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品切れ本だがマケプレにて購入。5年前に同じ筆者の『アメリカの大学』を読んだ。そのとき、最初は本書を注文していたが、品切れだったのだ。5年前に品切れだった本が、ネット上で簡単に買えるなんて、いい世の中になったもんだ。
本書は『アメリカの大学』同様、昔の大学の話である。どちらもとても面白い本だった。本書で扱われているのは、アメリカ、ドイツ、日本などの、百年以上前の大学の姿である。そこで描かれているのは、「学問をするところではない場所」としての大学である。たとえばイギリスでいうと、「18世紀の末のオックスフォードは大学とはいっても名ばかりで、学生も教師もすっかりやる気をなくし、ろくろく試験もやらず、学位だけ発行していた」(p.5)という。あのオックスフォードがねえ、とびっくりの光景である。
アメリカについては『アメリカの大学』に詳しいのだが、本書でも「復唱型教師」が紹介されている。復唱型教師とは19世紀のアメリカでは一般的だった教師のスタイルで、教科書の内容を学生に暗記させ復唱させるというものである。具体的には、まず翌日の授業範囲を指定し、授業時には、「学生を一人ずつ指名し、次々に質問を出してゆく」(p.18)。それは要するに、どれだけ勉強してきたかを、復唱させることで口述試験しているのである。復唱型教師が学生に求めているのは教科書の丸暗記だったり単なる説明のようだが、この姿って、『ハーヴァード・ロー・スクール』で行われているソクラテスメソッドにとてもよく似ていると思った。そこまで本書で書かれていたわけではないけれども。ちなみにこの姿は、明治期の日本の大学でも見られる。
一方、19世紀のドイツでは、「教室、講義室はしばしば教授のイデオロギーの宣伝の場、教授の抱く政治的信条の告白の場」(p.101)、あるいは政治的アジテーションの場となったという。そのような教師を筆者は「カリスマ教師」と呼んでいる。そのような土壌は、のちに、大学におけるナチズムの台頭に加担することになる。しかし、では教授がそういうことをしなければいいかというとそうではない。学生たちがそのようなものを求めているからこそ、そのような教師が存在するのである。そのことを筆者は次のように述べている。
なぜナチズムがどいつの学生の心をとらえたのか、なぜあれほど容易にドイツの大学を支配することができたのか。その理由の一つは、「価値判断から自由な学問」という学問のありかた、スタイルが、青春の情熱をかけるべき目標を求めて大学にやってきた学生に、答えられるだけの魅力をもっていなかったためであろう。(p.129)
学生は、必ずしも「学問」を求めて大学に来るわけではない(実際、「学者」になる者はごく一握りでしかない)。筆者の言葉で言うならば、学生が求めているのは、「自分をかけるべき目標」であり、「アカデミックな知識とは別の性格の知識」である。そういうものがある以上、「純粋な学問」よりも「教師の熱い思い」の方が学生を捉えやすいというのはそのとおりであろう。教師と学生のギャップについて筆者は、「大学といい、教育といいながら、教える者と学ぶ者とは、まったく異なった価値の中に住んでいる」(p.128)と述べている。
まったくそのとおりで、大学というのは、つくづく異なる価値観に住む者の出会いの場であると思う。保護者や社会も含めて。筆者の分析でも、たとえば「復唱型教師」が求められる背後には、大学が「青年のエネルギーの統制機関」(p.25)の役割を(もっぱら親から)求められているということだし、「カリスマ教師」が出てくるのは、大学が提供するものと学生が求めるもののウレから来ているわけである。大学が、このような異なる価値観のせめぎあいの場であることを自覚するところからしか、大学教育は始められないのではないだろうか、と本書を読んで思う。
本書ではそのほかにも、研究大学のなりたちであるとか、大学の自治の問題、教員採用の問題、日本の大学院の問題などが、昔の大学を通して語られている。どれも、昔に起こったことでありながら、今でも起こりうる、あるいは現に起こっている問題ばかりである。歴史を通して今を知り、将来を考えるとはこういうことか、と思わせるような、大変興味深い本だった。
今日は初回なので,登録調整(取り消し,追加登録)とちょっとしたオリエンテーションのみ。Web登録になったせいか,取り消しの学生は一人もおらず,追加登録希望者が40名ほどいた。すでに登録人員いっぱいに登録されているので,抽選で10名だけ追加することにした。大福帳方式の質問書を使うので、人数が増えるとツラいんだけど(これぐらいの人数でそんなこというと、私学の先生に怒られそうだけど)。
続いて,シラバス,講義要項,昨年のレポートサンプルを使い,授業概要の説明。その後,質問書を配り,受講動機(あるいは講義に期待すること,先生に一言など)を書いてもらった。5分後に,1列分,受講動機を聞かせてもらい,この授業では授業中にこのようにマイクを向けることもあるよ,と知らせる。最後に,錯視のデモンストレーションを少しして,心理学が「理学」であることを話し,講義を終わる。
受講動機なんて聞いたのは初めてだったので,質問書にはなかなか興味深いことが書かれていた。ということで,次年度のためにいくつか抜粋(→部分は道田のコメント)。
→これを見て気づいたのだが,心の科学(心理学)って,「どんなことを考えて行動しているのか」ではなく,「どんなことを考えずに行動しているか」を主に研究している学問だ。なるほどこういう期待があったのか。
→こちらも同じで,心理学は人の「違い」よりも先に,「共通点」に目を向ける学問である。上記のような受け取り方は案外多いんだろうけど。
→そうそう,こういう認識をあらかじめ持ってもらうと,最後に「思っていたのと違う」という感想をもたれなくて済むんだろうと思う。
→Web上のシラバスは案外見られているようで,そういうコメントはいくつか見られた。こういう人もありがたいね。
→まあそう受け取った人もいるかもしれない(書いていたのはこの人一人だけど)。次年度からは,例えば次回の話の入り口の部分を話して,「続きは次回のお楽しみ」なんてするのもいいかもしれない。今回の予定で言うならば,ビデオを2分分見せて,問題に対する答えを考えてごらん,と投げかけるとか。
品切れ本だが,マケプレにて購入(私は安く買ったが,今見たら,私の購入価格の10倍の値段で出ていた。おそろしや〜)。ピアジェについては,分かっているようでわかっていないような感じなので読んでみた。本書は,平易ながらもていねいに論じられており,とてもよい本だった。
ピアジェといえば条件反射的に出てくるのは「同化」と「調節」だが、この概念が今ひとつわかりづらい、とずっと思っていた。本書によると、まず第一に理解すべきは、ピアジェが知能を「一種の生物学的適応」(p.11)と考えていたということであり、適応に失敗するような「攪乱」が生じると、人は一貫性のある構造を回復しようとし、いっそう安定した構造へと発展していく。これが「均衡化」(動的均衡化)である。すなわち、攪乱があってこそ人は発達するのである。また、「生物学的」適応ということは、生物の進化のプロセスと同じものとして考えているということである。それは、(新)ダーウィン主義(生得説)ともラマルク主義(環境説)とも違う進化の考え方なのだが。
本書によると、均衡化には二種類ある。一つは、「主体と環境との間の不均衡状態」において生じる過程であり、それを解消しようとして行われているのが同化と調節である。もう一つの均衡化は、「認知構造の不均衡状態」において生じる過程であり、そのときに行われることは「肯定と否定」である。この表現はあまり適切ではないような気がするが、これは、今まで気づかなかった点に気づくようになるということである。
たとえば液量の保存でいうと、水面の高さが高くなるという肯定面だけでなく、幅(底面積)が小さいという否定面にも目を向けられるようになる、ということである。このような矛盾に気づいたり、失敗をすることが発達の原動力になっている。失敗については、「誤答こそ思考の発達のばね」(p.36)とピアジェが言っているそうである。そういえば『誤りから学ぶ教育に向けて』で、誤りから学ぶ教育論のひとつにピアジェの教育論が取り上げられていた。これを読んだときは、ピアジェと誤りから学ぶ教育の関連が今ひとつピンとこなかったのだが、本書を読んでようやくそれがわかった。
本書では、サブタイトルにあるように、かなり「教育」を念頭に置きながらピアジェや関連研究が論じられている。教育についてのピアジェの重要な考えとしては、「活動から思考へ」ということが取り上げられている。そのことは本書では、「子どもは頭で学習する以前に、身体で学習する」(p.112)とか「子どもでは、活動なしに知識の習得はありえない」(p.119)とか「子どもの成長にとって必要なのは、このような個人個人の経験であり、他人の手を経ない印象だ」(p.130)と表現されている。こういうことは教科書的には、感覚運動知能の範疇であり、それは0〜2歳のこと、と思ってしまいがちだが、このことはどの年齢であっても、新しく経験し新しく学ぶこと全般にいえることなのだろう。
本書では、こういったピアジェ理論の教育的展開の話だけではなく、「ピアジェ後」の認知発達理論についても触れられており、興味深かった。たとえば、ピアジェは主に、子どもと物理的環境の相互作用について述べているが、その後の社会的認知発達理論では、人間的環境が重視されている。その知見によると、人間関係の中での知的発達のためには、「正しい考え」を提出する他者が必要なのではなく、「異なる視点」から引き出された考えであれば、それが不正確な考えであっても問題ない。それは、異なる視点に出会うことが、「自分の考えそのものを反省する手がかり」(p.170)になるからである。まあ実際にはそう簡単なものではないだろうが、しかし「正しさ」が重要ではない、という指摘は重要だろう。こういう考えは、わかっているようできちんとは自覚していない考えであった。そのほかにも、発達の個人差として形式的思考だけでなく現実的思考について論じてあったりして、興味深い本であった。
昨日、上の娘(6歳9ヶ月)の入学式だった。なかなかおもしろかった。「文化」という観点で。
幼稚園の年長のとき、この子たちはとても立派な「おにいさん、おねえさん」であった。年下の園児たちに対してもそうだったし、教室内での振る舞いも、その文化の様式にのっとった適切で迅速なものだった。ある意味、幼稚園生として完成されていたというか。
それが、新しい学校に入ると、その文化に対する新参者として、ある意味イチからやり直しになる。たとえば式典の後、教室に行ったけれども、そこではちょっと烏合の衆的な雰囲気をかもし出していた。幼稚園の頃とは打って変わって。
式典でも、新入生は幼稚園から持ち込んだような文化を示していた。校長先生が「ご入学おめでとうございます」と壇上で挨拶すると、「ありがとうございます」とみんなが言うような。あるいは、校長先生が「みんなちゃんと座っていますねえ」というと、慌ててお尻をモゾモゾ動かして姿勢を正したりするような。こういうのって、どちらも小学校5・6年生はやらないような気がする。その証拠に、どちらのときも、5・6年生たちはそれをみて、微笑んでいた(ようにみえた)。
一方、5・6年生は、校長先生が壇上に上がると、全員がいっせいにすばやく起立した。誰も何も言わなくて、当然のことのように。非常によくしつけられている。そういう印象だった。うちの娘たちも、数ヶ月でそういうふうになるんだろうな。それは当然、その文化に馴染むということなのだが、しかしそのときは同時に、たとえば壇上から「おめでとう」と言われても、何も言わなくなるんだろうね。それはちょっとさびしい気がする。
宮城県、三重県、高知県の県知事3人の鼎談。3人に共通しているのは、特定政党や団体の支持を受けていない、草の根の無党派知事ということ(だろうと思う。多分)。そのため、各政党と是々非々の関係を保つことができている。また、情報公開や職員の意識改革を行い、過去のしがらみや前提条件に囚われずにゼロベースで物事を考え、利益誘導型ではない新しい政策を行っている。たとえば、予算の繰越システム、事業評価システム、NPOの活用、県民の声データベース、職員の一口提案、課や中間階層の廃止、サービス向上委員会の設置から女性職員のユニフォーム廃止まで、大小さまざまな改革が行われている。
興味深かったのは三重県の環境部のホームページの話。月に1万のアクセスしかなかったので、10人のスタッフで毎日1時間議論し、県民が興味を持つ内容を提供したら、8万、13万、17万、22万とウナギのぼりにアクセス数が増えたという。県民のために本当に意味のある仕事をしているという感じで、すごいと思った。
無党派の知事ということだが、議会との関係については、北川氏が次のように次のように語っている。
議会との関係は、是々非々の、緊張感のあるパートナーシップだと思っています。今までは、執行部が出した案を議会によって訂正されるのは、知事の政治生命に関わることだと考えられてきました。慎重に判断し、間違いのない案を提出するのは当然ですが、県民の代表である議員が案を変えると言われるのであれば、真剣に議論を戦わせればいいと考えています。私も変えれたことがありますが、議場ですべてをオープンにし、議論をすればいいだけです。お互いが緊張感のあるパートナーシップを意識し、その緊張感を保つためには、情報公開が必要なツールになる。(p.171)
このような関係が可能になるのは、第一には、特性政党の支持がないため、実質的に県民に直接選ばれているからであろう。政党の支持を受けて当選した知事が上記のようなことをしたら、「「誰のおかげで知事をやっていられるんだ」という無言、有言の声が聞こえてくる」(p.171)という。そりゃそうだろうね。しかしそれだけではないだろう。双方に「真剣な議論」をしようという構えが必要だろうし、その前提として、上に書かれているように「情報公開」が重要なのだろう。
ここに書かれているのは、県知事(執行部)と議会との関係だが、このような真剣で是々非々の関係は、県知事と県民の関係も同じだし、県知事と県職員の関係も同じである。それを可能にするために、県民や職員の声を吸い上げるとともに、県知事や県庁が持っている情報や考えも公開し、それらを、共通の土俵の上で対等に議論する。3人がさまざまな形で行っており、また異口同音に語っているのは、要するにそういうことだろうと思う。
そして情報公開のそのさらに基礎にある考えについては、浅野氏が「情報公開に限りませんが、何ごとも聖域を設けると必ず腐敗します」(p.56)と述べている。うまくまとめてはいえないのだが、基本は、そういうふうに捉えて現実を見つめ直し、考え直していこうとする「意識」といえるだろうか。
この12ヵ月の間に読んだ本(短評を除き68冊)の中から,大学生でも読めそうな,そして専門外でも面白いであろうと思われる本を10冊選んだ。昨年のものはこちら。これまでの選書リストはこちら。
なお『日本の論点』は年刊誌であるので、上でリンクしているのは2005年版だが、この年度だけをお勧めしたいわけではもちろんない。ちょっと前のものはアマゾンのマーケットプレイスで安く買えたりするので、ぜひ買って読んでみてほしい。
当時はどこか心の焦点が一カ所に合うと、ほかがわからなくなるという心理状態だったのかもしれません。また、人間の心理というのは、自分で考えていたほど確かなものではないというのが、いま私が思っていることでもあります。(p.409)
人目をしのび、わずかな時間を惜しんで集まったメンバーは、この句会でしばし心が慰められた。/「これはね、ぼくたちの夜学ですよ……夜学なんです」/山本はこうした事態にもめげる様子はなく、いつもと少しも変わらなかった。(p.154-155)
目で見た内容、見たと信じ込んでいる内容には、実は偏見が含まれている。目だけに頼っていると錯覚に陥りやすい。誰かが錯覚に惑わされているとき、現実を見据えられる別の人間にとっては金儲けのチャンスだ。(p.33)
医者なんてなにもできんもんだ……。かつてなくむなしさにとらわれてどうしようもなかった。あの娘を救おうとすれば肝臓移植しかなかった……。田中が教室のなかで仲間をつのり、肝移植の動物実験をはじめたのはその後しばらくしてからである。(p.79)
言いたいことを全部言わなければ、良くなっていかないからね。それをやることによって、関係はもっと深まるはずなんです。深まらなければ、作品は良くならない。つまり、編集するということは、本気でものを言うことです。(p.70)
本書『日本の論点2005』は、これからの日本社会を考えるうえで選択肢となるであろうホットな議論を、さまざまな分野から抽出し、当該分野の第一人者、または論争の当事者に持論を展開していただいたものです。(p.32)
出ました。アンケート調査の結果だけから子どもの内面の心理状態までが「わかってしまう」社会学スーパーテクニックが,遺憾なく発揮されています。〔中略〕こういう曲解テクニックを目の当たりにすると,私なんか,まだまだ社会学的想像力が不足しているな,と反省しきりです。(p.146)
政治的であるということは何も特別なことではなく、欲望を持って生きていく以上、政治的であることから逃れることはできません。ということは、人はその意味で「人に決め事をされるのが嫌なら」、政治的=民主主義的存在でしかありえないのです。(p.249)
心理学者はともすれば非難を避けようとする傾向があるが、私は研究生活を通じてつねにそのような態度は取るまいとしてきた。〔中略〕科学者にとって批判とは、理論が正しいかどうか、別の実験をやって確かめるのと同様に、自分が間違っていないかどうかを知るための一つの方法に過ぎないのだ。(p.76)
「問題解決」という目的と「論理的思考」という手段の間には、まだまだ距離があります。本書ではその間に、様々なマイルストーンを置いていくアプローチを採用します。ですから本書では、従来のビジネス書とは言わば逆の順序で、論理的思考について説明を進めていくことになります。(p.20)