読書と日々の記録2003.03下

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■読書記録: 31日短評6冊 30日『生還への飛行』 25日『教育工学への招待』 20日『中学改造』
■日々記録: 27日絵本 23日上の娘と下の娘が2歳のとき 17日Palmの便利さ

■3月の読書(その他)生活

2003/03/31(月)

 今月は,再投稿論文(全面改訂)1本,学会発表原稿2つを仕上げた。我ながらよく仕事したと思う。おかげで読書数は減った。

 それともう一つ。コンピュータの前に座りっぱなしだったので,右手首にタコができた。これがけっこう痛いのである。

 最初は,タオルを敷いたりしてみたが,あまり具合はよくない。すぐズレたり忘れたりするし。それほど柔らかくもないし。いろいろ考えた末,100円ショップでリストバンドを買ってみたら,大正解だった。もうこれなしではパソコンの前には座れない。

 今月よかったのは,『精神科養生のコツ』の一部(ココロにとってカラダって大事だよね),『人生を物語る』の一部(物語って大事だよね),『中学改造』の一部(教科+選択+総合でとらえる視点)あたりか。どれも一部なんだけど。

『誤りから学ぶ教育に向けて─20世紀教育理論の再解釈─』(ヘンリー・J.パーキンソン 1984/2000 勁草書房 ISBN: 4326298669 \3,200)

 再読。前回同様,興味深く読むことができた。スキナーとロジャーズのような,一見対極にありそうな理論家が同じものとして論じられているところが面白い。どちらも,教育や成長を伝達過程と考えていない点では同じなわけであるが。非伝達型の教育はすべて,筆者の言う「自由で応答的で援助的な環境」として捉え直すと面白いかもしれない。あと,まず理論(仮説)を持ち,それを通して外界を理解しようとする点が人間の認識の基本であることも,重要のようだ。

『センセイの鞄』(川上弘美 2001 平凡社 \1400)

 妻が古本屋で半額で買ってきた本。不思議な面白さを持った本だった。作中の言葉で言うならば,ぼあぼあといか,あわあわというか。その面白さをどうとらえていいのか,どう表現していいのかはわからないのだけれども。

『「論理戦」に勝つ技術─ビジネス「護心術」のすすめ─』(香西秀信 2002 PHP研究所 ISBN: 4569624944 \1,200)

 議論勘を養い,議論技術を見につける本。訓練本ではなく,読みものとして作られている。しかも,議論技術全般が扱われているわけではなく,「修辞疑問」にかなり焦点が絞られている。その意味で,タイトルから期待される内容とは違う本だが,一点が深く掘り下げられているという点で興味深い本だった。修辞疑問とは,疑問の形をしてはいるが,機能としては攻撃や,議論の方向づけに属するものである。こういう疑問を出された時には,答える(answer)のではなく,retort(言い返し)すべきだという。retortとは,そのような問いの妥当性を,あるいはそれを問うという行為の是非(p.34)を問題とすることである。まあ辞書的には,反駁全般を指しているようなのだが。

『正義を疑え!』(山口意友 2002 ちくま新書 ISBN: 4480059628 \700)

 自分の正しさを確信したときに,「「己の正当性」に一度ならず批判の目を向けてみよう」(p.12)という形で正義を疑うことを勧める本。具体的にはどういうことかというと,たとえば裁判でいうと,検察は被告有罪の論理ばかりを主張するのではなく,弁護が我が被告無罪の論理ばかりを主張するのではなく,反対の視点で調査検討してみてはどうか(p.35),というようなことのようである。すなわち検察が被告無罪の可能性を考え,弁護側が被告有罪の可能性を考えるというようなことだ。これはきわめて公正な批判的思考的な視点である。この考え自体は非常にいいものだが,こういう本をきちんと書くということは,非常に難しいことだろうと思う。それは,この言葉が著者の発言自体にはねかえってくるからだ。しかし本書で筆者は,相手側の論理を十分に検討し理解しようとした形跡を見せることなく,フェミニズムなどを滅多切りにする。これはちょっとどうかと思う。ということで,筆者自身の姿勢は疑問だが,基本的メッセージは悪くない本,といえよう。

『高等教育における文章表現教育に関する研究─大学教養教育と看護基礎教育に向けて─』(井下千以子 2002 風間書房)

 図書館の本。内容はタイトルどおり。認知心理学的な実験や,グループ・個別インタビューも行っており,文章表現プログラムも開発しているが,うーんどうなんだろう。少なくとも私には,文章教育や思考教育への示唆はあまり得られなかった。

『歴史の読み方─日本史と世界史を統一する─』(岡田英弘 2001 弓立社 ISBN: 4896671015 \1,800)

 歴史学者による歴史に関する雑文集。第一章の,日本史と世界史の話とか,民族も国家も幻想だとか言う話は面白かったが,あとはそうでもなかった。これはもっぱら,私に歴史の素養とセンスがないからなのだろうけれども。あと,歴史ってあんまり俯瞰的に記述すると,人間の生の営みに感じられないのだなあと思った。あんまり人物史的に書くのもどうかとは思うけど(本書のことデハナイ)。

■『生還への飛行』(加藤寛一郎 1998 講談社+α文庫 ISBN: 4062562871 \880)

2003/03/30(日)

 優秀なパイロットに「あなたが経験した一番危険な飛行」について聞き,そこからどのように生還したのかを聞いてまわった本。筆者は大学の先生だが,インタビュー術も,その後の記録も,文章化も,なかなか手馴れている感じがして読み易い。

 筆者とパイロットの問答を,いくつかピックアップしてみよう。

とまあこういう具合なのである。もちろんこういう問答だけがなされているわけではなく,具体的にそのパイロットが遭遇したケースを通して,一般論としてこういうことが語られているのである。

 ここで語られていることは,危険な職業であるパイロット(そのなかでも危険な,テストパイロットもけっこう含まれている)だからこそ,という面はあるだろうが,それだけでなく,予想外の出来事が起きる可能性が常にあるケースや,何らかの技術を個々の現場に合わせて使いこなすことが要求されるケースでは共通するものが多いだろうと思う。

 もっとも,こういう話ばかりというわけでは,必ずしもない。専門的な話も多く,飛行機やら航空力学(といういい方でいいのかどうかわからないけれども)を知っている人ほど楽しめると思う。もちろん筆者による解説もあるのだが,やはり知らないと十分に具体的にはわからないし。だから,上述のような「一般論としての教訓」のようなものだけを期待して読むと,途中で飽きるかもしれない(というか,私はそうなりかかった)。

 本書の最後には,「優れたパイロットはセンサーが優れている」という筆者の仮説についての説明があり,興味深い。センサーとは,通常計測器で測られるような速度,高度,姿勢などのことである。達人は同じ刺激の繰り返しに馴化することなく,同じように反応し続けるのだという。それは,些細な変化を見逃さないという面もあるだろうし。常に冷静でいられるということでもあるだろうし,常に自分のことをきちんと把握(モニター)しているということでもあるであろう。

 また,この箇所と関連させて書いてあったわけではないのだが,優秀なパイロットは,トラブルから一見「運良く」脱出したように見えることがある。運良く不時着できる空き地があったりとか。しかしそれは偶然ではない。優秀なパイロットは,常に降りるところを探しながら飛んでいるというのだ。これなども,一種のセンサーということができよう。

 本書はパイロットの話だが,さまざまな領域で達人に,同じようなテーマでインタビューをすると,領域間の違いや共通点が見えて面白いのではないだろうか。誰かやるといいのに。

■絵本

2003/03/27(木)

 最近妻が,図書館で絵本を借りるのに凝っている。

 事の起こりは,知り合いの先生にお薦め絵本リストをいただいたことのようだ。それで借りてみたら,当たりだったり外れだったり。でも今までは,そういう情報は何もなしで買ったり借りたりしていた。それに比べると,こういう規準があると,外れは外れなりに傾向が見えてきたりもするので,情報として有用のようだ。

 ということで今では,絵本について書かれたサイト(こんなの)をブックマークして,そこからいくつかピックアップしては絵本を借りている。子ども達の反応や親の感想も,「絵本日記」というページ(ローカルディスク上のHTMLファイル)を作って記録してたりして。

 おかげで私のほうまで,絵本を読ませられる機会が増えてしまった。それはいいのだが,上の娘(4歳9ヶ月)と下の娘(2歳6ヶ月)では,絵本に対する要求が違うのでちょっとやりにくい。上の娘は,書かれている文字をきちんと読んでほしいようだ。ひらがなとカタカナは読めるので,ちょっと飛ばしたりすると,すぐにチェックが入る。逆に下の娘は,もちろん文字など関係ないので,文章とは関係ないところで絵を指差していろいろ言ったり,どんどん先に進みたくなったりするのである。上の娘はきちんと文章を読んでほしいのに,下の娘は文章とは関係なく楽しみたい。そのせいでけんかが起きることもしばしばである。まあ下の娘が文字に興味が出てくるのを待つしかないか。

■『教育工学への招待─教育の問題解決の方法論─』(赤堀侃司 2002 ジャストシステム ISBN: 4883092356 \1,200)

2003/03/25(火)
〜なんでもアリ,というわけではなさそう〜

 私は2年前に教育工学会の会員になったが,教育工学のことはほとんど何も知らない(大会に1回参加しただけ)。そこで,教育工学のことについて勉強しようと思って本書を買った。本書は,教育工学の方法論をガシガシと解説した本ではなかったし,教育工学とは何かを明確に示すというよりも,例示が中心だったので,本書を読んで教育工学とは何かをきちんと答えられるようになったとは思えない。それでも,多少なりとも教育工学についての知識を得ることはでき,教育工学について考えることはできたように思う。

 まずは,教育工学に関する筆者の記述を抜書き。

教育工学は,メディアの教育応用というだけの研究分野ではない。授業研究から教師教育,学習環境の設計,情報教育から総合的な学習の内容に至るまで,きわめて幅広い。このように幅広い分野が,その特徴とも言えるが,なぜこのように幅広く,長い間,現実の教育に関わってきたのであろうか。その問いに答えるのが,本書である。それは,現実の教育の問題を解決しようとしたこと,まるで「まさかり」のように,大胆に様々な方法や手段を持ち込んだこと,そして教育の問題解決の方法論を,教育工学が追求してきたからであろう。(p.4)

 このように書かれてはいるが,本書は,そのような問いに直接答えるというよりも,いくつかの領域(CAI, CMI, 情報教育,教育方法改善,教育システム設計など)にわけて,領域ごとに,代表的な考えや,研究が簡単に紹介されている。つまり,概説と例示を中心とした教育工学の本と言うことができよう。

 上の引用からすると,教育工学とは「きわめて幅広い」対象を,「大胆に様々な方法や手段」で追求する学問ということになる。別の箇所では,「最も重要なことは,現実の教育の課題を,総合的に解決するという思考である」(p.12)と述べられている。しかし本書では,研究例はあるものの研究内容はあまり詳しく紹介されていない(その上残念なことに,出典は記されていない)。したがって,教育工学の方法論の詳細はあまり知ることができなかった。どちらかというと本書は,教育工学にはどのようなタイプの研究があるのかを垣間見る本,といえよう。しかし何となくではあるが,本書を通して,教育工学者ならある問題をどのように捉えどのようにアプローチするのか,という教育工学者的な視点のあり方を感じることはできたかも知れない。

 私のような初心者から見た話ではあるが,本書はあまり体系的なものではなかったので,正しいかどうかは分からないが,以下に,本書から私が理解した教育工学像をまとめて見る。

 まず,教育工学の対象は幅広いとあったが,大きくまとめると,教育への「メディア活用」と「学習指導」その他の教育問題の2つといえそうである(p.249にそれらしい記述があった)。ここから先は私の推測であるが,前者と後者とでは,「教育工学」という言葉の意味が微妙に違いそうである。前者は,教育現場に「工学的な道具」(機械やソフトウェア)を導入・利用するという意味であろう。これについて筆者は,「教育の情報化の基礎を担う研究分野は,教育工学」(p.3)と書いている。後者は,教育を「工学的手法」で研究する,という意味ではないかと思う。もっとも前者にしても,ただ機械やソフトを利用するというだけではなく,工学的な手法による開発や評価が行われていそうである。ということは,教育工学は,「教育を工学的手法で研究すること」といっていいかも知れない(本書にこう書いてあるわけではなく,私の推測である)。

 教育工学の方法論は,上の引用には「大胆に様々」とあるが,あくまでも,工学的なやり方が中心のようである。工学的ということには,数量的に現状を分析し,それに基づいて改善を計画し,その成果を数量的に評価する,というイメージであろう。本書で挙げられていた研究例もそうであったが,様々とはいっても本当になんでもかんでも,というわけではなさそうである。

 ただしこのような工学的なplan-do-seeのプロセスの全てではなく,たとえば「数量的に教育の現状を評価」する部分だけの研究も本書では紹介されていた。それが教育工学の典型的な研究なのかどうかは分からないが,これだけでは,心理学の研究となんら変わりはない。こういう研究も含め,極めて心理学的な研究や教育方法学的な研究などとの違いが示されると,もう少し教育工学についてのイメージが明確になったのではないかと思う。まあこの点は今後の課題か。

■上の娘と下の娘が2歳のとき

2003/03/23(日)

 下の娘(2歳6ヵ月)は,上の娘(4歳9ヵ月)とはだいぶ性格が違うように思っていた。下の娘のほうが甘えんぼな点も,よく泣く点も,強情な点も。たとえば朝はたいてい,泣きながら起きてきて,私が抱っこしようとしても「ママがいいの。パパあっちいけ」なんて言われたりしている。

 しかし,ふと2年前の日記を見たら,上の娘も2年前,「朝泣きながら起きてくるのだが,そういうときに,いくら私が「ダッコしよっか」とやさしく持ちかけても,「ママがいい,ママがいい」と,ちっとも取り合ってくれない」と書かれていた。なーんだ,おんなじじゃん。

 そのほかにも,今,下の娘が反抗的なときには,「コケコケドンが来るよ」といって脅しているのだが,上の娘が2歳のとき,反抗的な時は私がサングラスをかけてコワイコワイさん(妻が命名)などといって脅かしていた。そうすると,急に素直になるのである。やはりふと気づくと,同じことをしているのである(これは親の側がだけど)。

 「コケコケドン」も妻が命名したものだ。どっからこういうのを思いつくんだか。それにしてもコワイコワイさんと違うのは,「サングラスをかけた私」のような実体は特にない,という点だ。要するに「オバケが来るよ」とか「ヤマンバが来るよ」と言っているのと同じ脅し方だ。上の娘の時は,こういう実体を伴わないいい方では効果がなかったような気がするが,下の娘はこう言われるだけで,急に神妙な顔になって反抗をやめて,ご飯を食べたり服を着替えたりする。あまりにも効果的なコドモダマシで,思わず笑ってしまいそうになるぐらいである。

 そうそう,「パパあっちいけ」と言われることは多いが,「パパがいい」と言われることも多い。特に,ウンチの後始末はたいてい私が指名され,手を引いてトイレまで連れて行かれる。ちょっとうれしはずかしである。

■『中学改造─"学校"には何ができて,何ができないのか─』(藤原和博編著 2002 小学館 ISBN: 4098400774 \1,400)

2003/03/20(木)
〜総合学習的なものの位置づけ〜

 [よのなか]科(『世界でいちばん受けたい授業』参照)の提唱者による,教育改革論議。7人の人が出てくるが,半分ほどの章は面白かった。

 ひとつは,[よのなか]科の授業が行われた中学校の先生と編者による章。上の本には,この授業そのものの記録的なものであったが,本書では,その意図や苦労などについて語られており,興味深かった。私は[よのなか]科とは,「総合学習にも似ているが,あくまでも「社会科」という枠組みの中にある」ので,「参加型の社会科授業」なのだろう,と理解していた。しかしその理解は,どうやら浅かったようだ。

 編者は授業を,通常の教科,選択教科,総合的な学習の時間の3つに分けて理解しており,それぞれが果たすべき役割を分けて考えている。いわく,通常の教科は「情報処理力」,選択教科は「情報編集力」,そして総合学習が「体験学習」という位置づけである。[よのなか]科は選択教科で行われているので,その目指すところは,情報編集力である。そこでは,教科が成功・正解・知識を教えるのに対して,「失敗・正解のないケース・知識が通用しない状況下での考える力を養う」(p.201)のである。

 つまりこの考え方は,いわゆる総合学習の中で考えられがちな「考える力」を,選択教科の中に位置づけて,教科と[よのなか]をつなぐ役割を担わせるということなのである。総合学習では,それらも含め,体験に重点を置くことで,3つの教科の位置づけを明確にする,ということのようである。

 さらに編者は,[よのなか]科で培う力を「シミュレーション,ロールプレイ,コミュニケーション,ロジック,プレゼンテーション」として,この5つを「21世紀の新5教科」と呼んでいたが,これも,選択教科の中で,シミュレーション=理科的能力,ロールプレイ=社会的能力,コミュニケーション=言語的能力,ロジック=数学的能力,と教科と関連させて位置づけている。もちろんこのようにきれいに分けることはできないだろうが,ゴロ合わせを超えたレベルでうまくできているようにも見える。

 あと本書では,苅谷氏も編者と対談していた。苅谷氏は『大衆教育社会のゆくえ』で,「教育に何を期待すべきかではなく,何を期待してはいけないのかを論じる」必要性を書かれていたが,この本ではそれが何かはよくわからなかった。しかし本書の中では,サブタイトルにもあるように「学校にできることとできないこと」が念頭に置かれて論じられているようであった。この点も興味深かった。特に苅谷氏の発言で重要だと思われるのは,「日常的な蓄積の中で,ある高みまできた知識をどうやって別の知識とリンクさせるか,飛躍させるかと言うことをしなくてはいけない」(p.179),つまり,基礎的な力をつける授業とイベント的な授業を,どうやってうまく組み合わせるかを考えないといけない,ということのようである。

 もう一つ興味深かったのは,教育改革を旗印に参議院議員になった鈴木氏との対談。鈴木氏は,最終的にバウチャー制によって学校を地域のものにする,というロードマップを描いているらしい。その序章として総合学習は位置づけられている。それは,教科書のない授業を作ることによって,お上に手から学校を開放する第一歩,という位置づけである。どうやら私にとっては,本書のおもしろかった点は,総合学習や総合学習的なものの意味や位置づけを再認識できた点,というところが大きかったようである。

■Palmの便利さ

2003/03/17(月)

 ちょっと前に,知人からメールで,「電子手帳って、どういうところが便利なんだろう?」と聞かれた。その時は忙しくて返事ができなかったので,その返事をここで書いてみたい。もちろんこれは私個人の理解である。それと,電子手帳にもいろいろあるが,私が知っているのは,Palmと呼ばれるものだけである。しかもそれほど年季のはいったユーザーではないことはお断りしておく。

 まず手帳的な部分について。手帳機能は,スケジュール,アドレス,ToDo,メモといった基本は標準装備されている。しかも起動は即時で,パソコンのように待たされることはない。パソコン上でスケジュール管理している人などには,これは案外感動ものである。

 もちろんソフトはこれだけではない。フリーソフトやシェアウェアがたくさんあるので,好きなものをいろいろ入れられる。私は,アラーム時計とか,旧暦カレンダーとか入れている。この点では,「探す」「育てる」楽しみがあるといえる。上記の手帳機能部分についても,標準とは違うソフトがいろいろとあり,そういうのを探しては置き換えてみるのも結構楽しいものである。

 私が一番便利だと思うのは,パソコンに入れている情報を手軽に持ち運んでどこでも見ることができること。情報ビューワとしての使い方である。たとえば書きかけの原稿とか,借りたい本のリストなんか,パソコンに入っていれば,いちいち打ち出さなくても,パソコンとUSBでつないで一発で転送できる。ちなみに私は,本のことどもの表紙ページなんてのも入れて持ち歩いている。紙に打ち出すとかさばるし,更新されるたびに打ち出すのは面倒だけど,Palmならいつでも最新情報にしておける。

 インターネットに関しては,指定した情報(テキストのみ)を自動的に集めて転送してくれるソフト(フリー)なんてのもあるので,毎日天声人語とか主要ニュースとか入れて,暇なときに眺めている。暇がないのが難点ではあるが,いつでも眺められるものがポケットに入ってる,というのは,案外精神衛生上いいものである。青空文庫の本もPalm形式で持ち運べるし。

 あと,これも一種の情報ビューワ的使い方だが,家族の写真も入れている。70枚ぐらい入れていて,ほとんどが娘たちの写真だけれども。

 Sさんのおたずねの辞書については,標準で英和と和英がついている。それほど大きなものではないが,私はよく,ソファに寝っころがって英論文を読むときに重宝している。お金を出せば,ちゃんとした辞典も各種ある。

 あとは,最新機種(これとか)だと,音楽も聞ける。ちなみに私は年末に,この1代前のものを買ったので,音楽は聞けないのだが,その分(?)軽いので,別に不満はない。

 逆に難点を挙げるなら,いろいろと入れてたくさんのことを便利にやろうと思ったら,プラスアルファのお金が必要と言うことだろうか。私の場合,本体のほかに,メモリースティック,ケース,ケーブル,ソフトを一本購入している。これらは,基本的な使い方だけしかしないのであれば必要ないのだが,ついほしくなったりするものもあるので。

 と,以上がPalm歴1年強の私からみた,Palmの便利な点である。参考になればいいのだけれど。


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