読書と日々の記録2004.3下

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■読書記録: 31日短評5冊 30日『ぼくが世の中に学んだこと』 25日『夜と霧(新版)』 20日『墜落の夏』
■日々記録: 27日他大学院生の修論 24日5歳児語録 19日英語の多読と眼球運動

■今月の読書生活

2004/03/31(水)

 今月やろうと思っていたことは,一つはまあまあ,一つは半分ぐらい,一つはまったくであった。

 今月良かった本は,『市民の政治学』(なるほど討議ね)と『夜と霧(新版)』(信じることって大事だね)あたりか。総冊数は少ない月だった。

『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』(森達也 2003 角川書店 ISBN: 4048838288 1,700円)

 この筆者の本はすべて、映像ドキュメンタリーのメイキング的な本なのだが、このほんは、そうではなく本として企画された最初の本らしい。内容は、日本に留学というか亡命してきた、ベトナム王朝最後の王子と、その時代背景を描く歴史物である。筆者は、「日本で死んだベトナムの王子についての資料を読めば読むほど、今のこの時代との共通項や類似点が目について」(p.20)しまうのだそうで、本書のところどころで、その時代(日露戦争〜第二次世界大戦)を通して現代を考える部分が挟まれている。少しだけど。つまり本書は、歴史を描くことそのものを目的としているのではないのだと思う。そういうところに、単なる歴史物とは違う面白さがある。主人公の話もまあ興味深いし。ただし、当時と現在の共通項を考えるのが目的であれば、実は「ベトナムの王子」の話はあまり重要ではない。その部分は、「日本では忘れ去られたベトナムの英雄」(p.277)と思って追っかけてみたら実は違っていた、という話なのだが、王子は結局、日本のバックアップの元に革命の機が熟すのを待っていただけで、結果としてはほとんど何もしていない。それはそれで興味深い話でないわけでもないのだが、それよりも、この時代から現代を逆照射する作業をもっとたくさんしてほしかったなあと思う。

『「愛国心」の研究(シリーズ「教育改革」を超えて2)』(柿沼昌芳・永野恒雄(編) 2004 批評社 ISBN: 4826503903 2,000円)

 著者の一人にいただいた本。現在、子どもに「愛国心」を持つよう迫るよう教師が迫られる事態が進行しているらしい。そのことを、現場の教師が中心となって論じた本。教師が中心とはいっても多彩な執筆陣で、学校での現状だけでなく、右と左の思想について、さまざまなことを知ることができた。編者のはまえがきで、「そもそも私たち教師は、日々の授業や生活指導の中で、学校・教師あるいはその教育内容に何らの疑問を抱かず、批判もしない子どもを育てようとしては来なかっただろうか」(p.6)と述べている。しかし、では愛国心を強制する教育ではない教育として、どのような教育がありうるのかについては、多文化教育について触れられている論考がひとつあるのみ(第6章)で、その他の具体的な提言はなく、ちょっと残念であった。

『秘密』(東野圭吾 1998/2001 文春文庫 ISBN: 4167110067 629円)

 ふーん、これはなかなか面白い小説だった。ドキドキ面白いというよりも、ジンワリ面白いタイプの。そしてその面白さは、多面的な面白さでもある。人生を生きなおす話としての面白さもあるし、父と娘の距離のとり方の難しさという面白さもあるし、夫婦の関係が変わりゆくさまがデフォルメされた面白さもあるし、秘密の面白さもある。しかし根底にあるのは、自分が愛する者のことを思って生きていく、という話かな。うまくいえないけど。まあ面白かったのだが、しかし、その後の人生がどう展開するのかがちょっと気になる。そういう意味では、ここで終わりにするのはちょっとずるくないか?

『思考のための文章読本』(長沼行太郎 1998 ちくま新書 ISBN: 4480057544 \660)

 再読。初めて読んだときは途中でやめ、2度目に読んだときは、もう一度読まねばと思った本。3回目の今回は、もう引用の文章はきちんとは読まず、筆者の考えの概要を追うようにした。本書は、単語の思考、語源の思考、問いの思考など、10の思考が紹介されているが、これは、あらゆる思考を分類するとこうなる、というものではない。当たり前といえば当たり前だけど。筆者が特徴的と思った文章にネーミングしたらこうなった、というところだろうか。基本的に本書全体を貫いているのは、筆者自身の「問いの思考」だろうと思う。また、筆者のような形で、私が最近気になっている考え方にネーミングするなら、「関係の思考」ということになりそうである。もっとも筆者も、関係の思考という節を設けている。そこでは、「物それ自体で何であるか、を問う実体論的な思考をやめて、関係論的な思考へはいりこむ」(p.83)というような記述がある。そうそうそうだよね、と思った。

『暗黙知の次元』(M.ポランニー 1966/2003 ちくま学芸文庫 ISBN: 4480088164 900円)

 全体が3章からなり、暗黙知、創発、探求者たちの社会、について論じられている。暗黙知についてはまあまあ分かったと思うが、それ以外は、けっこう分かりづらかった。部分的にはよくわかり、刺激されそうな感じのところもあったのだが、全体的にはちょっとはっきり分かったとは言いがたい。しかし、「知」というよりも人間の思考とその社会的発展がターゲットになっているようで、もう少しきちんと理解したいと思った。適当な本があるといいのだが。

■『ぼくが世の中に学んだこと』(鎌田慧 1983/1992 ちくま文庫 ISBN: 4480026037 580円)

2004/03/30(火)
〜労働者連帯のルポ〜

 『自動車絶望工場』の筆者の半生記みたいなもの。といっても、はじめて就職した18歳のときから話は始まるのだが。簡単に言うと、町工場の見習工を3ヶ月でやめ、新聞で見つけた印刷工の仕事に変わり、大学に行き、業界紙の記者になり、小さな雑誌社にはいり、フリーになって現在に至る、という感じのようだ。

 このうち、2番目の印刷会社で組合を作ったところ、全員解雇されたそうだ。そういう経験を通して、労働者の連帯を知り、「このことは、その後のぼくに、大きな影響を与えた」(p.59)という。私は『自動車絶望工場』を読んだとき、内容はとても興味深かったが、どうして筆者はこういうこと(潜入ルポ)をしたのだろう、と思ったのだが、そのわけは、本書でよくわかったように思う。簡単に言うとそれは、「ひどい状態ではたらかされているひとたち」(p.59)がいることを示すことが重要なことのようだ。

 そういう人たちの、「人間が人間でなくなるような労働」(p.147)によって日本の大工場は維持されているにも関わらず、日本の工場に注目して世界中から来る視察団には、「大工場の周辺で働いている人たちのことは、ほとんど伝えられない」(p.207)という。そういう人や労働の存在を明らかにすることは、かつて筆者自身がそうされたように、労働者を支援することになるのだろうと思う。

 筆者のルポルタージュというのは。筆者はトヨタ以外にも、鉄工所と硝子工場でも、季節労働的な仕事をしている。短いながらも、鉄工所や硝子工場の話は興味深かった。この一連の活動と、筆者の来歴を知ってはじめて、『自動車絶望工場』で語られていることの意味も見えてきたように思う。

■他大学院生の修論

2004/03/27(土)

 この時期、他大学の大学院生さんが、修士論文を送ってくださることがある。たいていは、以前、メールなどで研究に関する問い合わせがあり、何度かやり取りしたり抜き刷りを送ったりしたような方である。中には、そうではない方もおられるのだが。

 そういう論文を読むのは、とても楽しい作業である。第一に、私の研究領域と重なる部分がある研究だからであり、第二に、その院生さんの2年間が凝縮されているからであり、第三に、さまざまな領域のさまざまなアプローチがあるために、私自身、大きく刺激を受けるからであろう。

 以前私は、「伝統的なタイプの心理学の研究の話を聞くと,気持ち悪くなっていけない」と書いたが、送られてくる修論には、そういうものはほとんどない。領域も様々で、心理学以外に、国語教育、情報教育、教育学などがある。批判的思考を考えるにあたって、心理学や実証的方法や統計にこだわることはまったくないことがよくわかる。

 こういうものが読めるなんて、なんて幸せなことだろうと思う。

■『夜と霧(新版)』(V. E. フランクル 1977/2002 みすず書房 ISBN: 4622039702 1,500円)

2004/03/25(木)
〜強制収容所の参与観察〜

 とても抽象的な感じのタイトルなので、読みにくかったらどうしようと思っていたのだが、そういうことはまったくなく、読みやすく興味深い本だった。それは、「生身の体験者の立場にたって「内側から見た」強制収容所」(p.1)を描いた、いわば参与観察の本だったからである。

 たとえば、収容所に入れられて程なく、被収容者は「毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなく」(p.37)なる「不感無覚」になるのだが、そうなるべくしてなったことが、本書でよくわかった。それは、「被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾」(p.37)としての自然の感覚なのだ。逆に、感じることは不適応につながる。それは「喜び」であってもである。たとえば、もうすぐ戦争が終わるというような楽観的なうわさは次々と流れてきては、失望に終わったのだが、「往々にして、仲間うちでも根っから楽天的な人ほど、こういうことが神経にこたえた」(p.55)という。このように収容所とは、不感覚が適応的で、楽天性が不適応につながる場所だということが、よくわかった。ちなみにこういうことは、収容所外であってもおかしくないことだろうと思う。そうであれば、むやみに「感じること」や「ポジティブシンキング」を薦めることが、必ずしもいいとは限らないということだ。

 ただし、「繊細な被収容者のほうが、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えた」(p.58)という記述もあり、それは「不感覚」ゆえではなく、「精神の自由の国、豊かな内面へと立ち戻る道が開けていた」(p.58)からだという。おそらくこのことは、最後の段落に書いたことと関係するのだろう。

 本書で興味深かったのは、筆者にとっての「妻」の位置づけ。収容所で辛いとき、「心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれる」(p.61)のだという。それが筆者の場合は妻であったのだ。「思いをこらす」といっても、単にイメージするだけではない。妻と語っているような気がしたし、妻が答えるのが聞こえたし、微笑むのが見えたという。しかも、そのように思いをこらすにあたっては、「愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい」(p.63)という。収容所を(多少なりとも)追体験しながら本書を読んでいると、それはごく当たり前のことのように思えるが、しかしそのことに気づくことは、実は重要なことのようである。

 同じように収容所で生活していても、生き延びる人もいれば、力尽きて亡くなってしまう人もいる。「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなににもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすととともに、がんばり抜く意味も見失った人」(p.129)は、あっというまに崩れていくという。逆に、未来の目的に目を向けることができ、自分の未来を信じることができる人、よりどころになるものをもっている人は強いようである。ここでいう「未来を信じる」にあたっては、上の段落で「愛する人」について書いたように、現実にどうか(存在するとか実現するとか)ということはあまり関係がないのかもしれない。ただ純粋に、信じること、よりどころにできることが大事なのだろう(この考え方があっているのかどうかはわからないが)。このあたりのことを、というか実存分析について、ちょっと調べてみるのも面白いかもしれない、と本書を読んで思った。

■5歳児語録

2004/03/24(水)

 最近、上の娘(5歳9ヶ月)が面白いと思う。って、こんなこと、ずーっと昔から書いているような気がしないでもないけど。

 最近、上の娘のマイブーム語がいくつかある。たとえば「ガーックシ」。沖縄風に「ガーックシェ」となったりもする。これは文字通り、がっかりしたときに使う。ガーックシと言われて、こっちの方がガックシくることも多いのだけれど。

 ほかには、「な、なんですってぇ?」。思いもよらないことをいわれてビックリしたときに言う。母「今日はおやつはなしよ!」 娘「な、なんですってぇ?」という具合である。大抵は、妻が怒っていう言葉に対して発せられる。気勢をそがれることこの上ない。そんなときは、こっちがガーックシである。

 あと、「はい、わかりました。すぐにお伝えします」(早口で)。別に、何かを伝えなければいけないときに言うわけではない。妻に、「急いで片付けなさい」みたいに、何かを急いでしろ、と言われたときに、「はい、わかりました。すぐに」という言葉を枕ことばにして、それに続く語として「お伝えします」をつけてしまう、ということのようである。それに対して、妻が必ず「別にお伝えしなくてもいいから、早くしなさい」と言うのもまたおかしい。

 それから、「〜とかナンチャッテ」。今朝も、半袖を着て「半そでー,とかナンチャッテ」と言っていた。これって何なんだろう。ある種の照れ隠しみたいなのだろうか。ちょっとコレを言う心情は不明である。

 なんて書きながらふと1ヶ月前の日記を見ると、その頃は、「今日の朝、誰が一番かわいそうだった?」と毎日言っていた、と書いてある。これは今はちっとも言っていない。ということは、今言っている言葉も、1ヵ月後には言っていないのだろうか。それもちょっとさびしい気がするが、でもそのときは、また新しい言葉を思いついているのかな。

■『墜落の夏─日航123便事故全記録』(吉岡忍 1986/1989 新潮文庫 ISBN: 4101163111 514円)

2004/03/20(土)
〜ワゴン車大のジャンボ機〜

 1985年8月に御巣高山に墜落した日航機についてのノンフィクション。講談社ノンフィクション大賞受賞作。サブタイトルにあるように、この事故に関しては「全記録」と言っていいくらいに、多方面からくまなく取材されている。日航社員で、現地で遺族の世話役になった人、補償問題に関して世話役になった人、整備現場のエンジニア、生存者である落合さん、搭乗していた人たち、検死風景、遺族のその後、などなど。取材対象になっているのは人ばかりではない。飛行機の操縦席もそうだし、保険や補償のあり方、事故の原因、などなども網羅されている。

 そのなかで私が興味深かった点がいくつかある。ひとつは、「JA8119号機が上空をさまよっていたとき、なぜコックピット・クルーの誰かが客室までおりていって、後部隔壁周辺の破壊の状況を把握しなかったのか」(p.107)という疑問を筆者は持ち、ジャンボ機のコックピットに乗せてもらい、「私にはわかるような気がした」(p.107)と筆者は述べている。ジャンボ機のコックピットは、大型ワゴン車に乗ったという程度の広さという印象なのだそうだが、しかしその空間には、飛行に関するすべてがあるのである。外が見え、計器や人工感覚装置を通して機体の状況が把握でき、その状況を変化させるのは、気象などの外的条件を除けば、コックピット内の人間の操作なのである。

 その結果、「いささか誇張して言えば、コックピットにいると、ジャンボ機に搭乗していることとワゴン車に乗っていることとの区別がつかなくなる」(p.106)という。あるいは、「ジャンボ機とはひどく小さく、コンパクトな航空機なのだ」(p.107)とも言う。もちろんそれは、印象の上での話だ。しかしこのことは、ジャンボ機に限らず、何かを集中的に管理するシステムには共通して起こりうる印象ではないかと思う。あるいは、現場から離れたところにいるブレーンが意思決定する組織とか。

 もうひとつ本書で興味深かったのは、事故の原因。上にも書いたように、一般的にはこの事故は、事故の7年前の離陸時にしりもち事故を起こしたときの修理がまずく、後部隔壁に亀裂が入って起きた事故だといわれている。確かに、そういう事故はあり、不適切な修理があり、そのことを修理を行ったボーイング社が認めており、隔壁には亀裂が入っていた。しかし、「隔壁破壊がすべてのはじまりだったと推論する事故調査委員会に対して、これらは、尾翼周辺の破壊こそが最初に起きたことではないか、少なくともその可能性を否定する材料はない、と主張する」(p.302)調査もある。

 否定できない、というだけではない。言われているような隔壁破壊があったとするならば、当然起きているべき、急激な減圧が起きたという証拠はない。というか、それが起きなかったと考えるのが妥当な証拠が複数あるのである。その他の証拠も考え合わせると、「機体後部にもともと変形があったという推測も成立つ」(p.301)という。しかし、垂直尾翼など機体尾部のだいぶ分が未回収なため、それ以上は何も明確にいえない状況なのである。このあたりの事情は、『迷路のなかのテクノロジー』(とくにチャレンジャー号爆発事故の件)を思い出させるような話であった。

 本書全体としてみると、網羅的過ぎて、なくてもいいと思えるようなエピソードもあった(羽田空港周辺の町の話とか)。しかし、これだけのエピソードが拾ってあるおかげで、私にとって興味深いエピソードも紛れ込んでいたともいえる。そういう意味では、まあ悪くなかった本かもしれない。

■英語の多読と眼球運動

2004/03/19(金)

 12月にはじめた英語の多読は,現在までに,50冊読んで36万語となっている(再読本を含めると46万語)。ということは,この1ヶ月で,新しい本を10万語読んだ,ということか。

 ただし読んでいるレベルは,2ヶ月ほど前から基本語彙1000語あたりなのだが,なかなかこのレベルを読むスピードが上がらなかったので,いまだに1000〜1200語レベルを読んでいる。ようやくそろそろスピードが上がってきたので,上に行こうかと思っているところだ。1ヶ月ほど前は,ひょっとしてこのあたりが自分の限界なのか?と思ったりしたものだが,読み続けていると,いつのまにかスピードが上がっており,うれしい。

 この1ヶ月に気づいた変化としては,「首を振らなくても良くなった」というのがある。私の理解では,この方法は「スピード」を重視している。「60%の理解度でいいから100%理解するときの1/10の時間で読め」というように(『どうして英語が使えない?』)。そもそもこの方法は,学校でやるように,難しい文章を対象に,文法的辞書的に分析しながら「頭で」読むのではなく,子どもが自然と本が読めるようになるプロセスをなぞるように,難しくないものをたくさん読む,という方針になっている。そうすることで,自然に難しいものも読めるようになるのだ。「身体」で読むというか。きわめて理にかなった方法だと思う。

 ただし,子どもと同じことをやっていたら,子どもと同じだけ時間がかかってしまう。それを短縮するための手立てが必要である。それは私の理解では,一つは「常識で補う」ということであり,もう一つが「スピードを要求することで負荷をかける」ということである。想像だけど。

 そういえば私も以前は,ゆっくり一語一語を文法を考えながら読んだり,後戻りしたり,日本語に訳して語感を確認するようなやり方で読んでいた。それでは早くは読めないし,木を見て森を見ないような狭い理解になりがちだった。その私が「スピードを出す(落とさない)」ための方策として,無意識的にやっていたのが,「視線を強制的に前に進めるために,文字の流れに沿って頭を動かす」というやり方だったのだ。普通われわれがものを見るときに自然に行なっている眼球の跳躍運動(サッケード)を,頭を使って強制的にやるのである。それがいいかどうかは分からないが,私はそうすることで,返り読んだりスピードが落ちることを,何とか防ぐことができた。

 しかしこれって,何十分も続けていると,けっこう疲れるのである。当たり前だけど。ところが一ヶ月ほど前,読みながらふと,「別に頭を動かさなくても,目だけ移動させればいいんじゃないの」と思い,やってみたところ,それでもスピードを維持しながら読むことができることに気がついた,というわけだ。まあ自然な読み方に近くなったというだけだけど。とは言っても,まだ意識的に目を動かす必要があるし,読み始め,その本のリズムに慣れるまでは,首も振っているので,まだまだ全然自然ではない。数ヵ月後には,こういうのが必要なくなっているといいんだけど。

 でもこんな風に,大きなアクションでやっていたものが小さくなっていき,最後には自然かつ必要最小限になる,というのは,子どもが発達したり学習したりするプロセスをたどっているようで,自分がやっていることながら面白いなあと思う。


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