読書と日々の記録2002.05下
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■読書記録: 31日短評10冊 30日『おかしな二人』 28日『自閉症の関係障害臨床』 24日『教育改革をデザインする』 20日『ロボットの心』 16日『障害児教育』
■日々記録: 26日心理療法や思考における言語化 22日雑記 19日プチ旅行記
日記才人説明
日記じゃんくしょん投稿

■5月の読書生活
2002/05/31(金)

 今月よかったのは,なんといっても『自由教育をとらえ直す』である。『社会学になにができるか』も一部の章はとてもよかった。それ以外にも障害児関係の2冊(『障害児教育』『自閉症の関係障害臨床』)もよかった。もう少しこの路線の本を読んでみたいものである。

 そうそう,エンターテイメント的な意味では,『おかしな二人』もはずせない。なんといっても,途中で読むのをやめるのが難しいほどだったのだから。

 こうやってみると,豊作のようにも見えるが,実際にはこれは,累々たる屍(↓太字に注目)の上に築かれたもので,全体としては不作ぎりぎりだったように思う。

『子どものためのアサーション自己表現グループワーク』(園田雅代・中釜洋子 2000 日本・精神技術研究所 ISBN: 4931317103 \2,800)

 筆者らは,『アサーション・トレーニング』の著者のワークショップを10年前に受けてはじめてアサーションに触れたのだそうで,この本(の著者の考え)が考え方の基本となっているようである。本書は前半が理論編,後半が実践編となっているが,理論編に関しては,それほど目新しいことはない。しかし実践編は違う。二人ともアメリカに留学したときに,あちらで行われている子ども向けのワークショップにも参加しているし,日本でも,学校の先生と一緒にアサーションのワークを試行錯誤しているようである。そのような経験を元に作られているので,ワークは,実に無難にまとまっているように思われた。もちろんいい意味である。小学校でアサーションを行おうとする人には,大いに参考になるに違いない。あと思ったこととしては,アサーションには,カウンセリングのような「積極的傾聴」の側面もあるが,聞いて理解するだけでなく,自分を出していくという側面があり,この両者のバランスがうまくとれているように思える。その点は,単なるカウンセリングマインドよりも,学校教師をはじめいろいろな人に有用であるように思った。

『嘘をつく記憶−目撃・自白・証言のメカニズム−』(菊野春雄 2000 講談社選書メチエ ISBN: 4062581752 \1,600)

 目撃証言を中心とした,記憶の変容に関する本であったが,私は『記憶は嘘をつく』ほどはおもしろくなかった。なんというか,一般的な情報処理心理学の考え方がベースになっていて,そこから演繹するような形で目撃証言を論じていたからだと思われる。そのため,半分は(目撃証言をネタにした)情報処理心理学の入門書的な雰囲気であった。筆者としては,判例からの引用を多く用いて具体的に解説するという工夫を凝らしていたのだが,少なくとも私にとっては,それはあまり面白みを増す仕掛けにはなっていないように感じた。一箇所だけ付箋紙をつけたのは,認知的尋問法に関する記述で,尋問者は目的者の話をさえぎらないことや,目撃者が話し終わった直後に質問しないように注意する必要がある(p.181)というもの。これは,一般的な面接にも当てはまるのではないかと思う。認知的尋問法に関しては,『心のことば』にも記述がある。

『希望の教育学』(パウロ・フレイレ ?/2001 太郎次郎社 ISBN: 4811806638 \3,200)

 『被抑圧者の教育学』の著者が,この本を書く過程で学んだこと,この本に対してなされた批判の検討,出版後の歩みについて語った本。『被抑圧者の教育学』の復習になるかと思って読んでみたが,それほどでもなかった。奥さんによる注がついており,フレイレの思想が対話と批判性,そして社会変革を特徴とする(p.293)とまとめられていた。対話と批判の関係は,次のようにまとめられるだろうか。対話的な関係が教える行為や学ぶ行為を支えるようになるのは,教育者の批判的でけっして安住することのない思考が,生徒の批判的な思考能力を抑えることなく発揮されるとき(p.164)であると。しかし本書は,こういう部分よりは,社会変革の話が多かったように思う。

『「協同」による総合学習の設計−グループ・プロジェクト入門−』(ヤエル・シャラン&シュロモ・シャラン 1992/2001 北大路書房 ISBN: 4762822078 \2,300)

 かなり定式化された協同学習(グループ・プロジェクト)を学ぶための本。グループ・プロジェクトの導入や準備や理屈が書かれた1〜3章は,まあまあ興味深いところもあった。参加意欲を高める訓練としての「ミステリー・ゲーム」とか(p.32)。しかし本編である4章以降は,なぜだかわからないが,頭にすんなりと入ってこなかったし,あまり興味深くなかった。なんだかわからないが,なにか重要な情報が欠けているような気がする。

『新治る医療、殺される医療−医者からの警告−』(小野寺時夫 2001 中公新書ラクレ ISBN: 4121500040 \780)

 筆者は外科医(勤務医)なのだが,日本のいくつかのタイプの病院だけでなく,アメリカの病院でも勤務した経験をもつようで,非常に経験豊富な上に,身の回りに,診断ミスや悪徳医療の餌食になった人が多いようで,そういう体験・見聞談が豊富に語られている。そういうものを読むと,一見簡単で明白に見える(と医者に思わされている)病気でも,慎重に医者を選び,能動的に情報を収集して自分の身は自分で守らねば,という気にさせられる。この点が本書の最大の効用か。結局は,患者が確かな批判力をもって,まともな病院まともな医者を冷静に選ぶ努力をすることが,医療を改善できる最良の手段(p.82)ということのようだ。ただし,筆者があまりに豊富な知識を元に誤診を見つけるのを目にするにつけ,結局は知識がないとどうしようもないのか的な気持ちにもさせられてしまう。その点は本書の難点かと思われる。あと,例が豊富すぎて,全体にまとまりがない点も難点。

『集団の賢さと愚かさ−小集団リーダーシップ研究−』(蜂屋良彦 1999 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623029883 \3,500)

 筆者の古い研究の再録が多く,全体の3/4はあまり興味を引くものではなかった。引用されている文献も,1970年代以前のものが多いので,その後の動向を知るには適していないし。ただし,最後の方にある,グループシンク(集団浅慮)に関する論考と実験は興味深かった。筆者は,ポテンシャル・エネミー法によるグループシンクの防止を考えており,いくつかの実験が行われている。それらは必ずしも,ポテンシャル・エネミー法を有効性を明確に示したものではないのだが。思考や議論というものにつきものの,大きな個人差や状況差によって,効果が検出しにくい面もあるようだ。そういう場合はやはり,実験という方法に固執することなく,フィールド研究や質的研究から始めたほうがいいのではないだろうかと思った。素人考えかもしれないけど。

『学生参画授業論−人間らしい「学びの場づくり」の理論と方法−』(林義樹 1999 学文社 ISBN: 4762004715 \2,500)

 再読学びを徹底して社会化(p.125)することを基本戦略とした教授法の本である。今後の自分の教育活動を考え,改善するうえで,何か重要なヒントになりそうな本だと前回読んだとき思ったのだが,具体例がないために,自分で使えるほどには理解することができなかった。その「何かありそう」な点に賭けて,もう一度読めば少しは違ったものが見えてくるかと思ったが,やはり今回の読後感も前回と同様どまりであった。残念である。筆者でもこの方法を実践しているほかの人でもいいのだが,学生参画授業の実際についての本を書けばいいのにと思う。たとえば,筆者の方法のおそらく中核になるであろう「ワークショップ」は,月1回とか30分だけという部分導入が可能だと書かれている(p.105)が,実際にどうやるのかまったくわからない。この本に書かれている話を真に受けると,事前準備に3コマ程度,まとめに3コマ程度必要そうで,どうみても月1回(半期で4〜5回)というのは無理そうな気がするのだが。また,筆者は学生参画授業のためのしかけを7つ紹介しているのだが,これらの相互関係,半期の授業の中でどのように組み込むのかという全体像も見えなかった。そういえば昨年,この先生のもとで学生参画授業を受けているという学生さんからメールをもらったことがある。内容は,「参画授業は,こうすれば必ず成功するというものでもないとても難しいものだ。雑多で、一つ間違えれば取り留めのないものになりかねない。しかし,誰もが主役になれる可能性のあるとても面白い授業だ」という趣旨だった。詳細を教えてくれるように返事を出したのだが,それに対する返事はまだいただいていない。しかし,受講生側からの生の声が聞けたことは,とても貴重であった。

『現象学』(木田元 1970 岩波新書 ISBN: 400412011X \700)

 私にとっては難解で,断片的に理解できたところもあるという程度で,とてもではないが読んだとはいえないかもしれないが,一応あげておく。『哲学的思考』はフッサールだけだったが,本書ではその後の現象学者も取り上げられている。なかでも心理学との関連(批判を含め)が語られているが,現象学と親和性の高い分野として,知覚(ゲシュタルト)心理学と発達心理学があげられていた。あとがきによると,当時としてはこの本でも,ずいぶんわかりやすく書かれたものなのだそうだ。

『ケアを問いなおす−<深層の時間>と高齢化社会−』(広井良典 1997 ちくま新書 ISBN: 4480057323 \720)

 前半はターミナルケアとかケアマネジメントという,比較的具体的な,医療・福祉行政的な話で,後半は,ケアの科学とか<深層の時間>とケアという,抽象的な哲学(科学哲学)的な話であった。筆者の経歴が,科学哲学を専攻し,厚生省にいた(現在は大学教員),という経歴そのままに,扱われている問題が幅広いのであるが,私のうけた感じでは,それは必ずしも成功していない。いや,ケアというテーマで全体は統一されているし,後半の話の中にも,前半の話と関連することも出てくるのではあるが。とまあ,全体的にはすっきりしない本ではあったが,ケアの科学の話はおもしろかった。医療はサイエンスとして発展してきたが,医療が今日,高齢者ケアなどさまざまな場面でケアと直面し,両者が統合される可能性が開かれているという(p.169)。この点だけを掘り下げた本を読んでみたいものである。

『カリスマ受験講師の論理的に考える、私の方法』(出口汪 2001 三笠書房 ISBN:4837972098 \533)

 ずっと劣等生だった私が,論理的思考を身につけたとたん,見違えるように変わっていった(p.3)というような「アオリ」の文章が冒頭の1/4が費やされている。そういうところはまあ悪くなかったのだが,中核の「ロジック」の話は,あまりいただけない。ひとつの理由は,ロジックとか論理という言葉があまり一貫して使われていない点である。なお本書でいうロジカルシンキングは主には,文章を読むときに,いかにその筋道をおさえる(=理解する)かということで,批判的思考という観点はあまり入っていないように思えた。筆者は予備校講師ということで,受験ということを考えるとそれでいいのだろうけれども。

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■『おかしな二人−岡嶋二人盛衰記−』(井上夢人 1993/1996 講談社文庫 ISBN: 406263399X \874)
2002/05/30(木)
〜雑談から乱歩賞〜

 合作の推理小説作家・岡嶋二人の片割れであった井上氏による,岡嶋時代の回顧録。本書の存在は以前から知ってたが,タイトルから,軽いエッセイ風の本だろうと勝手に思い込んでいたので,手を出すのは控えていた。しかし知人の書評ページで高い評価だったので,読んでみた。本が届いてびっくりしたのは,全600ページを越える分厚さ。ちょっと面倒だけど,毎日20ページずつ,1ヶ月ぐらいかけて読めばいいやと思って読み始めたのだが,これが異様に面白く,結局3日で読み終わってしまった。

 本書は,「盛の部」と「衰の部」に分かれており,前者が34話,1から順番に番号が振ってあるのに対して,後者は33から始まってカウントダウンし,最後が0で終わるという趣向で,「盛」と「衰」が表現されている。二人は小説家志望だったわけではなく,ゲーム的に「江戸川乱歩賞をとってもうけよう」と合作をはじめ,7年かかって受賞している。そこまでが「盛」の部である。すなわち岡嶋二人にとっては,賞を取るまでがピークで,それ以降は衰退していく一方だったのである。

 本書の内容について,あるいは「岡嶋二人」というものについて,著者である井上氏は,次のように表現している。

岡嶋二人というのは,僕にとっては故郷のようなものだ。なにもかもが,そこから始まった。そこは僕の遊び場だったし,学校でもあった。職能訓練所だったし,強制収容所みたいな場所でもあった。(p.14)

 これは「はじめに」に出て来る言葉である。最初にこれを読んだときには,どういうことなのだろうかと不思議に思ったが,読みすすむについて,その意味が非常によくわかった。岡嶋二人は「遊び」から始まり,「勉強」や「訓練」になった。それが前半の盛の部である成長記であり,「いかにして合作していたか」という内輪話であった。そして後半の衰の部は,それがいかに「強制労働」となって崩れていったか,という衰退記なのである。

 本書はエッセイであるにもかかわらず,なるほどと思えるところが随所にあり,付箋をいっぱい貼ってしまった。それは,盛の部で語られる「いかにアイディアを出し,それを膨らませ,文章にするか」という部分が,私の仕事にも関係するからである。とくに岡嶋二人の場合は,二人でアイディアを作る部分が非常に興味深い。それは簡単にいうと,次のようなプロセスである。

僕たちの小説作りは,雑談が基本だった。多くの言葉を相手から引き出し,言葉と言葉を連想で組み合わせ,発見した面白さを二人の間で転がしながら納まるべき形を探していく。(p.475)

 これは別に二人でなくても,一人で,あるいは他人に話しながらアイディアを作って行く上で,使えそうな方法である。本書はそういう意味で,アイディアを作ったり文章を書いたりする必要がある人にとっては,面白くてためになる◎(二重丸)本だろうと思う。もちろんそういう人ではなくても,岡嶋作品を読んだことがある人であれば,存分に楽しめる本である。

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■『自閉症の関係障害臨床−母と子のあいだを治療する−』(小林隆児 2000 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623033384 \3,500)
2002/05/28(火)
〜情動がもたらす好循環〜

 自閉症を気質因(個体因)としてみるのではなく,「関係障害」とみなして治療を行っている医者の本。妻が持っていたので読んでみた。私は自閉症のことはほとんど知らないので,内容の是非についてはなんとも言えないが,本書の症例をみるかぎりでは症状や関係が劇的に変化しているし,その説明も納得いくものであった。ということで,以下は本書を通して知ったことを中心に記述する。

 まず,本書の考え方の一番基本にあるのは,「情動コミュニケーション」だと思われる。情動コミュニケーションとは,ある情動(快/不快,喜/怒,哀/楽など)が一方に生じると他方にもその情動が共振することによって両者はその情動を分かち合う(p.14-15)ことである。それは,音叉が共振するように,コミュニケーションをしている二人の間の音程(=情動であろう)を「調律」する働きをする。そしてそれが,言葉によるコミュニケーション(象徴的コミュニケーション)に本質的に生じる「ズレ」を少なくしたり,なくすのである。

 ところが自閉症児は,知覚過敏から来ると思われる独特の知覚・感情世界を持つし,親も自分の価値観や文化的枠組みで子どもを見てしまうので,その意図や感情が伝わりにくく,情動的コミュニケーションが成立しない(ということは,コミュニケーション自体が成立しない)。そのことが両者の関係の悪循環を引き起こし,悪循環を拡大再生産することによって,関係障害がもたらされるのである(独特の知覚様態→愛着形成障害→独特の知覚様態→・・・)。

 そこで,情動コミュニケーションが成立するような関係を作る必要がある。それは,子どもが情動を表出しやすい状況を作るのと同時に,子どもの情動を大人が理解することである。具体的には,抱っこなどをすることによって不快な情動興奮を緩和し愛着を形成することであったり,大人が自分を出すのではなく子どものことを傾聴し行動や発声を子どもに合わせていくことであったりする。あるいは,愛着が形成されたように見えても子どもが自閉的な行動を示すことがある。そういうときも,「その子には自閉的な世界がまだ必要なのだ」という理解をすることである。

 そうすることで,母子の間に安全感というか基本的信頼感が形成され,そのなかで子どもの情動表出がさかんになされるようになる。大人の方も子どもの情動や意図が理解できるようになる。安全感が形成されれば,視線もあうようになり,視線が合うことで子どもの心の動き(動因,意図,関心など)も感知しやすくなる。好循環である。

 このような大人と子どものコミュニケーションと,それを通した文化の伝承は,自閉症児に限ったことではない。筆者は文化伝承の一般論として,次のように述べている。

子どもを養育することは,私たちが背負っている文化を子どもに伝承していく営みです。そこで大切なことは,まずもって私たちが子ども世界(独特な無様式知覚優位な世界)に参入し,そこで子どもと情動が響きあうような関係を作っていくことです。(中略)それが達成されて初めて,子どもの抱く関心,意図,気持ちを養育者である私たちが身体を通して感じ取ることが可能になります。このような意図の共有が可能になっていくことが,ことばの獲得過程において重要な意味をもつようになるのです。(p.270)

 ここには,子どもを理解しつつ育てる,ということの基本形が含まれているように思う。また,この実践と論考を通して,発達心理学でいわれているような子ども世界(相貌知覚,愛着,象徴の形成など)の意味や意義が改めてしることができたように思う。

 そうそう,先日書いた「心理臨床における言葉」と関係しそうなことが,本書にも書かれていた。たとえば次のようなくだりである。

まず養育者(治療者)が子どもの心の中に浮かび上がった内的表象(体験の共有に基づく)を感じ取って,それを私たちの文化の側に引き寄せてことばでもって表現してやることによって,子どもは自分の世界が養育者の世界とつながり合ったという実感を持つようになり,それが子どもにとって大きな喜びとなります。(p.120)

 まあこれは「喜びになる」という話だが,このほかにも,ことばを用いることが感情の表出を抑制させ(「自己コントロールの力」),直接的に情動表出をしなくてもことばでもって本当に悲しそうな気持ちを表現できていた(p.217)というのもある。これが先日の話とどれほどつながるかは自信はないが,言葉や思考の役割は,今後のテーマである。

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■心理療法や思考における言語化
2002/05/26(日)

 昨日,神田橋條治氏のスーパービジョンセミナーなるものにいってきた。2名が報告した事例報告に神田橋氏がコメントする,公開スーパービジョンである。事例に関してここに書くのは差しさわりがあるだろうから,神田橋氏のコメントの中で私の興味をひいたものを,いくつか書いておこう。

 メモをみると,どうやら私は,言語とか認識ということに着目して聞いていたようである(以下は私のメモからの再構成なので,正確な文言とは限らない)。たとえば,言語化による心理療法は,向かない人(言語能力が低い人や,言語になじまないテーマを抱えている人)にすると混乱する,という話があった。その場合はもっと非言語的,身体的な心理療法を用いるわけだが,そうやっていろいろやりながら,そこから出てきたことを話題にするなどして,言語につないでいかんといかんとおっしゃる。

 これを見る限り,心理療法(対話心理療法)は最終的には,言語化し意識化すること,それを通して認識を広げる(あるいは相対化する)ことが重視されているようである。ひょっとしたら私の興味のあり方(から来る聞き方の偏り)もあるかもしれないが,しかしどうもそれだけではなさそうである。このほかにも,「言語化できると,安定につながる。自信がつく」「治療には,満足させるという栄養補給的なものと,直視させるという認識を増やすものがある」「心理療法の目的は,見えなかったものが見えるようになること。何かができるようになることは,結果でしかない」という発言もあった。あるいは「振り返り」の重要性が強調されたり。

 最近私は,思考について考えたり読んだりしながら思うのだが,意識的に思考すること(多くの場合それは言語化を通して行われる)には,人間に特有の重要な意味があるような気がする。それが何なのかはまだうまく言えないし,思考をそのように高い位置に置きすぎることはかえって問題な場合もあるのではないかと感じている。現時点では,すぐに結論を出さずに,当面のテーマの一つとして,いろいろな折りに考えていきたいと思っている。心理療法もそのきっかけの一つとして重要そうであることは,どうやら間違いなさそうである。

 追記:書き終わってから思ったのだが,「見えなかったものが見えるようになる」というのは,心理療法に限らず,あらゆる効果的なコミュニケーションにおいて目指されているはずのことである。読書も教育も批判的思考,そして宗教や洗脳も。ただし,後者2つがほかのものと違うのは,自分の認識を相対化したり,意識的に選ぶ自由を広げるものではないということである。そこらあたりに意識化や言語化の意味があるのかもしれない。

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■『教育改革をデザインする−シリーズ教育の挑戦−』(佐藤学 2000 岩波書店 ISBN: 4000264419 \1,700)
2002/05/24(金)
〜すぐにできる改革案〜

 著者がこれまでにあちこちで発言し実践し調査してきた教育改革の全体的なデザインを提示した本。本書が目指しているのは,次のようなものである。

教育改革は私たちの手で達成できる,というのが本書の中心的なメッセージである。民主主義と公共性の二つの原理で改革の実践を遂行し続けること,そこから道は開かれてゆく。(p.198)

 筆者のいう民主主義とは「多様な個性を尊重し合う」ことであり,公共性とは,「地域に生きる子どもや親や市民や教師」といった人々のネットワークを基盤とするということである。本書提言は現実的であることを旨としており,たしかにできそうでかつ効果のありそうな提言が多い。たとえば私立学校を,助成金をもらい教育内容を公立学校に準じる準公立と,助成金をもらわない代わりに好きな教育ができる私立学校の2種類にするとか。あるいはカリキュラムを「目標・達成・評価」モデルに基づいて編成するのではなく,総合学習的な「主題・探求・表現」モデルにするとか(p.113)。あと,学校内,教室内での改革については『学校を創る』で実践されているような内容だ。

 と,本書の意義は大いに認めるのだが,気になる点もいくつかあった。本書は,教育に関してこれまでに言われてきた10の俗論(ウソ)から始められている。「日本の教育は画一的である」とか「欧米の大学は入学するのはやさしく卒業するのが難しい」とか。しかしなかには,俗論で述べられていることと筆者が反論していることが,対応していないように感じられる箇所もあった。たとえば「画一的」ということに関していうと,筆者は,日本の高校には無数の小学科やコース,類型があり選択教科の幅も広いことから,画一的ではなく多様であるという。

 しかし一般的に日本の学校教育が画一的というときには,そういうことを指すのではないのではないだろうか。ちょっと検索してみても,教育で問題視されている画一性としてはたとえば「文部省を頂点とした中央統制システム」から来る画一性(検定教科書,指導要領,学校の設置基準など)や,一斉授業を中心とした授業形態の画一性があげられている。こういうことには本書では論じられていないままに「日本の教育が画一的だという説は俗論=ウソ」と論じられているのである。

 また,中学校に多いいじめや暴力,無力感が高校入試の圧力に由来している,と筆者は分析しているが,この分析は『教育の社会学』に書かれていた教育社会学者の分析とは異なるようである。あるいは,筆者は教師の専門職性が高くないとして,大学院教育に高い期待をかけているように見えた。たとえば教職10年目の教師の希望者全員に大学院教育を受けさせるというような。しかし,(現状の)大学院とは,教師にとってそんなにすばらしいところなのだろうか,と疑問に思った。

 そうそう,そういえば,筆者が取り上げている「俗論のウソ」のひとつとして,「いじめ,不登校は心のケアによって解決できる」というものがある。それに対して筆者は,カウンセラーの対処も重要だが,公教育の原則において行うべき対処は,学校に行けない子どもたちの学習権の保障(p.33)と述べている。すべきことは,こころのケアを通して「学校に来させる」ことではなく,たとえ学校以外の場所(たとえば家庭)であっても,学習できるよう保障することだ,ということのようだ。コレは確かにその通りだと思った。もっともこれも,最初に述べられている俗論と筆者の反論が対応していないように思えるのだが。

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■雑記
2002/05/22(水)

 今日は開学記念日で授業はないのだが,大小会議が3つほどあってぐったり。と思ったら昨年も同じことを書いていた。

 話は変わって減量その後。昨年の8月から11月まで減量し,それ以降はあまり減量を意識せずに暮らしている(おやつも適度に食べたりして)。減量を終了してから半年間,体重は増えたり減ったりしつつ安定している。というよりも,がんばってもある程度以上は減らないし,大食いした後でも,数日すると70.6kg前後という一定の数字に回復する。

 たぶん,今の暮らし方をしている限り,この数字が均衡点なのではないかと思う。入力と出力がつりあっているというか。今の暮らしとは,1日平均7000歩歩いて,普通にメシを食い,適度におやつをつまむ生活だ。

 逆に言うと,これ以上減らしたいのであれば,生活を変えないと無理だろう。歩くのではなく走るとか。まあそこまでして減らしたいわけではない。血中のアレやコレやの数値が正常範囲になればいいのだ。まあ,歩くことが楽しいことがわかったので,このまま維持できればいいのだが。

 #これからの大敵は暑さ。大学に着いたあとの処理が大変なのである。それを考えるとちょっとゆううつ。

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■『ロボットの心−7つの哲学物語−』(柴田正良 2001 講談社現代新書 ISBN: 4061495828 \680)
2002/05/20(月)
〜誤解しやすい本〜

 ロボットが心を持つことが原理的に可能かどうかを論じた本。「原理的に」とあるように,工学的な観点ではなく,哲学的な観点から論じられている。本書は興味深い点が多かったが,なぜか重要なことがあまりはっきりとは書かれていないように思えた。そこで以下では,そういう点に関する私の考えを大胆に書いていこうと思う(ので,以下の記述は,読んだ人や読む直前の人向けになっているのではないかと思う)。

 本書の面白い点は,筆者が最初から立場を鮮明にしている点である。次のものである。

これからの話を面白くするために,私は,「可能だ」という陣営に身を投ずることにする。そしてその上で,哲学者や科学者たちが「可能だ」「不可能だ」と主張する論拠を,少し丁寧に検討してみよう。(p.139)
「可能だ」ということは,心身二元論のようなメンタリズムの立場ではなく,物質が同じであれば同じ心が生じるとする<素朴な物理主義>にコミットすることである。最初にこのあたりの記述を見たときには,私はこれは,両方の立場を公平に検討ための「方便」として一方の立場に立つのかと漠然と考えたのだが,それは違っていたようだ。むしろ筆者の目的は,物理主義の立場で,どれほど説得的に説明が可能であるか,とくに,メンタリズムを表明しがちな学生をいかに説得できるか,という方向で話が進められているようにみえた。筆者はそうは書いていないのであるが。

 本書のメイン部分は,チューリングテスト,中国語の部屋,フレーム問題,コネクショニズム,クオリアといった,著名な心身問題の検討であり,これらが1〜2章でひとつずつ取り上げられている。そして,これも明確には書かれていないのだが,これらの検討からえられる筆者の結論は,次のようなものだと思われる(あくまでも私の憶測である)。

心あるロボットは,ニューラル・ネットワークに感覚器官と運動器官と感情を持たせることで可能になる
なぜ私がこう考えるかというと,5章(コネクショニズムって何?)で環境の中を歩き回るロボットは,巨大なニューラル・ネットワークに目鼻と手足をつけただけでいいのか?(p.171)という問題提起があり,そのあとで,そのような問題を解決する視点として,「感情」が論じられているからである。まあこの理解は,当たらずといえども遠からずだろうと思っている。

 また本書では,2章を使ってチューリング・テストについて論じられている。そのなかで,次のような興味深い文章が書かれている。それは,

思考にはつまり身体がいる!(p.71)
というものである。最初にこれを読んだときには,へーと思い,その前後の論考で「なるほど」と,なんとなく納得したような気がしたのだが,後から考え直して見ると,これはあまり適切な表現ではないように思う。というのは,そもそもチューリング・テストとは,(筆者も書いているように)われわれが「他者を人間と認める」(あるいは心,思考)ための条件を明らかにするテストであって,「思考や心そのものの実現」(という本書のテーマ)ではないからである。

 私の理解では,上の文章は「われわれが音声なり文字の中に他者の思考を認めるためには,身体をもつ(ことによって環境を共有している)必要がある」と表現されるべきものである。思考そのものについての記述なのではなく。もっとも,「思考とはわれわれが思考と認めたものである」(「心」についても同じ)という考えが背後にあるのであれば話は別である。もしそうであるとしても,本書にはそのようなことは明確には述べられていなかったと思うので,やはり不適切(あるいは不十分)な表現であることに変わりはないと思う。

 上の引用にもあるように,ロボットの心を考える上で,筆者は「身体性」を重視しているようである。そのことは,次のように表現されている。

思考に身体が必要なのは,身体を通して環境世界にロボットが住み込むためである。そして環境世界の中に住み込むことによって,ロボットは,周囲の世界から意味を引き出してくる。だからサールの議論の牙からロボットを逃がしてやるためには,ロボットを環境世界に埋め戻してやればいいのだ。(p.102)
いくつかの本を読んで漠然と思った印象だが,この手の議論にこれから必要になってくるのは,身体,環境,他者のようである。ただし本書では「他者」は論じられていない。

 最後に本書で重視されているのは「クオリア」である。ここで私が疑問に思ったのは,筆者はクオリア(や意識や感情)を「認知機能」という観点からのみ論じている(p.212)点である。別の箇所でも,クオリアは意識という舞台で果たされる感情機能の不可欠の一部(p.199)と述べている。たしかに物理主義の観点からこれらを理解するためには,認知機能と考えるのが手っ取り早いのであろうが,本当にそういう理解だけでいいのだろうか。そう考えるとこれは,あくまでも「物理主義の立場に立てばそうとも考えられる」という立場の表明の延長以上の意味はないのではないかと思われる。

 本書は興味深い本ではあったが,これらの点を誤解しないように読まないと,わかったつもりでわかっていないことになりかねないのではないかと思った。もっとも,私の方がわかっていないのかもしれないけれども。

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■プチ旅行記
2002/05/19(日)

 土日と,恩納村に1泊のプチ旅行に行って来た。

 沖縄地方は,約1週間前から梅雨入りしていたので,ちょっと心配だった。週間天気予報では,降水確率70%の曇り時々雨だったし。しかし結局雨は降らず,晴れさえした。そういえば沖縄では,梅雨入り宣言したとたんに雨が降らなくなるといわれていることを思い出した。もっとも,前日は曇り時々雨だったりしたのだが。

 晴れれば海で泳げるかと思っていた。海開きは4月はじめなので,もう寒くはないだろうと思ったのだ。しかし結局海には入らなかった。水が冷たかったからだ。そのかわり,土曜日の午後と日曜日の午前中は,ホテルの温水プールで泳いだ。泳いだといっても,下の娘(1歳8ヵ月)は平気だったものの,上の娘(3歳11ヵ月)はずっとコワイコワイといって,親の腕などにつかまっていたのだが。

 それでも上の娘は楽しかったという。でもせっかくだからもう少し水に慣れてほしい。梅雨が空けたら,海につかりにいかねばと思っている。

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■『障害児教育−発達の壁をこえる−』(稲垣忠彦ほか 1991 岩波書店 シリーズ授業10 ISBN: 4000041304 \1,942)
2002/05/16(木)
〜「しからない・ほめない・はげまさない」学校〜

 実際に学校の実践の場に行って実践を観察し,ビデオ録画を見て座談会形式で実践を批評し,当事者や観察者の報告や考察が寄せられている,というシリーズの1冊。ビデオも別売りされている。

 この回は,愛育養護学校という学校が取り上げられている。愛育養護学校は私立の学校だが,学校法人ではなく社会福祉法人なので,国からの補助がもらえず,経済的には苦しいらしい(p.10)。しかしその代わりに,カリキュラムや教育内容についてしばられることはないし,届け出をしなくてもいい。それは,先生がカリキュラムを作って子どもに与えるのではなく,それぞれの子どもが自分の学校生活を自分で作っていくことを基本(p.10)としたいからである。だから学校の一日をざっと見ると,本当にバラバラで「これが学校ですか」と言われることも多いらしい。しかし子どもの一日の一人一人の流れをとれば,皆ちゃんとそれぞれ考えて一日を過ごしている(p.11)のである。

 このことからもわかるように,この学校は,普通の養護学校とはかなり違う。普通の学校だったら安全を考えてさせないようなことでも,子どもの気持ちの自由を優先して,させたり,じっくり待ってあげたりしている。あるいは,養護学校は訓練をしなければいけない,という通念は非常に弱い。そのような学校の基本的な特徴は,次のように表現できる。

「しからない・ほめない・はげまさない」,そして子どもの今を見つめ,子どもの自由な活動と徹底してつきあっていく(p.169)

 「しからない」とはたとえば,薬を見つけては全部捨ててしまう子に対して,捨てることは,きっと本人の一つのテーマになっている(p.38)というように意味のある行動としてとらえ,薬は買い足せばいい,教材と考えればいいんだということで,好きにさせるのである。といっても,ずっとそのままというわけではない。信頼関係ができてくると,「大事だから少しにしなさい」と先生がいうと聞いてくれるようになる。それに,ていねいに応対し,支えてもらえば,自分になって行動し(p.121),好きなものを熱心にやることを通して集中心が育つ(p.123)という。あるいは受け入れてもらった体験から,今度は相手を受け入れてみたいという体験につながる(p.125)。

 「ほめない・はげまさない」というのは,障害児を必要以上に障害児扱いしない,ということである。逆にほめる・はげますことの底には,「できないことができるようになることがいいことである」,という考え方がある。直線的・個体能力主義的な発達観である。そういう部分が全く必要ないわけではないだろうが,それでは,障害児の「できないこと」ばかりがクローズアップされてしまうことになる。

 しかし,障害児も健常児も赤ちゃんも年寄りも変わらない面がある。校長である津守氏は,そのような人間に共通のことがらとして,存在感(自分らしく生きる実感),能動性(自分で選択して何かをする),相互性(他人と心を通じ合ってやり取りする),自我(主体的な人間として生きる),をあげている(p.186)。そういうことを非常に大切にし,学校を卒業したときの準備としての能力養成などではなく,学校にいる今を大切に生きること,生きている実感と生きがいがもてることを大切にする学校なのである。関係論的,状況論的な学校とでも言えるであろうか。

 だからといって,子どもは変わらないわけではない。むしろ,やりたいことを徹底してやることを通して,本当に好きなものができ,あるいは同じ遊びがどんどん変化していくという(p.11)。

 ここで見られる教育は,障害児に特別なことなのではなく,人間一般の教育論としておおいに通用する。本書の最後には佐伯氏が,自身のドーナツ理論を通してそのことが理論的に語られており,興味深い。また,この学校のこのように特異な特徴は,一朝一夕にできたわけではない。子どもや親と関わりのなかで,先生たちの試行錯誤や学び学ばれる関係を通して作られていったものである。それは反省的実践家の姿であると感じた。教育だけではなく,子どものしつけや子どもとの関わり方について考えさせられる学校であった。

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