読書と日々の記録2004.4上

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■読書記録: 15日『能力構築競争』 10日『同一性・変化・時間』 5日『フランス革命』
■日々記録: 13日言葉遊びする5歳児 12日「変化と同一性」についての補足 2日大学生に読んでほしい本

■『能力構築競争─日本の自動車産業はなぜ強いのか』(藤本隆宏 2003 中公新書 ISBN: 4121017005 960円)

2004/04/15(木)
〜組織的に運を実力に転換〜

 サブタイトルにあるとおり、「日本の自動車産業はなぜ強いのか」という問いを、「能力構築競争」という概念をキーワードを通して答えようとした本。400ページほどもあり、読むのはたいへんだったが、面白かった。

 能力構築競争とは、「企業が経営の質を高めるために切磋琢磨すること」(p.19)であるが、である。経営の質といっても、本書で扱われているのは「もの造りの組織能力」であり、具体的には、生産活動(組立生産性や組立品質)と製品開発活動(開発生産性や開発リードタイムなど)を指しているようである。そのような「もの造りの組織能力が「深層の競争力」を規定し、それがさらに「表層の競争力」に影響」(p.41)し、結果的に利益パフォーマンス(収益性)に影響する、という図式を筆者は考えている。消費者の目に触れる、製品内容、価格、広告、販売チャンネルが「表層のレベルでの競争」であるのに対して、上述の組織能力は、消費者の目には直接触れない品質、コスト、納期、フレキシビリティに影響する。そのレベルでの競争が「深層レベルでの競争」というわけである。

 このような深層レベルでの組織能力のような話は、そういえば『〈競争優位〉のシステム』で語られていたシステムと同じような話だろうと思う。この本で紹介されていたのは、任天堂やソニーやコンビニのPOSシステムで、「事業システムは,表に出にくいため,うまいシステムが構築できれば,その効果は長期的に持続されやすい」と書かれていたのだが、私はそれを見て、「そんなこと言っても、POSシステムなんてすぐ真似できるんじゃないの?」と思った。それに対する答は、『鈴木敏文の「統計心理学」』などで多少得られたのだが、さらに本書では、自動車産業の生産や開発を例に、深層レベルにある能力構築競争が、「本質的に長期に及ぶ競争」であり、「他社に簡単に真似できるものではない」(p.45)であることが、とてもよくわかったように思う。

 そのような組織能力の進化における、筆者のキーワードは「創発」のようである。生物の進化のように、ランダムに、あるいは環境の制約条件ゆえに「やむなく選んだ道が、意外な競争力を発揮した」(p.17)というような、「事前に思い描いた計画や意図とは違う形で、そのシステムができ上がっていく」(p.174)なかで生まれた能力進化のようなのだ。それはもちろん、偶然だったというわけではなく、「「運を実力に転換する能力」「失敗から学ぶ能力」「怪我の功名をきっちり活かす能力」「意図せざる結果の意味を後づけでしっかり認識する能力」」(p.194)のように、「何が起こっても結局学習してしまう」というしぶとい能力なのである。また筆者は、「組織の成員が日ごろからパフォーマンス向上を指向する持続的な意識を保ち、何事か新しいことが起こった時、「これはわれわれの競争力の向上に役立たないだろうか」と考えてみる指向習慣を、従業員の多くが共有していることが、その組織の進化能力の本質的な部分」(p.198)と、心構えや態度と思考の重要性を語っている。環境の制約をバネにしぶとく進化した、という話では、『アメリカ海兵隊』を思い出した。というか基本的には、まったく同じ話だと思う。

 また「創発」に関して筆者は別の箇所では、「組織能力が根源的に持つ「複雑性」や「不確実性」ゆえに、能力構築のプロセスは「創発的」なものになりやす」(p.329)いと述べている。これって、「反省的実践」と同じだ。ただしこのような組織における改善は、問題発見を強制する仕掛け、現場への問題解決権限の委譲、問題解決ツールの標準化、改善案の迅速な実験・実施、標準の累積的改訂(p.133-136)という、「現場」における自由度の高さと「組織的定式化」の両面が含まれているのだが。

 なお、『この国の失敗の本質』のような日本軍がらみの失敗学の本を読むと、アメリカ軍に比べて、日本軍がいかに客観的合理的に失敗から学ぶことが苦手だったかが語られている。しかし本書によると、欧米は日本の組織能力を過小評価しており、この分野では日本が一貫してリードしていたという。失敗から学ぶことがうまいかへたかは、民族と直接結びつくことじゃないんだなあと本書で改めて認識した。当たり前のことかもしれないけれど。

■言葉遊びする5歳児

2004/04/13(火)

 最近、上の娘(5歳10ヶ月)は、言葉に敏感である。まあそういう日常記は、去年から書いてるんだけど。

 今は、ダジャレをとても喜んでくれる。さっきも、下の娘(3歳7ヶ月)と遊びながら、上の娘が「ケンカしちゃだめ」とか言っていたので、私がすかさず「ケンカしちゃいけんか?」というと、「おもしろい」と笑ってくれた。今なら、どんなダジャレでも、たいてい上の娘は「おもしろい」と(マジメに)言ってくれる。私のダジャレを妻が無視しがちな昨今、幸せなひと時である。まあいつまで続くかは分からないけど。

 こんなに言葉に興味があるなら、と思って、前から目をつけていた、『ことばあそびうた』(谷川俊太郎 福音館書店)を買ってあげたところ、予想以上に喜び、毎日読んでいる。

 この本は、「はなののののはな/はなのななあに/なずななのはな/なもないのばな」とか、「かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた 」なんて言葉遊び歌が載っている本である。チョット難しいかと思ったり、「〜ってなあに」責めにあうかと思ったけど、全然そういうことはなく、あまり言葉の意味を気にすることもなく、純粋に音として楽しんでいるようである。

 毎日読んでいるので、そのうちいくつかは覚えている。また、本を見ながら読むときは、とてもスムーズに読めるようになっている(ときどき間違えるけど)。

 それだけではない。先日、パソコンに向かってなにやらカチャカチャしていたので、覗いてみたところ、自作の言葉遊び歌を作っているところだった。彼女の記念すべき初めての作品は、「あのね。そのね。きいてね。すいかってしってるよね。だってみんなたべたことあるよね。」というものである(←彼女が書いたものをそのまんまコピペした)。内容はさておき、ちゃんと脚韻を踏んでいる。それだけじゃなく、「かって」「しって」「だって」と、リズムの繰り返しもある(←ということには、今これを書きながら気づいた)。うーんすばらしい。

■「変化と同一性」についての補足

2004/04/12(月)

 先日書いた『同一性・変化・時間』について,はせぴぃ先生に,次のようなコメントをいただいた。

あえて素人なりに考えを述べれば、「変化」と「異なる」は、比較においてどれだけ連続性があるのかという程度のこと。絶対的な同一性などは存在しない。人間行動を抜きにして、また、ツールとしての比較という概念を抜きにして、語れない。我々にとっての「同一」とは結局のところ、一定範囲の諸要因が同値であるという場合に、「同じように関わると同じように跳ね返ってくる」という有用性がどれだけあるのかに依存して決まってくるものであろう。

 これを見て思った、というわけではないのだが,先日十分書ききれなかったことを補足しておく。それは、「同一性がなければ変化はない」ということの意味、あるいは、「変化」と「違い」の関係である。

 「変化」について,第一に言えるのは,「われわれは変化を直接目撃することはできない」ということである。例えば,数ヶ月の間に10kgやせた人がいたとする。やせる前とやせた後は,体重にしても外見にしても,大変な違いがあると思うのだが,その両者を「同一人物」だと思うからこそ,「やせた」と言えるのである。同一人物でなければ,もちろん「やせた」ととは言わない。単なる別の人(似た人)である。風船の空気が抜けるのを目の前で目撃するのと同じように,やせるプロセスをリアルタイムに目撃することは不可能である。したがって,ここで「同一人物」とみなすのは,日常的には当たり前のようにやっていることではあるけれども,それはやはり,野矢氏が言うように「認識されることではなくて、決断されること」でしかないと思う。

 そうは言っても,目の前で空気の抜ける風船の変化は,リアルタイムに目撃できるではないか。それなら,全部ではないにしても,「変化を直接目撃すること」もあるのではないか。そう言われるかもしれない。しかし,そうではないのである。

 知覚心理学で扱われる現象に「仮現運動」と言われるものがある。適切な布置にある刺激Aと刺激B(要するに別のもの)を,適切な時間間隔で継時提示すると,それが動いて見える,という現象である。仮に現れる運動(実際には動いていないのに動いて見える運動)だから仮現運動である。パラパラマンガも映画もTV画像もコンピュータの画面もネオンサインも,そこに運動が見えるとしたら,それはすべて仮現運動である。そこには,物理的な意味で動いているものは何もない(紙をパラパラしたり,映写機のリールがグルグル回ることを言っているのではない)。それは,野矢氏風の言い方をするならば,「刺激A」と「刺激B」が同一のものである(つまり対応がある)と判断(決断)されたとき,そこに運動の知覚が生じるのである。何も動いていなくても。逆に,どこにも同一だと判断できる要素がないければ,いくら適切な時間間隔で継時提示しても,そこに運動印象は生じない。単に、異なるものが順次点滅している、という知覚印象だけであろう。しかし、形が違うものであっても,部分的にでも対応がつくような刺激であれば,そこには「変形」という印象が生じる。アニメなどでいう「メタモルフォーゼ」というヤツである(たぶん)。つまり,部分的な対応(=同一)がついたとき,そこに初めて「変化」(変形)という印象が生じるのである。

 これは運動や変化の知覚だけの話ではない。単純な物体の知覚においてもそうである。あご乗せ台に顎を乗せるなどして頭部を固定し,目を動かさずに同一の対象を見続ける,といった人工的な知覚の場合には,常に網膜上の同一位置に同一の像が投影される(厳密に言うとちょっと違うけど)。いくら長時間見続けたとしても、それを不変のものとみなすのは難しいことではない。しかし,日常われわれが行っている知覚は,そうではない。知覚者でさえ常に動いているし,知覚対象も位置や向きや距離や形が変わるのが、通常の世界における当たり前の知覚である。しかしそこには、安定した外界に同一物が存在し続ける、という知覚印象が生じる。網膜像レベルでは、ほとんど対応づけられないような変化があったとしてもである。いわゆる「知覚の恒常性」である。そこには、「異なる網膜像を同一のものと決断する」ような過程が、無意識レベルで生じている、と言っていいのではないかと思う。

 逆に、知覚の恒常性が成立していない(あるいはしにくい)事例として、自閉症がある(らしい)。自閉症から回復した人の手記に、「彼を悩ませたのは,3時14分のある犬(横から見た)が3時15分のその犬(正面から見た)と同じ名前をもたねばならないことだった」(フリス『自閉症の謎を解き明かす』1991年 東京書籍, p.181)というくだりがある。これは、知覚の恒常性が成立していないということであり,対象の同一性が認識されていないということである。瞬間瞬間に網膜に映る外界の対象物間に対応がつけられないということである。そこにあるのは「変化」(同一対象の変形)ではない。単に「異なる」対象が、次から次へと現れる、という知覚体験だと思われる。そういう世界を想像すると、自閉症者が、特定の(おそらく、多少なりとも安定的に知覚可能な)対象に固執する、というのは、とてもよくわかる話であるような気がする。

 ということで、以上まとめると、我々は、変化はおろか、移動さえも、あるいは対象の恒常性や同一性も直接的に知覚することはできないのである(ギブソニアンはNoというだろうけれども)。それが可能になるための前提として必要なのが、「同一性についての決断」であり、それがなければ、知覚できるのは「断片的な異なる像の洪水」でしかないのではないのではないだろうか。

 #再びはせぴぃ先生より、反応あり。「。「同一か同一でないか」を系統発生的に捉えれば前回書いたことのようになると思う。つまり外界に働きかけ(もしくは受身的に反射)する際に、同じように反応したほうが有利か、違う振る舞いをしたほうが有利かということ。これが、刺激や反応の般化や分化を通じて、種に特有の適応を形作る。つまり、同一性ではなく「漠然と似ている」が出発点ではないかなあ。/「変化」というのもおそらく適応上の利点によって受け止め方が異なる。例えば、ハエの目前の円形の影が膨張していった時には、「円盤が膨張する」という変化、「円盤がこちらに向かってくる」という変化のどちらにも解釈できるが、おそらく「こちらに向かってくる」変化として受け止めたハエのほうが、ハエたたきから逃れられる確率が高い。】 」とのこと。このように、同一性を「表象」ではなく「行動」で捉えると、野矢氏の哲学のような問題は、はなから生じないのではないかと思う。それがいいとか悪いとかではなく。ちなみに野矢氏は、「同一性の問題は、固有名の問題であり、他者を固有名ではなく普遍名で捉えている動物では、同一性の問題は生じない」というようなことを書いていたと思う(手元に本がないのでうろ覚えで書いているが)。

■『同一性・変化・時間』(野矢茂樹 2002 哲学書房 ISBN: 488679081X 2,400円)

2004/04/10(土)
〜違いがあるからこそ、同一性が取りざたされるのでは?〜

 第一部がシンポジウムでの筆者の話題提供と討論を記録したもの、第二部が筆者のその後の考えをライブ風に記したもので、全編哲学ライブ風になっている。第一部では、哲学者の(暫定的な)考えに対して、いろんな角度からツッコミが入ったりしている。第二部では、科学的な世界観も独我論的な世界観もとりたくなく、「なんかこう、うまく間をすり抜けていけないもんでしょうか。ま、それで困ってるわけなんですけどね」(p.192)なんて独白を挟みつつ、さまざまな議論を引いてきたり筆者なりに反論してみたり発展させてみたり思考実験したりしながら、思索が深まっていく様子が記されている。ライブ的でもあり、未完成的でもあり、ちょっと面白い(ちょっと中途半端な気はするが)。

 扱われているのは、「同一であるものが、どうして変化しうるのか」「変化するものが、どうしてなお同一でありうるのか」(p.2)という問いである。そして、これが結論なのかどうかは分からないが、筆者の考えは「変化を貫いて同一なものなど、ありません」「同一性は、どこかの「いま」に立ち止まり、そこから過去を振り返るときに構成されてくるもの」(p.270)というもののようである。

 しかし私には、この問いも答も、十分にはピンとこない。半分ぐらいは分かるような気はするのだが。「変化を貫いて同一なものなど、ありません」というが、そもそも、「同一性がなければ変化はない」のではないだろうか。「同じ」だとみなされるからこそはじめて、異なるものが「変化」として捉えられるのではないだろうか。「同じ」でなければ、それは「変化」ではなく単に「異なるもの」に過ぎないのではないだろうか。この考えについては、筆者は最後の方で少し考察しているだけだが、しかしこれは、私の感覚では、もっと中心的に扱われるべき本質的問題ではないかと思う。

 またこれと同じで、「違いがあるからこそ、同一性が取りざたされる」のではないだろうか。素人考えだが。まったく変化がなければ、a=aというのと同じで、当たり前というか、同一性を問題にしもしないのではないかと思う。筆者は、「同一性記号「=」は二項関係ではない」(p.115)つまり二つの対象の間の関係ではないと書いている。数学的、論理学的にはそうだろうが、筆者が問題にしているような人物の同一性などの話に関しては、そうではなく、「違いのある二者がどうして同一とみなされるのか」という問題にしかならないのではないかと思う。つまりa=bである。この点を、筆者は見落としているのではないかと思う(素人ながら偉そうに言うけれど)。

 それに関してだろうと思うのだが、筆者は「同一性は認識されることではなくて、決断されることだ」(p.176)と述べており、これはよくわかる。ということで本書は、a=aの話とa=bの話が混在しているように私には見えた。あくまでも素人考えなのだが。もうひとつ素人ながら言わせてもらうと、こういうテーマは、抽象的に論じるよりも、具体的な場面に限定して、現象学的に分析すると、より分かりやすい議論になるのではないかと思った。

 #こちらに補足あり。

■『フランス革命─歴史における劇薬』(遅塚忠躬 1997 岩波ジュニア新書 ISBN: 4005002951 780円)

2004/04/05(月)
〜人間そのものの偉大と悲惨〜

 フランス革命について、その全体像をまんべんなく概説するのではなく、「フランス革命というのはいわば劇薬みたいなものだ」(p.6)という筆者の仮説を論じた本。いろんな点で、とてもとても面白かった。

 本書が面白かった第一は、問題に対する筆者の考えの面白さと、その解決の道筋の確かさである。本書で扱われている問題は、次のようなものである。

理想を掲げた革命が、一方でデモクラシーを後世にのこしながら、他方で多くの悲惨な犠牲者を生んだのはなぜでしょうか。(p.23)

 この問題に対して、一般に受け入れられている仮説は、フランス革命は「はじめのうちは良かったが、のちに悪くなった」(p.29)という「革命二分説」である。それに対して筆者は、それは「一枚のメダルの裏表」のような分かちがたいものであり、「社会を変革するのにきわめて有効でありながら、危険な作用をあわせ持つ劇薬、それがフランス革命だった」(p.31)という「劇薬説」を主張している。ここでいう「きわめて有効」というのは、その当時行き詰っていた旧体制を打開し、新しい体制へと変革するのに有効だった、という意味である。それは具体的には、資本主義の発展に適した社会であり、独占や談合の禁止であり、直接普通選挙や人民投票、人民の抵抗権などの政治的デモクラシーであり、生存権や公的扶助を重視する社会的デモクラシーである(p.128-9)。

 それが「危険な作用をあわせ持って」いるというのは、革命の背後には、「貴族とブルジョアと大衆という三つの社会層の間の鋭い利害の対立があり、その対立に折り合いをつけることがきわめて困難であった」(p.145)ために、最終的には、反対意見を排除する独裁と恐怖政治が行われたのである。この中で、大衆(民衆と農民)は、当時、旧体制の徹底的打破を求める「徹底的革命」(p.88)を行わない限り救われない立場にいた。そしてフランス革命は、「89年の当初から民衆と農民の参加した複合革命」(p.160)であり、大衆の力なしには革命は遂行されなかった(p.71)ため、このような路線にならざるを得なかったのだ、と筆者は考える。

 もちろん、その時々に起きた事件の帰趨によっては、別の形になっていたかもしれない。たとえば、恐怖政治を行った山岳派が多数を占めるのではなく、「ジロンド派が山岳派よりも多数を占めることになったとすれば、再び八月10日の蜂起のようなことが生じただろうと思う」(p.160)と筆者は述べる。すなわち、この革命が偉大さと悲惨さをもつ劇薬のようなものであった、という方向性は、必然だったという考えである。この議論は、(歴史オンチの私から見ると)かなり説得的に論じられているように思えた。そういう点がとても面白い本であった。

 本書が面白かった点はそれだけではない。筆者は革命を、「老人を押しのけて若者たちが舞台の正面に」(p.4)立つ、「青銅時代と言うべき、めざましい大活動の時代」(p.4)だと考えており、フランス革命を考えることを通して、若者にメッセージを送っている。それは、このような偉大と悲惨さは、歴史上の話だけではない、というものである。筆者は次のように言う。

現在の、そして皆さんの身のまわりにいる人びとについても、その悩みと、苦しみと、そしてその苦悩あればこその偉大さとを知って下さい。そして、それに感動し共感することができれば、それによって、皆さんのこれからの人生は、さらに豊かなものになるでしょう。(p.191)

 このような、「人間そのものの偉大と悲惨」(p.73, 172)という二面性はまさに、最近私がノンフィクションを通して学ぶことができるし、学びたいと思っている点である。このように、歴史的事実についてのみならず、人間の普遍性に対するメッセージ性がある点が、本書が面白い第二の点である。とくにこの点に関しては,若者にとって歴史を学ぶことの意味が論じられており,ジュニア新書らしい本となっている。

 そのほかにも、フランス革命とイギリス革命、明治維新を比較しながら論じることで、大衆や劇薬の意味が論じられている点、フランス革命におけるデモクラシーを政治的デモクラシーと社会的デモクラシーにわけて論じている点など、興味深い話はたくさんあった。

■大学生に読んでほしい本

2004/04/02(金)

 この12ヵ月の間に読んだ本(短評を除き67冊)の中から,大学生でも読めそうな,そして専門外でも面白いであろうと思われる本を10冊選んだ。去年までは12冊選んでいたのだが、今年は総冊数が少なくなっているので、選数も10とした。

 今年を含めた5回分の選書リストを見ても分かるように、ここ最近、ルポ系ノンフィクションが激増である。1、2、3、4冊目だけでなく、7、8,10冊目もそうなので、計7冊か。まあだって、今の私にとっては、面白いのだからしょうがない。


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