30日短評4冊 29日『教科と総合に活かすポートフォリオ評価法』 25日『生きるための知識と技能』 20日『不確かさの中を』 | |
| 22日忘れる5歳児 18日三歳児に十余の質問 |
新しい授業が増えたせいか,今月はとても忙しく,やろうと思ってできていないこともたくさんある。ほんと,1週間先のことを考える余裕もなく,明日の授業準備に追われる日々だった。来月あたりからそれが少しでも緩和されるといいのだけれど。
今月よかった本は,なんと言っても『フランス革命』(なるほど両面性ね)か。『能力構築競争』(なるほど深層の競争力ね)も悪くなかったし,『不確かさの中を』(なるほど型と自由ね)も部分的には悪くなかったのだけれど。
そうそうそれから、先月MP3プレイヤを買って思いつき出始めた「My定番CD」選び。今月は、協奏曲は何がいいか考えながらいろいろ聞いてみた。ひとつはベートーベンのピアノ協奏曲第5番(私が持っているのはミケランジェリ/ジュリーニ/ウィーン交響楽団)、もうひとつ選ぶなら、モーツァルトのピアノ協奏曲第26&27番(私が持っているのはペライア/イギリス室内管弦楽団)。モーツァルトのピアノ協奏曲は、甲乙つけがたいのではあるけれど。
タイトルどおり、ポートフォリオ評価について書かれた本。ポートフォリオって、最近よく聞くけれども、分かるようで分からないような気がしていた。それが多少分かったように思う。
まず、ポートフォリオとは、「子どもの「作品」(work)や自己評価の記録、教師の指導と評価の記録などをファイルなどの容器に蓄積・整理するもの」(p.39)である。そして、ポートフォリオ評価とは、「ポートフォリオづくりを通して子どもの自己評価を促すとともに、教師も子どもの学習と自分の指導を評価するアプローチであり、「真性の評価」や「パフォーマンスに基づく評価」の典型的な方法」(p.39)であるという。まあこれは、聞いたことのあるような定義だ。
さらに筆者は、ポートフォリオ評価法の6原則(p.53)を挙げている。それは、次のものである。
そして、これらを満たしていれば、それはすでにポートフォリオ評価になっているという。まあ分かったような分からないような感じは相変わらずだが、しかしこれで、ポートフォリオ評価の要件はある程度分かったかと思う。。
なお筆者によると、ポートフォリオ評価と一口に言っても、評価基準を誰が設定するかによって、基準準拠型、基準創出型、最良作品集と3タイプに分類できるという。基準準拠型は教師が評価基準を決めるもので、学問中心主義的な教育(教科教育)で利用でき、基準創出型は教師と子どもが基準を作っていくもので、総合学習で利用でき、最良作品集は子どもが自分で基準を作って自己アピールをするもので、子ども中心主義のカリキュラムに対応しているという(p.67-68)。私もポートフォリオ評価というと総合学習用、というイメージがあったのだが、そうではないことが本書で分かった。
本書で、ひとつ分からない点があった。それは、「各単元で指定されている課題に対応して作られる」(p.195)ものもポートフォリオと呼ばれている点である。その例としては、ビジネスの事例研究や比較研究が挙げられている。それは、「完成作品・実演・プロセスがすべて評価の対象になっている」(p.195)とあるが、これって、一般的なレポート評価とどう違うんだろう。先のポートフォリオ評価法の6原則と照らし合わせて考えるならば、最終レポートをパーマネント・ポートフォリオ(上記3)と考え、レポートづくりの過程で、ポートフォリオ検討会のような場としての発表会(デザイン発表、中間発表、最終発表)を設定するのであれば(上記4,5,6)、それはポートフォリオ評価法と呼んでいいような気がするのだけれど。そうであれば、1学期かけて一つの作文を仕上げるプロセス・ライティングとか、ゼミや卒論は、結局はポートフォリオ評価といっていいような気がする。当たっているかどうかは自信ないのだけれど。
本書は、ポートフォリオの内容や分類、原則などが分かり、まあ悪くなかったけれど、次は、実際の授業内容と実際のポートフォリオとその評価の具体例が豊富な本が読みたい気がする。
統計の多い報告書で、決して「読み物」ではないが、一応最後まで目を通してみた。以下は、ちょっと目を引いた箇所の抜書き。
本調査で測定されている「読解力」には、情報の取り出し、解釈、熟考・評価の3つがある。日本の生徒は、熟考・評価得点は、31か国中5位の成績である(1位から順に、カナダ、イギリス、アイルランド、フィンランド、日本、ニュージーランド)。統計的にいうと、1位国と有意差はなく、1位グループに位置していることになる(情報の取り出しは6位、解釈は8位で、いずれも2位グループ)。熟考・評価の得点が高いということはどういうことかというと、「テキストに書かれていることを自分の知識や考え方、経験と結び付けて、批判的に評価したり、仮説を立てたり、特殊な知識を使って一般的な予測に反した考え方もうまく調和させて理解する能力を身につけている割合が高い」(p.37-8)ということなのだそうだ。ふーんそうなのか。「経験と結びつける」「批判的に評価」「仮説を立てる」「予測に反した考え方もうまく調和させて理解する」なんて、これらの記述を見るかぎり、なんだかとてもすぐれているというか、いわゆる批判的思考が十分にできるように見える。しかし本当にそうなのだろうか。というか私のイメージどおりなのか。実際の問題を見るかぎり、どうやら、必ずしもそうとはいえなさそうな気がする。
本調査は、「学校で学習した教科内容の理解度や定着度をみるというよりも、子どもたちが将来社会に参加したり、生活していく力をどの程度身につけているかをみる」(はしがき)ものだそうだ。そうはいっても、問題を見る限り、伝統的な国語、数学、理科の問題に近いような気がする。まったく同じではなく、日常的な文脈の文章題になってはいるのだけれど。たとえば数学で言うと、一定の規則にしたがってリンゴの木と杉の木を植える、という問題があり、「もっと大きなりんご園を作ると、増え方が早いのはどちらか」なんていう問題が出されている。これは「熟考」に分類される問題で、どのように答えたかの説明も求められている(p.111)。しかし、問題を代数的に答えた場合のみが完全正答で、そうでない場合は、部分正答でしかないのだ。結局これはあくまでも「数学」の問題であり、「社会参加」や「生活していく力」とはあまり関係がないように、私には思えた。それどころか、「熟考」とも「批判的思考」ともあまり関係ないように思えるのだが。
ちょっと面白かったのは、生活習慣と得点の関係。たとえば、「趣味で読書をしていない」生徒は、日本は55%で、参加国の中で最も割合が高い。しかし読解力得点がどれも1位〜2位グループということは、読書と読解力はあまり関係がないということではないだろうか。また、マンガを読む頻度別の得点集計が出ていたりする。それを見ると、日本だけ、マンガを読む頻度が高い(週に数回と回答)子どもたちが、最も読解力得点が高い。これは他国には見られない特徴である。日本の子どもは、マンガから読解を学んでいるのかもしれない(もちろん、あくまでもひとつの可能性に過ぎない)。もっとも、週に数回マンガを読む子は、(日本だけ)60%近くいるのだが。
他にも統計がたくさん載っているので、見方によってはまだまだ面白いことがあるに違いない。しかし数字で分かることには限界があることも確かである。たとえば、日本の子どもは読書をしないとあったが、しかし、読書に関しては比較的好ましい関心や態度を持っている。それはどういう意味の関心や態度なのか、ということは、数字では分からない。そのあたりを注意しながら見なければ、数字を自分の枠組みのみで解釈することにもなりかねないと思う。それに気をつければ、興味深い調査であることには間違いない。
最近、ちょっとショックなことがあった。といっても大したことではないのだけれど。
上の娘(5歳10ヶ月)が、手の甲にアンパンマンの絵を描いて帰ってきた。どうやら保育園で先生に描いてもらったらしい。それを見て思い出したのだが、上の娘は以前、別の保育園に行っていたときにも、手の甲にアンパンマンを描いてもらっていた。私もすっかり忘れていたのだけれど。
そのことは、3年前の日記(上の娘は3歳0ヵ月)にも、2年前の日記にも書いている。2年前のは、下の娘のことを書いた日記だが、このころは、毎日二人に描いてあげていたはずだ。そこに書いている、「アンパンマーンといいながら,手の皮を引っ張るとアンパンマンの顔が広がっておもしろい」というのに、上の娘も下の娘も大喜びしていた記憶がある。
しかしそれを今、上の娘に言っても、まったく覚えていないというのである。ほんの2年前の話なのに...
もちろん、幼児が昔のことを全て覚えているとは思わない。幼児期健忘という言葉もあるし。最近も、「まーちゃん(仮名)は赤ちゃんのとき、スカートのことを「スターコ」と言ってたんだよ」なんて話をしていたが、それも覚えていなかった。まあこれは、2歳代のときのことなので、覚えていなくて当然だろうと思っていた。
しかしそれだけでなく、3歳のころにやっていた「手の甲にアンパンマン描き」をまったく覚えていない、なんて思いもしなかったので、ショックだったのだ(辞書によると,「4歳頃以前の出来事の想起は減少する」らしい)。ということは、下の娘(3歳7ヶ月)も、今毎日体験していることを、2年後にはすっかり忘れている可能性が大だということだ。しょうがないことなのだろうけれども、なんだかすごく寂しい気持ちになってしまう。これを期に、過去の日記を見ながら、上の娘の記憶検査でもしてみるかなあ。
二人の心理臨床家による対談。例によって、神田橋氏の発言には、興味深いものがあった。いくつかを抜書きコメント。
僕は、精神分析治療の目標は、意識されている葛藤の明確化。いい換えると、葛藤がきちんと意識されているということをもって、治療の終点だと考えているんだよ。意識されていれば、今みたいに、いろんな場合に、それがアンテナの役割をする。だから、葛藤が解決している状態をいいとは思わないんだよね。(p.63)
私は前々から、思考することですべてを意識的にコントロールすることがいいことなのかどうなのか、分からずにいた。一般的にはいいことと考えられているのだろうけれども。それに対して、神田橋氏や竹内敏晴氏は、そうは考えていないような感じはしていたのだが、しかし、思考や意識化を無視しているわけでもなさそうで、じゃあどういう風に考えているのか、今ひとつ分からなかった。それがこの「アンテナ」の例えで、少し分かったような気がする。まだ自分の言葉でうまくいえるわけではないのだけれど。
武術でね、型というのがあるでしょう。型はやっぱり覚えないかんのですよ。まず型を覚える。ところが、実戦のときに、型どおりやったら、切られて死んでしまう。だけど、型はやっぱり必要。それはなぜかというと、自由自在な体の動きができるようになるためには、それまでに体に染みついている癖を取らないといけないから。その目的で先人が作り上げたものが型なの。で、型が自由にできるようになると、体がかなり自由に動けるようになって、現場で自由自在な動きができるようになるんだ。(p.79)
これも私の長年の疑問に対する、ひとつの解答になっている。その疑問とは、たとえあば「考えることを教えるとはどういうことか」みたいなものである。「考える」ことを「教える」なんて、矛盾じゃないのかと思ったり。考え方(型)を覚えることは、考えないことなんじゃないのかと思ったり。しかしそれが、「癖を取り、自由自在に動けるようになるため」の方策だとするならば、話は別である。ここで話されているのは、先達が考案し長年にわたって使われそれなりに効果が検証されているような型の話である。たとえば思考力育成のためには、すでにそういう型があるわけでは(おそらく)なく、これからその「型」を作らなければならない。しかし、その目的が「癖を取る」ことだと明確にされているのであれば、新しい型も、作りやすいのではないかという気がする。
僕が患者を変えようという一途であればね、疲れますよ。そうではないからね。僕が疲れなくなったのは、患者さんが僕を変えることを許容するようになったからだと思うの。相互に変化していくんです。(p.107)
これも、教育ということを考えたとき、興味深い話である。確かに教育においても、相手を変えようとする行為は、とても疲れるものであると思う(あるいは受け入れられなかったり、反発されたり)。それに対して、相手が自分を変えることもよしとするのであれば、疲れないという。教育でこれがどういう形になるのかは、まだ具体的にイメージはないが、しかし、こういう視点で筆者の診断論や治療論を読み返すと、また面白いに違いない。
そのほかにも、「サイコセラピーというのは、「脱洗脳行為」」(p.76)、応答訓練は「心理療法のマクドナルド化だ」(p.145)など、いくつか面白い記述はあった。全部は書ききれないけど。相変わらず、恐るべしジョージ、である。
下の娘(3歳7ヶ月)に、去年やったのと同じ発達検査(日本版デンバー式発達スクリーニング検査)をやってみた。以下は,そのうちの問答部分である。(最初のカッコは去年の答。次のカッコは正解/不正解。)
お食事たべる(コペットのなかに,コペット。) (正解)
寝る(こーこーって寝るの) (正解)
チョッキ着る(サムイサムイしゅる) (正解)
ひとやしゅみしゅる(一休みする)(ブチブチしゅる) (正解)
ちゅめたい(ちゅめたい) (正解)
おとこ(おっきーの) (正解)
ちっちゃい(ちっちゃい) (正解)
ボールころころ(ボールはキックしゅるの) (正解じゃない。もうちょいだそうだ。去年は正解だったのに)
プールのこと(ミズウミしゅるの) (不正解)
ちゅくえってテーブル(ビヨビヨーッてやるの) (不正解)
おうちってえんとちゅがあるの (不正解)
今年の結果は、あんまり面白くはない。去年不正解だった5番以前は正解になったが、去年も正解した6〜8番は今年も正解。9番以降は、今年はみんな不正解という結果だった。
とはいえ、9番(ボール)も10番(湖)も11番(机)も、ある程度分かっている回答だと思うのだが、テスト的には不正解だそうだ。こういうのをみると、この手のテストって、「出題者が意図した答」を当てるゲーム、という気がしないでもない。ま、同じようなことを、上の娘が3歳のときにも書いたのだけれど。