p.172)で、参加者の感じ方には自由度を保証することが大切、と筆者は述べている。もっともなことである。これはワークショップの中で講釈的なことをする場合の話だろうが、一般の講義でも同じ(部分もある)かもしれない。
「ワークショップの意義」に関しては、筆者はいくつかのものを挙げているが、私が魅力を感じるのは、次のような点である。
ワークショップでは、一人では決して思いつかなかったアイデアが出てきたり、自分だけだと抜けられなかったところから大きく踏み出せたり、グループの相互作用の中で、大きな力が生まれてくる。このような、単なる個の総和を越えた力を生み出す作用、つまり「シナジー」とか「協働作用」が生まれてくるのだ。(p.156)
個の総和以上のものを生み出すことができるというのは、とても魅力的なことだと思う。ちなみに私は、こういうものに興味はあるものの、実際に行われているものを見たことがなかったので、なかなか踏み切れずにいた。しかし本書は、かなり具体的なイメージを与えてくれたように思う。それに加えて、昨日まで向後さんが集中講義に来てくれていたのだが、それはある種のワークショップスタイルの授業だった。その授業を見せていただいたお陰で、さらにイメージが明確になったし、そのやり方を多少なりとも学ぶことができたように思う。さっそく今年の夏、某所で一部実践してみようと思っている。
今朝、下の娘(4歳5ヶ月)が、「まま、たちいりきんしだよ」と言っていた。へー、そんなこというんだ、と思っていたら、妻が「しいちゃん(仮名)、昨日、立ち入り禁止という言葉を覚えたんだよ」と言っていた。どうやって憶えたかというと、昨日、上の娘(6歳8ヶ月)とおうちごっこをしていたときに、上の娘に言われたのだという。
さっき下の娘が言ったとき、自然な感じだったので、ちゃんと理解しているんだろうと思ったが、一応、「しいちゃん、立ち入り禁止ってなあに?」と聞いてみると「わかんない」という返事だった。
つまり彼女は、わからないけれどもなんとなくカッコイイ(?)言葉として、「たちいりきんしだよ」と言ってみただけだったのであった。でも多分、幼児の言葉理解ってこういうものなんだろうな。誰かが使っているのを聞いて、自分も誰かに使ってみる。使ってみたら、それなりの反応(「立ち入り禁止」だったら「相手がこっちに来ない」かな)が得られる。不適切な状況で使うと、笑われたりする。そういう経験を何回か繰り返すうちに、「こういう状況で言葉を言うと、こういう結果が得られるんだな」と学ぶのであろう。
ちょっとおもしろかったので(というか、即座に「わかんない」と言われるとは思わなかった)、メモしておく次第。
佐伯胖氏の師匠の本ということで読んでみた。というか,BOOK OFFでたまたま半額で見つけたので買ってみたわけだが。本書の基本的な問題設定は、タイトルどおり「道徳はいったい「教えられるか」どうかと謙虚に問うて」(p.14)みることである。結論からいうと「教えられる」ということである。しかしそれは、道徳的原則を注入する、という意味ではない。
筆者はまず、「道徳」を「道」と「得」に分ける。道とは、善くある在り方、正しくある行ない方、振る舞い方という、道徳の知的(知識的)な側面である。「道」の教育とは、「子どもが遭遇するであろう生活場面において、子どもがそれぞれに自分自身の振る舞い方を決定することができるように、子どもたちを指導してやること」(p.27)である。道徳的判断力の育成とでもいえようか。
「道」が知的な面であるということは、教えられるということである。それを知識注入以外のどのようなやり方でやるのが可能なのか。ここで筆者は、ミルの考えを援用し、道徳の裁判官的機能、立法家的機能、愛智者的機能を区別する。裁判官的機能とは、すでにある規則に自分の行動が適合しているかどうかを判断することである。このレベルで教えようとするならば、原則を教え込むしかない。しかし、立法家として、状況に適切な道徳的規則を作ることであれば、教え込みでない教育が必要だし、可能になる。具体的にどうするのかは筆者は詳細には論じてはいないが、大原則(人は幸福を望んでいる)から出発する、ということのようである。これって、立憲主義的な考え方だなあと思った(『憲法と平和を問いなおす』に出てきたような)。
学校で一般に教えられる道徳は、「裁判官」養成だが、現実には、ジレンマ状況のように、実践規則同士が対立したり矛盾することがある。あるいは歴史や社会の変化によって何が重要化が変化する。そのためにも、各自が「立法家」となり、「実践規則に、盲従するのではなく、理解して従う」(p.83)ようになる必要があるのである。立法家と裁判官という比ゆはナルホドである。コールバーグなどの道徳理論を理解する上でも有効だろう。
一方、「徳」とは、知識以外の、しつけや訓練や習慣である。その教育に関しては、期待される人間像を「目標」(到達目標)としてみなすのではなく、その目標に向かう過程としてみなすことを筆者は提案している。ここのところはよくわからなかったのだが、そのイメージは、「ソクラテスがしばしば強調したような、友人としての探究者のあり方」(p.199)のようである。それは「一種の徒弟制」とも表現されている。教師は権威者ではなく、「人生における同じ探究者である教師が、その友愛的関係において、模範を示し、説明を施し、手引きをしてくれる」(p.199)ということのようである。ここに徒弟制が出てくるのが興味深い。
興味深いといえば、「意志」について筆者は、それが「存在」ではなく、「行動の原因およびその過程の因果的系列の説明の道具として作り出された説明概念」(p.167)と述べている点も興味深い。これって、状況論的というか分析哲学的(?)な捉え方にみえる。