31日短評9冊 30日『ルポルタージュの方法』 25日『学力を問い直す』 20日『鈴木敏文 経営を語る』 | |
| 26日ゲーム好きの娘(5歳1ヶ月) 21日久しぶりの日帰り遠出 16日成長する2歳児 |
今月は思いのほか読めた。別にヒマだったわけではないのだが。返ってきた投稿論文を修正して再々投稿したし。あと,附属小学校での授業見学も,3回(小6−学校保健,社会,小5−算数)できたし。
読めた理由の一つは、病院にいったことかな。待ち時間で結構読めた。病院は、腰が1週間も痛いので、ヘルニアになる前にと思って行ったのだが、まだ症状が軽いせいか、思ったような治療はしてくれなかった。リハビリも土曜日はやっていないというし。それにしても最近、病院に行くことが増えたなあ。
今月よかったのは、『ルポルタージュの方法』(なるほどそうやるのか)と『子どもの瞳が輝く発見のある授業』(なるほどそうやってるのか)ぐらいか。今月は、打率は悪くなかったんだけど、長打はあんまりなかったな。
新聞記者であった筆者が、自分が書いたルポを実例に取りながら、「内容の中心を私自身のルポの技術に限定して、過去の体験からいわば「手の内」を詳しく紹介」(p.10)した本。その内容は、「フィールドワークの方法」といっても過言のないようなものであった。現地での住み込み取材=参与観察はあるし、聞き書き=面接調査はあるし、事前の文献調査はあるし。ちなみに筆者は、「あらゆる人はすべてその生涯が一つのルポになり得ます」(p.218)として、「身近な人に聞く」ルポを薦めている。これは要するにライフ・ヒストリーである。
取材対象によってアプローチ法は異なるが、筆者が基本的に重視しているのは「現場主義」ということ(筆者はこのように表現しているわけではないが)。たとえば「どこから順序としてやるかというと、やはり底辺からやるべきではないか。底辺という意味は現場からということにもなります。」(p.79)などとある。あるいは、(事前の仮説が?)「ゼロの場合はまず現場に言って、村なら村の人たちの意見、つまり現場の事実をつかむことの方が先です。それから、それを裏付けるために役所の統計などを利用する。」(p.249)というのもある。もっとも、キタキツネのルポなど動物の生態のような場合には、「「ボス」的な人物をまず取材した」(p.56)りしている。どこから取材を始めるかは、題材によってケースバイケースということのようだ。当然といえば当然なのだけど。
基本的な取材の方法については、筆者がものにした長編ルポである、カナダ=エスキモー、ベトナム戦争時のベトナム、アメリカの黒人問題、中国における日本軍の足跡を訪ねたもの、を通して語られる。それらも興味深いのだが、さらに興味深いことには、これらの中で使われていた方法が、たとえば田中角栄の選挙のルポでも使われていることであった。
未知の対象なのでまず文献を通して基礎知識を得、次に泊り込んでの取材をするというのは、カナダ=エスキモーのときのやり方と同じである。いろいろな人に会うに際して、地元の人に同行してもらうというのは、黒人問題のときと同じやり方である。つまり本書で語られる方法は、新聞記者が行うような特殊な場所での特殊なルポに限る方法ではないということである。ちなみに彼がベトナム戦争を手がけたときには、それ以前のイメージ(エスキモーの取材など)で見られたのか、「彼はやはり秘境記者だよ。戦争は無理だ」というような声があったそうだが(p.165)、しかし考えてみれば、ベトナム戦争時のベトナムも、汚職事件後の新潟選挙区も、我々の日常からかけ離れたところにあるという意味で、一種の異文化であり秘境である。対象の特殊性を見極め損ねなければ、どれも基本的な取材方法は共通としても当然かもしれない。
なお本書の最後には、ルポ記者の条件がいくつか挙げられているが、その一つに「ひねくれた心」というものがある。これは、ものを外面に出ているままにありのままに単純に見るのではない、批判精神のことである。それがなければ、しいたげられた側・差別された側・管理された側・抑圧された側の心や事実を理解したり発見したりすることはできない、ということのようである。
上の娘(5歳1ヶ月)は最近、とてもゲームが好きである。
最初は、たまたま買った幼児向けの雑誌だったろうか。付録にいくつかゲームがついていた。こういう付録って、1日ぐらいは遊ぶけれどもあとはたいていほったらかしだった。ところが今回は違っていたのである。ついていたのは、すごろくとかルーレットとかおはじきみたいなものなのだが、今回は、買って半月以上、毎日「やろうやろう」とせがまれている。
さらに最近、幼稚園でもらって(買って)くる月刊誌についていた、サッカーのPK合戦的ゲームも、毎日せがまれている。すごろくは純粋に運なので勝ったり負けたりするのだが、こういう技量の伴うゲームでは、私が勝ちっぱなしになってしまうことがある。そういうときは、びっくりするぐらいに泣きながら怒られる。
さらに最近は、自分の好きなWebページの中にあるゲームにも挑戦している。前はゲームなんて見向きもせず、「絵描き歌」みたいなのばかり見ていたのに。今では、「にせもぐらたたきゲーム」と「ぞうくんのあぶらむしとりゲーム 」は毎日やっているようである。後者なんて、キーボードからアルファベットを探して押さないといけない(さらにマウス操作もしないといけない)のに、今では、いいときは7点ぐらい取れるようになっている。私でも最高10点、平均8点ぐらいなのに。前者も、いいときは200点ぐらいとれる(私は最高240点ぐらい)。
まあ考えてみたら、娘がゲーム好きを発揮する予兆はあった。4月ごろから「勝負」に目覚めていたし、先月はジャンケンにも目覚めていた。今年のクリスマスプレゼントはボードゲームかな。5歳児でも楽しめそうな(勝てそうな)ものをリサーチしておかねば。
『「学び」から逃走する子どもたち』と同じく、60ページぐらいのブックレットなのだが、なるほどという内容を含んでいた。
たとえば学力低下の議論は、経済学部や経済学関係の大学教官が調査結果に基づいて告発したことから始まっているが、「この調査結果から対処すべき施策は、まず第一に経済学部の入試科目に数学を指定することであり、入学後の教養教育を充実させる改革を行うこと」(p.4)なのに、そういう議論ではなく、小中高校生の学力低下問題になってしまっている、と筆者は疑問視する。
あるいは、日本の小中学生の学力は世界でトップレベルだが、一般市民の科学的教養や科学への関心は先進国で最下位であり、「小学生や中学生の「学力低下」よりも、こちらの方が深刻ではないでしょうか」(p.20)と筆者は指摘する。これもなるほどである。
あと、今日の学力危機は、交換や貯蓄が可能な通貨のような「学力」の価値が暴落した「通貨危機としての学力危機」(p.30)と考えている。これもなるほどである。そのことは、校外での学習時間として表現される学習の意欲が、その国のGDPの伸び率と高い相関を示していることからも裏づけられる。GDPの伸びが鈍ると学力の価値がはじける、というのは要するにバブルのようなものだということだ。学力を貨幣になぞらえらる考えは、たとえば『発達心理学再考のための序説』にも見られるものなのだが、「暴落」もそのアナロジーで理解できるとは。
本書の最後の方は、これからの学び論なのだが、それは他の所でも読んだ内容であった。一つ思ったのは、筆者がたとえば習熟度別指導導入に反対する理由として、「公立学校は、教科を学ぶところであるだけでなく、多様な考え方や個性を学ぶところであり、多様な能力や個性をもった人とともに生きる民主主義を学ぶ場所」(p.50)として、習熟度別指導を導入する人は民主主義の感覚が薄いと非難する。
しかしこれはあくまでも、筆者の教育観・人間観であって、別の社会規定、学校規定もありうるのだろうと思う。私自身が筆者の教育観や学校観に反対するわけではないのだが、前半の現状分析の鋭さからすると、改革提言を支える部分はやや弱いような気がした。まあ小冊子だからしかたがないのかもしれないけれど。
義母が来ていたので、日帰りで北部の方に遊びに行った。考えてみたら、日帰りで遠出をしたのは、子どもができてから初めてだと思う。まあ下の娘も3歳近くになり、こういうこともだいぶやりやすくなったのか。あと、私たちが、子どもの生活パターンを把握してきたというのもあるかもしれない。
目指したのが宜野座村。以前から義母がここのマンゴーを買っており、一度作っているところを見たいといっていたのだ。宜野座村といえば、2000年のサミットでイタリアの首相が訪れて「真実の口」のレプリカを置いていったとか、宜野座高校が21世紀の特別枠で甲子園(選抜だっけ?)に出て大活躍した(ベスト4だっけ?)とか、阪神がキャンプを張るようになったとか、いくつかのことが思い出される。宜野座村なら私も行ったことないし、マンゴー園も見れたらいいなぐらいに思っていた。
ところが当日妻に聞くと、子どもには、「海にも行く、氷ぜんざいも食べに行く」と行っているらしい。え?そんなにいろいろできるんだろうか。計画倒れに終わるか、帰ってきたらヘトヘトに疲れきってしまうんじゃないだろうか、と思ったが、とりあえず出発することにした。
朝は10時前に出発し、まずは「宜野座村特産品加工直売センター」(未来ぎのざ)に向かった。国道沿いなので場所はすぐわかった。「真実の口」はここにあった。名前から想像していたのよりもはるかに小さいところだった。しかし妻が言うには、生鮮食料品などはなかなか鮮度のいいきれいなものがおいてあったそうだ。とりあえず、サーターアンダギーを買い、目指すマンゴー生産者の連絡先を聞き、そちらの方に向かった。
生産者の方がおられる部落についたところで電話をいれたところ、迎えに来てくれるという。で、マンゴーを作っているハウスに案内してもらい、いろいろと話を聞かせてもらった。観光化された果樹園みたいなところではなかったのだが、いろいろと丁寧に教えてくれた。なかなか興味深い話であった。
その後は、近くの「タラソセンター」で海を見ながらランチを食べ、その近くのビーチ(無料、ほとんど無人だった)で子どもたちを泳がせ、未来ぎのざに戻って「じゃがいもアイス」や「マンゴーアイス」を食べ、妻は花と肥料を買った。それから、義母が買い物をするというので、沖縄市の輸入品の店でシャツを買い(私も買った)、ぜんざい屋で氷ぜんざいを食し、うちについた。
結局、予定以上の日程をこなすことのできた一日だった。暑かったのが難点だが、子どもも赤ちゃんではなくなったので、その気になれば、これぐらいの行動もできるんだなあと再認識した。さらに子どもが大きくなったら、もっと行動範囲が広がるかもしれない。いやその頃には、私たち夫婦がトシで疲れやすくなっているのかもしれないけれど。
鈴木氏に聞き書きした本。半分以上は、前に読んだ『鈴木敏文の「統計心理学」』と重なっていた。「過去の成功体験を捨てる」(p.15)とか。しかし、そうではない部分も多少はあり、そういう点は興味深かった。
たとえば「同じことを切り口を変えて話すこそは絶対に必要です」(p.29)という発言。それだけ部下に意思を伝えることを重視しているのであろう。同じことを10回も20回も、何十年にもわたって繰り返しているという。それでも「なかなか私の考えが社員の間に浸透しないので困っている」(p.29)という。翻ってわが身を考えてみると、授業では一回言えば学生は理解するものと思っている節がある。ちょっと反省。
クリシン的な部分としては、「私は、物事を見るときに「肯定の否定」「否定の肯定」を繰り返すことを心がけています」(p.55)というくだりがあった。その具体的な中身はきちんとは書かれていなかったのだが、「他人が肯定(否定)することは否定(肯定)してみる」というような意味だろうと思う。要するにアマノジャクということか。もちろん、単に反対をしてみる、というだけでなく「自分の心の中で何度かそれを検証してみる」(p.55)ということなのだが。それをうまくバランスよく現実的なものに結びつくようにやるのが大事でしかも難しい点だろうと思う。
また、鈴木氏は「セブン−イレブンの弁当を毎日試食する」(p.81)というくだりがあり、興味深かった。以前私は、「雪印乳業食中毒事件」を聞いたとき、社長以下全社員が毎日、ランダムに選んだ自社製品を口にしたらこういうことにはならないのに、と思った。鈴木氏はそれを実践しているわけだ。脱帽である。もっとも鈴木氏の場合は、「旨いか不味いかをチェックするため」(p81)なのだが、しかしこれをやるのであれば、いい加減な品質管理も防げるだろうと思う。
あと、『鈴木敏文の「統計心理学」』には、「鈴木氏は現場主義ではなくデータ主義」という記述があったが、私はそれを疑問だと思った。本書の著者は、「鈴木氏は現場を非常に重視」(p.171)している「現場主義」だ、とあった。どちらが正しいかはさておき、少なくとも現場主義の面ももっているということであろう。このくだりはわが意を得たりであった。それにしても、私が読んだ「鈴木敏文」本は2冊とも、本人以外の人がまとめたものだが、まとめる人によって逆のことが書かれるというのも不思議である。鈴木氏のもつ多面性がきちんと捉えられていないということであろうか。
1年前の読書/日々記録を見ると、2歳10ヶ月の娘(当時は1歳)の1年間の変化は大きいと感じる。
たとえば読書記録を見ると、1年前は歯磨きにてこずっていたことが書かれている。今は幸いなことに、そういうことは(昔ほどは)ない。いくつかの小道具を用意し、娘もそれに乗ってくれるようになったのだ。一つはイス。食卓のイスに座って歯を磨いてあげるのだが、それを、サンダーバード2号に乗り込むときのようなイメージで、イスを後ろに倒して寝かせ磨きをしている。それが楽しいらしく、これには割りとすぐに乗ってくる。
あとは歌。歯を磨きながら、「♪やっまごや一軒あっりまっしたー」という歌を歌うことにしている。私は、3コーラス歌う間に、下の歯、上の歯、磨きにくいところを磨いて終わりということにしている。これだと娘も、いつ終わるか予想がつくし、私も、嫌がる娘にせかされて簡単に済ませてしまうということがないので、なかなか悪くないと思っている。ただ、下の娘は歯の質が弱いらしく、歯と歯の間にちょっと穴が開いたりしているのだけれど。
あと、1年前は、姉と一緒に遊ぶことに感動していた。しかし今は、姉と一緒に遊ぶのは当たり前のことである。1年前は毎日のようにケンカをしていたのに、今はそれほどではない。言葉がしゃべれるようになって、ケンカ以外のコミュニケーションができるようになったからということだろうか。ちょっと考察が浅いような気がしないでもないけど。
今は怒ることといえば、ケンカよりも、「自分がする」みたいな怒り方である。たとえば着替えを手伝おうと思って服のボタンをはずしてあげたりすると、「しーちゃん(仮名)がするんだったー」といって怒る。怒り出すとその怒りはすさまじく、ボタンを元に戻してあげても泣き止まない。なので今は、下手に手を出さないようにしている。
1年後はどういう暮らしをしていることだろうか。