読書と日々の記録2003.04上

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■読書記録: 15日『鈴木敏文の「統計心理学」』 10日『どの子も発言したくなる授業』 5日『墜落の背景(上・下)』
■日々記録: 13日口の達者な4歳児 6日下の娘とコケコケドン 3日「大学生に読んでほしい本」を選びながら考えたこと 2日大学生に読んでほしい本

■『鈴木敏文の「統計心理学」─「仮説」と「検証」で顧客の心を読む─』(勝見明 2002 プレジデント社 ISBN: 4833417626 \1,200)

2003/04/15(火)
〜仮説,データ,現場の融合〜

 日本にセブン・イレブンを導入して成功した,現イトーヨーカ堂会長にインタビューをし,筆者なりの解釈を交えて紹介した本。セブン・イレブン導入の経緯については私もプロジェクトXで見て,結構面白かったので,買ってみた。

 本書のタイトルはアヤシゲだが,学問としての心理学や統計学のことを言っているわけではない。流通業界はともすると,売り手の論理で商売を行うが,そうではなく,買い手の気持ち(心理)を考えないといけない,ということや,そのためには売り上げのデータを活用しなければいけない,ということをさして「統計心理学」と言っているようだ。ネーミングはアレだが,その発想には興味深いところがあった。

 まず,私は誤解していたのだが,セブン・イレブンでは,POS(販売時点情報管理)のデータは,「売れ筋商品を切らさず,死に筋商品を排除する」ために使われているのではないようだ。このことについて鈴木氏は,インタビューで次のように答えている。

明日の売れ筋は何なのか,次の新たな売れ筋商品はどれなのか,店舗ごとに現場で仮説を立て,それをもとに仕入れをする。仮説どおりの結果が出たかどうかはPOSデータですぐわかります。つまり,POSシステムは基本的に,仮説が正しかったかどうかを検証するためのものであって,POSが出した売り上げランキングの結果をもとに発注するのではないのです。ここが一番誤解されやすいところです。POSは"明日のお客"のデータを出してくれません。(p.98)

 最後のところにあるように,昨日の客のデータをもとに,経験的に明日の仕入れを決めるのではなく,客の心理についての仮説を考え,その仮説に基づいて仕入れを決め,その仮説の当否をデータで検証する,ということなのである。この2者の対比は,科学哲学的で非常に面白い。前者が帰納的,後者が演繹的(仮説演繹的)ということができる。後者は,帰納による科学の進歩を否定し,すべてを演繹で説明しようとしたポパーにもなぞらえることができそうである。

 ただし本書では,このあたりのことはやや誇張気味に表現されているように感じた。「今,求められているのは"明日のお客"が満足するものを提供することであって,"昨日のお客"に提供したものではそれは実現できない」(p.46)というように。しかし個々の事例を見ると,決して過去の経験をないがしろにしているわけではないようである。むしろ,同じように昨日のデータを大事にするにしても,そのときにそれを,自分の考えで解釈するのではなく,そのデータの背後にある意味を,過去の自分の考えにとらわれることなく読み解いていく,ということのようである。

 そのために鈴木氏が重視しているのが,数字を読んだり報告を聞いたりするときに,「本当にそうなのか」という疑問を持つことのようだ(p.62)。鈴木氏は部下の報告を聞きながら,「それ,どういう意味だ」と突っ込んだり,「本当はこうではないのか」と瞬時に判断したり,公表されているデータを鵜呑みにせずに中身を突きつめる読み方をする(p.126)のだという。きわめてクリティカルシンカー的で興味深い。そしてまた,そのような思考態度や仮説検証を会長だけが行うのでなく,各店舗にも求めている。そういう意味では,セブン・イレブンは,クリティカルシンカー集団(を目指している)といえるかもしれない。どの程度かはさておき,既存の枠組みに安住することをよしとしないという意味で。あくまでも本書を読んだだけの理解だが。

 なお本書には,鈴木氏(セブン・イレブン)が「現場主義ではなくデータ主義」というような記述がある(p.117-)が,p.202あたりに書かれている改善の取り組みの様子を見るかぎり,そうまとめるのは短絡的であるように思った。というのは,データを重視するにしても,得られたデータの意味を理解するのに,現場での買われ方を「観察」したり,買った人に「話を聞いたり」しており,十分に現場主義的発想である。これは「現場主義ではなくデータ主義」というよりも,データの意味を現場で確認したり,現場の動向をデータで確認したり,という「現場もデータも主義」といえそうである。このように,ちょっと甘いのではないかと思われる分析もいくつか見られた。それを除けば,いかにも『プレジデント』的内容ではあるが,興味深い部分も多い本であった。

■口の達者な4歳児

2003/04/13(日)

 少なくとも1年前から口が達者だった上の娘(4歳10ヵ月)は,最近ますます磨きがかかってきた。

 先日,うちの母と電話で話していた。基本的に恥ずかしがり屋なので,ずっと会話にならなかったのだが,最近ようやく,電話でも1対1で話ができるようになったのだ。そのときの電話の内容を私は聞いていないのだが,どうやらうちの母が,アレを連発していたらしい。上の娘が言った。

「アレじゃわからん!」

 なかなか鋭いツッコミぶりであった。

 あとは,けっこう記憶力がいいようで,だいぶ前に親が口約束したことなど,ちゃんと覚えていて請求される。「〜するっていったサー」みたいな。ウソをつく気はないのだが,「忘れていれば幸い」みたいな軽い気持ちで言ったりすることも,あとから厳しく追及されてタジタジになることがある。うかつなことは言えないなあと思う。

 この調子で口が達者になっていくと,1年後が怖いような楽しみなような。

■『どの子も発言したくなる授業』(今泉博 1994 学陽書房 ISBN: 4313650601 \1,600)

2003/04/10(木)
〜文化としての教育〜

 授業において,「間違うことを保証」するだけで,「授業がガラリと変わってしまう」(p.iii)という実践をしている小学校の先生による,実践報告の本。『じょうずな勉強法』で引用されていた。この先生の授業では,子どもたちが臆せず発言し,他人の発言を発展させたり反論しながら授業が進むと言う。その考え方や子どもたちの様子は興味深いものなのだが,不満な点もあった。

 不満な点は,具体的な方策があまり明確ではないこと。こういうクラスを作るために,結局先生がどういうかかわりをしているかが,十分には分からなかった。わかった範囲でいうと,次の記述にあるように,「小さな変化を評価する」「外的な緊張を強いない」「最初の発言時に注意」ということぐらいなのである。

 私には,これだけで「どの子にも間違いが保証された授業」と子どもが受け取ってくれるとは思えない。というか,このクラスで行われていることをまとめて表現するとこういうふうに集約されるのかもしれないが,そういうクラスを作るためには,他のクラスとは違うさまざまな工夫が凝らされているのではないかと思う。そこのところを知りたいものである。

 本書の中にそのヒントがないわけではない。たとえば子どもの意見で「先生がくわしく教えてくれた」(p.20)とか「みんな手をあげていて,〔中略〕『さんせい』『はんたい』『つなげて』といっていました」(p.112),「算数は計算だけでなく,いま計算している意味が,しっかりわからないといけないことを教えてもらいました」(p.1619というものがある。これらから察するに,教え方や,意見の出させ方などに工夫があるのだろうと思う。あとは,発言を誘発するような教材と問いかけその他の介入法か。

 このような授業を通して筆者が目指しているのは,意味を知る教育である。それはすなわち「今学んでいることが,何から生まれ,何を基礎にしているか」(p.164)を知り,「分数であれば,分数の意味であり,生まれてきた過程であり,困難をどう解決してきたかという人々の知恵」(p.122)を知ることである。それを筆者は「文化としての教育」と呼び,通常行われるような教育(手段としての教育)と区別している。

「手段としての教育」は,「《できる》ことを重視した教育」ということもできます。「文化としての教育」は「《わかる》ことを重視した教育」ということができます。(p.1229

 もっとも,後者だけが重要と言っているわけではなく,両方とも必要と筆者は考えている。しかし「手段としての教育」の前提として,「文化としての教育」が必要なのである。「わかる」ことの重要性は教育・認知心理学でさんざんいわれていることだが,それを「文化」と位置づけるのはなるほどと思った。

 次は,そのような教育を行うための,筆者の授業の実際を詳しく知りたいものである。

■下の娘とコケコケドン

2003/04/06(日)

 下の娘(2歳7ヵ月)に対する「コケコケドン脅し」が,やや効かなくなっている。ほんの2週間の間に。

 それも2段階あった。いつものように「コケコケドンが来るよ」と脅していると,下の娘は「しーちゃん(仮名),コケコケドンやっちけた」と言いはじめた。やっつけたから怖くない,というわけである。

 しばらくすると今度は,「しーちゃん,コケコケドン好き」と言うようになった。今度は,好きだから怖くない,というわけである。

 どちらも,認知を変えることで恐怖感をなくそうとしている。認知療法的ということも不可能ではないと思う。なんだかちょっとすごい。

 そこで我々夫婦は,もう一工夫加える必要が出てきた。窓の外をのぞいて「あ! コケコケドンが来たよ。早く早く」と迫真の演技をしたり。おかげで今のところは,かろうじて効いている。ようするにあわててご飯を食べたりしてくれている。でも,これもそのうち効かなくなるんだろうなあと思う。

#それにしても妻は,「コケコケドン」なんて絶妙のネーミングをしたものだと思う。案外言いにくい言葉で,舌足らずの下の娘がいうと,とてもかわいいんだこれが。

■『墜落の背景─日航機はなぜ落ちたか─(上・下)』(山本善明 1999 講談社 ISBN:4062098849, 4062099195 \1,600+\1,600)

2003/04/05(土)
〜事故・安全担当者の難しさを追体験〜

 『日本航空事故処理担当』の著者による,おそらく処女作。『日本航空事故処理担当』でダイジェスト的に記述されていた,羽田沖の日航機墜落事故の経過が,詳しく記述されている。筆者は,職務上この事件を詳しく知りうる立場にいたのだろうが,しかしあまりにも物語的に記述されているので,どの程度が筆者の脚色なのだろうと思いつつ読むことになる。他の箇所では,運行乗務員全員が死亡した事故の様子も,見てきたかのように語られている。それはいくらなんでもやりすぎではないだろうか。せめて,事実部分と推測部分が分かるように書いてくれるとよかったのだけれど。

 筆者は前書きで,次のように述べている。

これまでに多くの人びとが,航空事故と安全運航対策に関心を持ち,多くの著書を出版している。〔中略〕社内で事故処理の実務を担当している者から見れば,ほとんどの場合,あまり的を射た解析とはなっていない。(上p.3)

 これを読んだ時点では,ふーんそういうものなのかなあ,と思っていたが,読み終えてからは,確かにそういうこともあるかもしれないなあ,と思う。それは,『日本航空事故処理担当』では一般論中心に語られていた,「事故処理担当者はなかなか難しい位置」にいることが,筆者の体験した出来事を通して語られていたからである。筆者の物語的手法もあいまって,本書を読みながら,私自身,筆者の立場に身を置きながら,事故処理担当者の大変さや難しさを追体験したかのような気になりながら読んでいた。そして,事故処理や安全対策で難しいのは,システム作りもさることながら,そこにさまざまな利害を背負う人が登場するからであり,どんな条件を勘案するかで正解が変わってくるからである。まあ最も大きな要因は,安全性と経営効率のどちらを重視するのかということなのだが。その問題は,『無責任の構造』にも出てくるJCO事故での問題と基本的に同じなのだが,事故・安全担当者という筆者を本書で追体験することは,その難しさを追体験することになっている。そういう点で,非常に興味深い本であった。

 また,羽田沖の日航機事故の様子が分かった点も興味深かった。事故当時の記憶は私もあまり明確ではないが,「逆噴射」という言葉と「心身症」という言葉が盛んに使われていたことだけは覚えている。しかし当該日航機の機長の病気は,精神分裂病(統合失調症)である。筆者による事故前の機長の言動は,どこからみても分裂病なのに,なんで心身症と言われたのか,とても不思議だったのだが,その理由が分かった。第一に機長は,精神症状だけでなく,嘔吐・不眠・胃腸障害などの身体症状を示していた。また,妄想などの分裂病的症状はあったものの,精神科受診時その症状を示すことはなかった。それでも心身症で飛行が可能かどうかを確認するために,医師が同乗して飛行の様子を観察している。そのときも精神症状は示していないのである。

 ただ筆者は,問題解決の糸口として,『日本航空事故処理担当』で書かれていたのと同じように,「思いやり」を挙げているが,この点は,本当にそういう方向性でいいのだろうかという気はする。というのは,筆者が言うように,「病気で服薬中の者を乗務させない」(p.93)というのは確かに思いやりであろうが,違うタイプの思いやりもありうると思うからである。当該の者が路頭に迷わないよう,多少の病気には目をつぶる思いやりとか。もちろん事故を起こしてしまえば元も子もないわけだが,それは,乗務できずにクビになってしまうのも,同じように元も子もないといえないこともない。「思いやり」の一言で片付けずに,このあたりをもう少し踏み込んで現実的な解決策があるとよかったのになと思う(素人意見だろうが)。

■「大学生に読んでほしい本」を選びながら考えたこと

2003/04/03(木)

 「大学生に読んでほしい本'03」を選びながら,心理学その他の研究,あるいは人を理解することについて考えた。

 心理学や自然科学は一般的に,神の視点から俯瞰してあるものを理解しようとする。しかし,『〈うそ〉を見抜く心理学』で検察や裁判官について言われているように,「人は神ではない」。それゆえ「そこにこそ錯誤の危険性がひそんでいる」。

 錯誤の一つは,ある視点を取ることで,他の視点が見えなくなるというものである。人間は神ではないので,一度に無数の視点を取ることはできない。あるいは俯瞰をしてしまうと,全体は見えても個々の違いが見えくなってしまうとか,その視点からは見えない部分など,死角が生まれてしまう。『民主主義とは何なのか』や,『リサイクル幻想』は,常識的な考え方や従来の考え方に存在するそのような死角を指摘したものである。

 そのような死角を見出すためにできることは,『じょうずな勉強法』にあるように,小さな違和感でも見過ごすことなく,感じ直し,問い直すことであろう。本来学問研究とはそういうものであるはずのである。しかし『カルトか宗教か』が指摘するように,既成の学問研究や思想や宗教を出来合いのものとして受け取り,帰省の考えが新しい発展や成熟や変質を拒むとき,容易に死角が生まれることもまた真実である。

 問い直しに加えて,もう一つ重要なことがある。それは,俯瞰ではなく当事者自身の視点で,当事者の言葉を通して理解することである。『家族』『障害児教育』のように。あるいは『目からウロコの教育を考えるヒント』にも『サヨナラ、学校化社会』にも,当事者の視点,「いま,ここ」からの視点が含められている。『日本語のレッスン』の根底にあるであろう現象学も同じである。

 当事者の視点からの理解とは,神の視点でスパッと理解するのとは違う理解である。むしろさまざまな当事者のさまざまな声に耳を傾けていると,『からくり民主主義』の著者のように,かえって「わからない,という状況に陥る」可能性もある。しかし,スパッとは割り切れないのが人の姿なのかもしれない。そんななかから,安易に割り切ることなく,しかし自分なりの考えやメッセージを見つけ出さなければならない。そのためのヒントは,『「超」文章法』に示されているように,異質な他者との対話が重要でろう。

 #最後はちょっと無理やりっぽいか?

■大学生に読んでほしい本

2003/04/02(水)

 この12ヵ月の間に読んだ本(短評を除き88冊)の中から,大学生でも読めそうな,そして専門外でも面白いであろうと思われる本を12冊選んだ(これまでに選んだ本はこちら)。

 昨年同様,それぞれの本から興味深いと思われるフレーズを抜書きしてつけている。さらにこの作業をしながら,全体をまとめるストーリーを考えたのだが,それはまた後日


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